第四章

第四章

製鉄所では、相変わらず吉村文が預けられていたが、恵子さんは、ちょっと彼女のやることなすことに、疑問を感じていた。

ある日、なにか手伝うことはないかと文に聞かれて、恵子さんは風呂掃除をお願いした。風呂掃除と言えば、風呂の床はタイルで出来ている。五右衛門風呂でもない限りそうなっている。タイルをあらうには、水を流して、洗剤をつけたたわしでごしごしとあらうのが一般的だ。製鉄所の風呂は広いので、デッキブラシが置かれていた。なので、デッキブラシを動かす音が聞こえてきてもいいのだが、その音は全く聞こえてこないし、水をながす音も聞こえてこない。

心配になって、恵子さんは、風呂場へ行った。

「文ちゃんどうしたの?風呂掃除しているんじゃないの?」

「ええ、ちゃんと掃除してますよ。」

と文は当たり前のようにこたえるが、風呂のタイルをからふき雑巾で磨いているだけなのであった。

「いやねえ、あなた、それで掃除していると思っているのかしら?」

恵子さんが、急いでそう注意すると、文はぽかんとした顔をした。

「それでは、掃除していることにならないわ。掃除するんだったら、まず洗剤をばらまいて、デッキブラシでタイルをこすらなくちゃ。あたしがやってみるから、ちょっと、デッキブラシ、二本とってきてくれる?」

こういう時、青柳先生から、決してしかってはいけないといわれていた。それに、その人を馬鹿にするような言い方もしてはいけない。ただ、黙って、正しいやり方を見せて置くこと。それだけでいいともいわれていた。でもこれを実行するには、本当に人徳のある人でないと出来ないのだった。事実恵子さんは、文に対して、嫌ねえという言葉を使ってしまった。

文は、デッキブラシを二本、掃除用具入れから出してきた。そうやって、命令されればうまく行動できるところも、ある意味では十分に問題がある。

「じゃあ、あたしが正しいやり方をやってみるから、その通りにしてみてね。」

恵子さんは、まず、風呂場のタイルを水で濡らし、それに洗剤をばらまき、デッキブラシでごしごしとこすり始めた。その時にも、全くこの人はとか、そういう感情を表に出してはいけないのだが、恵子さんはそういうところが器用に出来る人ではなかった。だから、文の顔がとても悲しそうな顔になっている。恵子さんが、心のどこかで全くこの人は、どうしてこんなことも知らないのだろう、と思っているのが顔に出ているのがわかるからだ。不思議なことに、そういうことをいわれると、人間というのはおかしなもので、素直にはい、そうですかと従えるモノではないのだ。それは上流階級になればなるほど難しかった。文もその通りで、恵子さんの表情を見て、自分はこんな簡単なことも出来ないダメな人だという気持を植え付けてしまっていた。だから、人に教えていくということはとても難しい事なのであった。

「じゃあ、これからはこういう風にやってみてね。こうすれば掃除できるからね。」

「はい。」

とりあえずその場は丸く収まったが、文も恵子さんも腑に落ちないなにかを感じ取ったまま終わってしまった。黙って手本を見せておけばいいということは、簡単そうにみえて、実は難しい事なのだった。

