第7話 調伏
それは冬の日の朝。
それは冷たい石畳の上。
そこは湖のそばにある、古びた洋館のテラス。
白く全て覆い尽くした朝靄の中で、少年はただ少女の体を抱きしめていた。
抱きしめることしかできなかった。
口から血を流し、横たわる彼女の体をただひたすらに抱きしめていた。
冬の刺すような冷たい空気が彼らを包んでいた。
徐々に冷たくなっていく体。
どんなに彼が『力』を使っても、彼女の生命を繋ぎ止めることはできなかった。
そして、二度とその深い藍色の瞳が開かれることはなかった。
『お願い。戻ってきて、バーン……』
『あなたは、あなたよ。』
『あなたのその…金の瞳。私は好きよ。』
『だ…から恐れないで、自分の力を。』
『自分を責め…ないで。ね、バー…ン』
彼女の言葉が何度も脳裏をかすめる。
まるで壊れたCDのように。
自分の周りに存在する『死の翼』をこれほど思い知ったことはなかった。
友達も、両親も、兄も、そして
少年は自分を憎んだ。
少年は自分を責めた。
少年は自分の運命を呪った。
そして、なによりこの最悪な『現実』を止められなかった自分の『呪われた力』を憎んだ。
何がこの『現実』を招いたのかと自問自答するとき、決まって生まれながらに持ったこの『呪われた力』にいきあたった。
この疎ましい『呪われた力』に。
『ラティ!逝くな!俺を見てくれ。頼む…俺を呼んでくれ!…ラティ!!』
少年のむなしい叫びが、あたりにこだました。
「ラシス……。」
彼女の名を口にして、バーンはハッとして我に返った。
白昼夢?
デジャヴー?
それとも?
手には彼女の体の重みがしっかりと残っていた。
バーンは自分の手を見つめていた。
その手をぐっと握る。
まるであの時に、つかめなかったものをつかもうとするかのように。
「おい、バーン。」
臣人が心配そうに肩を揺すった。
「大丈夫かいな?うなされとったで。」
臣人は、彼がうなされている訳も彼が口走った名前もすべてわかっていた。
だからこそ、いたたまれなかった。
バーンはその臣人の顔をまじまじと見ていた。
ここはいつもの調理室。
いつものように来ていて、いつの間にか眠ってしまったらしい。
臣人は努めて明るく振る舞い、彼の口にした名や夢について話を振ることはなかった。
「もうすぐ退勤時間や。実習の後かたづけ、早う終わらせて今日も一本行きまひょか。」
臣人は足取りも軽く、準備室と実習室を行ったり来たりしていた。
その様子を見て、バーンはようやく気持ちが現実に戻りつつあった。
ふと、黒板の横に掛かっている時計に眼をやると、午後4時40分を示していた。
「……」
そして、今度は窓の外に眼をやると、空は夕暮れが近づきつつある淡い青紫色になっていた。
太陽が沈みはじめている。
その光が彼の眼に反射した。
左眼より右眼の方がキラッと光ったような気がした。
ガタッ! バタン!!
と、突然、乱暴に調理室入口の扉が開いたかと思うと綾那と祥香が走り込んできた。
その音に、バーンも臣人も入口の方に釘付けになった。
ちょうど祥香は綾那に引きずられるようにして、中に入った。
彼女の左手首は綾那に押さえられていた。
その指の間から血がかなりの量で滴り落ちている。
「先生!!助けて!バーン先生、臣人先生。祥香の血が止まらないのっ!?ねえ、どうしたらいいの?」
半分パニックになりながら綾那が叫んでいた。
祥香も青い顔をしているが、目はうつろで焦点が定まっていない。
臣人は食器を調理台の上に置くとこう言った。
「なんや!それなら来るところが違ってるで。まず、保健室に連れてきぃな。適切な処置は保健の先生の方が」
臣人の言葉を綾那は途中で遮った。
「だって、このこと知ってるのバーン先生たちだけだもの。あとで根ほり葉ほり聞かれたら」
頼れる所はここしかないと言わんばかりだ。
綾那と祥香はその場にへたり込んだ。
バーンはイスから立ち上がり、二人に近づいていった。
そしてヒザをつき、二人の顔を覗き込んだ。
祥香は、バーンを見るふうでもなく、顔を背け、ただ床を見ていた。
綾那は心配そうに、バーンと祥香の両方に視線を泳がせていた。
「臣人。」
静かに後ろに向き直ると、彼は臣人に合図を送った。
「ほい。」
臣人はスルリとネクタイをはずすと、それをバーンの方に放った。
「準備室から、なんか包帯の代わりになりそうなもん、ないか探してくるわ。」
そう言い残すと、隣の部屋に消えた。
バーンもネクタイをはずして、祥香の左上腕できつく結び、更に臣人のネクタイで腕を吊った。
臣人は程なく何やらいくつかのアイテムを持って戻ってきた。
タオルと日本手ぬぐいを探し出してきたのだ。
それを使って、手際よく手首を圧迫止血した。
突然、カラン!と、ものが落ちる音がした。
床には祥香の右手から抜け落ちた、べっとりと血で染まった細身のカッターが横たわっていた。
一同の視線は、そのカッターにそそがれた。
処置をしている間中何もしゃべらなかった祥香が、突然、堰を切ったように話し出した。
「綾那?」
祥香はようやく驚いたように、視線を隣にいる綾那に向けた。
「祥香…」
半分涙目になりながら、綾那も祥香を見ていた。
「わたし、何してた?あのカッターで手首を切ったの?」
自分の血だるまになっていた左手首を反対の手で押さえながら、話し続けた。
「祥香が部活から消えたから探しに行ったんだよ。そうしたら、あの屋上の踊り場のところで」
綾那は両手を祥香の二の腕にかけた。
「なんで?どうして?こんなことするの!?もうしないって言ったじゃない!?」
綾那はたまらず祥香を揺すった。
祥香は激しく首を振った。
「わからない。わかんないよ。どうしてこんなに血が出てるのか!?意識がない時が続くし。最近、誰かが私の耳元でささやくのよ『さあ死のう。死にましょう』って。声が聞こえるのよ、『この刃をもう少し力を入れて引けば楽になれるよ』って。私、頭がおかしいのよ!だってそうでしょう。聞こえるはずのない声が聞こえるんだもの!!」
祥香はそう大声で叫ぶと綾那の手を乱暴に振り払い、立ち上がった。
そして窓の方へと少しずつ後ろへ下がりはじめた。
「…別におかしいわけじゃないし、狂ってるわけでもない。」
バーンも静かにそう言うと立ち上がった。
綾那も立ち上がって、祥香を見た。
それは綾那の知っている彼女ではなかった。
怯えた目で、すべてを疑い、信じない目をしていた。
「うそ!先生たちだって、私みたいな人間は死んだ方がいいと思ってるでしょう!!」
「瀧沢」
彼は小さく彼女の名を呼ぶが、彼女の悲鳴にも似た声にかき消されてしまった。
「本当のこと、言いなさいよ!!死ねばすむって!!死ねばいいって!!」
バーンは一瞬、ビクッとした。
体中に鳥肌が立った。
「!」
扉のほうに振り向いて、感覚のチャンネルを変えるように凝視した。
空気が変わった。
何かが近づいてくる。
力を持った何かが。
バーンは横にいる臣人を見た。
「…臣人!!」
その言葉に、そしてバーンの様子、その視線の先に、いち早く彼は反応した。
「OK やっぱ、わいらの側にいたんが良くなかったんだな。」
臣人は割烹着を乱暴に丸めて脱ぎ捨てた。
そばのイスにかけてあったジャケットの内ポケットに右手を突っ込むと何かを取り出した。
「え!?」
臣人の言葉を綾那は聞き返した。
綾那には、それがどういうことを意味するかわからなかった。
あのいつもヘラヘラしている臣人から笑顔が消えていた。
彼の手に握られていたもの、それは何かが書かれている白い紙のようなものだった。
よく見ると文字のようなものが書かれているようにも見える。
「『類は友を呼ぶ』いうやろ。」
臣人は綾那の横に立つと、彼女の制服のポケットにその紙を一枚、すっと忍ばせた。
「『力』が強いもんの側におるとな、それが引き金になって、増長するもんや。」
彼は綾那を守るように、彼女の前に立った。
そして、外の方をうかがっている。
彼の後ろ姿から、綾那は異様なまでの緊張感を感じていた。
目を外に移してみる。
窓から見える様子はいつもと変わった所は見られない。
オレンジ色の夕焼けが、空を染めているのが見える。
「……」
「……」
「! これって!?」
が、音が何も聞こえなくなっているこのことに綾那は気がついた。
恐ろしいまでに、周囲がシ…ンとしている。
まだ下校時間まで30分以上も間がある。
学校という場所は、有りとあらゆる音で満ちている。
人の話し声やピアノの音、楽器の音、廊下を走る音やドアを閉める音にいたるまで、大きいにせよ小さいにせよ何らかの音は存在し、聞こえてくるものだ。
それが、今、全く自分の耳に届いていないことに気がついた。
祥香も綾那も動けずにいた。
臣人は窓側を、バーンは廊下側を凝視したまま、ぴくりとも動かなかった。
180度ずつまるで、背中合わせに何かを待ち構えるようにしていた。
何を待ち構えているのかは、綾那には見当もつかなかったが、それは自分の想像をはるかに超えていることだけは予想ができた。
と、バーンと臣人の肩がかすかに動いた。
(来た…!)
「ほれ、こんなふうにな。」
臣人は、ジャケットから取り出した紙を持つ左手を横に挙げた。
ガラスがギシギシと何かに押しつけられて悲鳴を上げている。
一枚、また一枚と次々とヒビが入っていく。
空気が重くなった。
綾那は息苦しさを感じた。
なんだか胸が苦しい。
息をするのもためらわれるほどの圧迫感が彼女を包んでいた。
「劔地、もう少うし下がれや。」
小さな声で臣人はつぶやいた。
綾那はこくっとうなずいた。
彼女が一歩引くと同時に轟音が響き渡った。
ガシャーン!ガシャーン!ガシャーン!
窓ガラスが調理室の後ろから次々と音をたてて割れていったのだ。
破片が内側にも外側にも不自然に飛ばされながら散った。
窓枠ごと吹き飛ばされて、1階のアスファルトの上に叩きつけられたものもあった。
「な、なに!?これ!?」
綾那はこれ以上は言葉にならなかった。
右手を口元にあてたまま、固まっていた。
自分の足元にまで、細かく砕けたガラスの破片が飛んできた。
その足元から、窓の方へと視線を伸ばす。
何もぶつかった形跡はないのに、ひとりでに窓ガラスが砕け散っていった。
信じられなかった。
臣人は、そんな綾那を気にするわけでもなく、「ちっ」と舌打ちすると動き始めた。
調理台の上にあったカトラリーケースからディナーフォークを鷲掴みにして、部屋の中央へ向かって走り出したのだ。
札を部屋の四隅へ向かってと投げ、続いてフォークを投げて、鮮やかな手並みでそれを壁の上に固定した。
最後にアルミでできた入口扉の上の壁にも同じように札を貼った。
臣人は、両手を胸のまえで合わせ、合掌すると、ゆっくりと大きく息を吸ったり吐いたりしながらの動作を何度か繰り返した。
『息吹』だ。
そして印を結んで真言を唱えはじめた。
「オン・バサラ・タタギャタ・バザラ・ダラマヌタラ・フジャ・サハラナ・サマエイ・ウン・・・オン・バサラ・タタギャタ・バザラ・ダラマヌタラ・フジャ・サハラナ・サマエイ・ウン・・・」
綾那は何が起こっているのか信じられないように、放心したまま、その場にへたり込んだ。
頭が混乱していた。
(この人たちは何? 先生!! 英語と家庭科の先生たちが? 何をしようとしているの!? 何がどうなっているの?)
