第五章

第五章

今日も、文は製鉄所の廊下を磨いていた。もう、最近は恵子さんに注意されることも少なくなっていた。

その日も、文は廊下を掃除していた。もう、びちゃびちゃな雑巾で廊下を拭くこともなかった。廊下をふいて、バケツのなかで丁寧に雑巾を絞っていると、

「だいぶ、様になったじゃないですか。」

と、水穂さんの声がした。

「ええ、まあ。まだまだ一人前じゃないけれど、ありがとうございます。」

と、文はにこやかにこたえた。

「いいえ。僕は単に、やり方を教えただけですよ。それ以外なんでもありません。やったのは文さん何ですから。」

何という謙虚な人なんだろうな、と文は思った。大体教える人というのは、自分が教えてやっているんだからありがたく思えと言ってくる人ばっかりだったので。

「やり方を教えただけだなんて、そんな謙虚な事仰らないでください。あたしはどんなに助かったか。本当にやり方を知らなかったんですから、親切に教えてくださって、有難うございます。」

文は、そういって礼を言うと、

「いいえ、だって、苦しいままでいるのも嫌でしょうからね。」

と、水穂は一寸笑って言った。

「本当は、床拭き何て、僕の仕事だったんですから。それをわざわざやってくださるのですから、僕が応援して差し上げないといけないんですよ。」

本当に其れだけだろうか?文には一寸疑問が残った。

「それだけ?」

「え、ええ。勿論其れだけです。今まではずっとそういう雑役は、僕の仕事でした。床の掃除とか、エアコンの掃除とか、風呂の掃除とか。まあ、この体ですので、今は仕事は無理ですけど。だから、誰かを雇おうということになったんでしょうし。それを今は文さんがやってくださっているという訳ですから、やり方がわからないなら、教えなければダメでしょう。それだけの話ですよ。」

水穂さんはそういっているが、単にそういう理由ではないなという気がした。でも、文はそういってくれる水穂さんの事がすきになった。今までの、何だ、こんなことも出来ないの!と言って叱責してくる恵子さんや、ほかの男性利用者とはどこか違っていた。

「水穂さんって、ずっとむかしからここで住み込みで暮らしているんですか?」

文はそんなことを聞く。

「はい、ずっとそうです。」

水穂さんはこたえる。

「じゃあ、ここへ来る前はどうしていたの?ゴドフスキーの楽譜があんなに沢山あるってことは、音大にでも行ったんでしょう?」

文はちょっと聞いてみた。

「ええ、まあ、桐朋でした。大した音楽大学ではありませんが。」

水穂さんがこたえると、

「桐朋!すごいところに行ったのね。そんなレベルの高い音大、あたしの父でさえもいけなかったと思うわ。」

と、文は大いにおどろく。

「でも、桐朋でたんならすごいものね。其れなら、コンクールとかにも沢山出て、演奏活動すれば良かったじゃない。どうしてそれをしなかったの?或いは、海外へ行くとか。こんなに一杯ゴドフスキーの楽譜があるんだったら、相当な演奏技術があるってことよね。それに、一般的にありふれた作曲家と違って、余りの難しさにお客さんがおどろくような作曲家でもあるんだから、それを生かして、パフォーマンスすれば良かったじゃないの。」

「まあ、まあ、、、。そうですね。」

と、水穂はこたえた。

「ほんの数年ですが、そういう演奏活動したんですよ。でも体が持たなくなってしまいまして。」

そういって水穂は、二、三度咳をした。文も何だか不思議だなあという顔をする。

「でも、まだ年寄りでもないんだし、ちょっと療養すれば良くなるのではないの?」

「そうなんですけどね。それより、演奏活動の方が先ですからね。倒れるまで演奏しないと、いけなかったんですよ。」

咳をしながら、そうこたえた水穂であるが、

「でも、演奏してれば、ある程度御金がはいるでしょ?其れで暫く療養することも出来たはずじゃないかと思うんだけどなあ。あたしみたいに、生活の事がわからなくて、何も出来ない訳ではなさそうだし。だから、あたしよりも、何だか生きる技術というのかしら、それは持っていて良いと思うんだけど。」

と、文は頭を傾げた。水穂も、そうですねえと言って、続きを話したかったが、その前に咳が出て止まらなかった。

「大丈夫?」

と、文は聞くが、咳き込むのは止まらない。

「何やってるのよ!」

ふいに恵子さんが飛び込んできた。

「もう!いつまでも掃除が終わらないから心配になって見に来たら、そうやってちょっかいを出して!水穂ちゃんには余計なことをいわないでやってよ。」

恵子さんは、そういって、水穂の背をたたいたり、なでたりした。その目は今まで以上に怖いと文は思った。

「ご、ごめんなさい。水穂さんが声をかけてくれたから。」

「そうだったら、用が済んだらすぐ終わりにしてやってよ!あんまりしゃべりすぎると、この人、こういう風になっちゃうのよ。それが一番良くないから。それだけはどうしても避けたいのよ。」

