第三章
第三章
今日も、吉村文が、恵子さんに料理の仕方を習っていた。
「ねえ、文さん。」
と、料理を作りながら、恵子さんがいう。
「本当に今まで料理したことなかったの?」
「ええ。」
文は正直に答えをだした。
「今までずっと旦那さんに任せきり?」
「ええ。慎吾が居たから、誰かそばについていてやらなきゃならなくて。」
「そうなのね、、、。」
恵子さんは、なるほどと思った。
「じゃあ、ご主人がなくなってからは、」
「ええ、貯金を切り崩して、その御金で生活してた。慎吾は、生活について、全く何もいわなかったから、そこだけは良かったわ。まあもともと言葉がはっきりしないということもあったけどね。」
「それだけで生活してたのか、、、。」
多分、彼女もそうするだけしか思いつかなかったのか、と恵子さんは一寸ため息をつく。
「貯金がなくなってから、質屋を探したりしていたんだけど、慎吾を部屋に残しておくことは出来ないでしょ。だから、それも出来なくて。どこかに預ければいいけれど、預けられる場所もないでしょ。それも出来なかったの。」
「そうなの。じゃあ、誰かネットで頼むとかそういうことはしなかった?お手伝いだって今は、ネットで頼めるし、相談だって出来る時代よ。」
恵子さんは当たり前のようなことをいったつもりであったが、
「そんなもの、とっくになくなったわ。」
と、しか答えは得られなかった。それはいうなと言いたげな表情をしている。つまり、彼女はパソコンは出来なかったという事だろうか。今時、それも妙な話だった。うーん、それなら、誰かにパソコンを教えてもらうとか、今であれば格安のパソコン教室にでも通わせて貰うとか、選択肢はあるはずなのだが。それに、パソコンというモノは、さほど難しいモノではないと思うけど。と、恵子さんはいいたかったが、それもなかった様だ。新聞もなくて、テレビも何もなかったと、恵子さんは、華岡から聞いていた。せめて新聞でも取っていれば、相談する糸口も見つけられたのではないかと思うのだが、なぜか彼女には、それをしないとくべつな信念でもあるようなのだ。それもまた妙である。
ただ、それ以上の言及はしないようにして、恵子さんは彼女にご飯の作り方を指導していくのだった。
「じゃあ、これをさ、水穂ちゃんの所まで持って行って。いまねているけどさ、必ず起こしてご飯を食べさせてね。じゃないと、何も食べないからね。食べ終わるまで、ちゃんと見てて。まちがっても、ご飯をどこかへ捨てたりはさせないでね。」
恵子さんはおかゆのはいった皿を、文に渡した。
「一番奥の四畳半で寝てるから。」
「あ、はい。わかりました。」
そういう所だけが、なぜかしっかりしているなと恵子さんは思う。つまり、命令されればうまく行動出来るのだ。
「それじゃあ、頼んだわよ。」
「はい。」
そういって文は皿をもって台所を出て行った。
とりあえず、四畳半が何処にあるのかを、探し当てる事でも結構たいへんな建物であったが、なんとか、四畳半を見つけ出して、ふすまを開けることが出来た。
「あの、すみません。」
そういっても返事はない。
何だろうと思ったら、四畳半の中には、かなり高級なグランドピアノが置かれていて、その隣に小さな机、ピアノの前には、布団が敷かれていて、ある男性がその上で寝ていた。多分この人が水穂ちゃんという人なのだろうということは疑いないが、一体こんな時間まで寝ているとは、一体なぜなんだと思った。そのピアノの脇に書かれているメーカーのロゴを読むと、グロトリアンと読めた。たしか、ドイツの高級なピアノメーカーである。そして、その近くに置かれていた本箱の中には、大量の楽譜がはいっているが、その背表紙は、「レオポルト・ゴドフスキー」と書かれていたモノが八割強を占めていた。
「わあ、ゴドフスキーが沢山。」
おもわずそう口に出してしまう。
自分では気が付かなかったが、それが意外に大きな声だったようで、眠っていたその人物は、ふっと目を覚ました。
「あ、ああ、ごめんなさい。起こしてしまったかしら。」
と、文は急いでいったが、その人物も枕元の時計を見て、もう朝食の時間が来てしまった事に気が付いたらしく、
「すみません。僕も寝過ごして。」
とだけいった。
「ご飯持ってきました。」
と、文がいうと、
「そこにおいてくれれば。」
と彼がいう。
「いいえ、あたし恵子さんにちゃんと食べるまで見届けてといわれているものですから、ここにいます。」
「あ、ああそうですか。」