臣人は四隅に貼った札を使って、この調理室に『結界』をつくっていた。
目に見えない『何か』が、この中に安易に進入してこないように、また綾那と祥香を守るために。
「きゃーあああぁ!!」
一方、窓側にいた祥香も両手で頭をかかえて叫んだ。
まるで破裂するかのように飛び散るガラスの破片が容赦なく降りそそぎ、腕や足を傷つけていく。
「いやあ!」
「逃げるな…よ。」
「こんなのいやぁ!!」
「……」
バーンは、左手で祥香の右手をつかんで放さなかった。
祥香はつかまれた手を左へ右へと振りほどこうとするが、彼は動かなかった。
「私じゃない。私は現実から逃げたかっただけよ。こんな
首を激しく振りながら、最後にはゲンコツでバーンの手を殴っていた。
「現実から逃げようとしたときに…『死』を…考えただろう。」
「!?」
祥香の動きがピタリと止まった。
バーンは、無表情で彼女の顔を見ていた。
怖いほどに真剣なまなざしで、彼女の目を見ていた。
「『死』に逃げ場を求めたから、あいつらが来たんだ。同じ波長を持つ者を依代にして、自分たちの力にし、あんたを引き込もうとしてる。」
「もう、いやだったのよ。何もかも!こんな何の取り柄もない自分が!」
半狂乱になったように叫んだ。
祥香は、もう一度、バーンの手をはずそうと何とか引っ張るが、ビクともしなかった。
はずそうとすればはずそうとするほど、祥香の手はきつく握られていった。
「だから、自分を傷つけてしまっていいのか。何をしても、肯定されるのか!?」
バーンは祥香を引き寄せた。
彼の顔が、自分のすぐ目の前にあった。
祥香は、バーンの青い両眼を覗き込んだ。
冷たく透き通った、まるで氷のような瞳だった。
「自分だけが、悩んでるなんて思うな。人は生きている限り、苦しむんだ。それに耐えられないなら、」
「は、放して。」
顔を背けようとしたが、なぜか身体がいうことを聞かなかった。
吸い寄せられるように、彼の眼からは目が離せない。
「死にな……」
バーンは静かな口調で、しかもはっきりと言った。
それを聞いた祥香は、え!?という顔をした。
「俺は」
「バーン先生!!」
綾那が、そのやりとりを見ながら叫んだ。
「おまえが、何で悩んでいるかなんて知らないし、知りたくもない。」
「やめて!」
綾那は必死で叫んでいたが、その場から立つことはできなかった。
バーンは小さな子どもに諭すかのように、言い続けた。
「ただ、おまえがそんなふうになって死んだら、悲しむヤツがいるってことくらい…わかれよ。」
「バーン!!」
臣人の声でバーンは振り返った。
「!」
そしてとっさに祥香をかばうかのように、つかんでいた左手を引き、自分の背中に彼女を隠した。
窓際においてあったまな板や包丁がカタカタと鳴り始めたかと思うと、急に浮き上がり、彼らをめがけてものすごい勢いで飛び出してきた。
バーンは右腕をあげた。
「くっ」
飛んできた十本近い包丁のうち洋包丁二本が、バーンの右腕と右頬を切り裂いた。
血が赤いスパッタリングの模様のように床に散った。
その洋包丁はそのまま入口の扉に突き刺さった。
残りは扉にぶつかったあと、跳ね返るように床に落ちていた。
よく見るとそれはすべて刃先の向きが変わるほどに、強い力がかかって折れ曲がっていた。
それに続くかのように、まな板も彼らめがけて飛んできた。
直撃は免れたものの、数枚のまな板が扉にぶつかった跡はべっこりと何カ所もへこんでいた。
それと同時に、何か小さく光る破片がバーンの顔から飛び、床にへたり込んでいた綾那の前に落ちた。
(何、これ??)
