第二章

第二章

「ここで、預けるんですか?」

懍は、華岡の話に一寸おどろいたような感じでそういった。

「ええ、まあ、五十代の女性を預けるのは、ルール違反ということは知っていますよ。でも、正直にいいますと彼女を精神病院に閉じ込めて、生きるに値しない命にしてしまうのは、一寸可哀そう過ぎるという気がするんです。」

と、華岡は真面目な顔をしてこたえた。

「でも、華岡さん。確かに僕たちは前科者も沢山受け入れてきましたが、僕たちが設けているこちらのルールをご存知ありませんか?ここを終の棲家にしないこと。ですから、その女性も、かえって

もらわなければなりません。僕たちは、身寄りのない女性を、管理しているという訳ではないんですよ。それをわきまえて貰わないと。」

「ええ、青柳先生、それは知っています。預かっているうちに、そのうち新しい棲家を見つけるかもしれないじゃないですか。このままだと、彼女は病院しか、居場所がなくなってしまいますよ。先生も仰ったじゃないですか。本当に、精神病院に収監される事が必要な人は、ほんの一握りだって。俺は、その言葉、信じたいんです。先生、それ、口に出していった張本人が、その通りにしないでどうするんです。俺もその通りにいきたいと思っていますから、先生、お願いしますよ。俺たちも何かあったら、協力しますから、お願いです。彼女を、ここの製鉄所で預かってください。」

懍も華岡がそうやって頭を下げてくるので、困ったなと思ってしまった。華岡の顔を見て大きなため息をついた。

「先生、お願いしますよ。彼女を預かってくださいよ。そして彼女に生きようという意欲を持たせてやってください。」

もう一度頭を下げる華岡に、懍はそうですね、と言ってウーンと考えこんだ。

「あら、いいんじゃありませんか。あたしは、賛成ですよ。年齢が合わないと言って、ここで断ったら、ほかに何処に居場所があるというんですか。華岡さんのいう通り、精神病院に閉じ込めたりなんかしたら、本当に病人になってしまいますものね。それよりも、社会に触れさせてあげたほうが良いって、いっていたのは青柳先生の方じゃないですか。まあ、利用者として年齢が合わないっていうんなら、丁度いいわ。あたしの手伝いをさせればそれでいいでしょう。利用者は増えていくばっかりなのに、水穂ちゃんは倒れちゃうし、炊事洗濯掃除をする係は、減少する一方なのよ。先生、前科者をここに入れるのはそんなに躊躇するのであれば、あたしの手伝いをするものを増やしたと考えてくださいよ。そうすれば、ここへ連れてくる、つじつまが合うんじゃありませんか。」

二人にお茶を持ってきた恵子さんが、そういった。

「それでいいじゃありませんか。それで。先生、恵子さんもそういっているし、預かってやってください。彼女、本当にこういう所しか、居場所がないんですよ。」

華岡が三度目に頭を下げて、そうですねえと懍も考え直した。

「わかりました。そうしましょう。ただし、彼女にも、ここを終の棲家にしないというルールは守ってもらわなければ困ります。それを遵守してもらうというのなら、ここへいらしていただいてもいいでしょう。」

懍がそういうと、華岡は、やった、万歳、万歳、ばんざーいと大きな声で言った。よほど悩んでいたのね、と恵子さんが苦笑いを浮かべる。

「じゃあ、彼女に報告してきます。彼女、もうすぐ退院できるといわれているんです。最近は、治療というものは早く出来てしまうものですな。それに彼女、熱中症以外、ほかに体には何も異常はなかったそうですから、彼女を回復させるなんて、朝飯前だといわれました。」

確かに現代医学の進歩はすごいものだ。だけど、それがすべて善であるとは限らない。

「ええ、まあね。確かによほど酷い病気で無ければ、大体の人は治る時代になりましたね。」

懍もちょっと苦笑いを浮かべた。

「ありがとうございます!青柳先生!俺、すぐ言ってきますよ。思い立ったら即、実行しなくちゃ。よし、いくぞう!」

華岡は急いで応接室をとびだしていった。やはり、そういうところが、軽薄だと懍も恵子さんも思うのであった。


数日後。華岡の運転するセダンに乗って、吉村文が製鉄所にやってきた。利用者たちは、新しい食堂のおばさんがやってくるというので、期待した顔をしている。文が、懍や恵子さんたちと挨拶をして、新しい居室に案内されるのを、たまたま見ていた利用者は、彼女のその美しさにおどろいてしまった。