と、彼は、恵子さんにしてやられたという顔をして、そういった。文が枕元にご飯を置くと、彼は、すみませんと言って、ヨイショと布団に起き上がって座った。そして、少しばかり咳き込みながら、ご飯を口にした。
「お体、お悪いの?」
文がそう聞くと、
「ええ、まあ。」
とだけ彼がこたえた。
「でも、この部屋、何だか不思議な部屋ですね。珍しい作曲家の曲が置いてあるじゃないですか。ゴドフスキーの楽譜なんて私、久しぶりに見ました。」
「ええ、まあ。若いころ、よくやっていたものですから。」
「今でも弾かれるんですか?世界一難しいピアノ曲といわれる作曲家でしょう?すごいじゃないですか。あたし、こう見えても音楽好きだったんです。実家の父が、よくピアノを弾いていたんですが、その中に一冊だけ、ゴドフスキーの楽譜があったのを覚えてますよ。本当に難しい曲で、素人にはとても弾きこなせないし、女には、指にけがをするから、絶対にやってはいけない作曲家だって、父は話していました。」
「そうですか。知っていらしたんですか。じゃあ、お父様はピアニストかなにかで?」
そう聞かれて文はちょっと恥ずかしいという顔をして、
「ピアニストという訳じゃないんですけどね、一応、学校の先生でした。まあ、学校で音楽を教えていたんです。最も最近は、音楽以外の科目も教えていたようですが。」
とだけこたえた。
「音大はどちらに?」
その人は聞いた。
「一応、藝大でしたけどね。あたしに取ってはそれは重石でしたよ。藝大でているからって、偉くプライドの高い人でしたから。」
と、文はこたえる。
「さ、そんなこと言ってないで、ご飯食べて頂戴よ。そしたら薬飲んで、しずかに寝ていて頂戴ね。」
心配になって様子を見に来た恵子さんに邪魔されて、問答はそこで終わりになってしまったが、いずれにしても、彼女は並大抵な家庭で育った訳ではないらしいことがわかった。
数時間経って、
「おう、水穂か。具合どう?相変わらずそこで寝ているんだろうか。」
パトロールのついでだったのか、華岡が、製鉄所にやってきた。どうもこの人は警視という立場なのか、事件のことを軽く考えてしまう癖がある。
「今日はまた、暑いけどさ、また会いに来たよ。」
華岡は、そういって四畳半にやってきた。水穂も華岡がやってきたのに気が付いて、布団に起きた。
「よう、どう、具合どうだ。最近さ、変な事件が多くてさ。ほら、おまえも知っているだろうが、あの事件だよ。此間、田子の浦のアパートでさあ、母親と息子が心中したという事件。ほかのやつは、母親がどうしようもなくなって息子を殺害したというけれど、俺は違うような気がするんだよな。そうじゃなくてさ、何て言うのかなあ、息子を養っていくことが出来なかったことに絶望してさ、二人で計画的に逝こうとしたようにみえるんだよ。ウーン、自殺を図ったという事かなあ。どうも殺人とは思えないんだよなあ。」
「僕もそう思いますね。」
と、水穂も華岡に同調した。
「僕も、華岡さんのいう通りだと思うんですよ。というのは、あの女性、つまり吉村文さんという人を、こちらで預かっているのですが、彼女、さほど悪い人とは思いませんでしたよ。」
「そうだねえ。」
と、華岡もそれに同調した。
「俺もそう思うんだ。あの女性は、本当に育児をしない、冷酷な母親だったとは思えないんだ。」
「それに、本当に、知識のない下層市民だったのかとも思えません。それよりも、もっと上流階級に属していたのではないでしょうか。だって先ほど彼女、僕に話してましたけど、彼女のお父様は、学校の先生だったそうですし、彼女もゴドフスキーを知っていたんです。」
「ゴドフスキーを知っていたって?」
今度は華岡がびっくりする番だった。
「そうなんですよ。ゴドフスキー何て、音大にでも行ってなければ知らない作曲家でしょうし、弾きこなすだけでもたいへん何ですから、それを知っていたという事は彼女もかなりの知識があったのではないかと思うんですね。」
「しかし、それにしては、またおかしなことになるな。」
と、華岡は腕組をした。
「彼女の部屋を家宅捜索してみたんだが、現金は全くなかったし、預金通帳を調べてみても、残高は20円しかなかった。ただ大家さんの話によると、家賃は定期的に収めていて、滞納したことは一度もなかったそうだ。それが結局、彼女が困窮していたと知らせることが出来なかったことになるんだが。」
まあ確かに、大家さんは、家賃さえ払ってくれれば、後は何も文句はないだろうということはわかる。だけど、それだけでは余りにも無関心過ぎる気もする。
