第4話 彼女が出来ました

「時に君たち」


 それは9時だった。女教師が変人倶楽部の理念と意義。それから過去に在籍した先輩方が社会で上手くやっているという話。それらを語り終えて、ようやく話に区切りがついた時だった。


 途中から俺はまともに聞いていなかった。


 長く、どう考えても俺には該当しない話で、語り口は軽佻浮薄で、興味を持ち続けるという方が無理な話で。


「君たちは、中学時代をどう過ごした?」


 しかし、この一言は、なぜだか耳に響いて重かった。あの日浦でさえ机に伏せていた身体を起こし、不機嫌なまなざしを教壇に向けていた。


 真剣に答えなければいけない。

 そんな風に聞こえる言葉だった。


「不登校」


 日浦が答えた。

 知っている。日浦は不登校だった。正確には不登校だったのは中学生活の後半だけだが、不登校になる以前も、まともに登校していたとは言いずらい。


 そう日浦は不登校だった。


「行ってねぇ」


 続けて俺の隣。いがぐり頭の眉間に皺を寄せた男が言う。

 彼も不登校のようだった。

 外見からは、不登校というより、ブッチとかフケるとかそう言った。不良みたいな単語が似合う男だった。


 というか多分そうだ。


 保証はないけど。


 もう一人のクラスメート、一番窓際に座る小柄な女の子は何も言わなかった。けれど、彼女はごくまったりとした動作で、鞄からノートブックを取り出し、筆箱からボールペンを取り出し、文字を書き、それから、るり先生に見せ、こっちにも見せた。


『保健室』


 と書いてあった。

 中学時代を保健室で過ごしたらしい。


 俺は何だか居心地が悪くなる。


 このクラスには、中学をまともに過ごしているやつ、というか、“中学校生活”というスタートラインに立っている奴すらいない。


 俺だって、誰にでも自慢できるバラ色の素敵な中学生活を送ったわけではないけれど、色で例えれば無色透明だった自覚はあるけれど、他の三人とは違って、決して中学校生活そのものがなかったわけではないのだ。


 だったら、こんな教室に送り込まれるいわれはなかったはずなのに。


 俺は黙っていた、けれど、誰かが追求することもない。尚更に居心地が悪い。


「そんな君たちにいきなり普通の学園生活を送れとは言いません」


 そういう言葉は俺以外には適切で、俺にはひどく不適切だ。


「とりあえずの目標は、朝と夕方のHRにしっかりと顔を出すことからです」


 るり先生は言って、それから、深く頭を下げた。こんなに深く生徒に向かって礼をする教師を見るのは初めてだった。


 ようやく頭を上げてるり先生は言う。


「では、少々長くなりましたが、第一回のHRを終わります」


 じゃあ、とるり先生はにこりと綺麗な笑顔を作って、そのまま歩き、教室のドアに向かった。


 え?


 それだけ?


 俺は思わず立ち上がる。俺の椅子は、大きな音を立てることはなく、わずかに擦れた音がするだけだった。


「あの、先生」


 るりは背中を向けたまま、顔だけをこちらに向けた。


「これから俺たち、何をすればいいんですか」


 るり先生は首を傾げる。不思議でたまらないと言った顔だった。俺のことがまったく理解できないと言ったそんな顔だった。


「好きにどうぞ。次に君たちが学校に拘束されるのは16時35分、帰りのHR。それまでは自由時間だよ」


 人は混乱すると声も出ないものなのだ。去っていってしまいそうなるり先生に俺は何も言えなくなってしまっていた。


「待って」


 となんとかひねり出した声は自分でもひどく情けない。

 くるりと不思議そうな顔でるり先生は振り向く。


「…えっと、授業とかは?」


「ないよ? 君たちには必要ないでしょ?」


 そう当然のように言った。

 そんなわけないだろう。


 高校一年生なんだぞ。俺は。


 俺は後ろを振り向く。どいつもこいつも、こちらを見てさえいない。自分とは関係ないことだと言わんばかりだ。


 この教室で俺だけがひとりで焦っていた。日浦は…、当たり前か、不機嫌にどこか遠く、天井を、きっとその先のどこかを眺めている。こいつにはまさに授業は必要ない。必要だったとしても、おとなしく座って受けることなどないのだから同じだ。