綾那は目を凝らしてその破片をみた。
(ガラス?違う。コンタクトレンズ!? 青い?)
驚いて、バーンの方を見上げた。
バーンは祥香をかばったまま、少しうつむいていた。
さらっとした前髪が両眼を覆い隠していた。
白いシャツが次第に血で染まっていく。
頬の傷からも、血が流れ落ちていた。
しかし、彼は傷を負った腕を押さえることも頬に手を当てることもなく、ただ立ち尽くしていた。
臣人は調理室の中央で印を結び、目を固く閉じたまま、結界を張り続けていた。
(複数霊だと、準備なしで『結界』を張り続けるは厳しいでぇ。
! あかん。とっさに張った符だけでは、こいつらには弱すぎる。)
外からかかる圧力に抵抗するかのように、絶え間なく臣人の唱える真言が流れている。
が、その『結界』も次第に綻びを見せ始めていた。
カッと臣人は両目を見開いた。
「わいも修行が足りん!」
目に見えない何かが、『結界』の綻びから祥香の方へと近づいて行こうとしている気配がした。
彼女を手に入れようと手を伸ばそうとしていた。
思わず臣人は叫んでいた。
「バーン!はよせい!結界がもたんでぇ。今度は調理室じゃのうて被服室で調伏しよ。」
「……」
その声を聞いても、バーンは何も答えなかった。
ようやく顔があがり、後ろにいた祥香の方に向き直った。
彼女の手をつかんだまま、バーンはちょっと優しいような、悲しみをたたえたような視線を向けた。
「先生!?」
祥香は、おそるおそる声をかけた。
目の前にいるのは、いつも授業で見ている
もっと違う誰か。
自分の思いも、何もかも押し殺して生きているような悲しい眼をした誰か。
「生きているんなら…自分の時間は、自分で動かしな。」
バーンは自分と同じ存在を見ているような眼で、祥香を見ていた。
自分の無力さに憤り、自暴自棄になっていた7年前の、昔の自分を重ねていた。
「時間を止めてしまうと俺みたいになる。俺なんかあのときから、ずっと…止まったままだ」
そう言うと、バーンはゆっくり眼を閉じた。
風が、彼ら二人の周りに渦巻きはじめた。
その風が彼の髪を逆立てはじめた。
「このまま、あいつらに連れて行かれ、生も死もない世界で、闇の中を生きていくか?」
「……」
(闇!?)
祥香は言葉を失った。
貯水池にいたあの夜を思い出していた。
じっとり汗ばんだ身体に、冷たい風が吹き抜けていったあの場所。
真っ暗な中に、ぽつんとひとり座り込んでいた自分を。
(わ、わたし?怖い。本当に、私は死にたかったの?
死にたい?死んでしまったら?人は、どこに行くの?)
「それとも?」
「……」
祥香は泣きそうな顔で、首を横に振っていた。
「瀧沢。答えろ…」
バーンは彼女の言葉を求めた。
「綾那」
力のない声で後ろにへたり込んでいる綾那を呼んだ。
「祥香…?」
「今まで、ごめん。私、私」
祥香は、後ろにいる綾那の方に振り返った。
綾那を見る目はいつもの祥香だった。
「祥香。」
「死にたくない。生きて…いたいよ。」
その言葉を待っていたかのように、彼は両眼を開けた。
よく見ると、透き通るかのように青かった彼の右眼は金色に光り輝いていた。
彼は低い静かな声で詠唱をはじめた。
「Ol Sonuf Vaorsagi Goho Iada Balata. …Lexarph, …Comanan,.. Tabitom. Zodakara, eka; zodakare oz zodamram. Odo kikleqaa, piape piaomoel od vaoan….」
「床が、光ってる?」
綾那のすぐ目の前にまばゆい光が集まっていた。
バーンの血が落ちたところを境界に六芒星が描かれているような魔法陣が形成されている。
その円形の陣の中に、バーンと祥香が立っていた。
呪文の詠唱と同時に、バーンは右手を天高く挙げた。
