第6話 境界
コンコン……。
ドアをノックする音。
中からの返事はなく、すっとドアが開けられた。
怖いくらい真剣な顔で、綾那が祥香の部屋の前に立っていた。
ドアの向こうに、部屋着を着た祥香が立っていた。
「祥香、話があるんだけど」
「あら、綾那。どうしたの深刻な顔しちゃって。」
首をかしげながら、祥香が綾那の顔をまじまじと見た。
「さあ、入って。ちらかってて、すごいわよ。びっくりしないでね。」
祥香は、綾那を部屋へと導き入れた。
聖メサヴェルデ学院は全寮制の高校のため、狭いながらも個室が与えられていた。
ここは女子寮の2階。
綾那は、テルミヌスから戻るとすぐに祥香の部屋を訪れた。
消灯まであと30分しかない。
綾那は部屋に入ると中をぐるっと見回した。
今までと何の変わりもない祥香の部屋。
窓際に机と壁際にベッド。
枕元にはぬいぐるみと本棚にはたくさんの少女マンガと新書。
それが祥香の世界。
「昨日のことなんだけど」
ベッドに腰を下ろすと、ちょっと言いずらそうに綾那が話を切りだした。
「いったいどうしちゃったの?」
「ああ、あれ?」
祥香も綾那の隣に、身体を投げ出すようにして座った。
「別に心配しなくても大丈夫だよ。よく男の子でもさ、ストレスがたまっちゃうとブロック塀を殴っちゃうっていうのと同じだよ。」
けらけらと笑いながら祥香が言った。
「でも」
不安そうな表情で、祥香を見た。
昨日見た祥香は、今、目の前にいる祥香のようではなかった。
全くの別人に見えた気がしていたのだ。
「綾那は心配性なんだから。」
「手首の傷は?」
綾那は祥香の左手首を見たが、袖長いカットーソでそれを見ることはできなかった。
「だから、平気だって。」
「だって、あんなに血が」
「なんか血を見てると安心するの。ああ、生きてるんだなって。」
しかし、綾那は食い下がった。
「でも、それだけのために、普通、自分の体に傷を付ける?」
「傷なんかそのうちきれいさっぱり治るって。」
たいしたことないよっという笑顔で祥香が言った。
祥香にそう笑顔で言われても、綾那の不安は消えなかった。
「何か悩んでることがあるんじゃない? 部活も最近ちっとも来ないし・・・」
「……」
ちょっと祥香はバツの悪い顔をした。
「こないだの中間考査の時だって、先生に呼び出されてたって言ってたじゃない。」
「それとこれとは別よ、別。」
両手を上げながら、首を振っていた。
「……」
綾那は、祥香が何か隠しているのではないかと疑っていた。
祥香の顔をのぞき込みながら、返答を待っていた。
「何が言いたいの?」
しびれを切らした祥香が、回りくどい言い方はやめて言わんばかりにたずねた。
「本当に何も変わったことないの? 祥香?」
しつこいわねと言う表情で祥香が答えた。
「そうね、強いて言うなら少し不眠症になったかな。夜どうしても寝付けなくって。」
「……」
綾那は本当のことかと疑問に思いながら、祥香の話を聞いていた。
「内緒だけど、誰にも言わないでよ。誰かに知られると、あとで寮長に怒られるから。」
人差し指を口に当てながら、祥香は話し続けた。
「なに?」
「夜、こっそり抜け出して散歩に行ってるの。そうすると戻ってぐっすり眠れるんだもの。」
悪びれるふうでもなく祥香は規則破りの話を持ち出した。
「ここ、2階よ!?どうやって?」
驚いて綾那は目を丸くした。
「お嬢様の綾那には無理かもね。」
自信たっぷりに笑いながら、祥香はベッドの下を指さした。
綾那が覗くとそこにはいくつもの結び目が作られたシーツが隠してあった。
なんだか祥香のペースにのせられている気がした綾那は話を戻そうとした。
「ねえ、あんなこともうしない?」
「わかんない。しないかもしれないし、するかもしれない。」
はぐらかすように祥香が言った。
それでも綾那は祥香を見つめ続けた。
「じゃあ、今度はする前に必ず私に相談して。お願いよ。」
「……」
祥香はしばらく黙り込み、考え込んだ。
綾那は真剣そのもので、彼女の答えを待った。
「わかったわよ。綾那の頼みですもの。」
根負けしたのか祥香がようやく口を開いた。
この言葉を聞いてようやく綾那にも笑顔が戻った。
その日の深夜。
消灯時間は既に過ぎ、午前1時半を回っていた。
パジャマに着替えた祥香がベッドの上で膝をかかえていた。
窓にはカーテンも引かれていない。
外からは外灯の光が薄ぼんやりと部屋の中に入り込んでいた。
部屋の電気ももちろんついていない。
目は瞬きひとつしない。空の一点を凝視している。
暗闇の中でひとり何かを見ていた。
風が窓ガラスをガタガタと揺らした。
その音が、祥香には何か別のものに聞こえていた。
(なんのために?
