第3話 再開
最愛の兄が目の前で死んでから早1年。
あれ以来、私は『春沢 柚葉』と言う仮面を被っている。
律樹兄さんは私が事故の衝撃から記憶が無くなっていると思い込んでいるが、実際は真実と異なり、すべてを覚えている。
ただ、いつまでも現実に囚われるわけにはいかないから。
だから、私は逃げて自分を偽る。
それが、残された家族にできること。
こんな考えに至ったのはドイツの音楽家ヴェルチェ先生とのある日の会話だった。
兄が死んでからすこししてドイツに戻ると、変わり果てた私に、先生は言う。
「そうか、それは辛いことがあったんだね」
音楽に関しては鬼のように厳しい先生だったが、プライベートは父親のように優しい人だった先生は、日本で起きたこと、そして自分は生きるのが辛いことをぽつりぽつりとこぼす。
「だがね、ユーハ、それでも残された人は生きていかなければならい。それがどんなに辛いことでも残された者たちはそれぞれの人生がある」
言われることはよくわかる。けど、私の記憶と現実が彼の存在を映し出す。
それが怖い。
「私も妻が亡くなったとき、自分の無力さに絶望したよ。愛した女性一人すら守ってやることができなかったからね。それでも彼女と共に過ごした人生で彼女が残したものは今の私の生きる糧になっている」
どこか遠くを眺めている先生は、無くなった奥さんを思い出しているようだ。
「妻は、どんな辛い時でもいつかは乗り越えなくてはいけない。それが今日なのか、明日なのか。それとも来月なのか1年なのか。いつ乗り越えれるかは分からないからこその恐怖や不安。それなら1日でもはやく恐怖や不安を乗り越えて、安心や安寧を手に入れた方がいい。そうすれば見えなかった世界が見えるのだから」
先生は言うが、正直心と考えが追いつかない。
頭ではわかっている。ただ、心が追いつけなくて。
だから、現実から逃げたくて、消えたくて。
「ユーハは今日までたくさん苦しんで、たくさん泣いた。後悔だってしただろう。でもそれは今日でおしまいだ。きっと君のお兄さんは君のそんな姿を見ていたくないだろうからね」
「忘れることができないの。今でも思い出すの、焼けた匂いと血の匂い」
今思い出しても鮮明によみがえるのは兄の横たわる姿だった。
「それもそうだ。忘れることはできない。私も妻の最後は今でも思い出す。けっして忘れることはできない。だが、そんな彼女ももういない。触れることも抱きしめることもできない。だが、彼女はよく私のピアノを喜んで聞いてくれてた。だから、私は今でも彼女の為にピアノを弾くんだ」
そういって先生は立てかけてあった彼の家族の写真立てを手に微笑んだ。
「君のお兄さんもきっとそう望んでいる。君を苦しめたいとは思っていないはずさ」
「それでも、兄はもういない。兄の死を無視することなんて」
「無視はしてはいけない。ただ、囚われてはいけない。この違いはユーハはわかるかい?」
「僕たちはいつまでも記憶の中の故人を覚えてあげなくては、彼らが生きていた証がなくなってしまう。だからこそ、彼らに自分たちは今こうして必死になって生きていることを伝えなくてはいけない。天国で安らかに眠っている彼らに」
「夢に兄が怖い顔して出てくるんです。許さないって言って」
震える手に先生の手が優しく重なる。
大きくて暖かい手。
「その時は、僕を呼んで。一緒に話し合いをしよう。もし、怒られたら一緒に謝ろう。許してもらえないなら、許してもらえるまで謝ろう。君はひとりじゃない。僕もいる。息子のケビンやレーネもいる。困ったときは頼るといい」
優しく微笑む彼に、心につっかえていた何かほぐれた気がした。
ただ、それでもやはり自分は自分が許せない。
「今のユーハには難しいと思うが、いずれ分かるさ。彼に許されたいのなら彼の為にピアノを続けるんだ。姿形はないといえど、音楽なら遠く離れた彼に届くはずだから」
それからと言うもの、私はひたすらピアノを弾き続けた。
兄の為に。
今になっていろいろと思い出す。
あの時、兄と付き合っていた千佳はいつの間にかいなくなっていて。
それもショックだったが、きっとそれまでの関係だったのだろう。
”いつまでもそばにいる”と言って愛し合っていた彼は裏切り、私の心にさらに追い打ちをかけるのだ。
