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 視聴を終えると、クラウドは僕に囁いた。

《セロトニンの規定量の分泌を検知。お疲れさまでした》

 僕はその声にやるせなさと、幾ばくかの怒りを覚えた。もっとも、それが本当に怒りなのだとしたら、クラウドは僕にさらなる処方箋を与えるのだろうけど。



 ふられたし、クラウドの処方箋も終わったし。もう僕には帰るしかなかった。勘定を済ませたら、残りの紅茶を飲み下して席を立とうとした。

 そのときだった。

 

 ――カリカリカリカリ……。


 と、耳障りな音が聞こえてきた。まるで綿棒で耳のなかをかき回されたときみたいな、そういう音だ。だけど店内の客たちは、そんな音は存在しないとでも言うみたいに、目の前のことに没頭していた。仕事だとか、友達との他愛もないお喋りとかにだ。

 僕だけが気づいていた。


 ――カッ、カッ、カリカリカリ……。

 

 音の正体は、すぐ近くにいた。

 隣の席だ。

 さっきまで彼女が座っていた隣に、一人の女が座っていた。二人用の小さなコーヒースツールに、一杯のフラペチーノと、そしてノートを広げて、一心不乱に何かを書き下している。それもインキを使うペンでだった。

 僕らの脳は、クラウドの命令によって随時ノイズキャンセリングを実施している。すなわち、必要の無い情報を勝手に「無い物」にしてくれるわけだけど。彼女の発する雑音というのは、僕にとってはそれまで必要の無い情報だったわけだ。

 ――僕の記憶が、アヤコにとって存在しなかったのと同じように。

「……すみません、何かお気に障ることでも?」

 とたん、女性は目をあげて僕に問いかけた。

 二十代前半ぐらいの、見かけ彼女と同じぐらいの背格好をした女性。でも、帯びている雰囲気というのは、正反対だった。

 活発で、闊達で、青くて、赤くて。僕が隣にいてもいなくても、どこへでも行ってしまいそうな……。それがアヤコだった。

 でも、いま隣にいる女性にはそんな雰囲気はなくて。むしろ黒く、小さく、落ち着いていて、ある地点にずっととどまっているような。そんな雰囲気だった。

 しかしその女性は、ただ単に落ち着き払っているというわけでもなかった。髪は落ち着いた黒のショートボブかと思えば、インナーにピンクの差し色を入れている。静けさのなかに、なにか大きな胎動を秘めているように。

「いや、ただ」僕は目を左右へ振り乱しながら「妙な音がしたので」

「ああ、これのことですね」

 彼女は右手に持ったそれを、僕の 目線の高さにあげた。

 ペンだ。いまどき珍しい、インキを使うペン。拡張現実オーグメンテッド・リアリティで視界上に書き下すでも、天上人クラウドに言付けるでもなくて。

「珍しいですよね。いまどき紙にペンで書くなんて。だから、ふつうの人には見えないんですよ。ノイズになるから」

「でしょうね。いまどき紙に書くだなんて、それだと――」

「貴重な物質資源マテリアル・リソースの無駄遣い。そう言われちゃいますよね」

「それになにより非効率的だ」

 紙資源が枯渇しはじめてから、どれほどの歳月が経ったか。僕は詳しく知らない。だけど、少なくとも僕らデジタルネイティヴにとっては、わざわざ紙媒体の外部記憶装置メディアを使うだなんて、なんて非効率的なんだと、そう思うぐらいには年月が経っていた。

 だって、クラウドに任せればすべて済む話だし。自分の耳で聞いて、考えて、それを言葉に変換して、紙に書き下すなんて。そんな猥雑なプロセスを経れば、現実は必ずどこかで歪んだ状態になって保存されていくだろうから。

「何を書いてるんですか?」

「日記です」

「日記?」

「ええ。ほら、クラウドが記憶をアップロードして、ダイアリとしてまとめてくれるでしょう? あれと同じ。今日起きたことを、そのまま言葉にしてまとめているんです。クラウドに曲解される前に」

 ――クラウドが曲解する?

 僕は一瞬疑問に思ったけど、それが疑問として脳裏に浮かんでいく前に、彼女はその日記とやらを見せつけてくれた。

 そこには、青いインキに筆記体の英語で、こう書かれていた。


     /


 一〇月三日(木) 池袋 清水屋喫茶店 二階

 わたしの日記に気づいた人と出会う。男性。大学生かな? メガネをかけた、文化系っぽい青年。淡いブルーのシャツと、ジーンズ。ガールフレンドにフラれたみたい。

 わたしのこと「紙資源の無駄遣いだ」って、みんなそう言う。わたしもそう思う。だけど、だからこそコレはわたしの日記なんだって。そうとも思う。


     /


「それ、書いてどうするんです?」

 僕は会計処理を済ませながら問うた。視界上でクレジット支払いの完了報告がされた。

「べつに。ただ読み返すだけです」

「それならクラウドに聞けばいい」

「そうですね。正直、クラウドから提供される記憶と、日記の内容は、大差なかったりしますしね」

 言って、彼女は右手に持っていたペンを置いた。青いインクが静かにしたたり落ち、ノートのはしにフルストップを描いた。

「でもまあ、これはあくまでも儀式みたいなんです。わたしにとって、一日を過ごすための」

「はあ、儀式ですか」

「ええ。紙資源を無駄にするのって、けっこう背徳的な趣味なんですよ?」

 彼女はそういって得意げに笑みを浮かべたけれど。僕はそれに「はあ」とか「へえ」とか、気のない返事をするばかりだった。というよりも、そうとしか言えなかったのだ。

 高い金を出してまで、わざわざ紙媒体ペーパーメディアに印字された物理媒体ハードウェアを愛でる人たちがいるのは、僕も知っていた。僕だって文学部のはしくれだし。そういう気持ちはいくらかわかるつもりだった。でも、実際にそうして日記をつづっている人を見たのは、後にも先にもこれが初めてだった。

 ふと、視界上にリマインダが起動した。目の前の死んだ媒体デッドメディアをかき消すみたいに。次の講義に行けと、僕を急かしていた。五限は必修の言語学だった。

「あの。それってクラウドがあなたを呼んでる。そうですよね?」

 目線が泳いでるのがバレたんだろう。彼女は僕にそう言った。

「ええ、まあ。次の講義があるので」

「大学生?」

「はい。そういうあなたは?」

「似たようなものです。ねえ、また会えますか?」

「え?」

 僕は心臓が脈打つのを感じた。鼓動。ペン先が心肝をなぞったような気さえした。

「こうしてお話できたのも何かの縁ですから。わたし、いつもこの辺の喫茶店にいるので。よかったら、また会いませんか?」

「ええ。ぜひ、機会があれば。……えっと、藤巻です。藤巻ミナト。僕の名前」

「小清水です。小清水ケイ」

「小清水さん。じゃあ、また」

 僕はそう口にして、次の講義へと向かった。天上人が規律正しくリマインダを通告する。僕に大学の講義棟へ向かえと、厚かましくも指示を続けていた。

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