7. 唇は濡れたように艶としています

「お待たせ」


「遅かったですね」


「うん」


 奈緒さんが歩き出します。僕は後を追います。


 今日は奈緒さんとデートです。駅で待ち合わせをしました。十七時です。スーツより学生服が多いです。


 奈緒さんは駅ビルの本屋さんで働いています。パートタイムですが、長く続いています。別居を初めた頃からなので、もう五年になるでしょうか。


 奈緒さんはピアノを教えています。音大を卒業して以来ずっとです。近年では生徒が減っています。身入りは減り、時間がある。だから働きに出るのだそうです。


 奈緒さんが歩きます。足どりに迷いがありません。


「どこに行くのですか」


「駅南のファミレス」


「せっかくのデートですよ」


 これでは高校生です。少し背伸びした子どもです。


「オークラのレストランに行きましょう」


「そんなお金ないでしょ」


「ないのですか」


「それに」


 奈緒さんが足を止めます。振り返りました。


「いいお店でする話じゃないわよ」


 奈緒さんはトートバッグの肩紐を握りしめました。中には生活保護を申請するための書類が入っているはずです。


 僕は心臓に疾患を抱えています。長いつきあいです。二十年にもなります。三年前に障害者手帳を受け取りました。僕は生活保護の審査に受かる見込みが高いのです。

 僕は生活保護の申請を出せと強請されています。兄も奈緒さんもしつこいのです。僕は保護などされなくとも平気なのですが。


「先生」


 聞き覚えのある声です。振り向きます。


 美桜さんです。手を振っています。隣には見知らぬ少年が立っています。


 美桜さんが駆け寄って来ます。制服です。分厚いピーコートです。マフラーは赤のチェックです。括った髪の毛が跳ねます。スカートは膝丈です。赤味を帯びた膝こぞうが半分覗いています。


「こんにちは。学校帰りですね」


「こんにちは。お買いものですか」


 美桜さんが会釈します。傍らの奈緒さんに目をやります。


「えっと」


 奈緒さんと僕を交互に見やります。


「ああ。こちらは、」


「初めまして。天川奈緒です。夫がお世話になっております」


 奈緒さんは自ら名乗りました。

 一部は嘘ですが。


「稲村美桜です。こちらこそ、妹がお世話になっています」


 奈緒さんが僕を見ます。


「美桜さん。そちらはお友だちですか」


 学ランの少年は、三歩ほど離れたところに立っています。笑みを浮かべています。目が大きいです。


ひでくん」


 美桜さんが手招きします。少年が近づいて来ます。


岩本秀人いわもとひでとくんです。クラスメイトで、わたしと和ちゃんの幼なじみ」


 少年が小さく頭を下げます。睫毛が長いです。冷気にさらされた頬が仄かに赤みを帯びています。唇は濡れたように艶としています。ビスクドールめいた人工的な造形の裡には確かに生あたたかい血が流れているのです。月は未だ夕焼けの向こうです。早く空に上るべきです。月はこの少年の頬に睫毛の影を落とすために在るべきなのです。


「こちら天川先生と奥さん。ほら、和ちゃんを教えてくれてる」


「ああ。家庭教師の」


 秀人くんが頷きます。


「二人はおつきあいしているのかしら」


 奈緒さんが不躾な質問を投げつけます。僕にはできない離れ業です。


「あの、その」


 美桜さんの目があちらこちらへと踊ります。


「そんなんじゃない、よね」


 美桜さんは秀人くんに笑顔を向けました。


「そうだね」


 秀人くんが頷きます。


 美桜さんの顔の筋肉が硬直します。




 美桜さんと秀人くんが去っていきました。二人はバスで帰るそうです。


「可愛い子たちだったわ」


 奈緒さんの声が高いです。


「そうですね」


 二人にはいとけなさと危うさがありました。

 美桜さんは昔の奈緒さんのようです。秀人くんは昔の僕のようです。


「美桜ちゃんはあの子のことが好きなのね」


「そのようですね」


「秀人くんもそうよね」


「それはどうでしょう」


 奈緒さんは時折思い込みを口に出します。


「先ほどはありがとうございました」


「何のこと」


「僕の妻だと名乗ったことです」


「あの子たちに離婚の話なんてしたくなかったから」


 奈緒さんが歩き出します。僕は後を追います。


「それに面子ってものがあるでしょ。家庭教師の天川先生」


 奈緒さんにしてみれば気遣いのつもりなのでしょう。


 しかし逆効果です。


 兄のことです。稲村氏には僕の来歴や家庭の事情を話しているでしょう。美桜さんの証言とは矛盾します。


 僕は奈緒さんを責めません。嬉しいのです。僕の体面などというのは言い訳です。照れ隠しです。


 僕には分かっています。

 奈緒さんはただ僕の妻でありたいだけなのです。

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