第三章 壊れた果ての最初の一歩

 佐野葉月という人間に注目したのはいつからだろう。

 初めて声をかけたのは、ついこの間。学年がひとつ上がってすぐのことだった。まずは長い黒髪が目を引いた。腰に着くくらい長いのに結わなくても先生に怒られないのは、賢いからだろうなと勘繰った。賢いヤツに先生は甘くなる。そういうもんだ。煽てておけば「良い成績」、ひいては「良い進学」をしてくれるからな。良質な広告塔、ということなんだと思う。

 三年に進級した四月のバタバタが落ち着いたころ、僕はいつもと同じように調子よく絡みにいった。僕はやや低めの声のトーンで声をかけた。これくらいが警戒心を抱かれずに済むと経験上把握済みである。

「佐野さん、ちょっといいかな」

 周囲はいくつかのグループに分かれて談笑している中、彼女は自分の席に座って、ひとりでもくもくと勉強をしていた。この時、たしか耳にはイヤホンが装着されていたと思う。それでも僕の声は聞こえたのか、佐野さんはイヤホンを外して、顔を上げてくれた。

「なんですか」

 ただ一言、たった五音の言葉で返された。けれど、彼女の細かな動作は発した言葉とは裏腹にたくさんのことを語っていた。ぱっちり開いた目、うっすらと白い歯が覗く口元。長い髪の毛を耳にかけて、きっちりと僕の真正面を向いてくれたのだ。冷たいというより、温かな反応だった。極寒の真冬に、カイロを手にしたときの感覚に似ていた。聞きたいことは山ほどあったのに、僕はそのすべてを瞬間的に忘れてしまった。

「佐野さんって、可愛いよね」

 結果、このように本人を目の前に公開告白をしてしまったのだった。ちなみに、この後彼女に道端のゴミを見るような眼で睨まれたのは言うまでもない。

 佐野葉月。彼女は面白い女性だ。僕の中の彼女の人間像に血が通った瞬間だった。そして、下世話な疑問はどこへやら、今度はなぜ彼女はひとりなのだろうと思うようになった。

 ――そんな可愛い佐野さんは、今日学校を休んだ。

 佐野さんの親から学校にしばらく休むと連絡があったらしい。担任はいつもの気だるげな話し方で、そう言った。クラスメイトたちは、佐野さんが休んだことに対して驚きはしなかった。ここの学校の生徒は押し並べて自分にしか関心がないから当然か。斜め後ろに座る遠原さんの様子を盗み見る。彼女は机に突っ伏していた。表情は分からないが、良いわけが無いだろう。

 昨日、遠原さんは僕が目の前にいるというのに、大声で泣きじゃくった。帰宅ラッシュを迎えた平入駅には、僕以外にたくさんの人でごった返していたが、それも遠原さんにとってはどうでもよかった。悲鳴のような泣き声をあげ、その場に崩れ落ちた。僕は何度も佐野さんはどうなったのか尋ねたが、彼女は狂ったように「ごめんなさい」と繰り返すだけだった。

「遠原さん、とりあえず落ち着こう。僕、自販機で何か買ってくるから」

「ダメ、もうダメなの、佐野はもうどっか行っちゃったんだあぁ……ッ!」

「行くわけないよ。佐野さんはそんなことしないよ」

「ごめん、ごめんなさい、私が悪いの、ごめんなさいぃ」

 遠原さんと佐野さんが駅で出会えたのかも分からず、遠原さんを泣きやませる気の利いた言葉も思いつかず、僕は細い彼女の肩を擦ることしかできなかった。

 そんな時間がどれくらい続いただろう。辺りがすっかり暗くなって、街灯に明かりが灯り、少し肌寒さを覚えるくらいになったころ、事態が動いた。

「遠原さん、まずは落ち着こう。あ、ごめん、電話がかかってきたからちょっと出るね」

「佐野、佐野どこいっちゃったんだろ、私のせいだ……」

 ずっと泣きっぱなし遠原さんはこぼれる涙を抑えることで手いっぱいで、僕の声は聞こえていないようだった。僕は制服の上着からスマホを取り出した。メールではなく、着信だった。名前は遠原蛍。まさか。急いで画面をスワイプし、スピーカーモードに切り替えて電話に出た。

『もしもし、遠原? あの、さっきは――』

 静かで落ち着き払った優しい声。佐野さんの声だった。

 察するに、遠原さんはホームで佐野さんと会えてはいた。その時に遠原さんは自分のスマホを佐野さんに渡した、そして佐野さんは遠原さんのスマホを使って僕に連絡をしてきたというわけだろう。遠原さんと連絡先を交換した過去の僕、グッジョブだ。

「ねえ、遠原さん、佐野さんだよ、聞こえるでしょ?」

「……え?」

「ほら、ちゃんと電話持って、お話しようよ。謝るのもさ、本人に直接の方が絶対いいから」

 スマホからは、佐野さんの声が聞こえている。遠原さんは今にも消えそうなか細い声で、ポツポツと話し始めた。ここからは通話のスピーカーモードを解除し、彼女たち二人きりにして話ができるよう、僕は少し距離を取ったところで見守った。

 ここからは遠原さんの話していた内容(距離は取っていても、盗み聞きはしないとは言ってないからね)からの推測だが、現在佐野さんは家出中で、誰かの家に泊めてもらっているらしかった。多分、僕らの知っている人ではないし、同い年でもない、そして男の家であるらしい。遠原さんは驚いてはいたが反対はせず、さっきまで泣き喚いていたのに冷静に「本当にソイツのこと信頼できるの?」と尋ねていた。それから遠原さんは佐野さんにこう提案した。


1.佐野さんは遠原さんの家に泊まっていることにする。

2.その旨を佐野さんが直接ご両親に伝える。

3.いつでも連絡が取れるように、携帯電話を肌身離さず持っておく。

4.複数日家出をする場合は、僕経由で遠原さんに何らかの連絡を入れる。(メール可)

5.学校等の心配はしない。


 遠原さんは何度も何度も五つの条件を繰り返した。佐野さんがこれらの条件に対してどのような反応を示したのかは僕の知るところではない。結局、佐野さんとの通話が終了した後、あっさりと僕らはそれぞれ帰宅の途に就いたのだった。

 遠原さんと別れると、ふと一つの疑問が浮かび上がってきた。「佐野さんが頼れるような男性の知人とは誰か」ということである。遠原さんの反応を見る限り、彼女もその男性を知っている可能性が高い。明らかに全く知らない第三者だったら、遠原さんはもっと騒いでいたと思う。

 一体、誰なんだろう。どんな人なんだろう。佐野さんが心を許して頼るような男――それは僕の知っている人だろうか。僕よりも背が高いのだろうか。体格がよいのだろうか。疑問は次々と浮かび上がるが、答えが出ることはなく、頭の片隅に溜まっていく一方だった。

 翌日も補講があったけど、全然頭に入らなかった。放課後になると、とりあえず真っすぐ新聞部の部室へ向かった。特にやることもないし、塾へ行っても不必要に疲れるだけで良いことは一つもない。この部室は学校の中の自室のようなもので、僕は自習室としても使っていた。

 校内の隅っこに押しやられるようにして建っている部活棟の二階へ向かった。いつものように、扉に申し訳程度に付けられた四桁の数字を入れる形式の南京錠を解こうとした。

「あれ、開いてる……」

 いつもドアに引っ掛かっている丸っこい南京錠はどこにも見当たらなかった。ということは、現在このドアに鍵は掛かっていないということになる。

 新聞部の部員は今のところ僕一人だけだ。他に部員なんかいない。一体誰がこんなことを? 僕は恐る恐るドアノブに手をかけた。

「遅かったじゃん。超待ったんですけどぉ」

「……なんで遠原さんがいるのさ」

 僕がいつも使っている黒いソファーに、遠原さんが腰掛けていた。今日も相変わらず短いスカートを履いている。組んでいる足の間から下着が見えそうだ。

 驚きすぎて出入り口から動けない僕にしびれを切らしたのか、彼女はソファーから立ちあがると、僕の腕を引っ掴んでさっきまで自分が座っていたソファーに僕を強制的に座らせた。