「しっかし、かなりの上流階級に所属していたのなら、生活が困窮するほど、困ったことになるだろうかな。戦時中じゃあるまいし、お金を使って、家庭の諸問題を解決する事は出来るのではないか?」
「いや、それはどうでしょうか。多分知らなかったんじゃないかと思います。」
水穂は、華岡の発言を聞いて、そういい返した。華岡は、はあ?という顔をして水穂を見た。
「おいおい、どういう事だよ。知らなかったとは一体どういう意味なんだ?」
「だから、知らなかったんですよ。多分上流階級でしょうから、炊事洗濯掃除などは、すべて他人任せだったのではないでしょうか。おそらく、ご主人がなくなる直前まで、そういうことを全く知らない生活だったのではないかと。それで、ご主人がなくなって、初めて何もかも自分でやらなければならなくなって、なれない家事が大きなストレスだったのではないでしょうか。」
「なるほど、、、。」
華岡は、水穂の言葉に、腕組をして考えこんだ。
「しかし、それだったら、親戚縁者に家事を習うとかそういうことするんじゃないか?」
「どうでしょうか。上流階級は、変にプライドだけが高いと思いますから。」
そういって、水穂は少しばかり咳き込んだ。華岡が枕元にあった手拭いを渡すと、急いで口元を拭いた。
「おい、大丈夫か、おまえ。苦しいようなら、布団に横になって休めよ。」
華岡が手拭いを見ると、白い手拭いは朱く染まっていた。
「おいおい、続きを聞きたかったのになあ。その前に体力の限界か。もう、また近いうちにまた来るからよ。その時はもうちょっと体力をつけておいてくれよ。」
そういって華岡は、咳き込んでいる水穂を布団に寝かせてやって、掛布団をかけてやった。
「ごめんなさい。」
と、水穂は申し訳なさそうに言ったが、華岡はいいよ、寝てろとだけ言って、軽く別れのご挨拶をして、製鉄所を後にした。
そのあと、華岡は、富士警察署にもどる。廊下を歩いていると、部下たちが、
「あ、警視、いいところに来てくれました。丁度、あの女性、つまり吉村文ですが、それについて、新しい事実がわかりましたよ。」
と、彼を呼び止めた。華岡は、おう、報告してくれと言いながら、刑事課の会議室にはいる。
「はい。彼女の日常生活についてなんですが、」
と、部下の刑事が報告を始めた。華岡も真剣な顔をして、真面目に聞く。
「近所の人、つまり同じアパートに住んでいた人に話を聞くことができたのですが、吉村文はとにかくきちんとした人であった様です。服装が乱れたとか、変に不潔にしていたという事もなかったとか。しかし、文と挨拶をしたことのある近所の人はいたものの、息子の慎吾に声をかけた事のある人は誰も居ませんでした。それどころか、息子さんの存在すら知らないという人の方が多かった様です。」
「存在すら知らなかった?どういうことだ其れ。だって、少なくとも、息子と一緒に外出しなければならなかったこともあったのではないか?」
華岡が聞くと、別の刑事がこういった。
「ええ、それにつきましては私の方からご報告を。文と慎吾は、大家さんの記録によると、二年ほど前からこのアパートに住んでいます。それ以前は、夫の吉村和彦と一緒に弁当屋をしていたことは前にも報告しましたが、二年前に和彦は急死しており、店は倒産。二人は逃げるように今のアパートに引っ越してきたこともわかりました。そして、アパートの住民は、息子の慎吾と一緒に文が歩いていた風景は一度も見ていないと口をそろえて言いました。」
また別の刑事が手を上げる。
「ええと、それから、文の住んでいる部屋を調べてみた結果、汚い話で申し訳ないのですが、文の寝室から、小便が検出されました。つまり、慎吾は、障害のため用便の始末もうまくできなかったと考えられますが、その近くに布団が敷いてあったことから、慎吾は寝たきりであったと思われます。」
「これでわかったでしょう、警視。文の殺人計画は、このアパートに引っ越してきた時から始まっていたんですよ。文は、慎吾を厄介払いしたくて、慎吾に食事を与えないなどの虐待をして寝たきりにさせ、挙句の果てに、熱中症で死亡させたんですよ。どうですか。之だけ証拠がでたんですから、早く文を逮捕して、取り調べをさせるべきではありませんか。」
ノンキャリアの老刑事が華岡にそういった。ほかの刑事たちもそう思っているようだ。そうすれば、早く事件が解決するじゃないかとでも言いたげだ。
「もう、事件は早く解決させればいいっていうモノではないぞ!もっと、慎重に調べてから、文を逮捕するんだ。もうちょっと、彼女について調べてみなければならん!」
