第二章 大切なモノほど要らないモノ

 朝、いつも通り駅の改札前で佐野を待っていたけれど、あの子は来なかった。

 昨日は終業式が始まる前にはもう早退していて、すでにいなかった。一緒に登校したときは元気そうだったのに、どうしたんだろう。スマホで電話しようと思ったけど、そういえば昨日スマホ壊れたって言ってたから、連絡するのは止めて自分一人で学校へ行った。ちょっと心配にはなったけど、佐野のことだからきっと大丈夫。

 学校に着いていくら待っても、佐野はやっぱり来なかった。

 これで寝坊して電車に乗り遅れたという線は消えた。全然大丈夫じゃなかった。心の中がザワッとするけど、藤里が教室に入ってきて昨日返却された校外模試の話をしていると、そのうち忘れてしまった。

 朝のホームルームが始まったけど、佐野はついに来なかった。

 担任は佐野がいないことに教室に来て初めて知ったようだった。でも、「佐野いないのかぁ、ふーん」程度で終わった。私、あの担任マジで嫌い。テメェの仕事くらいちゃんとしろよ。心の中の荒波がまた始まった。波は一向に収まらず、どんどん大きくうねった。ザワザワが止まらない。舌打ちが漏れた。いままでこんなこと一度も無かったんだから、おかしいじゃん。

 担任の私の舌打ちに大袈裟にビクッとしつつ、さっさと教室を出て行った。

「ホタル、舌打ちはダメだって。土井ちゃんが可哀想じゃん」

 斜め後ろに座っている真美は、手鏡を片手に睫毛をビューラーで上げながらクスクスと笑っている。短いスカートから伸びる足を組んでいる姿は、どうみても進学校と言われるウチの学校にはふさわしくない。

「真美、それ言っちゃだめだってぇ~、もっとかわいそうじゃん」

 真美の横に座っている恵那も笑い出した。パーマではなく、毎朝コテで巻いている(自称)というご自慢の髪を弄っている。ちなみに、彼女もスカートは短い。

「ふたりとも、言葉と態度が全然一致してないぞ?」

 恵那の隣に座る由里は、優等生っぽいことを言っているがその目は笑っている。小麦色に日焼けした肌にショートヘアが健康的には見えるけど、多少離れていても分かる香水の匂いはトイレの芳香剤みたいにキツい。もちろん、彼女もスカートは短い。

 彼女たち三人は、ヒエラルキーのトップに君臨している。通称、勝ち組・陽キャ。

 別に、クラスの中にはっきりとしたカースト制度があるわけではない。そのあたりはさすがに進学校だし、みんな一番興味があることは勉強だ。

 けれど、身なりや振る舞いで、上下関係はいつの間にか決まっていた。コイツには変な口をきいてはいけない、無事に高校生活を満喫したければ……みたいな学校生活を生き抜く暗黙の了解。おおむね間違ってはいない。進学校でもいじめはありうるのだから。

 ちなみに、私が真美たちのようなヒエラルキーのトップ集団に見初められたのは、偶然が重なりまくった結果だと思っている。なにも確定要素は無かった。

 私は、もともとファッションが好きだった。可愛いとはなにか、お洒落とはなにか、そういうことに周りよりも少しだけ敏感だった。研究をして制服を着崩すようになると、真美に目を掛けられるようになった。なんだ、お前結構イケてるじゃん、そういう感じ。

 最初は挨拶をするだけが、そのうち物の貸し借りをするようになって、休憩時間に一緒にいるようになって、気づいた頃には今の立場に落ち着いた。ヒエラルキーのトップ集団の次点。クラスメイトからビクビクされることはないし、先生から避けられることもない。都合のいい立ち位置である。

「あーあ、夏休み入ったのに補講とか、マジでだるい」真美がボヤいた。

「マジそれなー。一時間目、数学だってよ。最悪だわ」由里は同意して、

「エッ、宿題やってないよ~! ねぇねぇ見せて~!」恵那は私に集った。

「いい加減自分でやりなよぉ、別にいいけどさぁ……」私は拒否らなかった。

 予習済みの数学のノートを恵那に手渡す。こういうやり取りはイヤではない。誰だって頼られるのは嬉しいでしょ? そうこうしているうちに、心の中の波はまた凪いでしまっていた。

