第三章 四桁
9. 雨の中捨てられた子犬を踏みつぶすときの笑い方です
校門が生徒を吐き出しています。
懐かしいですね。城北高校は今日も輝いています。母校の空気は僕を自由にします。
それにしても遅いです。もう約束の時間から三十分も過ぎています。ヴィッツは車道に停めたままです。
「どもっす」
後ろから肩を叩かれました。振り向きます。
明るい髪の色です。ヘアゴムのビーズボールは紫です。スカートが短いです。
「お久しぶりっすね、センセ」
「ごぶさたしています」
洞川えり緒さん。僕のかつての生徒さんです。共に高校受験に臨みました。もう二年も前のことです。
「すぐ分かったっすよ。昔と同じファッションだから」
「この冬買った服ですよ」
バーバリーのダッフルもラルフローレンの丸首セーターもです。一昨日買ったばかりです。
「センスが変わってないんすよ。仕送りで遊んでる大学生みたい」
「若く見えますか」
「褒めてねっすよ」
えり緒さんが僕の腕をとります。歩道の隅に寄ります。
「いきなり連絡きたからびびったっす」
えり緒さんがスマホを取り出します。指が目まぐるしく動きます。
「また生徒から小遣いまきあげてるっすか」
「対等な契約ですよ」
「そっすか」
「えり緒さん、特別授業のことを口外しましたか」
「知らないっすね」
えり緒さんは画面に顔を落としたまま話します。平板な調子です。心当たりがあるのか分かりません。
「じゃあ報告。まずは岩本秀人クン」
えり緒さんは追及に構わず本題に入ります。
「秀人クン、目立つ方じゃないすね。クラス遠いんで名前しか知らなかったっす」
「名前は知っていたのですね」
えり緒さんが僕を指さします。
「さすがセンセ。いいトコつくっすわ。いるんすよね、秀人クンみたいなの。目立たなくても存在感あるっつか。可愛い顔してるからっすかね。階級とかグループからは外れてるけど、ハブになってるわけじゃなくて。なんつうか超然としてるんすわ」
「同性の友人はいないと」
「異性もっすよ。男子女子分け隔てなく距離があるっすね」
「スキンシップへの反応はいかがでしたか」
「言われたとおり腕組んだりしてみたっす。反応なし。組んでしばらくしてから、さり気なく振りほどかれたっすね」
「やはりそうですか」
えり緒さんが静かになります。僕の顔を見つめています。
「どうしました」
「いや、なんつうか」
えり緒さんが髪の毛を指でくるくる回します。
「変な話なんすけど、秀人クン、なんかセンセに似てるんすよね」
さすがえり緒さん。いい勘をしています。
「おかしいっすよね。片や紅顔の美少年、片や厚顔のおっさんなのに」
えり緒さんに礼儀を教え損ねたのは僕の失態です。
「美桜さんはいかがでしたか」
「美桜チャンは前から知ってたっすよ。有名人っすからね。お勉強は学年一位で生徒会で陸上部エース。明朗快活。容姿端麗。ナチュラルボーンで手札がフルハウス。そりゃ目立つっすわ。みんな大好き稲村美桜チャン」
「反吐を吐きそうな顔をしていますよ」
「いやいや、あたしも美桜チャン超ラブっすよ。クラスに顔出してるうちに仲よくなったっす」
えり緒さんが唇を舐めます。
「何しろセンセが目をつけたコっすからね」
「美桜さんと秀人くんとの仲はいかがですか」
「青春溢れてるっすね。同じクラスで幼なじみで席も隣。周りからは夫婦ってからかわれ、本人たちは否定して。見てると毛穴から砂糖湧くっすわ」
えり緒さんが首筋を爪で掻きます。
「否定するときの二人の様子はいかがですか」
「そこなんすよね」
えり緒さんが首を捻ります。
「どうも深刻さがあるんすよ。照れるでもなく、怒るでもなく。どっちも晩生っぽいすけど、実は過去に何かあったんっすかね」
「秀人くんは申し訳なさそうにしていますか」
「してるっすね。目を逸らす感じっす」
「反対に、美桜さんはよく秀人くんを見ていませんか」
「見てるっすね」
えり緒さんが「ああ」と手を打ちます。
「密着しても無反応だったのはそういうことっすか。後になって振りほどいたのは理性で自分の姿を客観視してからの判断っすね」
僕は頷きます。
さすがえり緒さんです。僕の教えた中では最も優秀な生徒さんです。
「可哀想な美桜チャン。悲しい片思いっすね」
えり緒さんが笑顔を浮かべます。雨の中捨てられた子犬を踏みつぶすときの笑い方です。
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