第10話 上内里留

 神崎セツの消えた空間に上内里留は独り佇んでいた。考え込むようにじっと彼女の消えた場所を見つめる。

 さて。

 問題はここからだった。『天使』に抗う、と神崎セツと約束したのはいいのだが、まずは、その『天使』を見つけなければ話にならない。いくらここで、両手をジタバタさせて駄々だだをこねたとしても、あの女は出てこないだろう。というか、そんな上内を見て腹を抱えながら嘲笑ちょうしょうするのが目に見えている。

 かといって、手掛かりのないこの状況で『繰り返しの世界』から『天使』を探し出すのはあまりにも無謀すぎる。そもそもあの『天使』のことだ。どうせ、地球を丸ごと創造しているに違いない。どれだけ時間や労力があったところで、人間独りの力では限界というものがある。

 もはや打つ手なし、と言ったところか。

 すると上内は深呼吸を数回行い、息を大きく吸い込んで、


「おい、クソ『天使』。いるんだろ。さっさと出てこいよ」


 大きな声で叫んでいた。


「それとも、俺に飽きてどっかに行ったか?何百回でも何千回でも俺に付き合うとかほざいていたくせに?随分と飽き性だな、おい。まあ、お前みたいな性悪女は人を暇つぶしの道具くらいにしか見ていないからしょうがないか」


 上内は思いつく限りの言葉で『天使』を馬鹿にする。

 彼は、どこかで観察しているはずの『天使』を取り敢えず煽っておけば何かしらのアクションが返ってくるんじゃね、と考えていた。楽観的だとは思ったが、これくらいしか彼女を見つけ出す手段が浮かばない。これで何も無かったら、いよいよ『繰り返しの世界』を歩き回って探すしか方法がなくなってしまう。

 そんな時だった。


『全く、五月蠅うるさい人間だ』


 背後から聞き覚えのある、魅力的で艶のある女性の声がした。


『そんな見え見えの煽りなんざしなくても、呼べば出てくるというのに』


 上内が後ろを振り向くと棚の上で足を組んでいる女性の姿があった。

 ウェーブのかかった金髪に赤く染まった瞳。手足は勿論のこと全体的に細く青白い肌をしていた。

『天使』

 上内を『繰り返しの世界』に閉じ込めた張本人だ。


『全く、餓鬼がきのように喚きやがって。私に一体何の用だ。命乞いか?それとも精神的に限界を感じたか?』


 そんな『天使』の悪態を無視して、上内は黙って彼女との距離を徐々に詰めて行く。


『何はともあれ、お前のためにこうして出てきてやったぞ。当然、暇つぶし程度にはなってくれるよなあ?』


『天使』の眼前まで、手の届く範囲のところまで上内は近づき。

 …。

 その場の空気が一瞬で凍り付いた。

 結論から言うと、上内が『天使』の胸元を左手で掴み自分の方へ引き寄せて、彼女の顔面に拳を全力で叩き込もうとしたからだ。その拳を『天使』は右手でいともたやすく受け止めてしまう。


『おい、人間。何のマネだ?』


 上内の行動に『天使』は苛立ちを隠せない。


「何のマネだ?おいおい、冗談はよせよ。ずっと俺のことを観察していたんだろ。だったら俺と〝セツ〟との会話を聞いていたはずだ」

『嗚呼、あのくだらない約束のことか。まさか、この私に刃向かう、と言いたいのか?馬鹿なことは考えるな、ただの人間が私に敵うはずがないだろ』

「かもな。でも、だからどうした」


 鋭く睨み付ける上内に、『天使』は溜息を漏らす。


『呆れてモノも言えんな』


 沈黙があった

 上内も『天使』も微動だにしない。

 張り詰めた空気が漂うだけだった。

 と。

 それは唐突だった。

 彼女は薄く笑いながらこう切り出していた。なあ、人間、と。


『その選択は一体誰のために行ったモノなんだろうな?』


 見下した目つきで『天使』は少年に問い掛ける。


『そう怖い顔をするな。素朴な疑問だよ。お前が私に盾突くのは勝手だが、そこまでする必要がどこにある?自由のため?自尊のため?おいおい、そんなくだらない自己満足のためにお前が自己犠牲を払う訳がないよなあ。〝上内里留〟は〝上内里留〟のことが殺すほど嫌いなはずだからよお』

「…。」

『となれば、〝神崎セツ〟か』


『天使』は受け止めていた拳を少しだけ下にずらし、顔を寄せ、上内の耳元で甘く誘惑的な声でささやく。


『確かに、彼女のためだー、だとかなんとか言っていた方が、都合がいいからな。人間様はお得意の正義感ってやつが無いと行動ができないんだろ。守るべきモノが無いと動くことさえままならないんだろ。それさえ手に入れば、自身に奇跡だとか神のご加護だとか、特別な力が宿ると信じているからな。全く、世界が自分の願い通りに回るとでも思っているのかねえ。しかも、例え願い通りに、今回を例にするならば、私に無残な姿で敗北したとしても〝神崎セツ〟を盾に言い訳ができるし、全く持って便利なモノだ』


 上内里留は黙ったままだ。


『なあ、いい加減気付けよ。お前にとって〝神崎セツ〟との約束はあくまで私に敗北した時の免罪符でしかないんだよ。自分の意思じゃなかった、こうなることは分かっていた、どうとでも言い訳ができるようにな。それ以外に効力を発揮することは絶対的に無い。これが現実だよ、上内里留』


 いつの間にか少年は右手の力を抜いていた。それに気付いた『天使』は握っていた拳を自身の手から放り投げるようにして離した。


『認めろよ。全部約束の〝神崎セツ〟ためです、だから、自分の意思ではないんですって。たったのそれだけでお前の心は救われるぞ』


 腕が数回、振り子のように揺れて、ゆっくりと制止し…。

 少年は小さくこう答えた。


「多分さ。お前の言っていることは間違ってはいなんだと思う」


 けれども、その口調はしっかりとしたモノだった。


「だけどあえて言わせてもらうよ。俺はきっと俺のために選択したんだと思う。〝セツ〟はさ、あくまで俺にきっかけを与えたに過ぎないんだよ。お前の言う通り、約束を利用すれば正義を振りかざすことも、言い訳がましいことも、全部、全部、押し付けられると思うし、実際そうなんだと思う。でもさ、それでもやっぱり俺は俺自身のために行動しているんだと思う。だって、俺は誰かのために行動するほど御人好しじゃないから」


『天使』が少年の方に目線を向けると、そこにはどこか吹っ切れたような表情をする上内里留の横顔があった。


『そうか』


 一言呟くと、『天使』はその場で指を鳴らす。瞬間、『天使』は消え、教室自体が崩壊して真っ暗な世界へと変貌するのだった。








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すみません

9月に更新する予定でしたが、遅れてしまいました。

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