「おい、新しい食堂のおばちゃんを見たぞ。」

と一人の利用者が、別の利用者に言った。

「どんなおばちゃんだった?」

「おう。それがよ、びっくりするほど綺麗な人だったぜ。何か恵子さんよりもずっときれい!」

「そうか。それでは、今度はあたらしいおばちゃんに料理作ってもらうのが、楽しみになるな。」

男性の利用者たちはそんなことをいっている。確かに、新しくやってきた手伝い人は、おばちゃんというのは一寸勿体ないほど綺麗だった。年齢は確かに50代と聞いていたが、とてもそうとはみえなかった。

「結婚しているのかしら、あの人。」

女性の利用者が、そんなことを言った。

「ええ、それが、未亡人だって。なんでも、ご主人と息子さんを失くしているんだって。」

別の女性がそういった。

「本当に50代の未亡人?そんな風にはみえないじゃない。若しかして、女優さんでもしていたのかなあ。」

「いや、そういうことはしていない、普通のお母さんだったそうよ。」

「そうなのねエ。何だかどっかの女優さんで、似たような顔をしている女性がいたような気がするなあ。」

男性も女性も、利用者たちは新しい食堂のおばちゃんのことをそう話していたが、一人だけ、そんな話にはいってくることが出来ない男がいた。彼は、足が少し不自由で、日頃からみんなとなにかするには一寸ずれているような男だった。名前を横山清太と言った。みんな、新しいおばちゃんの事で、夢中になっているけれど、自分のような弱い男には、どうせどの女性も寄り付かないだろうな、と清太は勝手に考えていた。

新しい食堂のおばちゃんは、名前を吉村文といった。みんな彼女のことを文さんと言って、なにかあると、積極的に彼女に話しかけた。勿論清太を除いて。

「文さん、ちょっと目玉焼きを作って貰えないかしら。」

恵子さんが、彼女に、そう声をかけた。

「目玉焼き?」

ところが彼女は、そのやり方を知らなかった。フライパンの前に立たされても、文は呆然としている。

「知らないの?」

恵子さんが聞くと、文は申し訳なさそうに頷いた。

「だって、息子さんに食べさせてなかったの?」

「ええ、料理はいつもコンビニで買ったものばかりだったから。」

文がそうこたえると、恵子さんはちょっと呆れた顔をした。

「普通、女なら、料理を習っていたと思うんだけどな。」

「ごめんなさい。うち、料理していたのはもっぱら主人の担当で。」

文も、ここへ来たら嘘はつけないと考えたのだろうか、正直にそれをこたえた。

「主人の担当?それじゃあ、文さんは息子さんと誰の料理を食べてきたの?」

恵子さんがそう聞くと、

「ええ、主人がやってたの、うち、夫婦で弁当屋をやっててね。それで主人がお料理作ってあたしが、店で接客していたのよ。」

と、文はこたえた。という事は、ご主人はとても優秀な調理師だったのだろうか。それで、二人で弁当屋をしていたのだろう。

「あたしは、料理なんて、若いころに一寸やっていたんだけど、そのうち忘れちゃった。主人ばかりが料理作るもんだから。あたしは、平凡な普通高校だったけど、主人は料理学校ちゃんとでていて、なんでも作ってくれたから。」

そうか。それでそのうち、自分で料理することを忘れてしまっていたのかな、と恵子さんは思った。

「でも、そのご主人は、もうなくなっているのでしょう?」

「ええ。過労というものだったんです。あたしが様子がおかしいと聞いて、病院に連れて行った時はもう手遅れだった。息子は、父親が死んだってこと、ちゃんと理解しなくてね。いつか父ちゃんは必ず帰ってくるって、口癖のように言っていたけど、半年くらいして、何も言わなくなったわ。」

「そうだったの。息子さんは、なにか障害でもあったの?」

「ええ、一寸ね。世間では知恵遅れというのかしらねえ。あたしも、病名をちゃんと言われたんだけど、一緒に暮らしているうちに忘れちゃった。」

「そうかあ。」

恵子さんは、はあとため息をついた。

「でも、ここへ来たんだから、目玉焼きの作り方を覚えてもらうわね。目玉焼き、卵をフライパンの上で割ってみて。」

恵子さんに言われて、文は卵を割った。でも、卵の黄身は綺麗に崩れてしまって、目玉焼きにはならなかった。

「ごめんなさい。割れてしまったわ。」

「それは気にしなくていいから、火をつけて、弱火で蒸し焼きにするの。先ず、火をつけて見て。」

文は急いでガスコンロに火をつけた。

「そんなんじゃ火が強すぎる。弱火にして、蓋を閉めて。」

その通りにする文に、恵子さんはにこやかに笑って、

「料理の仕方を覚えれば、あなたも少し、気が楽になったんじゃない?」

と言った。

「そうね、、、。」

恵子さんにそういわれて、文は、ちょっと笑ったが、でも表情は暗いままだ。顔つきは本当に綺麗なのに、もうちょっと明るくなってくれれば、いいのになあと思う恵子さんだった。

「さて、一つできたらどんどんお皿に盛り付けて、あと5個は作ってよ。今の利用者は、丁度男三人、女三人いるんだから。」

「わかりました。」

文は、恵子さんに言われたことを復唱するようなつもりで目玉焼きを作った。何だかそれをしていると、急に息子のことを思い出されてきて辛くなった。ああ、慎吾にもこうして作ってやれたら、もっと長く一緒に居られたかなあ、と。

「ほらあ、なに止まっているの?早く目玉焼きを作って。」

恵子さんにそういわれて、文はすみませんと言って、最後の目玉焼を作った。それを盛り付けて、六人分の食事を作ることに成功したのである。

「みんな今日のは潰れているけど、おいしい目玉焼きだ。」

と、男性の利用者たちは、新しいおばちゃんが作った目玉焼きをおいしそうに食べていた。

「おばちゃん、どうしたんですか。涙何か流して。」

ふいに、一人の利用者がそういった。確かに新しい食堂のおばちゃんを見ると、涙を流している。

「いいえ、皆さんの顔を見ていると、ちょっと思い出してしまって。」

「ああ、なくなられた、息子さんの事ですか?」

女性の利用者がそう聞いた。

「もう、おばちゃんの悲しみを助長するようなこと言っちゃだめよ。」

となりに座っていた別の利用者がそういう。

「ここでは、あたしたちも、誰かを失ったりしているんだから、お互い様にしましょうよ。あたしたちだって、親が勝手に離婚したり、死んだりして、喪失体験しているんだからさあ。」

「そうねえ。外の世界ではみんな冷たいひとばっかりだけど、ここでやっと、気持をわかってくれる人に出会ったのよ。それで良かったことにしましょうよ。このおばちゃんだって、息子さんを失くすっていうすごい喪失体験したんだし。あ、勿論おばちゃんがあたしたちに話してくれるんだったら、喜んで聞いてあげましょうね。」

「そういうことが、当たり前に話せる環境なのね。」

文は、思わず言った。

「ああ、おばさんは、そういうことが話せる環境じゃなかったんですか?」

利用者の一人が又聞くと、

「ええ、そうだったのよ。誰にも相談できなくて。」

と、文はこたえた。

「え?ええ?だって、誰かに相談するもんじゃないんですか?確かに、相談するにはすごく勇気がいるかも知れませんよ。だけど、人間誰でも誰かに話せる人がいないと、やっていけないと思いますけどね。うちの親も、あたしが引きこもりになった時、すごく悩んでいたみたいだけど、ここに送ってくれて、結局良かったとあたしは思っているのよ。ほら、親といつまでもいるとさ、何だかこじれちゃうばっかりで、どうしようもないでしょう。だから、あたしもこっちへ来て良かったのよ。」

利用者が長々と話すと、文は自分がしたことについて、酷く後悔して泣いた。ほかの利用者たちは彼女を責めることはしなかった。代わりに、若い男性の利用者が、にこやかに文にいう。

「おばちゃん、だったら俺たちに全部話しちまえよ。おばちゃんが泣くと、折角きれいな顔なのにさ、それが全部なくなってしまうんだわ。あ、それとも俺たちみたいな若い男は、話し相手にならないかなあ?」

「お気持ちは貰っておくわ。でも、あたし、皆さんにお話しできる資格なんかないわよ。皆さん、ご両親も健在で、今でも元気でいるんでしょ?その人たちを傷つけたりダメにしたようなことはしていないでしょ。」

と、文は、涙をこぼしながら利用者たちにいうのだった。


そのころ、富士警察署では。

「えー、吉村文の出身地がわかりました。出身は東京都豊島区大塚です。旧姓は石田文。地元の高校を卒業して、大学を卒業後、料理人の吉村和彦と結婚。文と和彦は、恋愛結婚ではなく、石田家の借金を吉村の両親が結納金を支払うことで、返済する、いわゆる政略結婚という奴でした。」