 彼女たちと一緒にいて唯一心苦しいのは、佐野がひとりでいることだ。

から見れば佐野は充分可愛いし、お洒落だと思う。完璧に着こなした校則通りの制服姿があんなに似合う女の子ってそうそういない。佐野自身もきっとそれに気づいていて、同じようなテイストの私服を好んで選ぶ。やっぱりそれがすごく似合っているのだ。

 きっと、「可愛い」の解釈がちょっと違うんだと思う。真美たちは、佐野のような種類の「可愛い」は対象外なのだ。

 だから、三年になって佐野と真美たちと同じクラスになったと分かったとき、棲み分けをしようと決意した。

 学校では、真美たちと一緒にいる。

 それ以外は、佐野と一緒にいる。

 佐野は私の振る舞いに何も文句は言わなかった。もちろん、真美たちも。

 私はふたつの池を都合よく行き来する渡り鳥だ。こういうのがズルいとは思わない。学校という狭い世界の中で上手く生きていくには、必要な能力だと思うから。

 涼しい教室の中で補講を受けているうちに、また佐野のことはすっかり忘れてしまっていた。結局、思いだしたのは、その日の補講が全て終わって塾へ行こうとしたときだった。いつも塾へは佐野と一緒に行っていたからだった。

「あ……、そっかぁ……」

 真美たちと別れて、鞄を手に立ち上がったとき、誰にも聞き届けられない独り言がこぼれ落ちた。

 ひとりになるのは居心地が悪い。上手く言えないけど、ひとりってなんか嫌。心の中がまたザワザワする。その点、佐野ってすごいよな。ひとりで居られるんだもん。私は一瞬でも無理。

 私や佐野が通っている塾は、学校から歩いて三分程の距離のところにある。学校の横を走る大通りに出て、真っすぐ進むだけ。この道しか塾へ行く方法はないので、大通りを歩いている制服を着た人間はだいたい同じ塾の仲間なのである。その群れの中に入ればもう安心だ。

 塾も夏休み仕様のスケジュールを組んでいるので、普段よりも授業の開始が早い。お昼ご飯を食べ終わったらすぐに始まる。教室に入るとすでに何人かの生徒がいた。そこに、なんと佐野もいたのだ! ひとりだけ私服だからよく目立っていた。頭の中、ラッキー! って言葉でいっぱい。いつものように佐野の横の席にドカッと座った。

「佐野ォ! 塾には来てたんだねぇ! スマホ壊れたって言ってたし、連絡できなくって困ってたんだぞぉ!」

「あぁ、ごめん。ちょっと体調悪くて。今日の授業のノート、後で見せてくれない?」

「モチ! つーか、今のうちに渡しとくわ。テキトーに返してくれたらいいからさぁ」

「ありがと」

 私は今日あった授業のノートをすべて佐野に渡した。佐野のノートに比べたら、全然まとまっていないけど、とりあえず今日先生が言っていた要点だけは押さえてある。

 佐野がノートを見ている間、手持ち沙汰だった私は、教室に他に誰がいるのか見渡した。新聞部の藤里はまだ来ていないらしい。あとは、顔は見たことがあるけど話したことが無い生徒が数人。

 あ、今教室に入ってきた女子は知っている。真美たちと話しているところを見たことがある。確か、ユイちゃんとか言ったっけ。

「やっほ~、ホタルじゃん。おひさ~」

 ユイちゃんもやっぱりスカートは短い。キーホルダーをたくさんぶら下げた鞄を手に、紙パックのジュースを飲みながら教室に入ってきた。

 ちなみに、「ホタル」というのは、正確には私の名前ではない。本当は蛍と書いて「ケイ」と読むのだけれど、佐野を含め学校でこの名前を呼ぶ人はいない。わたしのことを「ホタル」と呼ぶのは、真美たちクラス内カーストのトップ連中だけ。我ながら区別しやすい名前を親が考えてくれたものだなと思う。