 そうして俺は少し落ち着いてしまう。


 落ち着く。というと聞こえは良いが、要は投げやりになったのだ。


「じゃあ、成績とかは?」


 諦め悪く聞くと、るり先生はもはや、面倒くさそうな顔をしていた。どうしてそんな顔が出来るのか俺には理解できない。


 あんた仮にも教師だろう。

 導けよ。教師として。ちゃんと。


 物わかりの悪い子供に教えるように、溜息交じりの答えが返ってくる。あまつさえ「どうでもよくないかな。そんなこと」と言う。


 良くねぇよ。


「全科目、評価は5段階中の3、ただし、さっきも言ったみたいに出席だけは必須…もういい?」


 呆れた顔で聞かれるが、いいです。とは俺は答えない。


 何もよくない。


 けれど、不条理全てを受け入れてしまえば、るり先生に質問することなんて何もないのだ。だって、何もないのだから。


 朝と帰りのHRだけ行います。

 他には何もしません。


 1+1が2になるのに説明が要らないように、あまりにもシンプルな物事には質問の余地など残っていない。


 だから、俺は何も言えなくて、るり先生はそれを肯定と受け取ったようで、それじゃあ。と俺を一瞥すると今度こそ出て行った。


 無常だった。


 人生でこれほど空しい気分になったことはない。世界で独りぼっちになった気分だった。この空間に俺以外に人間は存在しない。そんな気分にだった。


「私も行くから」


 聞こえたのは日浦の声だった。呆然と立ちつくしていた俺の肩を日浦が叩いたのだ。


「え、ああ」


 俺はぼんやりと答える。


「ムーも来る?」


 そう聞かれて、ああ、と答えてしまったのは、日浦について行ってしまったのは、だから、投げやりだったからだ。


 あの時俺は、「窓から飛び降りるけど、どう?」と聞かれたとしても、ふらふらと背中について行ってしまっていたかもしれない。



 日浦がなぜ教室を出たのか。あの女教師が全てを放棄して、教室を出て行った理屈は理解不能だが、幼馴染の日浦のメカニズムを俺は理解してしまっている。


 普通は、普通の高校生であれば、今は丁度2限目あたりで教室に座って授業を受けている時間であるからだ。


 だから日浦は教室を出る。


 日浦に行動原理は昔から一つだけなのだ。出来るだけ他の人間がしないことをする。日浦はいつからか、そのルールをずっと守り続けている。


「なんで、俺をあんなところに連れて行ったんだよ」


 夢遊病のように日浦の背中を追いながらも、自然と口からついて出たのは、恨み言だった。怒る権利はあると思うのだ。日浦は俺がまごうことなく、”普通”の人であることを知っているはずで、それを承知であの変人倶楽部に連れていった。


 他人の履歴書に詐称の限りを尽くして、勝手に送り付けてよい人間なんてこの世に存在してよいはずがない。


 前を行く、日浦は歩みを止めた。けれど、俺に呼び止められてというわけではない。ただ目的地に到着しただけだ。それは家庭科室の前だった。


 今日は新学期の二日目。

 新年度、一番最初の授業に家庭科が選択されるべくもなく、だから当然、教室は無人だった。


「必要だったから」


 そう言って、日浦は家庭科室に入った。


 そこはありふれた家庭科室だった。教室内には、シンクとコンロが備わった机が6つ、3×2の配置で等間隔に並んでいて、教室の後ろの棚には、調理器具や食器が収納されている。


 日浦は棚から鍋を一つ取り出して、水を入れ、コンロにくべた。当たり前のように点火する。


 何もかもが理解できない。理解できないから、いらつく。


「必要って何がだよ。お前に必要なものなんて何かあるのかよ」


 俺が言うと、日浦は、ふぅ、と息を吐いて底に水泡を付け始めた鍋を指した。


「要は、こういうことなの」


「は?」


「普通の高校生は、意味もなく、家庭科室で鍋を火にかけたりしない」


「だから何だよ」


 いらいらした.。言葉が荒くなるのはそのせいだ。


「だから」と日浦は言う。


「だから、普通じゃないと思ったから私はやってみたわけだけど、幾ら何でも無意味過ぎない?」


 日浦は火を弱めて、そうして、俺の顔を見た。俺は今日初めて、こいつとまとも目が合った。それで、そう言えば日浦は目の覚めるような美少女だったと俺は久しぶりに思い出した。


 お前は本当にただ普通に生きてるだけで幸せになれそうなのに。どうしてそんな風に振舞うんだよ。もどかしく、そして、言っても日浦には伝わらない。微塵も心に響かないだろう。


 黙っているうちに日浦は言葉を続けた。


「無意味かもしれなくても、普通の行動をとるよりかは何万倍もマシだけど、それでも段々分からなくなってくる」


 まだ目は合っている。こいつの視線が何かを捉え、それが一所に停滞するのは珍しいことだった。


「私にはもう極端な行動でしか、普通から外れる手段が思いつかない。それで、いつも不安なの、例えば、誰もいない家庭科室で意味もなく鍋に火をかけるのって、実はたいしたことなくて、授業のノートを全部青ボールペンで取るくらいの異常さでしかないのかなって」


 馬鹿みたいだった。日浦が深刻に悩んでいそうなのが殊更に馬鹿馬鹿しかった。

 そんなことを悩んで一体どうしたいというのだろう。


「硯を擦って、筆でノートをとるくらいにはおかしいよ」 


 俺は答える。けれど、日浦はまだ釈然としないようだった。


「ふーん? ムーはそれやったことあるの?」


「あるわけないだろ。どころか、炭を擦ったことすらない。書道でも墨汁使うし」


 日浦はそれを聞くと、どこか満足げに頷いて、火を消した。珍しく眉間に皺が寄っていなかった。かといって、別段うれしそうというわけでもないけれど。あくまでフラットな、穏やかな表情だった。