「しかし警視。これ以上調べて何をしようっていうんですか。だって之だけ状況証拠が揃ったら、もう逮捕出来るでしょう?ほかに何を調べる必要があるんです?」
若い刑事が、みんなを代表して意見を述べたが、
「いや、もうちょっと、あの吉村文の人間性について調査するんだ。まず初めに、彼女の父親について、調査しよう。」
華岡はまた発言をした。
「彼女の父親?そんなものとっくになくなってます。それを調べて何になるんです?」
「いや、犯罪というモノは、突発的に起こるとは限らないんだ。何重にも重なった因縁が爆発して起こることが多い。それを全部調べてから、初めて容疑者として取り調べをしなければならん。だから彼女の過去も、徹底的に調べよう。」
「は、はあ、そうですか。」
若い刑事たちは、何だか呆れた顔をして、華岡を見た。ノンキャリアの老刑事だけが、警視のいつもの癖だよと言って笑っている。
「それでは、もう一度吉村文について調査を開始しよう。特に彼女の家族関係の事、彼女が家族と一緒に暮らしていた頃の日常生活についてだ。もし、彼女の家に勤めている家政婦にでも話を聞くことが出来れば、幸運なんだが、、、。」
「はい。わかりました。」
と、刑事たちは嫌そうな顔をして、ため息をついた。
とりあえず、華岡たちは、吉村文、旧姓は石田文の日常生活について、調べることにした。何十年のむかしの事なので、石田家ではたらいている家政婦を見つけるのに苦労したが、富士市にある家政婦紹介所をしらみつぶしにあたって、やっと、石田家に短期間であるが勤めていたことがあるという老女に話を聞くことに成功した。彼女は、もうかなり年を取っていて、老人ホームにはいっていた。幸いまだ、認知症のようなモノもなかった。
「ええ、石田さんのお宅ではたらいていたのは、ほんの数か月くらいでした。はたらき始めたら、赤ちゃんが生まれることになったので。」
「まあ、そういうことは言わなくて結構ですから、とにかく俺たちの質問にこたえてください。」
華岡は、どうして女の人は余分なことをいうのだろうかと思いながらそう切り出した。
「じゃあ、俺のほうから質問をしますから、出来るだけ簡潔にお話しください。石田さんですが、どんなご家族だったんでしょうかね。まず、文さんの父親についてですが、何をしていた人だったんでしょうか。」
「ええ、文さんのお父様は、高校の音楽の先生でした。もともと藝大の、あ、東京芸術大学ですが、その、ピアノ科を出ている、すごく優秀な方だったんですが、生活の安定のために、教師になった様です。藝大ではものすごく良い成績で、協奏曲も何曲か演奏したことがあるんだって仰っていました。」
と、元家政婦さんはそうこたえる。
「まあ、藝大の事はどうでもいいのですが、お父様はどんな人物だったのでしょう。威圧的に彼女に接していましたか?いわゆる亭主関白で、ワンマン的な所はありましたでしょうか。」
華岡が聞くと、
「ええ、そうですね。亭主関白ということはありませんでした。確かに勉強に関しては厳しい所はありました。でも、変に威張るとかそういうことはなかったですね。奥様やお嬢様の誕生日とか、記念日になると、いつもピアノを弾いて聞かせておりましたねえ。それはもう、すごい腕前で、さすがに藝大出の人は違うなって、あたしはいつも感激しておりましたよ。よく知られているショパンとか、メンデルスゾーンとか、それだけじゃありません。みんなが知らない作曲家の曲を弾いて、おどろかせるのが大好きだったんです。」
と、家政婦さんはそうこたえる。
「曲の説明は結構ですから、彼女に対する態度を聞きたいんです。」
余分なことばっかりいうので、いら立った華岡がそういうと、
「ええ、とても可愛がっていらっしゃいましたよ。誕生日には、必ずプレゼントを与えてましたし。まあ、勉強に対しては、ちょっと厳しいかなと私も思いましたが、それ以外の事ではいつも優しくしていたから、カバーできたんでしょうね。お嬢様をとても可愛がって、悪い虫がつかないようにと言って、付き合う友達の選別までしていたんですよ。全く、あれではやりすぎというくらいの可愛がりぶりでしたよ。」
家政婦さんは、久しぶりにむかしの話ができてうれしいのだろうか、そういうことを話して止まらなかった。大体のことは、余分な事であったが、悪い虫がつかないように、友達の選別をしていたというところが、華岡は引っかかった。
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