「ユイちゃん塾で会うの久々じゃね? なぁに~、サボってたのぉ?」

「暑いしダルいしさぁ、めんどくせって思って」

「うーわー、悪いなぁ」

 私たちは佐野がノートを写している横でけらけらと笑った。ユイちゃんはチラッと佐野を見ると、ニヤリと笑って私の耳元でつぶやいた。

「ねぇ、こないだの模試、成績返ってきたっしょ。色々とウワサあんだけど……」

「ウワサ? なにそれ、初耳なんだけどぉ」

 ユイちゃんはニヤリとまた笑った。この笑い方、真美に似ている。

「今回の模試、校内の十位以内の層が総崩れなの。ウチの塾からは五人入ったらしいってセンセが言ってたんだけどね……数が合わないんだよね~」

「数が合わない? 誰か成績を報告し忘れてるだけなんじゃないのぉ?」

 私は教室の後ろに掲示された、「期末試験成績上位者続出!」と大きく書かれたポスターを眺めた。一際大きな文字で佐野の名前が書かれている。そりゃそうだ、この塾で一番賢いのは、どんなテストでも常に一位を取る佐野なのだから。

 この塾は今のご時世に珍しく堂々と成績と名前を表に出す。つまり、我々塾生には、学校で行われたあらゆる試験結果を報告する義務があるのだ。ハッキリ言って、趣味のいい話ではない。けれど、眼で見て分かる成果を掲げることで、対内的に塾生同士の競争意識を煽ったり、対外的に塾生を増やすための営業素材として使ったりしているのだと思う。

 ユイちゃんは私の指摘を全く聞かず、佐野の名前が載っているポスターを見つめて続けた。

「三位はよっちゃん、四位はモク様が入っちゃってね、あのヨウくんが九位。で、アメリちゃんは六位でしょ? 昨日の塾で藤里から聞いたけどさ」

「ふぅん。それで?」

「ほらほらほらぁ~、いつもいる人の名前が無いでしょぉ~?」

 ユイちゃんは佐野の方を見て、あからさまに大きい声で言った。その声は教室の中で騒めく他の声たちよりもずっと大きくて、私たち以外の生徒がこっちを見る始末だ。

 視線の先は、佐野だった。

 ユイちゃんはそれでも続けた。

「八位らしいんだけどね、その人。何か知らないかなぁ~? ホタル、仲いいんでしょ? 何か聞いてないの~?」

 佐野はいつも一位だった。どんな小さな試験でも、常に一番だった。そんな彼女の名前がまだ挙がっていない。

 私は何も聞いていない。だって、佐野はなにも言わなかった。昨日の放課後、様子がおかしいなと思ったけど、すぐに普段通りに戻った。私は何も知らない。

 佐野の方を向けない。今彼女がどんな顔をしているのか、怖くて見られない。わたしの目に映るのは、ユイちゃんの不気味な笑顔ばっかりだった。

「私は、何も知らない」

 精いっぱいの力で振り絞った言葉の、なんと情けないこと。

 教室の中は、さっきよりももっとざわめきだした。佐野、八位、嘘、そんなキーワードが次から次へと雪崩のように流れ込んできた。ユイちゃんはニヤニヤと笑うばかりで、私の前から立ち退かなかった。

 急に、ガツンと金属がぶつかるイヤな音がした。

 佐野が椅子を倒しながら立ち上がったのだ。まっすぐ長い黒髪がサラサラと背中から流れ落ち、簾のように横顔を隠したのでその表情は分からない。

 こんなに感情を表に出す佐野、初めてだ。心の中がまたザワザワし始めた。ついでに、頭の片隅で警報が鳴っている。これは、良くない事態だ。当然に。

「さ、佐野、ちょっと……ッ! ねぇ、ユイちゃん、最悪なんだけどぉッ!」

 ユイちゃんはやっぱりニヤニヤ笑うばっかり。私は彼女を後ろに突き飛ばした。それでも、ちょっと揺らめいただけでなんの反撃にもなっていなかった。せめてと思い、ユイちゃんと佐野が向き合うことの無いようにふたりの間に入った。

