【小野 公平:小学五年生の思い出】(2/2)

高野さんの頼みごとの内容は、「体育館倉庫の掃除」という些細なものだった。

この学校の生徒はそれぞれ係につくことになる。放送係、保健係、飼育係など、種類は様々だ。係によって、割り振られる仕事内容は違う。高野さんが所属する、「体育係」は月に一度体育倉庫を片付けるという仕事だった。その日、高野さんは早く帰らなくてはいけない用事があるらしく、掃除を早く終わらせたかったようだ。そんなときに教室をのぞいてみると、ぼくがたまたまいたから、お願いしてみたということらしい。

「なんだか、うれしそうだね。」

高野さんと体育倉庫に向かう途中、ふと声をかけられた。顔が緩み切っているのを見られてしまったのだろうか。かなり恥ずかしい。

「え、いや、そ、そうかな」

顔が熱くなるのが止まらない。だって、そんなの嬉しいに決まっている。嫌われたと思っていた彼女のほうから、何事もなかったかのように、ぼくと接してくれたのだから。これは、願ってもいない名誉挽回のチャンスに他ならない。



名誉挽回を意識し始めて、余計に顔が熱くなったまま、体育館の裏にある倉庫の前にたどり着く。高野さんが持っていた鍵で南京錠を外し、倉庫の外にある机の上に置いた。かんぬき錠を外し、少し重そうな扉を横に開いて中に入る。跳び箱や玉入れのカゴ、サッカーボールのカゴなどが、ある程度整頓された状態で収納されている。薄暗い倉庫の中に、倉庫の上部分にある小さなはめ込み窓から、強い光が差し、倉庫に舞うホコリを照らしている。

「雑巾を絞ってくるから、小野くん、先に掃き掃除始めててくれるかな?」

よし、と深呼吸をし、体育倉庫を見渡した。

「ロッカーってどこ?」

高野さんは少し言いよどむ。

「えっと、右奥にない?」

目を凝らす。

「え、どれ? 一緒に探してよ。」

ぼくがもたもた探していると、高野さんが足音を立てて近づいてくる。その拍子にホコリが舞ったからか、鼻がふいにムズムズした。とっさに鼻と口を押える。

「ロッカー、これだよ。」

高野さんはぼくの目の前にある薄い金属でできた箱に手をかける。中を開けるとその中には掃除道具が入っていた。

「なんだ。目の前にあっ…」

ぼくはお礼を言おうとしたが、抑えてた鼻のムズムズが強まり、反射的に息を素早く吸い込む。

「ハックシュン!」

狭い体育倉庫にくしゃみが反響した。どうして、高野さんがいるときまで、こうもぼくの鼻は落ち着きがないのだろうか。急いで鼻をぬぐう。

「カゼ、治らないの?」

高野さんはそういうと、スカートのポケットを探る。多分ティッシュを貸してくれるつもりなのだろう。


その時、だった。後ろから乱暴な金属音が響いた。


ぼくと高野さんは振り返る。高野さんが小走りで扉のほうに向かい、扉に手をかけていた。金属が引っかかるような音が何回か聞こえる。ぼくはその場で突っ立っていると、高野さんがゆっくりこちらを振り向く。その顔は驚くほど白くなっていた。ぼくも扉の方へ向かい、取っ手に手をかける。思わずつぶやいてしまう。

「え、ぼくたち、閉じ込められた…?」



 それからは、二人とも必死だった。

大声を出したり、扉を何回も叩いたりした。時間帯的にすでに下校している生徒が多いというのはわかってはいたが、そうする他なかった。倉庫の手の届かないところにある鉄格子のかかった小さな窓からは出れるはずもなく、コンクリートでできた重厚な壁はもちろん壊すこともできない。外から気付いてもらうしかなかったのだ。

 日が暮れて、窓から入ってくる光が弱くなり、倉庫が暗くなってきたころには、ぼくたちは疲れて倉庫の隅で並んで体育座りをしていた。このまま帰れないかもしれない。そんな考えがすでに頭を支配していた。次第に目に涙がたまってくる。すると横から、控えめに鼻をすする音が聞こえてくる。横を見ると、高野さんは自分の抱えた膝に隠すように顔をうずめていた。肩は小刻みに震えている。

「ごめんね。わたしのせいで…」

消えかかったろうそくの火のように頼りない声で彼女は言った。

「高野さんは、悪くないよ」

震えた声で返事をする。

 高野さんが泣いている。ぼくはもうすでに大きな声で泣き叫びたくてたまらなかったのだが、それでは高野さんの不安を増長させるだけ。ぼくは男の子だ。男の子は女の子を守らなくてはいけない。ぼくは腕で目をグシグシとこすり、涙を拭う。

「た、高野さん、だいじょぶ。きっと出れるよ。」

高野さんは膝の中からじっと目をのぞかせる。

「どうしてそう思うの?」

まさか理由を聞かれるなんて思ってもいなかった。ぼくは、目を泳がせて答える。

「それはその、そう。高野さんがいるから。」

高野さんは、何か聞こえたけど気のせいかと向き直るかのように、膝に顔をうずめ直す。

「だって、その、高野さんは優しいし、すごいから。神様は見てるんだ。そうやって優しくて、頑張っている人のことを。」

とっさに思いついたことを言ってはみたものの、高野さんは俯いたまま、顔をあげない。ゆっくり息を吐いて、コンクリートの床に視線を落とす。逆効果だったか。ぼくには、彼女を元気づけることもできないのか。

「見てるのかな、神様。」

声を聞き、横を向く。高野さんが膝を抱えたままこちらを見ていた。

「わたしが頑張ってるの。」

ぼくは二つ返事で返す。

「見てるよ見てる。ものすごい見てる。だから、絶対にぼくたちは助かる、と思う。」

照れ臭かったので、だんだん声は小さくなってしまった。

すると高野さんが、静かにふふっと息を漏らす。

「ものすごい見られてるって、逆にやりずらいな。」

耳が熱い。高野さんは肩を揺らして静かに笑っている。勢いで変なことを言ってしまった気がする。暑くなった体がじっとり汗をかく。ぼくは人差し指で鼻をこすった。そのとき、鼻がムズムズした。まただ。とっさに口と鼻を押さえる。

「ハッ…ハック、ブワックジュン!」

大きなくしゃみが倉庫に響き渡った。高野さんは膝を抱えたまま強張っていた。

「ご、ごめん。びっくりさせて。」

高野さんは首を横に振る。しかし膝を抱える手には力が入っているように見える。やはり、驚かせてしまったようだ。バツが悪くなり、膝を抱えなおす。

「おーい。誰かいるの?」

突然、声が聞こえてきた。扉の向こうからだ。ぼくたちは驚いて顔を見合わせる。この声は、先生だ。ぼくたちは扉に駆け寄り、先生を呼ぶ。鍵が開く音が聞こえ、大きな音を立てて扉が開く。そこには、驚いた顔をしたぼくたちの担任の先生と岩井さんが立っていた。先生の顔を見るや否や、ぼくと高野さんは泣きながら、先生の胸に駆け込んだ。

「怖かったね。もう大丈夫だよ。」

先生はぼくたちの頭を優しく撫でながら言った。



先生が言うには、経緯はこういうことらしい。岩井さんが用事を終わらせて教室に向かったが、ぼくが教室にいないので、しばらく待っていたそうだ。しかし、一向にぼくが現れないので、先生を呼びに行き一緒に辺りを探していたところ、聞き覚えのあるくしゃみが倉庫から聞こえてきたので、慌てて駆け込んできたと先生は一連の流れを説明してくれた。

鍵自体は倉庫の横の机に置かれたままで、誰かが間違って閉めてしまったのだろうという結論に至った。一時間ほど閉じ込められて怖い思いはしたものの、大きな実害はなく、ぼくも高野さんも原因究明は求めなかった。



ぼくたちは先生に促され、教室に戻り、帰路についた。高野さんとぼくは、ランドセルとリュックを背負って廊下を並んで歩いた。横目でチラッと見ると、高野さんの顔が、少しほころんでいるような気がした。目は少し腫れているが、どこか晴れやかな表情に見える。

ぼくは静かに息を吸って、尋ねる。

「あの、もうこんな時間だけど大丈夫?」

高野さんはこちらを見た後、首を傾げた。

「なにが?」

「急がなきゃいけない用事があったんでしょ?」

高野さんは、ああ、とつぶやき、苦い顔をする。

「そういえば、大遅刻かも」

「あの、一緒に謝りに行くよ。」

声が上ずってしまった。高野さんは首を横に振る。

「小野くんが悪いわけじゃないでしょ? 気持ちだけもらっておくね。」

高野さんは、優しく微笑んだ。

「ありがとう。小野くん。」

廊下はもう薄暗かったが、その笑顔だけは夕焼けに照らされて鮮明に見ることができた。同時にぼくは確信した。きっと近いうちに、ぼくは彼女を、あの近所の遊園地にある観覧車に誘うであろうと。

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