第四章 六桁
12. 初めてはさくらんぼ風味でしょう
二月。空の色は紅です。風はありません。
しかし体育器具庫の裏は寒いです。
コートの前を閉めます。
器具庫の向こう、グラウンドから若い声が漏れ聞こえます。
煙草が短くなりました。踏みつけて火を消します。
窓から覗きます。器具庫の中は暗いです。
窓際に人がいます。
和葉さんです。
器具庫の壁が震えます。重い金属音が響きます。
入り口に人影が現れます。夕陽を背負っています。
秀人くんです。
微かに人の声が聞こえます。くぐもっています。
窓を開きます。ゆっくりと。静かに。
「お待たせ」
「ううん」
秀人くんと和葉さんが言葉を交わします。
「来てくれてありがとう。はっきり確かめたかったの」
和葉さんの声がいつになく明瞭です。
「わたしを特別にはできないんだってこと。ちゃんと言ってくれたら、ちゃんと諦められるから」
お腹から声が出ています。勇気の賜物です。
秀人くんの体腔にまで響いていることでしょう。
「僕、今まで気づいてなかったんだ」
悲痛な声です。
「僕は普通じゃないから、きっと君を傷つける。だから今のままでいればいいんだと思ってた。言い訳にしてたんだ。変わらないことが人を傷つけるなんて、考えもしなかった」
和葉さんが首を振ります。括った髪が左右に揺れます。
「一緒に傷つこうよ」
真剣な言葉です。気持ちのこもった声です。
秀人くんは黙り込みます。
しばし後、秀人くんがその名を呼びました。
「美桜ちゃん」
和葉さんは秀人くんの上履きに手紙を仕込みました。美桜さんと同じレターセットで。字を似せて。
「秀くん」
和葉さんは声を似せました。顔の形が同じなのです。出し方が同じならば同じ声が出ます。
秀人くんが前に進みます。
二人の距離が零に漸近したところで、秀人くんは動きを止めました。
「和ちゃん、なの」
和葉さんの肩が震えます。
「何で分かったの」
「だって、笑い方が、」
和葉さんが飛びつきました。
無理やり顔を押しつけます。
秀人くんの全身が固まります。
初めてはさくらんぼ風味でしょう。
器具庫の入り口に人影が現れます。
肩までの髪を括ったセーラー服の少女です。
「和ちゃん」
「お姉ちゃん」
窓の隙間からすすり泣く声が聞こえます。
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