怒りの日
増田朋美
第一章
怒りの日
第一章
今年の夏は、いつもより暑くて、三十年に一度の異常気象とか、そんなことをいわれていた。もうすぐ九月になるというのに、ひたすらに暑い日が続いている。暦のうえではもう秋なのだが、そんな事
、あてになんて全くならない。
ある日、華岡が、田子の浦地区をパトロールしていた。ちょっと休憩しようと、あるファミレスの駐車場でパトカーを止めると、突然その近くの家に住んでいるおばさんに、声をかけられた。
「すみません、警視さん。ちょっと、あなたの権限で、あのアパートにはいってみてくれませんかね。」
「は、はあ一体何でしょう。」
いきなりそんなことをいわれて、華岡は一寸面食らってしまう。
「あの部屋から連日、変な匂いがするんですよ。何の匂いかわからないけど、変な匂いが。ちょっと何が匂っているのか、見てくれませんか?」
そういわれて、華岡は困ってしまう。第一誰かの家に勝手にはいったら、不法侵入とまちがわれてしまう可能性もあるからである。
「見てやってって、例え警察であっても、他人の部屋には勝手に入れませんよ。」
「そういわれても、変な匂いがするんですよ。警察は住民の困っていることを解決してくれることが仕事でしょ。だったら、ちゃんと仕事をしていただけませんか。」
ウーン、と華岡は呻った。確かに苦情を受け取ればこたえなければいけないのが、警察というものであると考え直して、華岡はしかたなく、おばさんの後について、そのアパートへ行った。
「すみません、警察ですが、近所の方から、部屋から異臭がするという連絡がありましたので、ちょっと中を見させていただけないでしょうか。」
玄関のドアをたたいてみるが、反応はなかった。留守かどうかを確認するため、ドアノブを握ってみると、鍵はかかっていなかった。おかしいなあと思って、がちゃん
と戸を開けてみると、確かに部屋は異臭で充満していた。一体何の匂いかと思ったら、そう、人が腐る匂いだった。余りにも臭くて息のできないほどである。これは一大事だと思った華岡は、すぐに靴を脱いで部屋の中にはいった。すると、部屋はエアコンもついておらず、猛烈な暑さであった。華岡が居間へ行ってみると、一人の女性と一人の男性が、重なり合うようにして倒れているのが目にはいったのである。
「わあ、これはたいへんだ。無理心中でもしたのかな。」
華岡は、二人の周りを見渡したが、何処にも血痕はなく、二人の体には殺傷痕もなかった。なので殺人という訳ではなさそうだ。それでは毒物でも飲んだのかと思ったが、それならくるしんで嘔吐したような痕もなかった。とりあえず華岡は、監察医の山田先生のところへ電話し、部下の刑事たちにも連絡を取った。
部下たちが来るのを待っている間にも冷静に観察する。二人の性別は間違いなく男性と女性だ。男性の方は、30代もいっていないと思われる若い男だった。もう一人の女性は、50歳から60歳前後のおばさんだった。そうなると姉弟というにはちょっと無理があるので、間違いなく母子であろう。近くにあったテーブルのうえには、この男性によく似た顔をした中年の男性が微笑んでいる写真が
置かれていたので、華岡はまずそれを確信した。倒れている男性のほうは、すでに息はなく、冷たくなっていたが、女性のほうが、まだ体は暖かく、わずかばかり息をしていた。
「よし、すぐに救急車も呼ばなくちゃ。」
華岡は急いで119番通報をした。暫くして部下たちが駆けつけ、救急隊もやってきて、監察医の山田先生もやってきた。山田先生も彼女はまだ息があると確認をして、急いで救急隊に頼み、病院
へ運んでいく。男性の方は、すでに手遅れではあったが、司法解剖するからと言って、別の病院へ運ばれた。
「それでなあ。」
華岡はお茶をすすった。
「まあとにかくなあ、母親のほうが無事に助かったので、事情を聞こうと思ったんだがなあ。彼女、死のうとした理由を一切話してくれないんだ。そんなこと、とても恥ずかしくて言えないんだそうだ。」
「はあ、で、とりあえず身元はわかったのか?それがわかって公表すれば、親戚の誰かが名乗り出てくれるかもしれないじゃないか。」
蘭が華岡の話に対してそういうと、
「ああ、名前はアパートの大家さんに聞いて、吉村文さんという名前で、なくなった息子の方は吉村慎吾さんという事はわかった。でも、親戚縁者が何処に住んでいるのかは、大家っさんも全く知らなかったようだ。家賃は毎月しっかり払ってくれているので、大家さんは吉村さんたちが、事件を起こすほど、困窮しているなんて夢にも思わなかったそうだ。」
華岡はぼそりとこたえた。
「それでは大家さんとして職務をしっかりはたしていないんじゃないか?」
蘭が又聞くと、
「いやあ、最近の大家さんは住民のプライバシーを守るため、余り住民の生活に介入しないんだよ。」
と、華岡はこたえた。確かにそれは現代的な住宅事情だった。大家さんだからと言って、住民を支配するようなことはしてはいけないことになっている。
「それに、彼女の体を調べてもらったところ、殺傷痕もなければ毒を飲んだ形跡もない。だから、殺人とは考えににくい。山田先生の話によると、部屋の窓は何処も開いておらず、エアコンもしていなかったので、彼女は熱中症で倒れたのではないかと思われる。さらにおかしなことに、息子の慎吾さんのほうは、解剖の結果、胃に内容物がほとんどなくてだな、死因は餓死であることが判明した。」
どうも妙な話だ。戦時中でもあるまいし、今時食べ物を得られなくて死に至ってしまうなんてあり得るだろうか?
