1

 僕が彼女に出会ったのは、ひどい失恋をした直後のことだった。

「ウソみたいなのよ、あなたの記憶って。人生って」

 大学近くの喫茶店。いつものようにガールフレンドのアヤコと二人で紅茶を飲んでいたときだった。

 そのときもアヤコは、平静と同じアンニュイで静かな微笑みを浮かべていた。

 北欧家具のような真っ白いコーヒーテーブルの上には、クローテッドクリームがたっぷりついたスコーン。食べかけのそれには、彼女の唇の痕が刻まれている。しかしその唇が発したのは、クリームのように甘く軽い言葉ではなかった。

「このあいだ同期したときから、ずっとそう感じてた」

 指先についたクリームをぺろりと舐める。

 僕は首を傾げた。

「ウソみたいって、どういうこと?」

「わかるでしょ?」

 唾液のついた指先で、アヤコは自らのこめかみに触れる。右のこめかみ、耳の脇。埋め込まれたリングが青く輝き始める。作動ランプが灯って、それからまもなく黄色に変わる。動作中の警告ランプ。それから、緑色に変わった。

 ランプが激しく明滅している間、彼女は目を閉じていた。そのまぶたの裏には、彼女にとってのが見えていたのだろう。

「やっぱり、そうなの。あなたってウソみたいなの。私のナカにいるのに、いないの。だって『クラウド』がそう言うのよ。あなたは私の記憶には必要ないって。だから、別れよう。私たちもうそういう時期じゃないと思うの」

 彼女はそう言うと、自分のぶんの紅茶とスコーン代を払って、店を出ていった。僕の言い分なんて聞く暇もなく、あっという間に。


 僕はしばらく残りの紅茶を飲んでいた。カップの底には茶葉が滞留し、沈殿している。かき混ぜると踊り出すそれを、僕はぼんやりと見つめた。心のざわつきを押さえるため、無心になるために。でも、茶葉が水流に揉まれる様は、まるで嵐にさらされる凧のようで。今にもプツンと糸が切れそうで、僕はやな気分になった。


「私のナカにいるのに、いないの」


 彼女は確かにそう言った。

 付き合い始めてこれで半年。僕にとっては、大学生になってから初めて付き合った女性だった。これまでの人生だと、通算三人目。そして僕は、彼女に期待を寄せていた。いままでの二人とは何か違う関係になれると、そう感じていた。でも、結局同じだった。


 三人の女の子。


 一人目は中学生のときだった。同じクラスの女の子で、陸上部の子だった。告白は彼女からで、僕はそれを受ける形だった。でも、結局お互いになんとなく感じている『好き』の感情をどう表現したらいいかわからなくて。最終的にはなんとなく関係は終わっていた。僕らがしたことといえば、文化祭の帰りに夜遅くまで手をつないで散歩したこと。それぐらいだった。


 二人目は、高校のときで、吹奏楽部の子だった。肩まで伸びたストレートの黒髪が特徴的で、背は低く、おとなしい子だった。いや、おとなしいというよりも内気という方が近かった。僕らは二人とのクラスでは浮いていた。誰とも仲良くできなくて、なんとなくグループの輪に触れてはいるのだけど。でも、足は踏み入れられない感じ。指先の二、三本くらいで輪に触れて、やんわりと盗み聞きをして。そして輪のなかの人たちを見下している感じだった。

 僕らはある夕方、教室で二人きりになった。僕は追試で居残りをしていて、彼女もそうだった。なにがきっかけで話したかは覚えていない。でも、たぶん彼女からだったと思う。僕はあまり積極的に話しかけるタチじゃないから。

 でも、結局その吹部の彼女とも長続きしなかった。あれは僕からフッたたんだと思うし、そもそも僕らはそういう関係ではなかったんだとも思う。なんとなく話すようになって、なんとなく近づくようになって、なんとなく離れた。ただそれだけ。


 だから今度は違うと、そう信じていた。もっと深く親密な男女になれると、僕は期待を寄せていたわけだけど。このザマだ。

「……またか」

 僕はため息一つ漏らし、残りの紅茶を一口飲んだ。喉は液体を受け付けようとしなかったけど、強引に。

 喉奥がゴクリと大きな音を鳴らすと同時、僕はこめかみに作動音が響くのを感じた。『クラウド』が記憶を認識する。これは悪い記憶だと感じ、クラウドは僕を精神鑑定サイコメトリーにかけた。きっとこめかみのランプは赤く明滅していることだろう。

 まもなくして、診断が下された。ランプは緩やかに黄色へと変わり、やがて青に変わる。

 僕の失恋の記憶は、精神的ストレス負荷の対象と診断された。まもなく記憶は緩やかに改竄されるだろう。全身にクスリがまわっていくのを感じる。僕のココロを守るために、天上人が見下ろし、手を下した。

 ――正常終了。

 視界上に表記されたそれに、僕は安堵を覚えた。クラウドは僕に明細を表示するか? と問う。投与された脳内物質、アップロードされた記憶の編集概要、そしてそれによる僕の精神状況診断レポート……。

 必ずお読みくださいとあったけど、僕は目を通すこともなく、再通知フォルダーに押しやった。なんだか見たくなかったのだ。ココロの平穏はとれているはずなのに。頭のなかはムシャクシャしてたまらなかった。

《中程度の心的外傷を検知》

 お節介な天上人が、僕の聴覚野に騙りかける。

《改善処置を実施しました。以下の記憶を閲覧することで、より効果的な治癒が期待できます》

 一覧表示。僕の意志に反して、目の前は知らない人間の主観映像でいっぱいになる。紅茶の残ったティーカップはかき消されて、代わりに現れたのは、幸せそうな情景の数々。

 僕は雑多なそれを払いのけるようにして、右手で空を凪いだ。だけどサムネイルはスワイプを続けるばかりで、次から次へと記憶の束メモリを見せつけてくる。

 仕方なく、僕はそのうちの一つを再生した。


     +


 頬ずり。

 毛むくじゃらの子猫が肌をすり寄せる。

 飼い主に媚びを売るみたいに。

 赤子のように。

 毛玉のように。

 ねじれ、回転し、竜巻のように転がりながら。

 猫は飼い主の――つまり記憶の持ち主の腕にからみつく。

 生命が発する体温を感じる。

 肉体から発せられる無言の愛情表現。

 人間のココロを満たす。

 飼い主の精神を満たす。

 正確には、脳髄にセロトニンとβエンドルフィンとが充填されていく。

 僕の脳は、その記憶の追体験によって、疑似的な幸福を得る。


     +


 視聴を終えると、クラウドは僕に囁いた。

《セロトニンの規定量の分泌を検知。お疲れさまでした》

 僕はその声にやるせなさと、幾ばくかの怒りを覚えた。もっとも、それが本当に怒りなのだとしたら、クラウドは僕にさらなる処方箋を与えるのだろうけど。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る