「鍵、簡単に開いちゃったもん。扉にちっちゃーく番号書いてんじゃん。一三五七でしょ。それも単純な奇数の並び。セキュリティー甘々だねぇ」

「いやそんなことはどうでもいい。どうして此処にいるの?」

「……それは、私がアンタに用があるからに決まってるでしょ」

 遠原さんの表情が少し曇った。なるほど、昨日の続きを、ということか。僕は観念してソファーの背もたれに体を預けた。

「もちろん佐野の話なんだけどさぁ」遠原さんは僕の目の前に立ち、腕を組んだ。「アンタ、情報もってんでしょ? 今回の試験、色々あるって言ってたじゃん。解明したいの。だから、手伝って」

「それは佐野さんのため?」

「私にそんなこと言える権利なんかないでしょ。私の自己満足ってことにしといて」

「はあ、女子の世界はフクザツだねえ……」

「で、手伝うの? どうなの?」

「はいはい、手伝わせていただきます」僕はすっと人差し指を遠原さんに向けた。「けど、タダでっていうわけにはいかない」

「何なの、お金要るのぉ?」

「いやそうじゃなくて……。佐野さんがいまお世話になってる男の人のこと、教えてよ」

 遠原さんはきょとんとした顔をした。それから、なんだそんなことぉ? と、大げさにため息をついた。そんなことなんかじゃない。今のとこと僕にとって最大の謎なのだ。

「ヒイロさんって人だって。昨日の朝角ヶ芽駅前で私も会ったから、顔は知ってるよぉ」

「その人って……、駅前で絵を売ってる露天商じゃない?」

「え? でも、売り物じゃないって言ってたと思うけどなぁ……。黒髪でボサボサで、でも顔はイケメンだったよぉ。笑顔が可愛い感じの二〇代くらいの人」

「まじかよ! こんなことってあるッ?」

「うわッ。な、何だよもう~、びっくりしたじゃん~」

 その黒髪もじゃもじゃ男は、僕が探していた男に間違いなかった。校外模試の成績を返されたあの日の朝、僕は佐野さんに露天商のことを聞いていたのだった。

 あの男が一色遼平で、佐野さんは彼のところに泊っている。佐野さんが頼った男はアイツだったんだ。アイツと佐野さんが繋がるなんて……僕は再び大きな疑問を抱えることになった。

 一色とかいうヤツは、どうやってあの難攻不落な佐野さんを口説いたんだろう。

「藤里、どうしたぁ?」

「……別に、なんでもないよ」

 真っ赤な嘘だ。

 僕はいま絶望を味わっていた。何かが零れおち、僕の体にポッカリと穴が開いた気がした。



 朝起きると、知らない家で一瞬頭が真っ白になったが、起き上がってすぐ目の前にあった襖を開けてみると、仏壇の前で座っていた一色さんが優しい笑顔と一緒におはようと言ってくれたので、落ち着きを取り戻すことができた。

 そう、ここは私が昨日で出会ったばかりのデザイナー・一色遼平さんのご実家。行き場の無い私は一晩お世話になったんだった。

 朝になって明るくなったので分かったことだが、居間も凄かったけど仏間もなかなかの荒れ様だ。廃墟感はこっちのほうが酷い。土壁は所々剥がれているし、天井は雨漏りで木が弛んでいる。仏壇に至っては艶なんて一つも無くて、明らかに分厚い埃を被っていた。飾られている百合の花は暑さでやられたのか、すっかり萎れてして頭を垂れている。

 もちろん、畳の上には足の踏み場も無いくらいの大量の絵である。こっちは居間の絵よりも大きな紙が多い気がした。やっぱり色の洪水で、目に入る全てが初めてだった。

 仏壇の前に座っている一色さんの隣に、私も移動して座った。お尻で敷かないように床に散らばる何枚かの紙を手に取ってスペースを開けた。

「はーちゃんが持ってるそれはね、高竹市に遊びに行ったときに高層ビルを見てて思いついた幾何学模様」一色さんは私の方をちらりと見てそう言った。

「キカガク、モヨウ……」

「壁に飾ったらカッコいいかなーと思って。こういう良く分かんない絵、みんな好きじゃない」

 初夏の容赦ない日差しが差し込む中、逆光になってその表情はよく読み取れない。

 私は一色さんの言っていることが良く分からなかった。これを格好いいと思う人が多い、というのか。私はそうは思わなかった。駅で貰った花の絵の方がずっと好きだ。一色さんの優しい雰囲気が良く伝わってくるから。

