第三話
夕方までだらだらと寝たり起きたりを繰り返し、1日を無駄に過ごしてしまったと後悔するわけではなく、逆にこれこそ休日の醍醐味だと思う。
社会人になってそのことを身をもって実感した。朝は早く起きて身だしなみを整えて出勤。サービス残業を終えて帰ってくれば、私に残された力は布団に入って寝る、それのみだ。それを5日間も繰り返す。それも何十年と人は飽きもせず繰り返している。嫌でも繰り返さなければ、生きていけない。その事実に気付いた、新社会人1年目。私は目の前が真っ暗になったのを覚えている。生きることってなんてつまらないのだろうと。
5年も経てば、そんな疑念も消滅してしまった。いわゆる思考停止状態だ。
今では私も満員電車に揺られる「顔のない登場人物」のひとりに過ぎない。そうやって人間は夢を忘れていくのだ。
1日の最後の至福である、夕飯のコンビニのオムライスを食べ終えた20時頃に小川貴人からLINEがきた。
たかだかLINEの通知だ。なのになぜかそわそわしてしまう。なぜ?まるで高校生の頃の甘酸っぱい初恋のよう。二度と戻ってこないあの時の感情。ああ、青春。なんつって。教室の隅で生きていた私にも、心温める青春はあったのです。
[こんばんは。休みは満喫できましたか?
僕は会社の研修がありました。研修といっても堅苦しい感じではなく、同期と気軽に意見を出し合ってなんだか楽しかったです。ゆうこさんも絵を描くんですね?気になります。 僕はお世辞にも上手いとは言えない落書きレベルで絵を描いてます。なにか向上心をもって絵を描くというよりは、絵を描くことに神経を集中させてるその感覚や空気が好きなんです。気分転換みたいなものですね。]
絵を描くことに神経を集中させてるその感覚や空気か。教室の隅、真剣な眼差しで机に落書きをする小川貴人の姿が容易に想像できる。
やはり私たちは人間として同じコミュニティに属している気がする。彼はその感覚や空気を感じとったのだろうか。
それから私たちは2時間もの間、LINEでメッセージをやりとりした。
時間はあっという間に過ぎる。
絵の話、会社の話、好きな食べ物の話、実家には帰っているのか、冬がはじまるけど冬服は買ったか、風呂掃除ほど面倒くさいものはないよね話、エトセトラ。
同い年なのに敬語もまどろっこしく、最後の方はため口でメッセージを送信。彼もそれに合わせて、だんだん堅苦しい敬語を崩してくる。
2時間で少しずつ彼を知り、少しずつ縮まった距離。「絵」という共通の趣味があったことで私は彼に自然と興味をもってしまった。
私は最後に勇気を出して
[なぜ合コンでは全然お互い話さなかったのに、わたしとLINEしようと思ったのか。]と直球で聞いてみた。
[話さなかったんじゃなくて、話せなかったんだ。情けない話だけど、場の空気にのみこまれて周りに相槌をうつのがやっとだった。
実は一目みたときから、ゆうこさんの事気になってた。素敵だなって。飲み会が終わってカラオケへ行くってときになって、ちゃんと話しかけようと思ったらきみは帰ってしまった。だから奈々さんにLINEを聞いたんだ。こうやってLINEしてみて思ったけど、ゆうこさんは自分をもっていてやはり素敵な人でした。
もう夜も遅いから、迷惑でなければ明日の夜にまた連絡する。お願いがあるから。おやすみなさい]
思わぬ彼からの直球のメッセージに、私は戸惑った。
直球に対して直球できたか。
話さなかったんじゃなくて、話せなかったか。
なんだか中学生日記みたい。多分ふつうの男の人なら情けない事なのかもしれないけど、なぜか彼にはそれが自然にみえる。ただ一度会っただけなのにこう思うのが不思議だけれど。
私も彼に惹かれているのかは分からないけど、第一印象は決して悪くなかった。好意や興味ををもたれることは素直に嬉しい事だ。
数少ない私の恋愛経験では、こういう男性に興味をもたれるのははじめてなのかもしれない。今までの男が強引で早とちりな奴だけだったのかもしれないけど。思い出しただけでも、うんざりするような男ばかり。
ん?待て待て、お願いってなんだよ。そういう終わり方気になるじゃんと思いつつ、明日の楽しみができた事で気分は高揚している。彼の実体はまだつかみきれてはいないけれど、悪い人じゃない事はわかった。この流れに身をまかせてみよう。
何も怖がることはない。それではおやすみなさい。
彼のお願いとは私と電話することだったみたい。
なんだそんなことか。お願いだなんて大袈裟な。でも彼にとっては、お願いするほどの事だったのかな。
初めての電話はお互いに緊張したけれど、そんなのも数分間。なんどか沈黙はあったけれど、かれこれ2時間くらい話したかもしれない。
電話越しの彼の声は低くて、男らしく聴こえる。少し華奢な見た目とのギャップを感じる。私の声は彼にはどう聴こえているのだろう。
私たちはその電話をきっかけにより深く交流をすることになり、毎日飽きもせずLINEをやりとりした。
2週間、3週間も経てば彼とのLINEのやりとりは私にとって日課のひとつとなっていた。
朝起きる。先に起きた方がおはようという。相手はそれにおはようと答える。今日もお仕事頑張ろうという。相手はそれに頑張ろうねと答える。仕事が終わる。今日もおつかれさまと先に終わった方がいう。相手はそれにおつかれさまと答える。先に眠くなった方がおやすみという。相手はそれにおやすみまた明日と答える。
彼からいつもより返事が遅いと、なんだかもどかしくなる。私たちはまだ付き合ってさえいないし、会ったのは一度きりなのに。
でも彼が少しずつ距離を近づけてくるのが分かる。それは怯えとかではなく、私を少しずつ知ろうとする彼の優しさなのかもしれない。
私はそれを自然と受け入れてしまう。そしてもっと心をひらこうとする。あなたにもひらいてほしい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます