私に何を求めるのですか?

 焦点の合わぬ目をした女に突き落とされて、私は今落下している。どこまでも広がる青い空、下を向けば、枯れた大地が見えた。どう考えたって、このまま落下してしまえば、私の人生は終了してしまうような気がする。何回死ぬんだ。地面がだんだんと近づいてきて、浮遊感が強くなって。


「…………」


 地面についていた。原理はよくわからないが、とにかく私は大地にたたきつけられることはなく、地に足をつけることができたのだった。痛い思いをしなくてすんだのは、本当によかった。何度も何度も想像したことがないような痛みを感じる機会などほしくはないものだ。

 ああ、本当に人生で経験したくなかったことばかり経験しているような気がする。こんなことになるなら、普段から夢想などしなければよかった、ともうどうしようもないことを考えてしまうくらいには嫌な目に遭っていた。ある意味驚きの連続で、退屈しようはないけれど、こんなのは本当に求めていなかったというのが本音だ。

 これ以上悪いことが起きるのは嫌だ。いやだ。だというのに。


「…………」


 私は、いま、勇者様!勇者様!とはやし立てられている。どこからともなく現れた村人たちに囲まれて。必死すぎて、怖い。求めてない、こんなの求めてない。

 はやし立てる村人らしき人も、目の焦点が合っていなかった。周りにいる人間はみな目がイッてしまっている。正気な人間が一人もいないようだった。最悪だ。あの女に囲まれているようで、気分が悪い。汗が止まらない。早く逃げたい、一刻も早くここから。

 悪夢が続いている。いいやこんなリアルな夢、お断りだ。現実だとしても非常にお断り案件ではあるのだが。どうして私がこんな目に遭わなくてはならないのか。疑問しか浮かばない。


「勇者様!どうかこの世界をお救いください!」


 少し前に、あの女に言われた言葉を村人は繰り返し言う。胃からせり上がるものをなんとか押さえつけて、「いやです」と言おうとした。言おうとしたのだが。

 言葉が出ない。空気が抜ける音だけが空しく響いた。どうして。


『いいでしょう!私がこの世界を救ってみせましょう!』


 どこからかそんな言葉が響いた。なぜ。

 村人は沸き立って、ぐるぐると私の周りを回りながら、さすが勇者様だとかふざけたことをぬかしている。どこからか聞こえてくる私の声のようなその音は、都合の良い言葉を吐き出していた。それは私が考えていることではなく、思ってもいないことをべらべらと続けている。まるであの女のように。


「勇者様にはこの奴隷と路銀を渡しましょう!どうかこれでこの村を、ひいてはこの世界をお救いください!」

『はい!』


 私の声もどきはそう元気よく返事をしたのだった。

 幾ばくかの路銀と、生気の失われた目をしている少女を渡される。ぼろきれを着せられた薄汚い少女だった。細い首には、重たそうなごつい首輪がはめられていて、至る所に殴られてできたであろうアザが残っている。痛々しく薄汚い少女を、村人は捨てるように投げてよこしたのだった。




 ◇◇◇




「…………あー」


 村から離れて数日、ようやく声が出るようになっていた。よくわからないところから響いていた偽の私の声は、たぶんあの女の仕業だろう。

 川で顔を洗う。水面に映る私の顔はずいぶんと死んでいる。頬もこけて、髭もだらしなく生えてきて、まるで浮浪者だ。なにが勇者だ、そんな風貌でもないだろうに。

 この世界で数日過ごしただけで、随分と疲弊したような気がする。それもそうか。安穏とした世界ではないし、危機感しかないような世界であるからして、ぬくぬくと生きてきた私が唐突にこんな世界に落とされたって、野垂れ死ぬのが関の山だ。

 運良く戦闘を避けていられるが、それも続くかどうか。


「…………」


 奴隷の少女はじっとこちらを見ている。


「これ、外して」

「どうやって」

「ここ」


 初めて聞いた言葉はそれだった。ひどく拙い声で、首輪を外せと要求する。首輪の真ん中辺りをさするので、とりあえず言われたとおりに首輪に手をかけた、ら。

 ガチャ、ゴトン。いとも簡単に少女の首から重苦しい鎖は外れ落ちたのだった。どういう仕組みなんだ、これは。


「ありがとう」

「ええ……?」

「外してくれたからなんでも言うこと聞くよ」


 奴隷の少女は先程と打って変わって流暢にしゃべり出した。

 目には生気がともっている。今の私よりもきっと生きる力は持っているように見えるし、一人でも生きていけそうな表情だ。なぜ。

 あの鎖にはなにか、呪いまじないでもかかっていたのではないかというぐらいに奴隷の少女は変わっていた。

 じっと見つめてくる奴隷の少女に私はポツリと願いを言う。


「帰りたい」


 無理で、荒唐無稽な願いだった。奴隷の少女にこれを言ったとしても、意味はうまく伝わるはずもない。それに、もし意味をくみ取ってくれて、もし、戻れたとしても。あの気の狂った女はそれをよしとはしないだろう。それどころか何をしてくるかわからない。

 それに、自分よりも一回り以上若い子に、しかも奴隷だった少女に、叶えられる願いではないことぐらいわかっていた。なのに、言葉は素直に自然に吐き出されてしまったのだ。

 奴隷の少女は、一瞬きょとんとした顔をして、悲しそうに笑う。


「それはできない。」

「そう、だよな」

「今すぐには。世界を救えばあの女神おんなも満足すると思う、だから、世界さえ救えば帰れるかも」

「…………あの、女。……世界を救う?」

「そう。あなたを刺し殺したあのサイコパスおんな。この世界を救って、帰ろう」

「……うえ」


 胃からせり上がるものを我慢できずに吐いた。ここ数日ろくなものを食べてないので、胃液しかでない。それでも口の中や喉は熱く、不快感でいっぱいである。川の水で口をすすぎながら、奴隷の少女の話を聞く。

 曰く。私には勇者のステータスがあるという。それこそこのまま行っても魔王を倒せるくらいの、素晴らしいステータスが。私にそれほどすごいものが与えられているような気は全くしないのだが。川に映る私は、ひどく弱そうだ。スライムにすら勝てなさそうな貧弱な男。

 曰く。奴隷の少女は一応女神であるらしい。私を刺し殺したあの女も、女神であるらしく。奴隷の少女は、あの女に騙されて、ハメられて、奴隷になってしまったらしかった。私に与えられた勇者の力でどうにか奴隷から脱したらしい。普通は、あんな簡単に外れないとも。確かに簡単に外れるなら、さっさと外しているだろう。


「それに。ほら、ね?」


 薄汚かった少女はもうどこにもいなかった。

 後光が差すような美しさを持った少女が目の前で優しく笑っている。服もぼろきれなんかじゃくなっていて、あたかも天使のような真っ白な衣服を身にまとっていた。暖かく白い翼がその背中から生えている。もうどこにも奴隷の少女なんていない。いるのは、暖かい光を纏った女神だ。


「でも、世界なんて救いたくない」

「帰りたくないの?」

「……帰りたい」

「さあこれをあなたに」


 勇者の剣だと言って、女神は私にそれを装備させる。そうして、行こうと言って、私の手を引く。されるがままに女神に引っ張られて、進んでいく。

 どこへ行ったって私は変われないのだと、ようやく気づいたのだった。

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