 でも、私は、デザインとか芸術とか、そういう分野には明るくない。一色さんの言葉にどう返事したら適切なのか良く分からなかったので黙っておこう。

「ねぇ、はーちゃん」

「はい」

「何時ごろ帰る?」

 その言葉に、ひゅっと喉が締まった。

 そうか、約束はもう終わったんだ。

 私は咄嗟に立ち上がって、仏間の隣の部屋に駆け込んだ。起きたまま放置していた布団を担いで、押し入れに突っ込んだ。

「考えて、ませんでした。あの、今すぐでも、全然大丈夫です、あの、本当に」

「いやいや、そういう意味じゃなくて!」

「へ?」

「僕、一晩泊めたよね。そのお礼をね、ちょっと返してくれたらなーって」

 ――お礼。

 私は震える手で押し入れに突っ込んだ布団をもう一度引っ張り出した。

 大丈夫、面識ほぼゼロな一色さんを頼った時点で、最悪の事態は想定済みだ。

保健体育の成績もいつも五。知識はある。布団に横たわって、固く目を閉じた。

「……えっと、なにしてるの?」

「ど、どうぞ」

「……んっと、なにが?」

「アッ、服は脱いでおくもの、なんですか? すみません、気が利かなくて……」

 パジャマのボタンをはずしていくと、ものすごい早さと強さで一色さんに手を掴まれた。

 閉じていた眼を開けると、耳まで真っ赤にした一色さんが顔を横に向けていた。

「な、な、なに、してるのッ? き、着替えるなら、行ってよぉ! 僕、出ていくからッ!」

「え? やらない、んですか……?」

「な、なにをッ?」

「お礼のセッ――」

 一色さんの手によって口を塞がれたため、私の言葉は途中で遮られた。

「あーッ! 何言ってんの、はーちゃん! 女の子がそんなこと言うんじゃありませんッ!」

「え? え?」

「別に、僕は、はーちゃんと、その、ヤ……りたいから泊めたんじゃないの! というか、そんなの捕まる! ってそうじゃない! あのね、お礼っていうのは、ちょっと付き合って欲しい場所があるから一緒について来て欲しいなっていうアレであって、セッ……、あぁもうッ、そういうコトじゃないの! お分かりッ?」

「えっと……はい、分かりました」

「よろしい! じゃあ、出かけるから準備してね!」

 一色さんは一気にまくしたてるように言うと、スパンッと襖と勢いよく閉じて仏間から出て行った。ドスドスという足音と、グシャッ、ドッテーンという物音が続く。絶対、絵を描いた紙を踏んづけて滑ってこけたな。

 途中までボタンの外れたパジャマ。ぱっかりとあいた襟元から胸の谷間と白い下着が見える。乱れた布団と、シーツ。一色さんに掴れた手は少し赤くなっている。急に顔が熱くなった。

「……着替えよう」

 私は再び布団を押し入れの中に押し込んで、今度はしっかり襖が閉じられていて一色さんからコチラが見えないことを確認して着替えた。ジーンズは昨日と同じものを身に付け、シャツは空色の半そでのものに交換した。洗面所を貸してもらって、歯を磨いて顔を洗い、長い髪を櫛で梳かせば外出の準備は完了だ。

 玄関で一色さんを待っていると、二階から降りてきた。もじゃもじゃ頭は綺麗に整えられていて、私が見ても高価そうだと分かる細身のシルエットのスーツ姿だ。

「はーちゃん、お待たせ~。じゃあ、行こうか」

 昨日とは全然違う、大人の男性の姿だ。学校で見る男の人とも何かが違う。すごく洗練されているように見えた。私は上手く返事ができなくて、コクコクと頷いた。しかも鞄がクラッチバッグだった。こんなものを実際に使っている人、初めて見た。まず田舎じゃ見かけない。

