3. 訃報を告げるような声です

「ここだ」


 問題のお宅は子安町こやすちょうにありました。


 相生からは車で十分ほどで着く場所です。


 しかし車を降りるまでには三十分かかりました。コインパーキングが見つからなかったのです。兄は路駐をよしとしません。また自身の愛車には、頑なにカーナビをつけようとしないのです。


 先方との約束に遅れるのは構わないのかと問うと、兄は『元から遅れは見込んでいる』と当然のように答えました。僕の空腹も見込んでいただきたいものです。


 兄が玄関脇のチャイムを押します。くぐもった高音が遠くで鳴りました。


 表札には『稲村いなむら』とありました。お家は四角四面の建売です。向こう三軒両隣と同じ顔をしています。新しく清潔です。


 ややあって「はーい」という人の声が聞こえ、金属製のドアが開きました。


 若い娘さんでした。肩までの髪を一つに括っています。膝丈のスカートから伸びる素足が湧水のように活発です。


 兄が「こんばんは」と会釈すると、娘さんは「こんばんは」と応えました。声は跳ねるように元気です。


「ひょっとして、先生ですか」


「私は違うよ。こっちが先生」


 兄に促され、僕は頭を下げます。


天川てんかわ優二です。よろしくお願いします」


 ここに来るまでに受けた説明を思い起こします。兄の旧友である稲村氏には二人の娘さんがいるそうです。姉の美桜みおさんは高校二年生。妹の和葉かずはさんは高校一年生。僕の生徒となるのは和葉さんの方です。


「先生、妹をよろしくお願いします」


 目の前の彼女は美桜さんのようです。


 奥から中年の男性が出てきました。稲村氏でしょう。兄と挨拶を交わします。


 美桜さんは一礼を残して奥に下がりました。


 上がってすぐの和室に通されます。


 兄と稲村氏が話し込みます。二人にしか分からないお話です。


 お腹の虫が騒ぎます。紫紺のお座布団はさらさらとした触り心地です。床の間には墨をばら撒いたような書が掲げられています。


 美桜さんがお茶を運んできました。彼女は僕のことを覗き見ます。僕も覗き返します。目が合うと、美桜さんは小さく「あ」と声を出しました。彼女は笑みを残して出ていきました。


 兄と稲村氏は年金の話をしています。


 一向に本題に入ろうとしません。授業の時間や教科、これまで僕が教えた生徒、そして報酬。全く触れられません。事前に話をつけてあるのでしょう。僕のいないところで。


 セーターを見下ろします。紺色です。ラルフローレンです。裾に毛玉ができています。そろそろ新しいものを買いましょう。


 毛玉をいじっていると、襖が開きました。


 ジャージ姿の美桜さんです。髪をほどいています。細めた目で僕を見下ろしています。


 稲村氏が自分の横に座らせます。


「初めまして。稲村和葉です」


 美桜さんではありませんでした。顔がよく似ています。最初、美桜さんが着替えたのかと思いました。


 稲村氏が僕を先生だと紹介します。


「よろしくお願いします」


 和葉さんはくぐもった低い声で挨拶をしました。


「天川優二です。こちらこそ、よろしくお願いします」


 僕を見た和葉さんが顔を引きつらせます。彼女なりの笑顔のようです。


 稲村氏が和葉さんの紹介をします。通っているのは県立城北高校。成績は中の下。伸び悩んでいます。中学では陸上をやっていました。高校では部活をしていません。


 城北高校は県内屈指の進学校です。僕と兄の母校でもあります。


 話が美桜さんに及びます。和葉さんと同じ城北高校の二年生。成績は上の上。目指すは旧帝大。陸上部では全国大会に出場。生徒会役員。稲村氏は喜々として語り続けます。


 和葉さんはお茶を見ています。


「私と優二も城北なんだ。和葉さん、学校は楽しいかい」


 兄が軌道修正を図ります。


「楽しいです」


 和葉さんが答えます。訃報を告げるような声です。


「それはよかった」


 お悔やみを申し上げるような声です。兄は場を盛り上げる才に欠けています。


「僕は何を教えればよいのですか」


 早く話を終わらせましょう。お腹が空きました。


 稲村氏が答えます。見て欲しいのは数学と英語。成績を伸ばすのに時間のかかる教科です。一年生のうちに力を入れるのは正しい判断でしょう。


「数学も英語も得意だったな」


「はい」


「これまでに城北生を教えたこともあったな」


「五人ほどですね。カリキュラムも把握していますよ」


 それは頼もしいと稲村氏はご満悦です。先生娘をよろしくお願いしますと頭を下げます。


 和葉さんはお茶を見ています。


 稲村家を辞します。辺りが暗くなっています。


「難しそうな子だったな」


 兄が呟きました。クラウンにキーを挿し入れます。


「とても可愛らしい姉妹です」


 兄が僕を見ます。


「そうだな」


 兄は小さく笑いました。


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