おまえだけが生きているのか?
なぜ?
一緒にいらっしゃい。寂しいでしょう。
呪ってやる。呪ってやる。呪ってやる。
自分だけがこんな辛い目に遭っている。そう思うだろう?
呪ってやれ。呪ってやれ。呪ってやれ。すべてを・・・。
……が悪いんだ。自分じゃない。
寂しくないわ。いつも一緒だもの。
苦しいことから逃げるには、死ぬんだ。もうこれしかない・・・
誰も追いかけてこない。さあ。
死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。
苦しい…助けて……
躊躇うことはない。痛みなど一瞬のこと。
逃げ出したい。誰か……
助けなど来ない。逃れることなどできぬ。)
祥香は目を固く閉じ、両手で耳をふさいだ。
窓から吹き込んでくる風の音のように聞こえるその声は、耳をふさげばふさぐほど鮮明に聞こえてくるのだった。
耳から聞こえる声ではない。
頭の中に直接響くような声だった。
それもひとりやふたりの声ではなかった。
祥香の右手にはカッターが握られていた。
(私は何をしたいんだろう?このカッターで、何をするんだろう?
この声は何?私の声なの!?どうしたら?
聞きたくない。でも、ずっと聞こえる。
私は?私は?何?
苦しい……。
どうすれば、この苦しさから逃れられる?
誰か、助けて!)
彼女は意識を無くした。
冷たい夜風が、彼女の頬を撫でて吹き抜けていった。
目覚めると、土のにおいと雨のにおいがするコンクリートの上に祥香は倒れていた。
手がジンジンと冷たかった。
見ると左手は、ヒジのあたりまで水の中にあった。
右手にはしっかりとカッターが握られていた。
祥香は驚いて、体を起こした。
「ここは? どこ?」
辺りを見回す。
真っ暗な中に、遠くに街の灯りが見えた。
濡れたコンクリートの上に座り込み、目を凝らしてみる。
よく見るとここは人工の貯水池の淵だった。
学院の敷地内とはいえ、女子寮から歩いて20分くらいにある場所だ。
入口にはチェーンと南京錠がかけられ開けることはできない。
立ち入り禁止になっている危険な場所なので、周囲はぐるっとフェンスに覆われていた。
彼女は2mはゆうにあるフェンスを乗り越えて、その中で意識を失っていたのだ。
(わたしは……?)
見ると左手には、また新たな傷ができていた。
血が滴っている。
だが、自分がしたという記憶はない。
祥香はぞっとした。
一体、自分は今まで何をしていたのだろう?
祥香は気味が悪くなって、握っていたカッターを思いっきり放り投げた。
ポチャン。
きれいに弧を描きながら、貯水池の中にカッターは落ちた。
祥香は、右手で左手首を押さえた。
何かを思い出そうとした。
しかし、できなかった。
誰かの声を聞いていた気もする。
なぜ、私はこんな所にひとりでいるか。
その答えは、右手が握っていたカッターだけが知っていた。
翌日。
放課後。
結局、綾那も祥香の言ったことを考えて昨夜はよく眠れなかった。
(あんなことをするなんて、どんな原因があるのだろう。勉強?)
成績は余りよくなくて、集中できない教科もあるが、LL教室でのようにあんなに顕著に様子がおかしかったのは初めてだ。
(部活?)
歌うことが喜びだったはずだ。
『音符を読むのは苦手だけど、旋律なら体で覚えて表現できるし。きれいな音楽を創れるのってすごいじゃない。』
そういっていた祥香を思い出した。
でも、ここ数日は部長に連絡もなしで休んでいる。
(人間関係?祥香の周りにいる友達と何かトラブルでも起こした?)
ケンカしたという話も聞かない。
誰かに嫌われたという話も聞かない。
仲の良い友達は他にもいるが、その子たちはこのことに気づいているのだろうか?
どうしても何かが引っかかる。
あれは、いつもの祥香だっただろうか?
「ちょっと!そこ集中してないわよ!」
パートリーダーの檄が飛んだ。
綾那は少しため息をついた。
隣にいた本条院美咲が、綾那の顔を心配そうにのぞき込んだ。
ゆるいウェーブのついた髪が揺れる。
「綾、顔色がよろしくありませんわよ。」
心配そうに小声でささやいた。
綾那は、また、ため息をついた。
「うん。ちょっと寝不足みたい。」
彼女の詮索をうるさがるように、途中で言葉を遮った。
歌うことに意識が向かない。
もうすぐ演奏会だというのに。
「すみません、先輩。」
綾那は、合唱隊形から抜けて、指揮をしている3年生に歩み寄った。
「劔地さん、顔が青いわよ。」
心配して綾那の顔をのぞき込む。
「気持ちが悪いので、休んでいてもいいですか?」
寝不足もあるのかもしれないが、気分も悪いし、頭の奥も痛んでいた。
「大丈夫?」
「ちょっと休めば大丈夫…です。」
綾那は申し訳なさそうに、3年生の顔を見た。
「そう?じゃあ外の風にでも当たってきなさい。さあ、みんなは続けるわよ。」
ざわついた中、パートリーダーの先輩はパンパンっと手をたたいてみなを促した。
ピアノがまた間奏を奏で始めた。
美咲は、心配そうに綾那の背中を見送っていた。
その音を背に綾那は音楽室をあとにし、廊下に出て歩き始めた。
誰もいない廊下。
ピアノの音以外に聞こえてくるものはなかった。
やはり、祥香は練習に顔を出さない。
音あわせの時はいたはずなのに。
(いったいどこへ行ったの、祥香?)