「高竹市の商店街組合の定期会合に出席するよ。今日はそこで僕が考えた夏祭りで上映予定のプロジェクションマッピングを発表するんだよね。それじゃあ、電車に乗って、レッツゴー!」

 ……こんな洗練された都会風の格好をしているのに、腕を振り回してガッツポーズをしてしまうのか。一色さんとは出会って間もないけれど、どんな人なのか分かってきた気がした。



 角ヶ芽駅から東に三十分弱程電車に乗れば、県内で一番大きな街・高竹市に着く。

 私たちは快速電車(といっても別段早いわけではない)に乗り込み、朝十時には高竹駅に到着していた。会合があるという場所は、駅から歩いて十分程のところにあるらしい。一色さんは初めて行く場所らしく、スマホで地図を開いて確認していたが、なかなか難しいらしかった。

「ん~、これ、一体どっちに行ったらいいんだか……」

「あの、私が代わりに地図を読みます」

 一色さんのスマホをお借りして地図を確認した。目的地は駅の南側のようだった。あの辺りは後付けで出来た埋立地があるものだから、その周辺は不規則に入り組んでいて分かりにくいのもしょうがない。若干遠回りになっても、分かりやすくて歩きやすい方が良い。そう判断し、私を先頭にして目的地へと再出発した。

 高竹市には全国的にも有名な商店街があるのは知っていた。角ヶ芽の駅前にあるような半分潰れかけのオンボロではなく、活気溢れて街がイキイキしている。平日の昼間にもかかわらず多くの人が行き来する商店街を、私たちはソワソワしながら歩いた。

 目的地だった場所は、商店街の中心にある大きなドーム――東西と南北に伸びる商店街が交差する所――を囲うように作られた建物の二階にある会議室だった。

 中に入ると、ご年配といっても差し支えは無い男性や女性が十人弱集まっていた。その中で、一際横に大きな体をした男性が一色さんのところへやってきた。

「やあやあ、遼平くん! 遠いところ済まないね」

「いえいえ~、会長さんには皆さんを集めていただきまして、お手数をおかけしました」

「なぁに言っとるか~、ワシら全員年金暮らしやで、時間はたっぷりある暇人やがな!」

 あっはっは~と二人は豪快に笑い合っていた。大人の会話ってやつなんだろうか。私にはどこが笑いどころなのかさっぱり分からなかった。

 一色さんが年配の皆さんの前に立つと、急に会合は始まった。一色さんからは、「夏祭りで上映するプロジェクションマッピング」としか聞かされていなかったが、よくよく話を聞いてみると、毎年高竹市で開催されている夏祭りの特別企画枠で、商店街のドームを使って集客が見込めそうなアート系の催し物をする、という企画であった。一色さんに白羽の矢が立ったのは、角ヶ芽駅前で絵を描いているのを商店街自治会の会長(さっきの大柄の男性だ)が見かけて、仲良くなったから……という微妙な理由によるものだった。そんな適当でいいのか。

 私は一色さんの助手ということで、書記係を命じられた。年配の自治会員たちが様々な意見を上げていくのを、ホワイトボードに板書した。表面が埋まると、一色さんは私の方を向いた。

「はーちゃん、お疲れ様。こんなもんで大丈夫だよ」

「はい、分かりました」私は手にしていたペンを置いた。

「では、皆さんのご意見としては、季節感とご当地感を出すことでいいでしょうか?」

 一色さんがそう言うと、参加者たちはみな頷いて口々に賛成する意見を言い始めた。

「ああ、そんでええ」

「技術的な難しいことは一色さんに全部お任せして作ってもらう、と。そーゆーこっちゃな」

「内容についてはこれでええやろ。次は周知方法考えようや」

「せやなぁ。印刷は松村ンとこの倅が印刷屋しよるはずや。そこに頼めばええ」

「あー、だったら、チラシとかポスターもこっちでデザインしますよ、いいですかね? もちろん、使い方とかはお任せします」

「おお! ええなあ~、こりゃ今回は大成功間違いなし、高竹商店街は人、人、人の大繁盛や!」

「あはは! そうなるといいんですけどね~。じゃあ、そこらへんの運営的なお話は皆さんにお任せするとして、とりあえず作ってきた叩き台の作品を見てもらえますか? はーちゃん、ホワイトボードひっくり返して」