「……風の翼は汝の驚異の声を理解できしか、汝、第一の第二よ、燃える炎によりて我が顎の奥に作られしものよ。…われは婚礼の杯としてそれを準備したる。…あるいは義人の部屋のための盛りの花として準備したる。」
綾那の周りにも風が渦巻き始めた。
強い風で目を開けていることはできなかった。
調理台の上に置かれていた、カトラリーケースやボールなどが次々と飛ばされ床に散在した。
「…汝の足は不毛の石よりも、強力なり。そして、汝の声は吹きすさぶ風よりも、強大なり。我らの足は全能主の心のうちに以外にはないほどの建物となりたるがゆえなり。立て、と第一は、語りき。」
風は天井にまで達し、竜巻のようになっていた。
パンッパンッと風で天井の蛍光灯がはじけ散る音が聞こえた。
綾那は両手を耳にあてた。
けれど、砕け散ったはずのガラスは下には降ってこなかった。
渦に飲み込まれてしまっていた。
「バーン!!」
不意に臣人の呼ぶ声が聞こえた。
それは、『結界』がもたなかったことを知らせる声だった。
今まで押さえつけられ、調理室に入ることができなかった霊たちがバーンと祥香を目指して襲いかかった。
(間に合うんかい!?風の精霊の召喚が!?)
臣人の声を聞いても、バーンは冷静だった。
呪文の詠唱は止まらない。
高く挙がった右手の人差し指は、中空に何かの図形を描きはじめた。
バチーン!バチーン!と、何かが風の壁にぶつかっていく音が響いた。
綾那は薄目を開けて、見てみるがそこには風の壁があるだけで何も見えなかった。
だが実際には、いや、正確にいうとバーンと臣人の目には『それ』が見えていた。
視認できるだけで6,7の人の霊が上も下も左も右もなく、まるで子供の作る粘土細工のように互いに結びつき合った姿でいた。
手とも足ともつかぬ触角のような物が、祥香の方に伸びて、ムチのようにうねっている。
それが、風に阻まれているのだ。
「…ゆえに汝の僕のもとに動け。力のうちに汝ら自身を現し、われをして事物の力強き見者たらしめよ。なぜなれば、われは永遠に生きる<かれ>のものであるがゆえなり。」
手をゆっくり下ろし、祥香の額にあてた。
同時に、ようやく左手の束縛も解かれた。
祥香は目に涙をため、驚いた顔のままだった。
両手がだらんとしたに下がる。
バーンは、金色の瞳で祥香を見つめたまま、早口で続けた。
「…Adgt Vpaah Zong Om Faaip Sald Vi-I-V-l Sobam Ial-Prg I-Za-Zaz Pi-Adph ・・・Casarma Abramg Ta Talho Paracleda Q Ta Lorslq Turbs Ooge Baltoh …Givi Chis Lusd Orri Od Micalp Chis Bia Ozongon Lap Noan Trof Cors Ta Ge O Q Manin Ia-Idon Torzu Gohe L……」
聞き慣れない音の羅列が流れるように続いた。
それは日本語でも英語でもない音だった。
ふと、詠唱が止まった。
バーンは、左手で『E.H.N.B.』と文字をつぎつぎと中空に書きはじめた。
炎のように熱い光がバーンに集中しはじめた。
そして、
「…Zacar E Ca C Noqod Zamran Micalzo Od Ozazm Vrelp Lap Zir Io-Iad!」
バーンが最後の詠唱をすると、祥香の額から足元に向かって金色の電気のようなものがはしった。
それと同時に周りを渦巻いていた風が熱を帯びた。
熱風となり、ゴオォォという音をたてて、渦を巻きながら『それ』を飲み込み、祥香の後方へと弾丸のように流れていった。
風は臣人の張った札を破って、背後のアルミでできた扉ごと吹き飛ばしてどこへともなく散っていった。
調理室入口の向かいにある壁に、扉はワンバウンドした。
甲高い金属音と重たい衝撃音とが同時に耳をつんざいた。