外へと続く渡り廊下を歩いていくと目の前に礼拝堂がみえてきた。
白い建物。
外から見ていると、とても大きく感じる。
屋根。正面の先端の部分には、白い十字架が見える。
横の壁には、何枚ものステンドグラスが、細長く明かりとりの窓のようにはめ込まれていた。
入り口にはあまり高くなく、幅の広い階段が扇形に広がっていた。
扉は重厚な木製で、美しい細工が施してある。
その扉を押して、建物の中に入ると、さらに礼拝堂へ入るためのもうひとつの扉が見えた。
礼拝堂への扉の横には掲示板があり、
『我々は目によってではなく、信仰によって歩むのだ。』
と、聖書から抜粋されたいくつかの言葉が書かれているのが目についた。
ギイィィ。
重たい扉を両手で押す。
のぞき込むように中を見た。
誰もいなかった。
礼拝堂の中は、何の物音もせず、外からふりそそぐ太陽の光が正面のステンドグラスを通り、色とりどりの影を赤い絨毯の上に落としていた。
いつも授業の一環で、毎日礼拝している見慣れた場所なのに、こんなにも荘厳な雰囲気を持つとは驚きだった。
絨毯を踏む自分の足音だけが聞こえた。
信者席の最前列まで来ると、説教壇に古びた聖書が開かれて置かれているのが見えた。
「どうしました?」
「!!」
ふと声をかけられて、驚きながら振り返った。
そこには初老の神父が綾那の後方に少し距離を置くようにして立っていた。
「碓氷神父様。」
綾那は、ちょっと胸をなで下ろした。
いつも礼拝の時に、立ち会ってくれる彼女にとっては馴染みの神父だった。
「顔色がすぐれないようですね。何か気になっていることでもおありですか?」
黒い服を着た碓氷は、一歩一歩綾那に近づいてきた。
「何でもありません。急に声をかけられたのでびっくりしただけです。」
「そうですか」
にっこりと優しそうに神父は笑った。
綾那は碓氷神父の顔をじっと見つめていた。
が、急に床に視線を落として黙り込んだ。
そんな彼女を碓氷は、何も言わずに見守っていた。
「神父様?」
綾那は決心したように顔を上げた。
「はい。」
やさしく微笑みながら碓氷は答えた。
「自分の力ではどうしようもないことが起こっていて、『死』を意識している人がもし側にいたら神父様はどうなさいますか?」
碓氷は少し驚いた表情を見せた。
が、何でもなかったように話し始めた。
「『死』を意識して…とは何とも穏やかではない話ですね。あなたのお友達ですか?」
「……」
綾那は黙った。
顔は下がらなかったものの、視線は足元に下がっていた。
「いや、詮索はやめましょう。」
その様子を察して、碓氷は静かに語りはじめた。
「そうですね、私ならその方と十分話をして、心が穏やかになるようにはたらきかけましょうか。しかし、」
微笑んでいた碓氷の顔が真剣になった。
「自分の力ではどうしようもない状況であるならば、他の人の力に頼ってもよろしいのではないですか。」
「どんなふうに頼ればよいのでしょうか?」
ちょっと綾那は首をかしげた。
「何もわからない状況では非常に抽象的ですが、そのことを良く知る人に助けを求めてごらんなさい。助けを求める手を振り払う者などいませんよ。ただ、」
「?」
碓氷は綾那の『気』を読み取ったのか、こわばったような顔をした。
「なるべく早い時期がよろしいかと思いますよ。あなたの顔を見ていると、何か大きいことが起こる前ぶれのような感覚を覚えます。」
碓氷の目は綾那の目をのぞき込むようにそそがれていた。
「何かこう、ものすごい力がそれを放出して、行動を起こそうとしているような。嵐の前の静けさとでもいいましょうか。」
「……」
綾那はドキっとした。
なぜそう感じたかはわからない。
が、PC教室で祥香から受けたあの感じと似た感覚を碓氷の言葉から感じ取ったからだ。
「私も、あなたとその方のために神に祈りを捧げましょう。あなた方に心の平静を、父と子と聖霊の御名において。Amen.」
碓氷は胸の前で十字を切った。
綾那は何か胸騒ぎがして、礼拝堂を飛び出した。
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