「は、はい」

 遼平さんはノートパソコンを操作し、なにやらこまごました機械に接続すると、真っ白いホワイトボードに黒い長方形が現れた。これには私も商店街のみなさんも驚いた。

「じゃあ、上映しますね」

 暗転したままの画面が、今度はホワイトボードと同じ真っ白になった。次の瞬間、ぱっと黒い円が浮かび上がった。だがそれも一瞬のことで、あっという間に黒い円はドーナッツのように中央に白い円を孕んだ。どんどん白い円は大きくなり、黒い円は白い円の輪郭になった。輪郭となった黒い線は、収縮と膨張を繰り返す。白と黒の攻防のようだった。

 その軌跡が無数の黒の輪郭を生み出し、それぞれが膨張と収縮を繰り返した。画面は黒い線でもじゃもじゃ状態だ。規則性のない乱れた状態が、いつの間にかシンクロして、やがて綺麗な網目になり、そして見覚えのある綺麗な模様になった。高竹商店街自慢のアーケードだ。

「おおッ! こりゃ、すごい!」でっぷり自治会長が私の代わりに声をあげて驚いてくれた。

 網目が画面の上を走った。高速であるはずのないホワイトボードの奥へと駆け抜けていく。アーケードの最後の一直線が画面を横ぎると、次に現れたのは高竹商店街の風景だった。

「とりあえずイメージということで。今のところドームの壁に映し出す形式にしてますけど、それも変わるかもしれないです。次回までには今回出た意見を反映させたもの持ってきます」

 一通り上映が終わると、皆さん大仕事が一つ終わったかのように大満足されて、会議はすぐにお開きとなった。終了時間、十三時。なんだかんだ、三時間ほどの長丁場になっていた。私たちは皆さんにご挨拶を済ませると、高竹商店街を後にした。

 まだ太陽は高いところでギラギラと輝いている。アスファルトやビルからの照り返しが酷い。昼休憩が終わってそそくさと職場へ帰るサラリーマンたちを横目に、私たちは日陰を探して歩いた。こんな早い時間に帰宅なんて、ソワソワする。なんだか、ダメなことをしている気分だ。逃避行、そう、何かから逃れているみたい。

駅は朝とは打って変わって人気がさっぱりなかった。暇そうな駅員に切符を見せて改札を抜ける。ベンチに腰掛けて、角ヶ芽駅行きの電車を待った。

 私はそうしている間も、一色さんの「お仕事」が頭から離れなかった。一色さんの悪戯が成功した子供みたいな無邪気な表情。大喜びする自治会長さん。最新の技術に触れて、まるで魔法でも見ているように驚く出席者の皆さん。私だって、プロジェクションマッピングくらい知ってはいるけど、実際に見た印象は強烈だった。

 ああいうことをしてお金を得るのは幸せだと思う。自分の作ったものを喜んでもらえて、それでお金を貰えて、生きていける幸せ。偏差値ばかり気にしている私にはあり得ない選択肢だ。私には点数しかない。その先が存在しない。

 隣に腰掛ける一色さんは、手にした切符を弄って遊んでいた。彼の目を通すとこの世界はどう見えるんだろう。ただの紙切れでしかない切符も真っ白なキャンバスに見えるのだろうか。

