5
雨の土曜だった。
その日、僕は講義があったワケでもなければ、月曜提出のレポートが残っていたワケでもなかった。でも、気が付くと電車に乗っていた。山手線の内回り、池袋行き。僕は朝飯兼昼飯という名の缶コーヒーを腹に押し込むと、大学に向かっていた。
別に出かける理由がなかったわけではない。予習のための資料を探しに行きたかったし、今のうちに論文の梗概を作らなくちゃいけなかったし。なにごとも早め早めにするのが僕の主義だったし。
――それに、なにより小清水さんに会う約束をしていたから。
夕方。日も沈みかけてころ、僕は大学を這い出て喫茶店に向かった。
二階の奥の席。二人掛けの席に彼女はいた。いつものようにノートを広げ、LAMYの万年筆を走らせて。そして耳には古めかしいヘッドフォンをかけていた。
「約束通り来ましたよ」
僕は注文したコーヒーを片手に、僕は彼女の前に座った。
すると小清水さんは目線だけあげて、イヤホンは耳に指したまま、僕を見透かすように遠くを見つめた。その瞳の焦点距離は、僕よりもずっと向こうに定められていた。
「あの、藤巻さん。あそこの奥の席の二人がなに話してるか、わかります?」
挨拶もなし。彼女は僕の目さえ見ずに、ペンを握りしめたまま言った。
「え? 奥って?」
「あそこの二人。スーツの男性と、白いブラウスの女性。聞こえます?」
僕はコーヒーを飲み、素知らぬフリをしながらも耳に全神経を集中させた。やんわりと会話が聞こえる。
〈じゃあ、ここに毎月お金を送るだけでいいわけ〉
〈そうです。それだけですよ。私の友達で、ミクロネシアに会社を持ってる人がいるんですけど。そこがいますごい景気がよくて――〉
聞いてみると、一体なんなのかすぐにわかった。
スーツの男性は、よく見ると会話の主導権を握っていない。手綱を持っているのは、女性の方だった。髪をかき上げ耳を出すと、女性は静かに微笑む。その微笑に、僕は妙な嫌悪感と言うか、拒絶反応を覚えた。
「詐欺ですよ、あれ。いまどき対面でマルチ商法の勧誘なんて珍しいですよね。少し感動しちゃいました」
「小清水さん、そんなの聞いてたわけ?」
「別に聞きたくて聞いてたわけじゃないですけど。偶然です。初めは音楽を聴いてたんですけど、ちょっと止めてみたらおもしろい話が聞こえてきたので。わたし、そういう一期一会も記録したいんです。それこそこの間の藤巻さんみたいな」
「僕がフラれたところ?」
彼女はうんと小さくうなずいた。
「ええ。多くの人にとっては、きっとどうでもいい情報なんでしょうけど。クラウドに消されてしまうような痛々しく、傷つきやすい、些末な情報なんでしょうけど……。あの、最近気づいたんです。わたしってカタチある何かに、物理的にデータを保存するのが好きなんですよ」
「たとえば、紙とかに?」
「あるいは磁気テープとかに」
言って、彼女は耳にかけていたヘッドフォンをはずした。
よく見れば、それは何世代前のものかと疑う品だった。そもそもヘッドフォンは有線接続だし、プラグは手のひらほどの大きさの端末に繋がっている。しかもそれは、端末と呼ぶには余りにローテクすぎた。カセットテープの再生機だったのだ。
イジェクトボタンを押すと、カシャンと小気味いい音を立ててカバーが開いた。内部機構が大きく口を開けて、中から黒い小さな板切れ――カセットテープを吐き出した。
「カセットなんて久々に見た。小学生のとき以来かも。それ、なにか曲が入ってるわけ」
「ええ。ザ・キュアーの『ウィッシュ』です。知ってますか? カセットは前に神保町の古本屋で買いました。あと、このウォークマンは秋葉原で」
「とことんデッドメディアだ」
「ですね。でも、だからこそ好きなのかも。そういえば藤巻さん、約束どおり日記は書きました?」
「もちろん。じゃなきゃ来てない」
僕は鞄の中をあさった。タブレット端末を払いのけて、分厚いダイアリーを引っ張り出す。僕が毎日書いても、十年は終わらなそうな分厚さだった。
「読んでも?」
「恥ずかしいけど、いいよ」
僕の書いた文字なんて、四〇〇字詰め原稿用紙すら埋められないような散文だ。ソーシャル・ネットワークに晒したって何の意味も成さない、有象無象の言の葉の一つだ。
小清水さんはそれをじっくりなめ回すように読んだ。紙の後ろが透けて見えるほど、時間をかけてゆっくり。まるでその日記に重大な意味が秘められていて、それを紐解き、事件を解決に導かんとする探偵みたいに。
だけど、それだけだった。
彼女はそれきり何も言わなかった。僕に日記帳を突き返すと、そのまま無言でいた。そして、代わりに自分の筆を取り出した。筆談でもしましょうと言わんばかりに。紙に向かって、一心不乱に自分の言葉を書き始めた。
「なに書いてるんです? 僕が文章を書き始めた感想?」
「いえ、ちょっと思うところがあって。書きたいなと思って」
と、彼女は僕の目を見ることもなく。
「でも、教えてあげません。見ないでください」
カリ、カッ、カリリ、カリカリ……。
ペンを走らせる音。記されたそばから、彼女は左手で文字を隠す。
「見ないでください」
「どうして?」
「どうしてもです。しばらく待っていてください」
「しばらくって。どれぐらい?」
「ずっと」
彼女はそれだけ言って、また一心不乱に文字を書き続けた。
僕はそれ以上詮索しないほうがいいと思ったし、彼女もそれを見せびらかそうとはしなかった。ただ微妙な空気が流れて、僕らは何となくお互いのノートに向かうことにした。目の前に人が入るのに、僕らはただペンを取り、その目の前にいる人物について
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