それも仕方ないと割り切って彼との楽しかった思い出をすべて消し去ろう。
私は、残された律樹兄さんと、彼の恋人圭とドイツの先生ヴェルチェ先生達がそばにいてくれる。
日本に置いてきた恋人世良 良。ドイツに来るとき彼には別れを告げた。
彼らは味方になってくれる。
ドイツでまともな人間生活を送っていると、ある日先生の誘いで教会に足を運んだ。
「僕と彼女の出会いはね、教会の礼拝中だったんだ」
突然、奥さんとの出会いを話始める先生。
お転婆で天真爛漫な奥さん。
「だから、今もこうして時折であった教会に来るんだ」
目に映るのは真剣に礼拝をする参拝者。
周りを見渡していると、そこには使われていないピアノが置かれている。
「あのピアノ」
「ああ、今では使われていなくてね。ここはもうじき取り壊されるそうだ」
どこか悲しげに言う先生。
思い出の場所が消える寂しさに表情が沈む。
原因は年々減っていく参拝者だとか。
それを聞いて、私は自然と足取りはピアノに向かっていた。
ゆっくりとフタを空けてポーンと音を確認する。
音はずれていない。
それを確認すると、埃まみれのいすにためらいもせず腰を降ろす。
私の行動に気づいた参拝者たちは興味深々に見つめていた。
一つ呼吸を整えて奏で始めた曲は、有名なアヴェ・ヴェルム・コルプスだ。
演奏を始めると、人々が自分たちの手を止めて続々と集まってくる。
中には歌を口づさむ者もいた。
気が付けば、あたり一面には人が群がり、一緒になり歌を歌う。
その光景は異様なもので、でもここにいる会場の人が一体となり音楽を楽しんでいるさまが感じられる。
演奏が終わると、席を立ち熱い視線を感じる方を見ると、そこには瞳を輝かせて次の曲を待ち望んでいる期待を孕んだ瞳だった。
神父の顔を見ると、彼は清らかな笑みを浮かべてうなずく。
リクエスト通りそれから何曲か演奏をする。
有名な曲から協奏曲、合唱曲とこの日、人種や性別、年齢を問わず音楽を楽しんで演奏していた。
気が付けば、心のどこかで『楽しい』と思っている自分がいる。
この日を境に、この教会は月に1度の無料コンサートを行うことにより、あつまった寄付金で存続を可能にされた。
地元の人はもちろん、教会の神父達、ヴェルチェ先生にも感謝される。
それは今になっても続けられている行事の一つ。
中には、聖歌隊として新しく結成されたグループも一緒になってコンサートに参加する。
この運動はドイツ中に広まり、さらには各国でも同じ行動が始まった。
復興支援と名をうって始まる音楽の繋がり。
これは音楽業界を動かす一歩となったそうだ。
そして、今になっては多くの音楽活動家たちの動きにより、音楽文化が広まる。
日本に来ては家に引きこもっているが、ドイツでは積極的に行っている。
日本に戻ってくると色々な事が蘇る。
楽しかった記憶や、悲しかった記憶、辛い記憶。
それでも、世界は無常に過ぎて行って、立ち止まる時間すらも与えられない。
今日も、過去を確認するために、兄の死んだ場所に、兄の好きな花を持って訪れた。
そっと花を添える。
誰かが、先に花を供えていたらしく、すでにユリの花が置かれていた。
その場にしゃがみ込み手を合わせる。
じわじわと熱を孕んだ空気がまとわりつく。
季節は夏なのだと実感すると、うっすらと額に汗をかいている。
何分いたのかすら感覚がなくなるまでその場にいると、ふいに背後から聞きなれた声がした。
「献花に来てくれたんですか?」
その声に振り替えることもできずに、立ち上がってその場を去ろうとする。
「ちょっと待って」
声の主はとっさに私の腕をつかむと去ろうとする足をとめる。
被っていた帽子がふわりと足元に落ちる。
視界が開け、声の主の顔がはっきりと見えると、目が合った瞬間、彼の瞳は動揺で見開かれていた。
「柚葉」
名前を呼ばれ心臓が跳ね上がる。
会いたくなかった。
でも、会いたかった。
矛盾する気持ちに蓋をしていつも通り、私は”私の仮面”をかぶる。
『すみません、びっくりしてしまいまして』
落ちた帽子を拾い上げると軽くはたき頭にかぶりなおす。
未だ、衝撃から微動だにしない彼をよそに掴まれた腕をほどこうと彼の手を掴むと、彼はおもむろに抱きしめた。