恵子さんは、水穂に濡れタオルを渡した。水穂がそれを口に当てたのと同時に、濡れタオルが朱く染まったので、文はぎょっとする。

「薬飲む?ほら、ゆっくり飲んでよ。」

恵子さんは水穂に吸い飲みを渡した。水穂は咳き込みながら、ゆっくり中身を飲み込んだ。それを飲むと、咳き込むのも次第に治まってきて、少しばかり苦しそうに息をするだけとなったが、次第にそれもしずかになった。

「よかったよかった。じゃあ、寝よう。そのほうがいいわよ。安静にしてなきゃ。」

恵子さんはそういって、水穂に布団にはいるように促した。水穂はすみませんと言って、四畳半の布団に横になった。

「でも、最初に発言したのは僕で、彼女では、」

「何を言ってるのよ。そうかもしれないけど、長話に持ち込んだのは文ちゃんでしょ。それは、水穂ちゃんじゃなくて、文ちゃんがそういうことを読めなかったから。それが悪いのよ。なんでも自分のせいにしないでよ。そんなことしてたら、いつまでたっても良くならないわよ。」

水穂はそう言いかけたが、恵子さんはそれを制した。

「でも、悪いのはこっちで。」

「だからあ、何でも自分のせいにしないの。そんなこと言っているからいつまでもそのままなのよ。もし具合が悪かったら、もうよしてくれって、はっきり言ってあげて。ほら、寝よう。安静にしてないとだめだって、言われたんでしょ。此間の診察で。」

恵子さんはそんなことを言いながらかけ布団をかけてやった。水穂ははいとだけ言って、その後はもう何も言わなかった。薬の成分には眠気をもたらすものがあるのだろうか、暫くして、水穂はしずかに眠ってしまったのである。

「あ、ああごめんなさい。あたしそんなこと知らなくて、むかしみたいに命取りになるような病気ではないって、勝手に思っちゃったから、あたし、別に水穂さんに悪いことをするようなことはしていません。」

と、文は言ったが恵子さんは、

「もう、彼の負担になるような事はしないでね。あたしは水穂ちゃんの事が心配なのよ。」

と、だけ言った。そうなると、恵子さんも水穂の事がすきなのだろうか。恵子さんもやっぱりそうだ。水穂さんをやっぱり好きなんだ。あたしは、水穂さんのことを思っても、彼には恵子さんがいるのね。文はそう口に出して言われた訳ではないけれど、もうだめなんだと思ってしまった。やっぱり水穂さんには恵子さんがいるんだもの。私はだめよね。

そんな思いが頭の中をぐるぐる渦巻くのである。

そのあとも、床掃除や風呂掃除などをやったが、何だかやる気がでなくなってしまって、自分に矢を向けるような気持で掃除をした。掃除が出来るという事のほうが、まだましなのかもしれないが。

翌日も、床掃除の仕事を頼まれたが、どうもやる気にならなくて、床掃除をする雑巾に力がはいらなかった。何だか又びちゃびちゃの雑巾にもどってしまいそうな、そんな気がしてならないのだった。

それでは無意味だよなあ。何とかしてはたらかなくちゃと、自分で一生懸命やる気を奮い立たせているところ、

「あの、吉村文さんでいらっしゃいますよね。」

丁度、庭掃きをしていた一人の男性が、文に声をかけて来た。

「え?」

文が聞き返すと、

「僕は横山清太という者ですが。」

と、その人は言った。

「横山さん?」

「ええ、横山です。横山清太です。ごらんのとおり、しっかり歩けないダメ男ですが、一度でいいから、文さんとお話してみたいと思っていました。それでは、ダメでしょうか。」

「まあ、、、。」

文は返答に困ってしまう。

「ええ、僕は確かに、足も悪いですし、大した学校も出ていないので、あたまも対してよくありませんが、文さんとは、話してみたいと思っていたんです。」

横山清太は一生懸命そういった。

「横山さんと仰っていましたよね。どうしてそんなにあたしのことを?」

「ええ、そうです。僕は文さんと話してみたい。それだけだったんです。」

清太は、いかにも話したいという顔でにこやかに笑った。

「本当にありがとうございました。僕と、話をしてくれて。一度だけでも話せたら、其れで満足です。」

と、にこやかに笑って話す清太は、いかにも嬉しそうな顔をして、其れだけでもよかったという態度で、庭掃きの仕事にもどった。そういう切れのいいところも、ほかの人とは違っている事かもしれなかった。