扉は原形をとどめないほどひしゃげ、廊下にあった。
『結界』を張っていた4枚の札が、自然と床に落ちた。
あたりはシーンと静まりかえった。
何の音もしなかった。
あんなに吹いていた風も一瞬で消えてしまった。
綾那は、ようやくおそるおそる目を開けて、あたりをうかがった。
祥香に手をかざしたままのバーンが見えた。
彼はゆっくり祥香の額から手を引いた。
祥香は目を見開いたままだった。
が、やがてまばたきを始めた。
「左手を」
バーンはネクタイに吊られた手をゆっくりはずし、手首を覆っていたタオルもはずした。
出血は止まっているもののざっくり口を開けた傷口とその下に大小様々な白いミミズ腫れの傷跡があった。
その傷の上にバーンは手をかざして、人差し指で何かの記号を書いていた。
「…われ汝を治めん、と正義の神が語る。Lexarphよ、Comananよ、Tabitomよ、ゆえに動け。汝自身を示し、現れよ。われらに汝の創造に密儀を、公正と真理の均衡を宣せよ……。」
バーンがその呪文を唱え終わる頃には祥香の腕に傷跡は見えなくなっていた。
「傷が!?」
祥香は自分の目を疑った。
確かにあったあのひどい傷が全て消えていた。
ようやく綾那が立ち上がって、彼女の方へ近づいてきた。
「祥香!」
その声に祥香は振り返った。
「綾那!!ごめんね!!」
二人は抱き合って泣いた。
バーンは二人に気づかれないように、そっと前髪で右眼を隠した。
まるでその右眼の存在を知られたくないように。
そしてようやく、傷を負った右腕を左手で押さえた。
かなりの出血はあるが、痛みは感じていないように彼の表情は動かなかった。
バーンの側に臣人がゆっくりとやってきた。
額には汗が光っていた。
「お疲れさん。それにしても危なかったなあ。」
臣人がニカッと笑った。
バーンはちょっと下を向いた。
「どれ、傷、見せてみぃ。」
臣人がバーンの腕をとろうとするが、彼は腕を押さえたまま身体をひねってそれを拒絶した。
『たいした傷じゃないから構うな。』と、でもいうように。
「……」
祥香に対して話していたバーンは、いつもの、臣人が知るバーンではなかった。
いつもクールに、必要以外のことはまったく喋ることなく、表情も動かない彼が・・・。
あんなにも祥香に7年前の自分を重ねた状態で、話すことは初めてではないかと臣人は思っていた。
(バーンも変わってきとる?・・・か。ホンマは、やさしいくせに、素直やないさかいなぁ。こいつは!
いつも自分のことやのぉて、他人に気ぃ遣うて・・・嫌われ役ばっかりや。
人一倍、感受性豊かなヤツやのに・・・。
まだ、怖いんやろな、感情を表に出すんが。
なあ、ラシス。やっぱ、あんたがおらんとバーンは。)
冷静に状況を分析しながら、臣人は話し続けた。
「なんやかんや言ってもしっかり人生相談してるやないか。苦手や言ってた割には、逆療法でうまくいったな」
「……」
『関係ないね』とでもいうかのように、無表情でそっぽを向いた。
「ちょっとムカいい加減、無感情気取るのやめにしいや。かわいくないで。おい!聞いとるんか、バーン。」
そんな臣人をお構いなしに、バーンは綾那と祥香のもとへ行き、膝をついてしゃがみ込んだ。
「瀧澤、」
「は、はい。」
「今まで憑依されてた分、しばらくは霊が寄りやすい。そうならないようにspellをかけてあるから。」
「バーン…先生」
ひどいことをしてしまったという後悔と恥ずかしさの入り交じった顔で祥香は彼を見ていた。
「よく考えて、今しかない自分の時間を生きるんだ…」
バーンはまるで自分に言い聞かせるかのように、その言葉をつぶやいた。
そして、頬の血を指でぬぐいながら外を見て、立ち上がった。
もう、あたりは夕闇が迫っていた。
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