一瞬の出来事でよけることもできずにそのまま受け入れてしまう。
『あの…』
声を出せば、彼の抱きしめる力が強くなる。
もう離さないと言っているような気がした。
「ごめん」
振り絞られた声に、彼が何を思っているのかは計り知れないが、けれど行き交う人たちに見られている羞恥心が勝るので、力ずよく彼を押しのける。
『いきなり何をするのですか!』
そういうと彼は茫然とした表情で離れる。
「ごめん、全然何言っているか分かんない」
私はすかさずスマホを取り出すと、今話題の翻訳機能を使い通訳する。
(申し訳ありませんが、あなたの知り合いと勘違いされているようですけど)
「えっと、本当に覚えてない?」
(すみませんが‥‥。私人を待たせているので)
今度こそ彼から離れようと踵を返して去る。
「ちょっと、待って。これ俺の連絡先」
そういって無理やり手に握らされたのは紙に書かれたアドレスとケータイ番号と何かのIDだった。
しばしその紙を眺めると、私は真顔で彼の顔を見た。
彼は気まずそうに、「よかったら連絡して」
そうつぶやくと、彼の方から逃げるようにしてその場を去っていった。
小さくなっていく彼の背中を眺めていると、いやにセミの鳴き声が耳に付きまとう。
独り残された私は受け取った紙きれをポケットにれ待ち合わせ場所に向かう。
(彼は何のつもりで連絡先を寄越したのだろうか)
考え始めれば終わりは来ない。
彼から先に去っていき、私も彼の記憶を消し去った。
今更関係を変化されようとも困ってしまう。
だから、私はこうして連絡先をもらっても決して連絡は取らないのだ。
彼には申し訳ないが、すでに彼への気持ちは冷え切っている。
近くに止まっているタクシーを拾うと、「国際空港まで」となまり口調で言うと、運転手はそのまま走り出した。
車中は冷房がほどよく効いていて先ほどの熱を冷ましてくれる。
今日は、ドイツからヴェルチェ先生一家が日本に来日する日。
律樹兄さんが通う学校に特別講師として招待されるらしい。
私も見学を兼ねて彼らに同行することにしているからこうして日本の空港まで足を運んでいる。
引き籠りの私は先生たちだからこそこうしてわざわざ外の空気に触れるために外に出る。
着いた先には、入り口付近に見える外国人の老人と鍛え抜かれた躯体に甘い顔をした青年ケビン。ブロンドヘアーを頭の高い位置に一束ねしている女性レーネ。姿を確認すると彼らの元に駆け寄る。
『先生』
声をかけると、先生たちは一斉に振り向く。
『おー、ユーハ』
『早かったですね』
『まあね、少し日本の観光もしたいと言っていてね』
変わらず穏やかな先生はそう言って荷物をタクシーに詰め込む。
『キャー!久しぶりじゃないの。元気にしてた?』活発な彼女は青い瞳を輝かせながら、飛びついてきた。
彼女の勢いに少し体制を崩すと、よろける私を、ケビンが支える。
『大丈夫か?リーネ、お前の重さでユーハをつぶす気か‼』
怒るケビンにリーネはすねた様子で唇を尖らせながら言った。
『うっさいわねー、大丈夫よ、つぶれそうになったらケビンが助けてくれるでしょう』
あきれるケビンに私も内心あきれつつもタクシーに乗り込みまずはホテルにチェックイン。
明日から大学での特別講義を3日間行い帰国する。
部屋に荷物を置くと、リーネは調べてきた観光地の一覧を手渡してきた。
『ユーハ、私ここに行きたいの!』
そういって出された紙の一覧に目を通すと、最後に書かれている”秋葉/メイドカフェ”と書かれたワードにぎょっとする。
『リーネ、なにこれ。メイドカフェって』
『だって、日本はオタクの聖地なんでしょ。私是非ともいきたいわ』
『聖地って』
お願-いと言われてしまえば断ることができない。
『ケビンも行く?』
振られた矛先のケビンはげんなりした表情で答える。
『君たち2人じゃ迷子になるでしょ』
仕方ないから言ってあげるといいつつも彼もメイドカフェには興味があるようだ。
そうこうしているうちに夜も更けたので私は一旦別れを告げて帰路につく。
明日からのことを考えると、楽しみな反面不安を隠しきれない。
(何事もなければいい)
暗い道をひたすら一人で歩いていく。
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