清太は、庭掃きの仕事にもどったが、文は暫く呆然として、床拭き掃除を再開出来なかった。気が付いたのは、お昼を知らせる、鐘の音が聞こえてからだった。そのあと、急いで食堂にもどって、軽くお昼を食べ、今度は風呂掃除の仕事を開始する。何だかそれからはやる気が出て、風呂掃除の仕事にもハリが出たような気がした。

翌日も、製鉄所の床拭き掃除を開始したが、また中庭のほうへ行ってみると、横山清太が、庭を掃除していた。

とりあえず、廊下を掃除して、急いで用事を済ませ、掃除用具入れに雑巾とバケツをしまった。

「横山さん。」

と、彼に声をかける。清太は、又声をかけられて、ちょっとおどろいているようだ。

「どうしたの、そんなにおどろいた顔しちゃって。」

清太は返答に困って、なにか考えていた。

「横山さん、ほんとに一度で良かったんですか?」

「え、ええ。」

と、困った顔をして、返事をする。

「でも人間、一度話しただけでは、満足しないのが人間ってもんですよ。違うんですか、横山さん。」

「そうですが、僕は足も悪いですし、二度と健常な人に会わせて貰うなんて、ないと思っていましたから、もうなれています。」

という清太であるが、

「横山さん、それじゃダメじゃないの。そんなこと言って、自分を納得させられると思う?絶対に無理よねえ。」

と、文に言われて、さらに困ってしまう清太である。

「いやあ、僕は、なれていますから。振られるのも、無視をされるのも、仲間外れにされるのも。」

清太はとりあえずそういう。

「そんなこと、慣れてしまったら、人間は終わりよ。」

文は、そんなことを言ったが、

「いいえ、終わりじゃありません。体に欠陥のある人間は耐えていく生き物なんですよ。みんなから足が悪いダメな男だって言われ続けて、いつまでも親やほかの親類に甘えて、親は期限付きだとか、いつまで甘えたら気が済むんだとか、そういうこと言われて、永久に自立出来ないっていうレッテルを貼られて、生きていかなければいけないんですよ。そういうことに耐えて生きていかなきゃいけませんから、やっぱり僕みたいな男は、一人で生きていかなくちゃ。そういう事ですから。」

と、清太は自分に言い聞かすように言った。

「だから、文さんと話すのは、一度だけでいいのです。」

文は、にこやかに彼に言った。

「まあ、あたしの事は考えてくださらないの?」

また、戸窓った顔をする清太。

「あたしの事って、、、?」

「あなたは無視されたり、仲間外れにされたりするのはなれているって仰ったんですけど、あたしは、なれてないんですよ。あたしの話を聞いてくださらないで、あなたは勝手に、独りぼっちはなれているで、片付けちゃうの?」

「あ、ああ、ああ、、、。そうですね。僕はそういうことを言われた事はなかったので、、、。」

「そういう事って?」

文が又聞くと、

「いやあ、どうせ僕は、一人で平気なんです。其れで当たり前だから。」

と、答える。

「其れで当たり前じゃなくて、あたしはどうなるのよ。あたしは、一度話したら、もうおしまいですか。それでは、あたし、もう終わっちゃうのかしら。一度だけで、もう、独りぼっちはなれているって切り離しですか?」

と、文はにこやかに言った。

「ねえ、横山さん。横山さんはどうして製鉄所に来たの?」

「い、いやあね。僕はただ、住むところが取り壊しになって、其れで新しい住み場を探していたら、たまたまここに空きがあっただけなんです。ほら、障害のある人間なんて、住むところがなかなか見つからなくて、困るのが当たり前なんですよ。そういう訳で適当な場所が見つからなくて困っていた所だったんです。」

清太は、そういってこえたが、文はそうなのねと答えた。

「あたしも住む場所探すのたいへんだったわ。もうどうやって探すのか、全く分からなかったのよ。」

「そうなんですか。」

文の発言に清太は相槌を打つ。

「あたしもたいへんだったわ。慎吾の事もあって。主人がなくなってから、慎吾、それを受け入れてくれなくてね。其れで著しく不安定になっちゃってね、慎吾。それで、もう部屋の中へ入れて、外出させるような事はできなかったのよ。」