「つまるところ、ご飯を食べられなくて、死んだという事か。」
カレーを作っていた杉三が、そんなことを発言した。
「つまり、それほど貧しかったという事だろ。どこかの有名な映画の主人公みたいにさ、ほら、えーと、何て言うタイトルだったかなあ。あのテレビアニメの。」
「ちょっと待てよ、杉ちゃん。今の時代を考えてみろ。今は昭和二十年じゃないだろうが。こんな、飽食の国と言われる時代にだよ。ああいう死に方をする奴はいるだろうか?」
杉三のいい方に、華岡は反発するが、
「だってそれ以外考えられんでしょうが。山田先生の診察結果だって、そう出たんでしょう?だったらその通りに動かなきゃ。まあ確かにさ、焼夷弾というものは70年もむかしに終わったのだろうが、それ以外の事では、まだまだあるんじゃないの。」
と、いわれて黙ってしまった。
「しかし、華岡。確かにこんな時代、餓死というものはちょっとあり得ない話だね。なにか、大きな災害があった訳でもないしね。まあ、危険な暑さというものはあるが、それで大の大人が二人とも倒れるということはあるのかな?確かに、50代60代であればわかるけど、30にも満たない若い男が先に逝くという順番がおかしい。」
蘭がまたそういいだした、蘭という人は、時に話を変な方へ持っていってしまう癖がある。
「うんそれはわかる。だから、慎吾さんの遺体はどこかに病変がなかったかどうか、山田先生に調べて貰おうと思ってるんだ。」
「しかしだよ、華岡。それだっておかしいよ、病気があったらだよ、医者に見せるだろ。そしてさ、医者がなにか公的なサービスを受けられるよう、指示を出すんじゃないのか?例えばだよ、足が悪くなったら車いすを借りられるように、手続するだろう。もし、自分では、手続するのが難しい人でああれば、病院のケースワーカーが代行するとか、そういうことをしてくれる筈なんじゃ無いのかなあ。それに、例えばだよ、母親のほうに兄弟が要るとか、そういう人たちが放置しっぱなし何てことあるかなあ?一大事が起こったら、親戚が集まって会議をするとか、そういうことしない?」
「蘭は金持ちだな。」
完成したカレーを皿に盛り付けながら杉三がいった。
「それをするなら、金を払うことが必要じゃないか。それが出来なかったと事だろう。それだけの話さあ。」
「そうだなあ、杉ちゃんのいうとおりかもしれないぞ。いくら誰かが何とかしてくれると言っても、それを表現するのもなかなか出来ないしな。俺、見たことあるよ。変な宗教はまってさ、汚い部屋でも放置していた人。そういう人だったのかもしれないな。」
華岡は腕組をした。そして、杉三が用意してくれた、カレーをばくばくと食べ始める。
と、同時に華岡のスマートフォンが鳴る。
「あ、もしもし俺だ。ああ、そうか。なるほどな。わかったよ。え?何をしているかって?はいはいわかったよ。すぐにもどる。」
と言って華岡は電話を切った。
「何?どうしたの?」
と、杉三がカレーをたべながら聞くと、
「ああなんでもな、あの慎吾という奴、やっぱりどこかに病変あったみたいだ。山田先生によると、脳
の一部にどこか損傷があったらしい。それでは、一人で暮らすなんて、到底無理な話だ。多分、歩くのだって、無理だと思われるほどだった様だ。でも、俺がみた限り、事件現場に車いすとか、そういうものは何一つなかったな。」
と、華岡はこたえた。
「ほら見ろ。やっぱり、金がなくて、そういうものを受けることも出来なかったのよ。そういう事。」
サラリという杉三に、蘭はそんなこと言っていいのかと、変な顔をして杉三を見た。でも、杉ちゃんも着物を直すとか、仕立てるとか、そういう事で、金を得ているんだっけなと考え直した。そうなると、自分たちは障害者ならではのやり方で生きているのかもしれない。それが出来るのは、やっぱり僕たちは恵まれているのかなと思う。
「じゃあ、俺、悪いけど、署にもどるわ。杉ちゃん、ありがとな。又よろしく頼むよ。」
と、礼を言って華岡は、玄関から外へ出て、急いでクルマに乗り込んでいった。