「はーちゃん、視線が痛い、かな」

「あっ、すみません……」

 一色さんはふはっと笑って、手にしていた切符をジャケットのポケットにしまいこんだ。そして、だらんと足を伸ばてバタバタと動かし始めた。

「あーあ、早く電車来ないかなぁ。僕、疲れちゃったよ」

「そうですね、ちょっと長かったですね、会議」

「もー、ヤダ。働くの嫌い。僕に頼まなくてもさ、誰でもあれくらいできるって話だよね」

 バタバタバタ。今の一色さんはまんま駄々をこねる子供だな。私は彼をなだめるように、わざとらしく明るく話を合わせた。

「でもすごいと思いますよ、あんなに喜んでもらえるなんて。私、嬉しくなっちゃいました」

「そう思えるのは、はーちゃんが純粋な白百合さんだからだよ」

「じゅ……しら……?」

「ほら、行こうか。電車、来たみたい」

 一色さんは立ち上がって、ホームに入ってくる電車に向かって歩き始めた。私も慌てて一色さんを追いかけた。電車が私たちの横を走り抜けていく。一色さんは私の方を振り向いて何か言いながら笑っていたけど、音も一緒に連れ去ってしまったのか何も聞こえなかった。

 進行方向に対して一両目、先頭車両に乗り込んだ。田舎の昼間の電車は空いているものだ。私たち以外に若い人は一人もおらず、一緒に乗車したのは五六人の高齢の方々だった。当然、席は空いていた。四人すわりのボックス席に二人向かい合わせで座った。

「お、動いた」

「はい、動きましたね」

 ゆっくりと動き出す電車。加速するにつれて、一色さんは静かになった。車窓越しに流れていく風景を黙ってじっと見つめていた。私も一色さんに合わせて静かに車窓の風景を眺めた。

 乗り込んだ電車は普通列車で、角ヶ芽駅までは四十分ほどかかる。高竹市内の駅をいくつか通過したころ、思い出したかのように一色さんが口を開いた。

「はーちゃんさ、この後どうする?」

 私は正面に座る一色さんの方に向き直った。すると、一色さんと目が合った。さっきまで窓の方を向いていたのに、いつから私を見ていたんだろう。

「この、あと、は……」

「はーちゃんのホントのお家、帰っちゃう?」

 一色さんはあくまでも笑みを浮かべたまま、私に選択肢を投げかけた。

 丁度、この電車は私の家の最寄り駅である平入駅を通過する。荷物は後で取りに行けばいい。平入で降りて、ウチに帰って、親に謝って……。

 そして、明日から学校や塾に行く。勉強をする。偏差値を、成績を、壊れてなくなった私の世界をまた作るために。たったひとりの王国を再開するために。

「はーちゃん?」

 ぎゅっと握った手を見つめるけど、優しく問いかけられて私はつい顔を上げてしまった。

 なんで、この人は私なんかに優しくしてくれるんだろう。体目的かと思ったけど違ったし、意味が分からない。なんで。どうして。

「もー、また泣いちゃった。はーちゃんはホント泣き虫だなぁ」

「一色さん、一色さん、一色さん……ッ」

「なあに?」

「一色さん、私、怖いです。戻るのが、怖い……ッ」

 たったひとりの広い教室。すっかり答えを覚えてしまった問題集。本当は聞きたくも無い音楽。

 ついこの間まで、私が心から大切にしていたもの。壊れてなくなって悲しかったのに、取り戻すことが何でこんなに。体が震えて止まらない。涙が次から次へと溢れ出す。すがるように伸ばした手を、一色さんは拒絶せずにしっかりと握ってくれた。

「うーん、決めた。三日間だけ、はーちゃんに付き合うことにする」

「え……?」

「ホントは、はーちゃんの気が済むまでと言いたいけど……まぁ大人の事情で今日入れて三日間だけ、はーちゃんのやりたいこととか、そういうのに全部付き合う」

「……あ、あの、私が言うのもおかしいんですけど、何言ってるんですか?」

「僕は、はーちゃんのお手伝いをしたいと思う」

「なんで……」

「理由は言葉にならないなぁ、まあ直感かな」一色さんは頬を掻きながら笑った。

「あの、お気持ちだけで充分、ですから」

「でもそれは本心じゃないでしょ?」

「いえ、本当に。ご心配なく、ちゃんと家に帰って、学校行きます、から」

「ホントかなぁ~? 目をこんなにウルウルにして泣いてるのに?」

 電車は徐々に速度を落としている。いつの間にか平入駅に到着しようとしていた。ホームに入り、ホームで電車を待っている人が風景に交じって流れていく。

「じゃあ、僕のために一緒にいてよ。昨日の夜、ウチに泊まったお礼ってことで。あれ、でも、そのお礼で今日ついて来てもらったしな……あれ……?」

 電車は静かに停車した。自動ドアが開き、たくさんの人たちが乗車してきた。二人だけで座っていたボックス席は、いつの間にか定員通り四人が腰掛けることになっていた。スマートフォンをいじるOLと、座って早々居眠りを始めるサラリーマン。