文は、なぜか過去の思い出話をしゃべってしまう。

「それしか出来なかったんですか?」

「ええ。あたしは、どうしたらいいのかもわからなかったのよ。慎吾の事、どこかに相談しようとも考えたけど、何だか、相手の人が不愛想で、何だか相談にならなくて、すぐに終わってしまったのよ。あとは、夫とはたらいていた時の貯金切り崩して生活するしかなくて。慎吾を放置して、はたらきに行くわけにも行かないし。もう預かってくれるような所もなかったのよ。大人になっていたから。」

確かにそうだ、託児所という場所はあるが、成人した男性を預かってくれる場所などどこにもないのが実情である。

「それでは、早く障害者手帳を取るとか、そういう事はしなかったんですか。僕は、足が悪いと分かったら、すぐに手帳を取って、まあ年金という事はなかったけど、手帳のおかげではたらきやすくはなりました。それはやってよかったなと思うんです。障害者は、早い者勝ちと言いますか、早く専門家に頼んだものが勝ちですよね。」

「そうね。」

と、文はほっとため息をついた。

「うちの慎吾も、養護学校までは良かったんだけどね。でも、卒業してしまえば、仰げば貴しと一緒に、もう、切り離されたも同然よ。」

「そうなんですか。其れで、慎吾さんに。」

「ええ、そういう事だったのよ。そうするしかなくなっちゃって。」

と、清太は何気なく言ったが、文はすんなりと答えを言ってしまって、あ、どうしよう、という顔をした。

「ああ、今の事は。」

「わかっていますよ、文さん。僕もね、親に何回も殺してくれと頼みました。幸い、うちの親は結構肝っ玉の太い人で、そんな事で何をやっているんだ、それなら何とかしろ!って怒鳴るタイプでしたので、僕は仕事を続けることができました。今思うと、そういう怖い存在がいてくれたからこそ、ここまでがんばれたんじゃないかなって言う事も確かにあると思います。」

「そうなのね。あたしも、慎吾にそういう風に接していれば良かったのかしら。」

文はぽつりといった。若しかしたら、それが自分のした最大の間違いだったのだろうか。

「いいえ、人によって違います。ただ怖いだけの存在じゃ、関係がめちゃめちゃになって、だめになってしまう親子もいます。慎吾さんにとっては、そういう関係ではだめだったかもしれない。だから、これが正しいやり方だと決めつけないでください。」

清太はすぐに訂正したが、それは文にとって、大きな衝撃になった。私は、慎吾へもっと厳しく接するべきだったのだろうか。でも、あたしは、そうしろと誰かに指示をされたわけでもなかったし、第一そういう風に接するように、と言ってくれた人は、誰も居なかったような気がする。

「あたしがもっと厳しくするべきだったかしら。」

もう一回それを聞いた。

「いいえ、ぼくにはわかりませんよ。ただ、うちの家族が肝っ玉の太い人たちだっただけです。そりゃ、ぼくだって、なんでこんな体に自分を生んだんだって怒った事はありますよ。まあ、うちの親は、其れは自分たちの責任だから、ぜったいに一人前にするんだっていう意識があったとは思うんですがね。」

文は、どうしようもない衝撃でおもわず泣き出してしまった。

「まあ、泣かないでください。気が付くのは決して遅すぎることはありません。それに気が付いたら、そうだったのかと反省すれば其れでいいだけの事なんですから。」

清太はそういって文を慰めたが、文はさらに泣き続けるのだった。

「ほんとに気にしないでください。僕は、ただ、僕の家の事だけをしゃべっただけの事です。ほかの障害のある方の家は知りません。そういう訳ですから僕の言っていることがすべて正しいんだと思わないでくださいね。」

「清太さんのお宅は、本当に素晴らしい生き方をしてたのね。それ、誰かから教えてもらえたの?お父様やお母様は、あなたにそういう風に接するようにと、誰か偉い先生から教えてもらってたの?」

清太の慰めに文は聞く。

「わかりません。そんなこと。きっと僕のうちは、僕がまだもの心つかない幼いころに、僕の親がそう決めちゃっただけなんじゃないですか。まあ、僕はその取り決めをした現場を見たわけじゃありませんから、こうとは言えません。ただ、そうだっただけです。それだけの事なんですよ。ただ、僕がほかの家庭とうちの家族がはっきり違うなと思ったことは、そうだなあ、うちは、よくしゃべる家族でした。見栄っ張りでも何でもなく、とにかくほかの親戚や、近所の人とよくしゃべる家族でしたよ。」

清太はそんなことを話した。それだけが自分に言える事だった。

文は、いつまでもボロボロ涙をこぼして泣いているのだった。

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