署に戻ると、部下たちが、我先にと急いで結果報告をした。まあその大半は大したことはないといつも聞き逃していたが、今日の報告は華岡も真剣に聞く。それによると、大家さんは家賃をしっかり払っていたので、二人が生活に困っていたのは知らなかったという。新聞を取っている訳でもないし、定期的に雑誌とか、宅急便が届いたりするような家でもなかった。近所の人たちが、定期的に食べ物を届けられるような、そのような付き合いもなかったという。アパートの住人たちも、そこに人が住んでいたということは知っていたが、それ以外はなにも知らないとしか報告はなかったという。
「という事はつまりだよ。家賃を払う事に精一杯で、ほかのことをする余裕がなかったんだろうか。それならもっと安いアパートに変更するとか、そういう事すれば良かったのではないか?」
と、華岡はそういうのであるが、
「いやですねえ、警視。今では引っ越しだって引っ越し屋さんに頼むと、御金がかかるでしょ。」
何て部下にいわれて黙ってしまった。
「まあ、誰でもみんなそう考えるんだろうが、今回の事件は、誰でもみんなそれで当たり前だと思っていることが、全部あり得ない家庭がまだあることを教えてくれた様ですなあ。」
ノンキャリアの老刑事がしずかにそういった。
「そうだけど、何かあったら、親戚が駆けつけるとかそういうことはしなかったのかなあ?」
若い女性刑事がそういうと、
「いやあ、なにかあったのかもしれませんよ。トラブルを起こして、追い出されてしまったとか、そういうことは今だったらあり得るのではないですか。昔ほど、助け合おうという機会は、失われて降りますからなあ。」
老刑事がそういい返した。
とりあえず、捜査会議は終了し、それでは、と、華岡たちは自宅に帰っていく。
まだ気になることがあって、華岡は、病院へいった。あの女性、吉村文を訪ねようと思った。彼女が何の罪を犯したのかは、現時点ではまだ確定できない。彼女が回復するのを待って、取り調べを行う事にしているが、それが出来るようになるには、もうちょっとかかりそうだと山田先生にいわれていた。
「こんばんは、」
と、華岡が、病院の正面玄関からはいると、
「ああ、刑事さんですか。どうもご苦労様です。」
と、ちょっと年配の看護師が、華岡に声をかけた。
「あの、吉村さんは。」
華岡が聞くと、
「だいぶ良くなってきたようですが、生きる気力がなくなってしまった様で、病院の食事も嫌がってしまうのです。」
と、答えが返ってきた。それを見て、華岡は、何だかある人物に似ているぞ、と思ってしまった。
「じゃあ、会わせて貰う訳には行きませんかね。」
「まあ、刑事さんですから、いいんじゃありませんか。だって、刑事さんが何とかしてくれなかったら、あの人、どうにもなりませんでしょう。」
と、看護師は、困った顔で華岡を見て、彼女のいる部屋に案内してくれた。
丁度、吉村文が入院している部屋に行くと、山田先生が華岡の来るのを待っていた。
「ああ、華岡さん。一寸相談したいことがありましてね。」
山田先生が、病室から出てきてそういった。
「何でしょう。」
「あの、これからのことについてですよ。彼女は、あのアパートへ戻すんですか?」
「は?」
変なことを聞かれたと思って華岡はおもわず面食らった。
「華岡さん彼女は、あの部屋に戻すのでしょうか?」
山田先生はもう一回聞く。
「いや、回復したら、すぐに署へ身柄を移して、取り調べを行います。」
「それが終わった後はどうするんですかね。多分きっとこの事件は、すぐに解決すると思うんですよ。ただ、病気の息子と母親が、熱中症になって自殺を図っただけの事でしょう。今、本人から話を聞きました。暑さを理由にして、二人で死のうと考えていただけだったのだそうです。看護師たちにいもそういっています。死んだ方が、二人とも迷惑をかけないで済むので助けてくださらなくて良かったのにと、大きな声で泣いておられました。」
華岡がそういうと、山田先生はそんな話を始めた。この言葉だって、毎日のように聞いている言葉なのだ。そんなに、生きているということは嫌だったのだろうか、と華岡は毎回疑問を投げかけていた。