お昼過ぎ、華岡がやってきた。華岡は、彼女について調べたいことがあるらしく、

「ちょっと聞きたいことがあるんだが。」

と、恵子さんに聞く。

「あの、文さんだけど、その後どう?うまくやっている?」

「ええ、命令されればうまく動くわ。でも、自分から、動こうとは決してしない。それに、掃除の仕方とか、ガスの使いかたとか、そういうことをぜんぜん知らない。」

と、恵子さんは聞かれた事実をこたえた。華岡にとっては、また別の意味で、文の一面を知ることになる。

「つまり、日常生活のことはほとんど知らないという事か。」

「そのようね。風呂の掃除の仕方だって、あたしが教えなきゃいけなかったわ。」

という事は、やっぱり家政婦さんのいうことはわかっていたんだなと、華岡は思った。幼少からおそらく結婚する前までは、すべての家事は他人任せだったのだろう。

「なるほど、彼女の幼年時代は、大体わかってきたな。それでは、結婚後の彼女の生活について調べなきゃ。そして、慎吾くんの障害についても。」

華岡は、ウーンと考えこんだ。

「これは、単なる心中事件というよりも、現代社会への警告となるような事件かもしれないぞ。」

同じころ、文はなれない手つきで、製鉄所の廊下を拭いていた。でも、それはどうやっていいのか文もはっきり知らず、かえって掃除は言えないかもしれなかった。

「それじゃ、廊下掃除の意味がないでしょう。」

ふいにそう声が聞こえてきて、文は手を止める。

「何ですか。」

声の主は水穂だった。気が付いたら丁度四畳半の前を通っていたのである。水穂はふすまを開けて、布団に座っていた。

「いえ、大したことはありません。ただ、その雑巾、塗れふきであることは確かですが、そんなにびちゃびちゃに濡らしていたら、かえって床がぬれて、汚れやすくなります。」

「そうなるんですか?」

文が、おもわずそう聞くと、

「ええ。」

と水穂は、布団の上から表情一つ変えずに答えを出した。

「じゃあ、どうしたらいいんですか。私、わかりません。」

文が聞くと、

「雑巾を絞って、濡れふき雑巾とすればいいのです。」

と答えが返ってくる。

「それってどうやるんですか?」

「あ、はい。えーと。」

水穂は布団から立ち上がって、文からびしょぬれになった雑巾を、丁寧にねじった。

「そうやってねじることを絞るというのですか。」

文が聞くと、

「ええ。」

とだけ、水穂はこたえた。

「これでいいんです。これで拭けば床は綺麗になります。」

水穂に手渡された雑巾は、もうびちゃびちゃではなく、しっかりぬれているモノの、軽くて持ちやすくなっていた。文はその雑巾で床を拭いてみる。床はぬれてはおらず、しっかりと綺麗になっていた。

「あ、ありがとうございました。」

文が急いで礼を言うと、彼はにこやかに笑ったが、そのあとすぐに咳き込んでしまった。大丈夫ですか、と文が聞いても返事はなかった。それを聞きつけた恵子さんが、

「ちょっと、何をやっているのよ!また無理させたんじゃないの!」

といいながら、台所からやってくる。幸い、恵子さんが咳止めを渡して、咳は治まったが、恵子さんは、文に二度とこの人には関わるなといった。つまりそれくらいたいへんな人だという事だ。それは咳き込むのを見ればわかる。ただ残ったものは、雑巾がけの仕方を教えてもらった事である。そのやり方は、恵子さんのこんなモノもできないのかと馬鹿にするような教え方とは全く違う。その教え方よりも、すぐに頭にはいってこれる教え方だった。文は、之だけは、絶対に忘れないで置こうと決めた。

でも文はいろんなことを知らなすぎだ。又ある時はこんなこともあった。恵子さんが何となく、ガスにお湯をかけてというと、文はなぜか戸惑った顔をした。それが何の事なのかわからなかったのだろうか。恵子さんが、ほら早くと催促すると、文はやかんの水をジャーっとガスコンロにかけてしまった。

「何やってるのよ!」

「だってかけてって。」

「そういう時には、ガスレンジにお湯を沸かしてという意味なのよ。知らないの?」

稽古んがおもわずそう聞くと、文は知らないとこたえた。呆れた顔をして、恵子さんは、文にこういう時にはガスにお湯を沸かしてという事だということを恵子さんはもう一回説明した。外国人でもあるまいし、このくらいは理解してよと言った。そういう時、恵子さん自身は、何も怖い顔をしているとはこれっぽっちも思わなかったが、文にとって、恵子さんは怖いおばさんにみえるようであった。

「それではもう一回やってみて。今度こそちゃんとして頂戴よ。」

恵子さんにそういわれて、文はガスコンロに火をつけた。やかんをガスコンロの上に乗せた。

「だっからあ、空っぽのやかんを乗せたってしかたないでしょう。それじゃなくて、水を入れてから、やかんをガスに置くものなのよ。」

恵子さんは注意するが、文もがっくりと落ち込む。

「文さん、ほら。やってみて頂戴よ。」

「はい。」

やかんに水を入れて、文はそれをガスコンロの上に置いた。

「よろしい、これくらい覚えてねエ。」

文ははいといったが、恵子さんはその言い方が不快でしかたなかった。

「だから、そういうのやめて。」

「ハイ!」

恵子さんがそういうと、文もそう強く言う。なんでかな、学校じゃあるまいし、もっと力を抜いて返答してほしいモノであるが、それは無理そうだった。

「それではもうちょっと力を抜いてやって頂戴ね。」

恵子さんはため息をつきながらそういった。

「ねえ文さん、悪いけど、あなたってどんな育ち方だったのかしら、あたしたちから見ると、常識的な事を何も知らないし、何だかものすごい贅沢して育ったっていうか、そういう風にしか見えないんだけどな。」

そういわれて文も何だか申し分けないという顔をする。

「いやあ、別にあなたのことを責めている訳じゃないわ。ただ、ぜいたくは敵とはいわないけれど、贅沢は何も良いものを産まないわよ。」

恵子さんは、別に彼女を責めているわけでは無いのであるが、文はますます落ち込んでいるようだ。

「あたし、知らなかったの。」

それだけ、文はこたえた。

「知らなかったのって、何も知らなかったの?家事とかそういうこと。」

「はい、知らなかったんです。そういう事ですよ。あたしは、ただ、勉強さえしていれば良いって、そういわれていて。」

「そうかあ、そればっかり捉われすぎても、いいことないわよ。あたしたちは、ここでは元気が一番、勉強は二番って、ずっと言ってるのよ。その元気を作るには、食べ物が必要よね。食べ物のほとんどは、料理しなきゃ食べられない。その料理を作る技術ってのも身につけないと。そういうことはね、慎吾君と暮らしている時身に着けていれば良かったのよ。そうすれば、慎吾君だって何とかなったかもしれないし。」

「慎吾の事は、もうあたしも後悔してもしきれないって思います。確かに料理が出来ていればよかったというのもわかる。だって、あたしたち、コンビニで買ってきた、お菓子しか食べるモノがなかったから。」

「そうよそうよ。冷蔵庫にあるものをかき集めて料理を作ることだって、必要なのよ。そうした方が、よほどおいしくて、経費だって、かからないわよ。二人分の食事を作るのは面倒くさい何ていわないで、冷蔵庫に残っていた食材があれば、もう少し食生活が、充実したんじゃないの?」

「そうねえ、、、。あたしはやっぱり、ダメな女だったのかしら。」

「そういう事じゃないの。これからのことを考えて、料理をしてみようとかさ、そういうことを考えてほしいの。」

「でもあたしには、もう何もないんだし。何をやっても意味はないわ。」

それを言っちゃおしまいよ、であった。そうではなくて、もうちょっと前向きになってくれないかと思っているのだが。

再び、富士警察署では。

「それでは、捜査会議を始める。えーとまず初めに、文の幼少期の生活について、わかったことがあれば報告してくれ。」

「は、はい。」

と、部下の刑事が立ち上がって、話を始めた。

「はい。文の父は音楽教師、母は、主婦という境遇で育ちました。先日の捜査でもうわかっていると思いますが、炊事洗濯掃除などの家事は、家政婦に任せきりであったようです。彼女たちは、家事など一切しないで、文には上級学校に向かって、勉強をさせていました。父親も母親も高学歴ですし、特に母は子育て以外に生きがいがなかったようで、文の尻をたたいて勉強させてばかりいたようです。」

別の刑事が発言した。

「文の小学校から中学校の同級生たちにも話を聞いてみましたが、文は、初めから上級学校に進むことのPRに余念がなかったようで、同級生たちも、ほとんど話をすることはなかったそうです。文はむかしから、私たちとは違う学校に行くんだってことを、親御さんからも知らされていて、邪魔をしてはいけないという気持になって、誰も彼女のそばには近寄らなかった。そして、彼女自身も上級学校に行けば友達が沢山出来るからと信じて疑わず、同級生に近づくことはほとんどなかったという話も聞けました。」

「なるほど、それでは、上級学校にいけると信じすぎた故の果てか。で、文はその上級学校にいけたのでしょうか?」

ノンキャリアの老刑事が、そう言うと、最初の刑事が、手を挙げてこう発言する。

「はい。それは私の方からご報告を。文は地元の公立高校を卒業後、そのまま現役で東京学芸大学に合格しています。父は、東京芸術大学を受けることを勧めていたようですが、文は教師を目指すには学芸大の方が良いと主張していたようです。しかし、文が東京学芸大学に在学中、文の父親が勤めていた学校が閉校。それから文の家は事業に失敗し、文は学校を退学して、吉村和彦

の家に嫁ぎました。つまり、文は教師になるという夢を絶たれて、吉村家に嫁いだということになりますな。」

「つまり、志半ばで、家の破産を食い止めるために、吉村和彦の元へ嫁いだという訳か。それは確かに、文も悔しかったのではないかな。いくら温和で従順な娘であってもだ。そういうことは、大きな挫折になるのではないか。」

