3

     /


 クラウドが現れたのは、僕が幼稚園児のときで。気がつくと世界は、天上人に支配されるようになっていた。

 記憶をアップロードし、管理される。

 そんなプロセスが受け入れられたのは、いったいどの瞬間なのだろう。文学者であり哲学者の羽生田志津雄曰く、『人間は生まれたときよりすでに現実リアルに起きたことを脳に記録して、かつまたそれを都合よく解釈することを遙か昔より行ってきた』という。考えてみればふつうのことだ。僕らは過去を美化する。起きてしまったことを都合よく解釈して、自分のアイデンティティを保っている。すなわち僕ら人間には、はじめからクラウドを受け入れる土壌はあったのだ。


     /


 講義内容を記したメモ・アプリ。そこには夕飯についてのどうでもいい落書きだとか、パッとした思いつきのアイディアメモだとかいっしょになって、教授の放った言葉が一言違わず記してある。僕らがそれに対してする作業といえば、重要度の数値を割り振って、よりわかりやすい「まとめページ」を作ることだけだった。

 今日のお題目で何が重要だったかといえば、要するにノーム・チョムスキーがいかに革新的であったかというところだけど。僕は今一つそれを理解できないでいた。そして理解できないまま講義は終わり、解散し、学生たちは部屋を出始めていた。

 僕は一人、講義室の席で出遅れていた。廊下に抜けていく群衆を見ては、上の空になるばかりだった。

「あ、」

 ぼんかりしていると、うっかり言葉が出た。

 出入り口のところにアヤコがいて、ちょうど目があってしまったのだ。

 彼女は一瞬だけ僕に目をやったけど、すぐに唇をツンと尖らせ、ため息を漏らして去ってしまった。まるで当てつけだ。僕に対して直接「きらいだ」と言う気はないけれど、でも態度ではそう言っている。まさにそんな感じだった。

「そんなに不機嫌にならなくてもいいのに」

 僕はそう口にしたけど、彼女がああいう態度を取る理由はわかっていた。

 ――だって、僕はアヤコにとってつまらない男だから。

 ――彼女にとって、僕という人間は記憶に残らない男だから。

 ――クラウドがそう判断した男だから。

 ――重要度が最底辺と定義され、消えてもかまわない記憶として設定されたから。

 ――きっと別のオトコができたから。

「そういうコトなんだろ」

 へそ曲がりめ。

 僕は吐き捨てるみたくつぶやいてから、大学を出た。


 足は自然と喫茶店に向かっていた。大学近くの喫茶店で、つまり彼女――小清水ケイと出会った場所だった。

 店に入ると、視界上には真っ先に空席情報とメニューが表示された。二人掛けはもう満席らしい。今週のオススメはフレッシュマンゴージュースだとかなんとか。

 店内の案内システムは僕を奥の席に誘導しようとしたけど。でも、僕はそれを無視した。右手で空席表示を払いのけると、あたりを見回した。そして、すぐに見つけた。

 カリカリカリカリ……。

 ペンを走らせる女性。書き物用だろうか、丸メガネをくいとあげて、小清水ケイは僕を見上げた。

「あ、藤巻さん」

「また会いましたね」

 空席案内が待ち合わせを認識する。僕はアイスコーヒーを頼んでから、彼女の真向かいに腰を下ろした。


「そういえばこのあいだ別れた彼女、あのあとどうしました?」

「別れた彼女って……。小清水さん、覚えてたんですか?」

 アイスコーヒーを受け取りつつ、僕は言った。小清水さんは以外に盗み聞きが趣味らしい。

「ええ、ちゃんと日記にも書きましたよ。ほら、藤巻さんってば大声で話されていたので、否応にも聞こえちゃいました。それにわたしは、そういういろんな人の人生の一ページを記録するために日記をつけてるので、そういうことはちゃんと書き留めてるんです」

「記録するため、ですか。……まあ、彼女とは別にどうもしてませんよ。あれきりです。さっきも会いましたけど、なんだかあいつ……」

 ――アヤコのやつ、怒ってるみたいでした。

 僕はそう続けようとして、言の葉を口に含んだ。それからよく咀嚼して、吐き出した。

「……ちょうどさっき会いましたけど、なんだか知らんぷりって感じでした。いまの彼女にとっては、僕のことなんて記憶するに値しないんですよ。そう彼女が判断している」

「彼女が? 彼女のクラウドが、じゃなくて?」

「実行しているのはクラウドでしょうけど。でも、そう判断したのは、彼女の精神状況あってのことでしょ。アヤコが『藤巻ミナトはいらない』と判断した。だからクラウドが僕を消した……。別のオトコでもできたんですよ。きっとね」

「たしかに、そうかも。もう藤巻さんのことなんて何一つ覚えてないかもですね。ほら、失恋してバッサリ髪を切ってしまう女の子みたいに。藤巻さんの記憶もバッサリ切られたかも」

「そのたとえ、けっこう傷つきます」

「でしょうね」

 小清水さんは静かに笑んだ。軽い嘲笑混じりで。

「うん、でも、実際のところどうなんでしょうね。逆に藤巻さんは彼女さんのことどこまで覚えてました?」

「どこまでって?」

「彼女について、どこまで覚えてました? どれだけ彼女を愛していました? 彼女についてどれだけ知っていましたか?」

 小清水さんはそう言って、しばらく黙り込んだ。答えを待つみたいに。

 それから彼女はノートに目を落として、愛用の万年筆を手に取った。インキが紙の上を滑り出す。僕はその軌跡を見ながら、茶を濁すようにコーヒーを飲んだ。答えなんてどこにも見つからない。僕がアヤコのことをどこまで好きだったかなんて、そんなの明確に言葉にはできないし。でも、少なくとも昨日までの僕はアヤコを愛していた。まちがいなく。少なくともそう感じていた。

「わかりませんよ、そんなの。一口に言えることじゃない。すぐ言葉にできることじゃない。もっとこう、感覚的なもんだから」

「言葉にできない、か……。そうですね。だったら、藤巻さんも書いてみたらどうです?」

「なにを?」

「日記を」

 万年筆とノートをうれしそうに持ち上げる。ニコッと笑う彼女の頬が、メガネの縁をわずかに押し上げた。

「そうしたら、彼女のことをすこし思い出せるかも。記録できるかも。そう思いません?」

「いまさらアヤコと僕とで交換日記でもしろとか言い出しませんよね」

「まさか。ただ記録してみたらどうかと思って。忘れてしまいたい過去、いずれ自らを傷つける痛ましい記憶、そしてクラウドに消されたくないこと……。それが記録できれば、何か変われるかも」

「何か変われる、ですか」

 コーヒーを飲む。残りの空間を消すように。

 僕はしばらく考え込んでから、やっと言葉を口にした。

「……近くでノートとペンが買えるとこ、知ってますか?」

「ええ、もちろん」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る