「じゃあ、ちょっとやり過ぎかもね」


 わかったでしょ? と、日浦はシンクに水を捨てながら言った。


「ムーがいない一年間と半年、正直に言うと、私、ぜんぜん立ち行かなかったのよ。どこに進めばいいか全くわからなかった。何が普通で、普通じゃないのが何なのか、全く分からなかった。そこでムーと再会した」


 だからさ、と日浦は言う。


「遭難中にコンパスが落ちてたらそりゃ誰だって拾うでしょ」


 と、そう言ったのだ。


 日浦はやはり日浦なのだ。


 こいつの言いたいことは大体わかった。俺のことはものとしか見ていない、要は普通の模範例として、俺をあそこに連れて行ったということなのだ。


 変人倶楽部の活動理由も、俺のことも、一切合切なにもかも関係なく。無個性、無色、無味無臭の俺を、自分の活動指針にするためだけに連れ出した。


「いい加減にしろよ」


 俺は真剣に言う。

 日浦は性格が悪そうに、俺を嘲笑うかのように、口を歪めた。


「構わないでしょ、ムーはどこに行っても普通なんだからさ。どうせ、大した高校生活も送らないんだろうし」


「分からないだろそんなこと。それにお前に」


 俺は喋る途中で止める。日浦が背を向けてしまったからだ。日浦は家庭科室の一番後ろまで行って、棚に鍋をしまった。

 

 しばらく日浦は棚を漁っていて、「お前に振り回される俺の身にもなってくれ」と一応言ってみたが、日浦からの反応はない。


 ようやく日浦が振り返った。 


「二つ理由をあげる。ムーがあの教室にいる理由」


 ごくりと俺は唾をのむ。


 日浦は包丁を手にしていた。そうして切っ先は俺の方を向く。普通の人生を送ってきた俺は当然ながら刃物を突き付けられた経験はない。


 刃先は一メートルほども離れているのに怖くて仕方がない。

 日浦が持った包丁。とてもジョークには思えないし、どころか、いつ投げつけられてもおかしくない。


 足は動かなかった。


「一番、普通から外れた行動ってなんだと思う?ムー」


 日浦は聞く。怖かった。答えは分かった。だから怖い。眉一つ動かさない日浦が怖い。


「無意味な殺人だと思うんだ」


 日浦は勝手に答えた。俺は回答しなかったのに。


「特に理由もなく人を殺すほど異常なことってないと思うの」


 一歩近づいた日浦に、俺は必死に精一杯の憎まれ口を叩く。


「従わなければ殺すっていうのか? 見損なったというか、癇癪おこして暴れるガキみたいだな」


 良く言ったと自分を褒めてやりたい。いくらなんでも日浦はめちゃくちゃだ。


 世の中、やって良いことと悪いことがある。

 誰かがお前は間違っていると、言ってやらねばいけないのだ。

 例えみっともなく足を震わせていたとしても。


 日浦はまったく表情を変えない。


「そうは言わない。けれど、時間の問題だとそう言いたいの。普通が分からなくなった私は、いずれ終着点である人殺しに向かう。それですら、普通なんじゃないだろうかと疑いながらね。そのとき、餌食になるのはムーかもしれないし、ムーじゃないかもしれないし、もしかして私自身かもしれない」


 日浦は少しだけ笑って、一歩詰め寄る。もちろん、包丁の切っ先は俺に向いたままだ。


「ムー、ムーは誰かの命を救うんだよ? それは理由にならない?」


「分かったから、包丁を下ろしてくれ」


「それは肯定? それとも、時間稼ぎ?」


「どっちでもない。ただのお願いだ。それも心からの」


 なるほど、と日浦は言うくせに包丁は下ろさない。そのうえさらに一歩距離を詰めてくる。


「もう一つは?」


俺は聞く。今度は時間稼ぎだった。けれど、そんな小手先、日浦には通用しない。日浦の歩みは全く止まらなかった。


 日浦は、にやりと笑って、さらに一歩近づき、包丁の切っ先を一度俺の首筋に触れさせた。


 嫌な汗が流れた。そのまま一秒。日浦はやっと凶器を机の上に手放し、言った。


「彼女になってあげる。私、顔は可愛いし、悪くない条件だと思うよ。私が彼女っていうなら、一緒にいる理由にはなるでしょ?」


「は?」


「どう? ムー」


 そう言い放った日浦は馬鹿にしか見えなかった。何を言っているんだこいつは、としか思わなかった。


 なのに、また俺は流されたのだ。

 分かったと了承したのだ。頷いたのだ。


 理由は日浦が挙げた理由と対応するように、やはり二つある。


 一つは怖かった。

 言い訳のしようもなく突き付けられた刃物が怖かった。本当に死ぬと思った。


 もう一つの理由は日浦は近くでみると、むしろ近くで見れば見るほど、美少女であるからだった。

 

 いやだって可愛いんだもん。


 どうしようもないぐらい可愛い。


 つまり、一時の気の迷いという奴だった。

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