華岡は、腕組をしながら言った。

「そして結婚して、息子慎吾が生まれた。若しかしたら、慎吾を育てることでも、問題があったのかもしれない。よし、次の捜査はそれだ。慎吾が、もし重度の障害を持っていたのなら、必ずなにか、福祉相談にでも顔を出しているに違いない。それでは、市役所や福祉事務所をしらみつぶしに当たってだな、文が相談に来なかったかどうか、調べてみてくれ!」

部下の刑事たちは、なんでこんな細かいことまで調べなければならないんだという顔で、わかりました、と言って、重い腰を上げた。

製鉄所では、文が、また廊下を拭いているが、その時はもうびちゃびちゃに濡れた雑巾を使っていなかった。しっかり、良く絞った雑巾で、廊下を拭いていた。

「あ、文さん。」

ふいに、ふすまの向こう側から声がした。

「あ、はい。」

向こう側にいたのは、水穂さんだ。丁度、薬を飲んだところだったのか、口元をタオルで拭いていた。

「見てください。今日はちゃんと廊下を拭いています。」

文はそう言うと、水穂さんは、にこやかに笑って、

「そうですか。良かった。」

といった。

「これからも、新しい技術を身につけていってくださいね。新しいことを、みにつけるって、何もわるいことはないですから。多少、苦痛も伴いますが、身に着けた後ははるかに楽になると思いますよ。」

水穂さんにそういわれて文は一寸ほっとする。そういうことをいってくれる人って、ほかの人は絶対言わない事だ。

「ありがとうございました。そんな事いってくださって。あたし、ほかの方から、そんなことも知らないのかって、言われてばかりでしたから、もう劣等感ばっかりでどうしようもなくて。」

「まあ確かにそれでは、進歩もしませんよね。そういうことは、気にしないで、事実だけ、つまり、掃除の仕方とか、ガスコンロの使いかたとか、それだけを受け入れてください。ほかの人は、確かに嫌味を言うかもしれないけれど、それは、もう中年女性であればそういう風になってしまうと思ってくれればいいんですよ。それだけの事です。」

「水穂さん有難う。」

文は、雑巾をバケツに入れて、水を絞りながら言った。

「そういってくれるなんて、本当にありがとうございます。あたしは、ぜんぜんそういうことを知らなかったんです。馬鹿な話かもしれないけど、本当に学芸大学で友達も出来るし、すきな勉強をすることも出来るからってそそのかされて、その話に乗って。其れで、高校まで何も友達も作らないで、お高く留まってたのが間違いだったのよ。」

「間違いが分かれば其れでいいことです。それすら気が付かないで、生きている人のほうがはるかに多いんですから。」

水穂は、苦笑いしてほっとため息をついた。

「もう、それに気が付いたのは、息子の慎吾が生まれてからでした。あの子が、落ち着きがなくて暴れたり、モノを壊したりして、もうどうしようもなくて、どうしたらいいのかわからなくて、あたしはその

時、今までの事が全部まちがっていたんだなって、やっと気が付いたんですよ。でも、時すでに遅しでした。もう、何処へどうしたらいいのかもわからなくて。」

文は、雑巾で柱を拭きながら、そういうのだった。

「どこかの福祉事務所とか、そういう所には、相談されなかったんですか?」

水穂さんにそう聞かれて、

「ええ、そうね。そういう所に頼ることもできたのかもしれないけれど、母親のあたしがちゃんとしていないから悪いって言われて、それでもう行く気にならなくなってしまったの。」

と、文はこたえた。

同じころ、華岡が、部下の刑事を連れて、老舗のNPO法人を訪ねていた。

「ええ、吉村さんなら、あまりはっきりと覚えてはいないんですが、確かにうちへ相談に来ています。息子の慎吾さんのことについてを相談したとこの記録簿に書いてありますが。」

法人の受付係は、引き出しを開けて、うんうんと頷いた。

「で、文さんは、慎吾さんについてどんな相談をされて行かれましたか?」

「はい、そうですね。慎吾さんの進学についてとかそういうことを話していかれました。この記録簿によると、富士市内の養護学校を勧めたと書かれておりますね。多分、その通りなら、慎吾さんはその学校に行ったのではないかと思われます。」

「ははあ、なるほど。それでは、次は、慎吾さんの学校生活を狙って見たほうがいいな。」

と、華岡は、ふうとため息をついて腕組をしていった。

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