明日の私はリグレッ娘
傘木咲華
前編
高校生になるまで、木乃香はずっと恋愛に興味がなかった。幼い頃は二人の弟達と外で遊んでばかりだったし、小学生の高学年くらいからはテレビゲームにどっぷり。体育や部活は大好きだが、家に帰るとゲーム三昧な日々を送っている。そんな日々が木乃香にとっては充実していて、「恋愛? ああ、ゲームでたくさんしてるよ」というレベルだった。
――の、だが。
木乃香は今、好きな人がいる。相手は同じバスケ部の先輩だ。
二年生の
つまり、今の木乃香はただの馬鹿だということだ。
憧れ段階でしかない睦月のことで浮かれまくって、放課後になるとスキップで体育館へと向かう。頭の中がお花畑すぎたからこそ、木乃香の反応は遅れてしまったのだろう。
「ちょっとそこの馬鹿! 止まってぇっ!」
「…………ふぇぃ?」
木乃香によく似た人物が、木乃香に向かって走ってくる。
意味がわからなくて、ルンルン気分が一瞬で消え失せてしまった。ポカンと廊下に突っ立ち、迫りくる自分をただ見つめる。
やがて目の前までやってきた彼女は、やはり自分にしか見えなかった。
「えっ、と……私?」
「そう、私。椎村木乃香」
「…………んな訳ない、よね?」
自分と瓜二つの人物が、椎村木乃香だと言い張っている。
そんな訳ないはずなのだが、否定できない現実が目の前には広がっていた。身長も体形も肌の色もほくろの位置も、見れば見る程に自分と同じ。違うところといえば髪を解いて銀縁眼鏡をかけている、というところだ。でもそれは家にいる時の木乃香のスタイルであり、やっぱり違和感はない。気になることといえば、酷く顔がやつれていることと、家スタイルなのにバスケ部のユニフォーム姿だということくらいだろう。
「とにかくこっち来て!」
「え、でも部活……」
「このまま部活に行かれたら困るから!」
「ええー……」
驚く程に必死な自分の姿に若干引いてしまう木乃香。抗う間もなくブレザーの袖を引っ張られ、人気の少なそうな場所へと連れて行かれる。
足を止めたのは体育館裏だった。じっと木乃香を見つめながら、もう一人の自分は真面目な顔で告げる。
「昨日、あんたは失恋するんだよ」
――と。
木乃香はすぐに首を傾げた。
「いや、昨日失恋した覚えはないよ?」
もう一人の自分が現れたと思ったら、今度は身に覚えのないことを言われる。意味のわからないことの連続で、木乃香は渋い顔をしてしまった。
すると、もう一人の自分の頬がうっすらと赤く染まっていることに気付く。
「あ……間違えた。明日の私にとっての昨日だから、今日だった……」
くくく、間違えてやんの。馬鹿だ。本当に私なんだ。
なんて、一瞬思った。でも、楽しい気分はすぐに消え去った。
「明日の、私……って?」
恥ずかしそうに小さく咳払いをしてから、もう一人の自分はこちらをじっと見つめる。
「私は未来から来た椎村木乃香なの」
「…………」
頭がついていかなくて、ついには言葉を発することもできなくなってしまった。正直これは、自分が馬鹿だからとかそういう問題ではない。あまりにも非現実的すぎるのだ。
「あんた、八奈見睦月先輩のこと、好きでしょ」
「……い、いやぁ? ちょっと違うよ?」
もう一人の自分の弱々しい視線が木乃香に突き刺さる。色んな衝撃でついつい気付かない振りをしてしまうが、やっぱりもう一人の自分は元気がないように見えた。
何でなんだろうと、初めて冷静な疑問が思い浮かんだ時、
「それってさ、呼び方のこと?」
もう一人の自分に、言われてしまった。
「一月の君……って言えば良かった?」
――一月の君。
木乃香が心の中で呼んでいる、睦月のあだ名だ。睦月=一月だから、一月の君。他の誰にも言っていないはずだし、だいたい睦月が好きなことも内に秘めていることだ。
正直、死ぬ程恥ずかしい。
でもそれ以上に、本当に未来の……明日から来た自分が目の前にいるのだと実感できてしまった。まだよくわからないけれど、これは現実だ。受け止めて、前に進んでみるしかない。
「た、確かに私は一月の君……八奈見先輩のことが好きだよ。でもまだ告白するとか全然そんな段階じゃないし、失恋するって言われてもわかんないんだけど」
