2. 僕は兄さんのためなら何でもしますよ
兄がエンジンをかけます。僕は助手席でシートベルトを締めました。
年季の入ったクラウンが車道に出ます。
兄の運転は静かです。他の車にも、歩行者にも、同乗者にも気を配ります。あらゆる人間の間合いをすり抜けるようです。
東海道に出ました。車は東へと向かいます。
「
行きつけのうなぎ屋はここから西にあります。浜松の街中です。
「寄るところがある」
「何か用事ですか」
お腹が空いているならば後にすればいいのに。
「働き口が見つかったぞ」
「降ります」
シートベルトを外します。
兄がアクセルを踏み込みます。
「同乗者に気を配ってください」
「優二。おまえ、また
奈緒さんというのは僕の妻のことです。正確には元妻です。一年ほど前に離婚が成立ています。
「先日彼女の誕生日でしたから」
「誕生日に金を無心するやつがあるか」
「プレゼントを買わなくてはなりませんし」
「本人から借りた金でか」
「お金にきれいも汚いもありません」
「今どのくらい残ってるんだ」
「七三二円です」
「プレゼントは何を買った」
「買いそびれました」
「働いて返せ」
「うなぎというのは嘘だったのですね」
「後で食いに行こう。先方にあいさつをしてからな」
「騙されました」
「おまえのためだ」
大人というのは汚いものです。平気で嘘をつきます。おまえのためだといって人を働かせます。
「仕事というのは何ですか」
僕に普通の仕事はできません。寿命を伸ばすために普通であるというのは本末転倒です。
「俺の旧い知り合いが家庭教師を探しててな」
兄が横目に僕を見ます。
「おまえ、教える仕事は好きだろう」
「そうですね」
若人にものを教える仕事というのは特別なものです。自分より後まで生きる人間に真実を刻み込む。それはこの世に生きた痕跡を遺すということに他なりません。
さすがは兄です。僕にうってつけの仕事を見つけてきます。
働き口というのが家庭教師であるならば、僕も吝かではありません。
赤信号に引っかかります。兄は緩やかに速度を落とします。
「優二。いい加減アパートは引き払いなさい」
「またそのお話ですか」
僕は実家から来るまで五分ほどの場所にアパートを借りて住んでいます。そこを引き払って実家に住めと、兄はしつこく言いつけます。
信号が青になります。
「狭く古いですが、いい部屋です」
「家賃がもったいないだろう」
「大した額ではありません」
「そういうことは自分で払ってから言え」
ここ数年、兄は僕に構ってばかりいます。
兄は男やもめです。兄嫁は五年前に逝きました。二人の娘さんはどちらも既に家を出ています。
兄は東京近郊にマンションを持っています。しかし長年勤めた商社を定年退職してからは、月の半分以上を浜松の実家で過ごしています。
『おまえが一番心配だ』と公言して憚らぬ兄ですが、真意が別にあると僕は知っています。
兄は寂しがっているのです。弟は兄の心の機微に気づくものです。だから僕はこうして兄の相手をしてやるのです。
「兄さん」
「文句なら聞かんぞ」
「僕は兄さんのためなら何でもしますよ」
兄はため息をつきました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます