人はみな、夕闇に揺れる

かもめ

【小野 公平:小学五年生の思い出】(1/2)

「びええええええええん!」

四年一組の教室に、ぼくのテンプレートのような泣き声が響き渡る。鼻炎持ちであるぼくは、普段から鼻水を垂らして過ごすのに慣れている。しかしこの日は、そこに涙が加わり、まるで顔に水鉄砲を当てられたような有様になっていた。

「こうへいくん、だいじょうぶ?」

隣の席の女の子、高野さんがぼくに声をかけた。ふと高野さんのほうを見る。高野さんは心配そうにこちらの様子を伺いながら、絹のような滑らかな長髪を耳にそっとかけた。雪のような白にほんのり桃色がかった頬が、髪の間からわずかに顔をのぞかせる。ぼくはいけないものを見てしまったかのように、慌てて顔を両手で隠す。

ぼくが泣いている理由は、母親に買ってもらった大事なシャープペンを失くしたからだ。誰がどうこうという話ではない。それにも関わらず、誰よりも眉を曲げて心配してくれている目の前の女の子に、バツの悪い気持ちになる。目頭はさらに熱さを増していく。

「びええええええええええええん!」

周りの生徒のひそひそ声が聞こえてくる。時間は夕方。これから終わりの会が始まり、やっと家に帰れると思ったときのことだった。「タイミング悪ぃよ」とか「おれも高野さんに構ってほしい」だとか、周りの生徒は様々なベクトルの不満を漏らしている。

「高野さん。小野くん、なんで泣いてるの?」

担任の先生が、その状況に見かねたのか、早歩きで近づいてくる。高野さんは、ゆっくり首を傾げる。髪が揺れてしゃらんと鳴り、爽やかでほんのり甘い香りが漂ってくる。うっとりしてしまう。気もそぞろでいる間に、先生はぼくの机の横にしゃがみ込んだ。少し顔を上げると、鼻の穴から透明で粘り気のあるものが一筋。垂れないように鼻をすすって抑えようとするも、鼻の奥にツンとしたものを感じた。すぐに顔を後ろに振りかぶる。

「ハァックシューンッッ!!」

先生の顔に、ぼくの唾と鼻水のショットガンが、全弾命中した。さっきまで不満にあふれていた教室が、一変笑い声に満ち溢れた。恥ずかしい。ぼくはさらに息苦しくなる。涙も止まらないし、嗚咽が止まらない。

「先生は大丈夫だから、落ち着いて。」

先生は顔をぬぐいながら、僕を気をまわしてくれる。しかし、それは勘違いだ。ぼくは先生ではなく、高野さんに唾や鼻水をまき散らす様を見られてしまったことがとても恥ずかしかったのだ。恐る恐る、横目で顔を伺う。すると、高野さんは紺色の可愛らしいリュックの中を覗いている。高野さんはリュックに手を入れると、手をぼくに差し出した。

「小野くん、大丈夫?」

手の中にはポケットティッシュがあった。高野さんは澄んだ瞳でぼくの目を見据えながら、柔らかく微笑む。カーテンが揺れ、夕焼けの暖かな光が差し込んだ。オレンジの光が眩しくて、目がくらむ。高野さんにこれ以上迷惑はかけられないし、かっこ悪いところを見せたくないと思った。高野さんにお礼を言って、泣くのはやめよう。ぼくは腕で鼻をぬぐった。しかし、強く拭いすぎたのか、ふと鼻がツンとする。反射的に目を閉じた。

「ッハックソオーン!」

教室にくしゃみが響き渡り、一瞬しんと静かになる。

恐る恐る閉じた目を開く。すると目の前には、ぼくの鼻水の散弾をもろに受けた高野さんがいた。体中から血の気が引き、視界がぐにゃりと歪む。ダメだ。このままぼくは死ぬんだ。そう思ったときだった。

「すごいくしゃみだね。ふふ。」

えっ、と思わず声が漏れてしまう。そこには、くしゃみをかけられたにも関わらず、柔らかく笑う高野さんがいた。天使だなんて、陳腐な言葉ではあるが、まさにその言葉がぴったりだと思った。

「あ…あれ」

急に視界がぼやけて、目の前が真っ暗になる。後に友人に話を聞くに、ぼくはその場で倒れてしまったらしい。これまた陳腐な話だが、彼女の笑顔に撃ち抜かれてしまったという訳である。



これが、隣の席の女の子、高野成実との初めての思い出である。

彼女は誰にも優しく、容姿も端麗、成績も優秀、運動も申し分ない、まさに才色兼備な女の子。その才色兼備の裏で、いったいどれほどの努力が費やされているのか、想像もできない。周りの女の子は彼女に憧れ、男の子は彼女に釘付けにされた。もちろん、ぼくも例外ではない。高野さんのことが好きだった。もし叶うのであれば、一緒に乗った二人は結ばれるという、近所の遊園地にある観覧車にエスコートし、二人で平凡な街を日が暮れるまでずっと眺めていたい。

しかし、そんな完璧な高野さんは、言うまでもなく高嶺の花だ。鼻たれ小僧のぼくのことなんか気にかけているはずがない。むしろ、あの場では笑ってくれていたが、唾や鼻水をひっかけてきた男なんて、嫌っていて然るべきである。許してもらえるだなんて、幻想は抱かない。抱きたいのは山々なのだが。



それが起こったのは、「くしゃみの変」が起こった数週間後だった。

授業はすべて終わりもうすぐ五時になろうというのに、教室には白い光が満ち、校庭からはわずかに蝉の声も聞こえていた。ぼくはその日、幼馴染の岩井さんと一緒に帰る予定だったが、少し用事ができたらしく、教室で待っていてほしいとお願いされた。岩井さんとは幼稚園の頃からの付き合いだ。お遊戯のお芝居をするときに、テレビの好きなキャラクターで意気投合したのが印象的だ。小学生になってからも、しばしばお世話になっている。この前の「くしゃみの変」のすぐあとにも、彼女にいろんな相談やお願いを聞いてもらっていた。高野さんが隣の席にきちゃってだおうしようとか、高野さんがぼくの悪口を言ってないか教えて、とか。この年頃で男女で仲がいいのは珍しいからか、周りはぼくたちの関係をよくからかう。ぼくたち自身はもっとドライな関係と認識しているのだが、確かに付き合いの長さだけみれば、仲の良いように見えてもおかしくはない。

ともかく、ぼくは彼女と話をしていた通り、教室で一人机に座り、窓の外をじっと眺めていた。

「こうへいくん。」

右を見ると、そこには高野さんがいた。机の横で膝に手をつき、中腰でぼくの顔をのぞき込んでいる。つい立ち上がってしまう。椅子が擦れる音が乾いた教室に響く。

「びっくりさせちゃった?」

「い、いや、大丈夫、だよ。」

机に視線を落としたまま固まってしまう。この前、くしゃみを真正面からひっかけてしまったあと、顔を合わせられずにいた。いま目が合ってしまうと、涙が滲んできてしまいそうな気がしていたからだ。俯いたまま、カーテンが風で揺れる音をしばらく聞いていると、かすかに静かな深呼吸が聞こえてきた。

「ねぇ、こうへいくん、ちょっとお願いしたいことがあるんだ。」

突然のことだったので、少しの間、口を開けたままで答えられないでいた。

「それとも私と二人きりじゃ、気まずい?」

答えあぐねるぼくの顔を上目遣いでのぞいてくる。

全身が熱くなる感じがした。

「そそそそ、そんなことないでしゅ」

焦ったぼくは噛みながら早口で答えた。いつまでたっても格好がつかない。

その答えを聞いて、彼女が柔らかく微笑んだ。

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