「それは大丈夫。あんたは告白なんてしない。むしろ、告白させないために私はここに来たの」
「……それって」
力のない視線から、木乃香は思わず逃げてしまう。
状況が理解できた訳ではないけれど、なんとなくやりたいことを理解してしまったような気がしたのだ。
「告白をしなければ失恋しなくて済むから、私を止めに来たの?」
恐る恐る訊ねる。私に限ってそんなことはないと木乃香は思った。自分のことは誰よりも自分がわかっている。木乃香は馬鹿だ。馬鹿が付く程ポジティブだ。たった一度、失恋を経験したくらいでやり直そうなんて思うはずがない。
「そういうことじゃない!」
だから、力強く否定してくれた自分に心の底から安心した。
「…………」
――でも、だったら、どうして。
どうしてそんなにも悲痛な顔をしているのだろう。
失恋したというだけでそんな表情になるのだろうか。経験がないからわからないけれど、いくら何でも目の前の自分は見ていて痛々しかった。
「何が、あったの……?」
「それはっ……言えないんだけど!」
「……はぁ?」
これはどういうことなのか。未来の自分にしっかりと訊かないといけないと思った。なのに返ってきた答えは「言えない」。
思わず「何のために未来から来たんだよ!」と冷たい視線を向けてしまう。それでも、もう一人の自分の表情はブレなかった。
「自分で気付かないと駄目なの! 未来の私が教えるんじゃ、何の意味もないの……っ」
必死すぎる自分の姿に、木乃香は心底驚いてしまった。
まるで自分を責めるように地団駄を踏んでいて、木乃香の心は無理矢理動かされる。いったい何があったのか想像はできない。
でも、
「とにかく、もっとちゃんと八奈見先輩のことを見て! 知って欲しいの! そうじゃなきゃ……私はまた後悔することになるから!」
こんな自分の姿を見て、逃げることなんてできないと思った。
「……わかった。わかったよ。八奈見先輩に告白はしないし、ちゃんと先輩のことを見る。約束する!」
後悔で押しつぶされている自分をしっかりと見つめ、木乃香は力強く頷く。そして、わざとらしく微笑んでみせた。
例えそれが未来の自分でも、辛そうな人の姿は見ていられないのだ。
「ねぇ、リグレッ
一月の君もそうだが、木乃香は変なあだ名を着けるのが好きだ。今はそんな場合ではないかも知れないが、辛そうな自分の顔なんて見ているだけで心が抉られる。少しでも笑って欲しいと思ったのだ。
「いや……私だから由来はわかるけどさ。私が後悔してるからリグレットなんでしょ? でもそのままじゃつまらないから、ちょっと可愛くしてリグレッ娘……ってことでしょ?」
「ぅおうふっ」
呆れながらも、的確なことを言ってくるもう一人の自分――リグレッ娘。
やっぱり本当に未来から来た自分なんだと木乃香は一瞬嬉しくなるが、今はそれどころではないのだと思い至る。小さく咳払いをして、木乃香はリグレッ娘を見つめた。
「リグレッ娘。結局私はどうしたら良いの? 八奈見先輩に告白をしなければ、とりあえず私は後悔しないで済むの?」
「……とにかく、告白はしないで欲しい。あとは八奈見先輩のことをちゃんと見て……って、さっきと同じこと言ってるだけだね。はは……」
苦笑を漏らし、リグレッ娘は「ごめん」と呟く。
――これが未来の私。馬鹿みたいに明るいのが取り柄だった私の、後悔した姿。
いったい何があったのかなんて、考えるだけで怖い。でも同時に、怖いなんて思っている場合ではないと思った。
「行ってくるね、リグレッ娘。もう後悔はさせない。私が保証する!」
リグレッ娘を安心させるため、木乃香は自分の胸を叩いて笑ってみせる。
木乃香にできることは、リグレッ娘に言われた通り睦月に告白しないこと。そして、睦月のことをちゃんと知ることくらいだ。
何が起こるかわからない恐怖はある。でも、最初から怯えていても仕方がないと思った。
不安気な表情が消えないまま頷くリグレッ娘の姿を見てから、木乃香は進み出す。もう後悔しないための道を探すために、とにかくやってみるしかない。
木乃香は覚悟を決め、体育館へと向かった。
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