8. やりがいのある仕事ですね
「先生、奥さんいたんですね」
和葉さんが尋ねてきました。ある日の授業中です。美桜さんから聞いたのでしょう。
「そうですよ」
「可愛い人らしいですね」
「そうですよ」
「うわ」
和葉さんが鼻で笑います。
「でたよ惚気」
「事実です」
「はいはい」
「ちなみに正確には元妻です」
「でも奥さん、そう名乗ったって」
和葉さんが首を傾げます。どうやら稲村氏から聞いていないようです。それとも兄が伝えていないのでしょうか。
「確かに離婚は成立しています。が、気持ちのうえではまだ夫婦なのです」
「へえ」
和葉さんが頷きます。
「じゃあ何で別れたんですか」
「大人の事情です」
僕もずるい大人になりました。
分からないことは全て『大人の事情』とごまかします。
数学の授業を終えたところで、和葉さんが呟きました。
「ときどき思うんです。
後ろ向きなぼやきです。最後の一問で躓いたせいでしょうか。
「失敗ではありませんよ。市内では一番の学校です」
「けっこう無理して入ったから」
「その努力は誇るべきです」
「お父さんもお姉ちゃんも城北だから」
「僕と兄もそうですよ」
「比べたりしませんでしたか」
なるほど。それが聞きたかったのですね。
「兄は非常に優秀です。城北から京都大学へ進学しました。僕はそんなにいい大学には入れませんでした」
「じゃあ」
首を横に振ります。
「うらやましくはありません。兄は特別ではないからです」
「特別」
和葉さんが呟きます。
「特別」
和葉さんがその言葉を繰り返しささやきます。甘美な肉汁を舌の上で転がすようにです。
「いいな」
和葉さんは机に肘をつきました。
「わたしもなりたい。家庭が不幸だったり、同性愛だったり、病弱だったり。自分が普通じゃないことに傷つきたい」
「本当になりたいですか」
和葉さんは頷きません。
「分かってます。不謹慎だって」
「……」
「でも、みんな思ってます。そうなりたくはないけど、だからこそ可哀想で特別だって。間違ってるって分かってます。中学の道徳で習いました。世の中に特別なんてない。マイノリティとマジョリティの違いは数の違いでしかないって」
「……」
「でもそんなの謙遜です。テストでいい点とって『こんなの普通だよ』とか言ってるのと同じ」
「和葉さんは特別になりたいのですね」
和葉さんが首肯します。
「先生がうらやましい」
「どういった意味でしょう」
「先生は今も奥さんの特別でしょう」
「ああ」
そういうことですか。
「お姉ちゃんたちだってそう」
「美桜さんと秀人くんですね」
「あの二人、ずるい。街で見たんですよね。お似合いでしょ。あれでつきあってないんですよ。逆にむかつきますよね。お互いがお互いにとって特別みたいな」
「確かにそうですね」
「せめて誰かの特別に、わたしもなりたいです」
誰かの特別になりたいというのは、視野の狭い子どもらしい欲求です。しかし僕はそうした稚くみずみずしい欲求を愛おしく思います。
「先生。わたし、どうすればいいのかな」
和葉さんが僕を見ます。
「教えてください」
「僕が受け持っているのは英語と数学だけです」
「けち」
「そういう契約ですから」
「じゃあ、別契約で」
和葉さんが口角を上げます。
「特別授業。お願いします」
どこでその言葉を聞きつけたのしょう。
「珍しいですね。先生が驚くなんて」
「驚いてはいませんよ。感心しています」
「わたし、こう見えても顔が広いんです」
僕はこれまでにも城北の生徒さんを教えたことがあります。相手は子どもです。口に戸は立てられぬということでしょう。
「ね。いいでしょう」
和葉さんが上目遣いで僕を見ます。
「値引きはしませんよ」
「勉強してください」
和葉さんが身を乗り出してきます。僕の首筋に手を添えます。
「わたし、上手ですよ」
僕は身を引きます。
「お金は死との距離です。生きていなければ他のものは価値がないのです」
和葉さんが鼻で笑います。
「じゃあ、うまくいったら払います」
「手付金をいただきましょう」
和葉さんが舌打ちします。
「契約は大人のすることです。和葉さんには早かったようですね」
「はいはい。分かりましたよ」
和葉さんが鞄から財布を取り出します。
「足りますか」
三万円です。想像より一桁多いです。僕よりお金持ちですね。
「アルバイトでもしているのですか」
「まあ。貯金したくて」
和葉さんが財布をしまいます。
「堅実ですね」
「早く家を出たいんです」
「勉強もちゃんとしてくださいね」
「だいじょうぶです。そのバイト、単発で時間も自由なので」
「いい条件ですね」
羨ましいです。
「ええ」
和葉さんが得意げに顔を引きつらせます。
「それに、みんなと違う特別になれる気がする」
「やりがいのある仕事ですね」
僕も頑張らねばなりません。
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