第8話 海を見据える

子供の頃から、海があることが当たり前だった。

浜茶屋を営んでいたこともあり、子供の頃の思い出の大半は海が背景である。


あなたが海を描けと言われれば、まず青色を取ることだろう。


だが、海は季節、天候、時間で大きくその色を変える。


緑、オレンジ、黒、灰色……。


僕は、何色を選ぶだろう?


この田舎町には何も無い。

でも…何かある…だから…僕はこの街で生きることを選んだ。

会社員としては、馬鹿な選択。

後悔はしていない…が貧乏になった。


フランクミュラーの腕時計が、今の僕を笑うようにワインディングマシーンの中でクルリクルリと回る。


今の僕には、とても買えない代物…当時は簡単に買えたのに…。


近所の神社に、長く伸びた茎が生えている。

わざわざ、コンクリートを突き破って伸びている茎。

横に伸びれば、楽に芽をだせたろうに…。


そんな花も咲かない茎に、僕は自分を重ねる。

馬鹿な生き方…無様で惨めな姿。


心が軋む…そんな毎日。

幸せかい?茎に話しかける…いや…自分に問いかける。


今は…まだわからないよ……。


海がみえる街。


海は、やさしいだけじゃない。

おそれ』を抱かせる、そんな表情も見せる。


夜の海に、身体を浮かべる。

空には月が…その周りに星が散らばり、

白く、黄色く、黒い夜空を彩る。


耳元でトプンッ…トプンッと波の音…

暗い海に、身体を浮かべる。

空に浮いているような気になる…でもここは暗い海…。


不意に心の内側から、ザワリとした不安が湧きあがってくる。


暗い海に引きずり込まれそうになる。

幾度か沈もうとした……この海で終わりたい…。


この街で育った…ここで恋をした…別れを経験した。


僕のすべてを知っているような街。

あの神社ではね…。

あの歩道橋無くなったんだ…。

僕も、この街が刻んだ時を知っている。


故郷ってそういうものだろう……。

捨てたとしても…心に…記憶からは消せない場所なんだと思う。


辞めたタバコに火を付けて、夜の海を眺める…。


何色に描くの?


誰かが僕に囁く。

僕を独りにしないでくれよ…頼むから…。

疲れたよ…僕もソッチに行きたいよ。


「こっちの水は甘いよ…そっちの水は苦いの?」

「苦いよ…とっても苦いんだ…間違ったのかな?」

「自分で選んだんでしょ…ソコで生きてくって…」


紫煙を燻らす、僕の右手に誰かが触れたような気がした。


「捨てたはずなのに…」

今も残るアナタの香りが記憶を揺らす。

今…どこで…ナニをしてますか?

幸せですか?

僕は、アナタと別れてから…ひとつ…またひとつと…色んなものを無くしました。

掌に残るのは…いつも空しい涙だけ。


海は…月は…僕を見てどう思っているのだろう…。

僕が産まれた、この街に僕は何を求めているのだろう…。


嫌なことしか無かったの?

辛いことしか無かったの?

嫌いな他人しか居なかった?


違うよ…僕は、この街で恋もした。

それは、とても素敵な時間…。

幾度も恋をした…それは、素敵な気持ちになれるから。

別れがその先にあるとしても…この気持ちを止められないのはなぜ?


それは、きっと…臆病な僕が、手を伸ばして掴んだ大切なものだから。

掴んだものは、永遠には成り得なかった…でも、自分から手を伸ばしたということだけは、それだけは、小さい誇りだから。


簡単に『無』にはできないよ。


あのまま…歩いていれば、僕は少なくとも、お金には不自由なく都会で暮らせていただろう。

でも…片道切符…定年まで、この街に戻ることはできない。


僕は、何を拒んだのだろう…。


会社の言いなりになること?

恋人と別れること?

家族と離れること?

友人と離れること?


なにかが違うような気がする…。


成功は都会にしかないのだろうか…。


「こんな田舎町で、埋もれるのか?」

そう言われた時に…何か湧き上がる思いがあった…。


僕が選んだものは何だったんだろう…。

その疑問は、今も心にぶら下がる。

引っかかって…ゆらゆらと揺れる度に、心に食い込む。


夜の海を見据えて…僕は…なにを?


子供の頃から、何かあると、この海に来た…。

海に叫ぶようなマネはできない、恥ずかしい。


でも、心で海と会話している…いや、海を通して自分と対話している。


僕にとって、この海は鏡のようなものなのだろう。

海は何色?

僕の心の色。


緑、オレンジ、黒、灰色……。


海に背を向け…砂浜を歩く。

「もう少し…歩いてみるよ…」

心で呟いて、街に戻る。


僕は、またこの街で『恋』をする…。

この街で、友人と笑い…愚痴を零す。


この街で暮らす…色んな理由で、この街で暮らす人達と繋がる。


いくつものとまどいを感じながら…僕は、もう少し生きる。

消えない疑問を抱えながら…僕は、もう少し歩く。


ひょっとしたら、この砂浜のように足を捕られ…歩きにくい街なのかもしれない。

でも…この街は…この海は…僕の心に在る。


紅葉が色づきだす。

赤も黄色も…僕の中に在る。


暗い海も…月を、星を写しながら揺れる。


僕の色は…僕が決める。


今の僕に上を向いて生きる気力はない。

だから、太陽も、月も、星も、視ることはできない。


せめて…海に写る、歪な光でいい。

下さえ向かなければ…目の前にソレは在る。


いつか…上を見れる。

それまで、この街で…。

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