と、若い刑事が演説していた。別の刑事が手を挙げて、

「吉村家は、代々弁当屋をやってきていて、和彦はその次男。弁当屋本家は長男が継ぎ、和彦は独立して弁当屋を建てました。そして、静岡県富士市に移り住み、二人で弁当屋を続けていたそうです。二人は子どもにはなかなか恵まれなかった様ですが、五年後に、一人息子の慎吾が与えられました。」

と言った。

「で、慎吾が生まれてからの生活はどうだったんだ?」

華岡が質問すると、

「はい、始めのころは万事うまく行っていたそうです。しかし、慎吾は脳機能に問題があって、感性こそいい子どもではありましたが、近所づきあいが悪く、母を助けるつもりだといって、店で万引きを繰り返すなど、問題の多い子どもだったと、弁当を良く買っていた客から聞くことが出来ました。」

と、始めの刑事が言った。

「なるほど、その万引きのことをもう少し詳しく。」

「はい、慎吾は知的発達の遅れが目立ち、特に言葉によるコミュニケーションはまるで成り立たないと言われていたそうです。それに、自分のモノと他人のモノの識別が全く出来なかったそうで、よく店の商品を万引きしていたということも聞きました。近所の人たちは、それを始めは黙認していましたが、慎吾が万引きを繰り返すため、次第に吉村家に冷たく当たるようになったようです。」

華岡がそういうと、若い刑事はそう語った。なるほど、これでは他人に相談をするのもしにくくなるだろうなと華岡もわかった。

「それでは、慎吾を何とかしようという試みは行われなかったのだろうか。例えば、矯正する教官の先生をつけるとか、養護学校のような所へいかせて勉強をさせるとか。多分、家族だけで重い障害

を持った子どもを育てるということは出来ないと思うぞ。」

と、華岡が発言すると、あのノンキャリアの老刑事が、しずかに手を挙げて言った。

「いえいえ、警視。日本では、そうするためにはまず第一にどこかへ閉じ込めて置くしか方法はありませんよ。もし、そういう障害のあるものが、堂々と道路を歩くのを望むなら、日本から脱出するほかに方法はありません。」

「そうですねえ。確かにそうだなあ。それだからあの、相模原事件のようなことも起こるわけだ。」

「確かにあの事件は、日本は障害者と共生するには、彼らを分離しなければならないと教えてくれたような事件でしたものね。」

彼の言葉に、若い刑事たちもそういいあった。

「だからですね、慎吾くんを理解してくれるように、夫婦でご近所を回ったりしていたんだと思いますよ。でも、結局、理解は得られなかったんでしょうな。その間に、何らかの原因で、夫である和彦さんが死亡してしまった。吉村文は、店を畳んで、あのアパートに引っ越してきたのですが、二度と慎吾くんが事件を起こさないように、彼に食事をさせないで殺害したんでしょう。これでこの事件の謎が解けますよ。司法解剖の結果、慎吾くんの胃には水も何もはいっていなかったんですからね。文に殺意があったこともこれで明確ですよ。」

老刑事がそういうが、

「そうなんだけどねえ。俺はそれではどうしても納得できんなあ。もし、慎吾くんを本当に殺害しようという気になったのなら、自分まで死のうと思うだろうか。俺はそこが腑に落ちないんだよ。」

と華岡はそれを否定した。

「それでは、警視はやっぱり心中したのだとお考えですか?」

若い刑事がそう聞くと、華岡はウーンと考えこんでしまった。

「ですけど、子どもを殺害して、事故に見せかけるための、偽装工作だったんじゃありませんか。そう見せかけるために、わざと自分も熱中症になったように見せかけて。」

「いや、それはどうかなあ。本人も生きるという気をほとんど失くしているんじゃないか。だって近所の人との交流もほとんどなかったわけだから、これ以上生きたいという気にはならないだろう。慎吾君を殺害して、自分は新たな人生を生きようとするのであれば、遺体を放置して家をでていくと思う。それにあの部屋では、現金がほどんどなかった。たぶん、家賃を払うためにすべて使ってしまっていたのだろう。もし、新たな人生を生きようとするのなら、現金をためて逃亡すると、俺は思うのだが。」

「どうも警視は、こういう事件のことになると、同情的になってしまうんですね。それだから、ほかの人に言われるんじゃありませんか。あいつはとっても下手だって。」

どこまでいっても捜査会議は平行線のままだ。本当に、こんな上司をもって、俺たちは何をしているんだろと部下たちも思っているらしい。華岡も華岡で、この事件の何を解明すればいいのか、踏ん切りがつかないでいたのだった。

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