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僕が彼女に出会ったのは、ひどい失恋をした直後のことだった。
「ウソみたいなのよ、あなたの記憶って。人生って」
大学近くの喫茶店。いつものようにガールフレンドのアヤコと二人で紅茶を飲んでいたときだった。
そのときもアヤコは、平静と同じアンニュイで静かな微笑みを浮かべていた。
北欧家具のような真っ白いコーヒーテーブルの上には、クローテッドクリームがたっぷりついたスコーン。食べかけのそれには、彼女の唇の痕が刻まれている。しかしその唇が発したのは、クリームのように甘く軽い言葉ではなかった。
「このあいだ同期したときから、ずっとそう感じてた」
指先についたクリームをぺろりと舐める。
僕は首を傾げた。
「ウソみたいって、どういうこと?」
「わかるでしょ?」
唾液のついた指先で、アヤコは自らのこめかみに触れる。右のこめかみ、耳の脇。埋め込まれたリングが青く輝き始める。作動ランプが灯って、それからまもなく黄色に変わる。動作中の警告ランプ。それから、緑色に変わった。
ランプが激しく明滅している間、彼女は目を閉じていた。そのまぶたの裏には、彼女にとっての過去が見えていたのだろう。
「やっぱり、そうなの。あなたってウソみたいなの。私のナカにいるのに、いないの。だって『クラウド』がそう言うのよ。あなたは私の記憶には必要ないって。だから、別れよう。私たちもうそういう時期じゃないと思うの」
彼女はそう言うと、自分のぶんの紅茶とスコーン代を払って、店を出ていった。僕の言い分なんて聞く暇もなく、あっという間に。
僕はしばらく残りの紅茶を飲んでいた。カップの底には茶葉が滞留し、沈殿している。かき混ぜると踊り出すそれを、僕はぼんやりと見つめた。心のざわつきを押さえるため、無心になるために。でも、茶葉が水流に揉まれる様は、まるで嵐にさらされる凧のようで。今にもプツンと糸が切れそうで、僕はやな気分になった。
「私のナカにいるのに、いないの」
彼女は確かにそう言った。
付き合い始めてこれで半年。僕にとっては、大学生になってから初めて付き合った女性だった。これまでの人生だと、通算三人目。そして僕は、彼女に期待を寄せていた。いままでの二人とは何か違う関係になれると、そう感じていた。でも、結局同じだった。
三人の女の子。
一人目は中学生のときだった。同じクラスの女の子で、陸上部の子だった。告白は彼女からで、僕はそれを受ける形だった。でも、結局お互いになんとなく感じている『好き』の感情をどう表現したらいいかわからなくて。最終的にはなんとなく関係は終わっていた。僕らがしたことといえば、文化祭の帰りに夜遅くまで手をつないで散歩したこと。それぐらいだった。
二人目は、高校のときで、吹奏楽部の子だった。肩まで伸びたストレートの黒髪が特徴的で、背は低く、おとなしい子だった。いや、おとなしいというよりも内気という方が近かった。僕らは二人とのクラスでは浮いていた。誰とも仲良くできなくて、なんとなくグループの輪に触れてはいるのだけど。でも、足は踏み入れられない感じ。指先の二、三本くらいで輪に触れて、やんわりと盗み聞きをして。そして輪のなかの人たちを見下している感じだった。
僕らはある夕方、教室で二人きりになった。僕は追試で居残りをしていて、彼女もそうだった。なにがきっかけで話したかは覚えていない。でも、たぶん彼女からだったと思う。僕はあまり積極的に話しかけるタチじゃないから。
でも、結局その吹部の彼女とも長続きしなかった。あれは僕からフッたたんだと思うし、そもそも僕らはそういう関係ではなかったんだとも思う。なんとなく話すようになって、なんとなく近づくようになって、なんとなく離れた。ただそれだけ。
だから今度は違うと、そう信じていた。もっと深く親密な男女になれると、僕は期待を寄せていたわけだけど。このザマだ。
「……またか」
僕はため息一つ漏らし、残りの紅茶を一口飲んだ。喉は液体を受け付けようとしなかったけど、強引に。
喉奥がゴクリと大きな音を鳴らすと同時、僕はこめかみに作動音が響くのを感じた。『クラウド』が記憶を認識する。これは悪い記憶だと感じ、クラウドは僕を
まもなくして、診断が下された。ランプは緩やかに黄色へと変わり、やがて青に変わる。
僕の失恋の記憶は、精神的ストレス負荷の対象と診断された。まもなく記憶は緩やかに改竄されるだろう。全身にクスリがまわっていくのを感じる。僕のココロを守るために、天上人が見下ろし、手を下した。
――正常終了。
視界上に表記されたそれに、僕は安堵を覚えた。クラウドは僕に明細を表示するか? と問う。投与された脳内物質、アップロードされた記憶の編集概要、そしてそれによる僕の精神状況診断レポート……。
必ずお読みくださいとあったけど、僕は目を通すこともなく、再通知フォルダーに押しやった。なんだか見たくなかったのだ。ココロの平穏はとれているはずなのに。頭のなかはムシャクシャしてたまらなかった。
《中程度の心的外傷を検知》
お節介な天上人が、僕の聴覚野に騙りかける。
《改善処置を実施しました。以下の記憶を閲覧することで、より効果的な治癒が期待できます》
一覧表示。僕の意志に反して、目の前は知らない人間の主観映像でいっぱいになる。紅茶の残ったティーカップはかき消されて、代わりに現れたのは、幸せそうな情景の数々。
僕は雑多なそれを払いのけるようにして、右手で空を凪いだ。だけどサムネイルはスワイプを続けるばかりで、次から次へと
仕方なく、僕はそのうちの一つを再生した。
+
頬ずり。
毛むくじゃらの子猫が肌をすり寄せる。
飼い主に媚びを売るみたいに。
赤子のように。
毛玉のように。
ねじれ、回転し、竜巻のように転がりながら。
猫は飼い主の――つまり記憶の持ち主の腕にからみつく。
生命が発する体温を感じる。
肉体から発せられる無言の愛情表現。
人間のココロを満たす。
飼い主の精神を満たす。
正確には、脳髄にセロトニンとβエンドルフィンとが充填されていく。
僕の脳は、その記憶の追体験によって、疑似的な幸福を得る。
+
視聴を終えると、クラウドは僕に囁いた。
《セロトニンの規定量の分泌を検知。お疲れさまでした》
僕はその声にやるせなさと、幾ばくかの怒りを覚えた。もっとも、それが本当に怒りなのだとしたら、クラウドは僕にさらなる処方箋を与えるのだろうけど。
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