「それしか、解決の道は本当になかったのでしょうか。」
華岡は、山田先生に聞く。すると、後ろの方から、半狂乱になった女性の声が聞こえてきた。何だと思ってよく聞いてみると、こう聞こえてくる。
「折角、あたしたちの計画がうまく言っていたのに、アンタたちはどうして邪魔するんだ!どうしてあたしたちを死なせてくれなかったんだ!そんなに邪魔するのなら、責任を取って!」
「又ですよ。」
山田先生はしずかにいった。
「毎日この言葉の繰り返しです。もしよろしければ、精神に異常があることも考えられるから、精神病院にでも搬送する必要があるかもしれませんね。」
「本当に、それしか、なかったのでしょうか。」
華岡は、また考えこんだ。
「それ以外になにか助かる方法は。」
また考えこんでいると、また声が聞こえてくるのだった。
「アンタたちは、身勝手に生きているのが貴いと言っているけれど、あたしたちに取ってはたいへんな迷惑なんです!さっさと放置して殺してくれればいいでしょう!あたしたちはそれを実行しようとしているだけなのに、なんで邪魔をするんですか!」
「安定剤取ってきて!」
山田先生は、廊下を通りかかった看護師にいった。
「あたしたちが、生きていない方が、みんながしあわせになれるんです。それは正常な事であって異常ではありません。それを実行しようとしているだけの事です、その何が悪いというのですか。だって、こうして迷惑な人間が消えてくれれば、アンタたちは悲しむより喜ぶでしょう。それを実行しようとしているだけの事ですよ。だから邪魔しないで死なせてください!」
声はそう聞こえてくる。
「ははあ、若しかしたら彼女、どこかとトラブルがあって、自分が生きていて良かったと思ったことがなかったのかもしれないな。アパートの大家さんも、近所付き合いはほとんどなかったといっていたし。それともなにか新興宗教でも信じていたのかな。セクトとなってしまうような。それで、周りの人から煙たがれていたとか。それか、息子が、アルコール依存にでもなって、近所とトラブルを起こしたとか。」
華岡はそう考えるが、部下の一人が、近所の人は、息子の存在すら知らなかったと言っていたことを思い出した。つまり、息子がいるということを、彼女は周りに人に公表していなかったのだ。若しかしたら、それもなにか理由があるかもしれない。
「先生!持ってきました。」
看護師が、精神安定剤を入れた注射器を持ってきた。山田先生は病室へもどる。数分後、あれほど騒がしかった大声は、どこかに消えてしまっていた。
「ちょっと、顔を見てもよろしいですかねえ。」
華岡は、もどってきた山田先生にいった。山田先生は、まあ寝ているからいいでしょう、といってそれを許可してくれた。
「もし、暴れる状態が続けば、精神科へ連絡をしてみます。えーと、この辺りで触法精神障碍者を入れてくれるところは何処でしたっけ。」
と、いう山田先生だが、華岡は、それはしないほうがいいと思った。病院に入れてしまうと、患者は
そこの味を覚えてしまって、二度と一般社会に帰れなくなってしまう可能性があるからだ。以前、そういう人を精神科へ連れて行った時、これでは病院がパンクする羽目になると、医者が愚痴をいっていたのを聞いたことがある。
でも、本当に彼女は行くところが何処にもなかった。あのアパートの大家さんも、彼女を再び入居させるとかえってアパートにわるい評判がでるからと言って、断ってしまった。そういう意味では彼女を助け出しても何の利益にもならないという事かもしれないが、華岡は、生きるに値しない命というものは存在しないという、むかしの哲学を守りたかった。
「そうだ、あそこへ連れていけばいいぞ!」
ふいに華岡はそう思いつく。あそこであれば、多少の罪を犯した人であっても、彼女を受け入れてくれるのではないかと。
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