「とにかく、どうする?」

 開いたままの自動ドア。ここで席を立って、駆け出しさえすれば、狂った私は消えていつも通りの私になれる。

 一色さんは手を握って笑って私を見ているだけで、何も言わない。優しくしないでほしい。突き放してほしい。何バカなこと言ってるんだって言ってほしい。

 けど、一色さんの言葉に、体の芯から震えあがりそうなほど喜んでいる自分がいた。ボロボロっと涙が零れ落ちる。止まらない。大きな雫になって、パタパタとジーンズを濡らした。

「綺麗な涙。宝石みたい。だけど、泣き止まないとねぇ」

 一色さんはジャケットからハンカチを取り出すと、私に差し出してくれた。白い生地に青い糸が縁を彩っていて、こういうセンスの良さがデザイナーであることを裏付けている気がした。

「じゃあさ、僕と一緒にいる間にさ、やりたいこと全部やろうよ。怖いこと忘れちゃうくらい」

「やりたいこと、ですか」

「なんかない? ケーキバイキング行くとか、買い物に行くとかさ」

「私、勉強しかしてこなかったから、自由な時間って何すればいいのか分からなくなるんです」

「じゃあ、何が好きなモノは何?」一色さんはぱっと私のほうを向いて言った。

「え? えっと……海は好きです」私は一色さんから目をそらしながら答えた。

「よし、じゃあ海に行こう。それから?」

「甘いもの、好きです」

「じゃあ、朝ご飯はパンケーキにしよう。クリームたっぷりのやつ。それから?」

「まだ答えるんですか?」

「だって、あと丸二日もあるんだよ? まだまだ足りないって」

「……絵は好きです。描けないけど」

「じゃあ上手くなるようにレッスンしてあげる。他は?」

「無いですよ、もう。一色さんのやりたいことに付き合うっていうのはどうですか?」

「えー、それ意味ないじゃん。ダメですヨ」

「私はもう充分ですから。ほら、一色さんに付き合ってもらってるお礼、的な」

「……それも『はーちゃんのやりたいこと』のうちってことかなぁ?」

「もちろんです」

「うーん、じゃあそういうことにしよう。……じゃあ、改めてよろしく、はーちゃん」

「こちらこそお願いします」

「よし! そうと決まったら、計画練らないとね!」

 角ヶ芽駅に着くまでの時間で、どんなことをして過ごすのかに加えて、私たちが一緒に暮らすうえでのルールもいくつか決めた。


一日目 職場体験←済、涙を出し尽くす

二日目 パンケーキ、デッサン練習、僕のやりたいこと

三日目 海に行く→はーちゃん帰宅

≪ルール≫

1.好きなことを好きなだけ好きな時にすること。

2.ウソはつかない、遠慮もしない、正直に話すこと。僕たちは友達である。

3.三日後、きちんと帰ること。


「涙を出し尽くすって……」

「そりゃそうだよ。これから先は楽しい事しかしないし、今日を入れてたった三日しかない。泣いてちゃもったいないよ」

「そういうものなんですか?」

「良く分かんないけど、そういうことにした! 今、僕が!」

 一色さんは胸を張って腕を組むと、得意そうな顔をするものだから、私は泣いている最中なのも忘れて笑ってしまった。本当に、この人は小さい子供みたいだ。

「あはは、ははっ、あはははっ」

「アッ、そうだ、はーちゃん。僕のことさ、一色さんなんて堅苦しく呼ばなくていいよ」

「えぇ? そんな、急に言われても……ぷぷっ、あははっ」

「エッ! 僕、真剣に言ってるんだけど!」

 ギャーギャーと騒いでいると、いつの間にか角ヶ芽駅に着いていた。外はまだまだ明るくて、どこまでも突き抜けそうな青空が広がっていた。

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