 佐野は私の肩を掴むと、グイッと私を退かした。

「私、もう無理だ」

「佐野……ッ! ちょっと、ユイちゃん、ケンカしに来たんならもう帰ってよぉ!」

「はぁ? なにその良い人ムーブ。折角ホタルのためを思って教えてあげたのにさァ、ホントは友達でもなんでもないんでしょ?」

「そんなことッ……!」

「あーあ。萎えたわ~、おもんな~」

 ユイちゃんはその嫌な笑いを最後まで止めることなく、教室を後にした。波風立てるだけ立てて帰っていく――こんな純度100%の悪意なんて、そうそう出会うことはない。なんでこんなに佐野を目の敵にする? 佐野が成績落ちてザマーミロって思ってんの?

 元凶が居なくなってもなお、重苦しい教室の空気は変わらない。わたしたち以外の生徒は誰も談笑を再開しようとはせず、みんな教室から出て行った。ユイちゃんが出て行ったのと同じドアを通って姿を消した。結局、授業開始まで十分も無いにも関わらず、教室の中には、私と佐野以外誰もいなくなった。

 佐野は椅子に座ろうとしなかった。長い髪に隠されているせいで、表情は分からない。でもきっと、傷ついてると思う、たぶんだけど。こういう時、なんて言ったらいいんだろう? 

 自由気ままに池を行き来する渡り鳥。ショートケーキのイチゴだけを食べ続け、切り分けたスイカのテッペンだけを齧り続けた私に分かるはずも無く、行き場のない手がフラフラ動くばかりで何もできない。

「佐野、もう誰もいないから、座ろう?」

 ようやく絞り出した言葉は、そんな意味の分からないことだった。

 佐野は横顔を隠し続けた髪を耳にかけ直すと、ケタケタと壊れたように笑い出した。大きな声で笑う佐野なんて、初めて見た。

「佐野、大丈夫? ユイちゃんの言ったことなら――」

「お前だって、笑ってるんだろ! 全部分かってるくせに!」

「わ、笑ってないよッ! というか、知らなかったもんッ!」

「――知らないって言った?」

 佐野の言葉が一段と鋭く突き刺さる。

 嘘だ。私は知っていた。

 模試を返された瞬間の佐野の様子を見れば、誰だって気付く。何かあったんだろうな、悪いことがって。それで、すぐに佐野のところへ駆けつけて、どうしたのって聞けばよかったんだろう。でも、できなかった。だって、私は渡り鳥だから。真美たちの顔色も窺っていたから。私が一人になるのはイヤだから。

 佐野と仲良くしすぎると、私の居場所が一つ無くなるから。そうなると都合が悪いから。

 だから、何もない事にした。

「目障りなんだよ! もう顔も見たくない! 大嫌いだ!」

 佐野は机の上に広がっていた私のノートを床に投げつけると、荷物を強引に鞄に全部突っ込んで教室を飛び出してしまった。

 私は佐野の後を追いかけられなかった。ただ、しゃがんで床に落ちているノートを拾った。埃を払って拾い上げる。ノートには私の字ではない綺麗に整った字が書き込まれていた。ココの問題、黒板うつし間違えてるよ。X=-12,Y=6になります。教科書P121参照……。書き込みはとても長かった。

「なんだよぉ……ッ」

 私は床に座り込んだまま、塾の授業の開始を告げるチャイムを聞いた。教室の外に生徒が集まっている様子を見て講師は驚いていたが、何事も無かったように授業は始まった。

 先生の張り上げた声が締め切った窓をも揺らす勢いだったのに、私の耳には何も届かなかった。友人の泣き叫ぶ声がべっとりと耳を覆っていて、どんどん私の中に沁みわたっていくのだ。

 きっと、私が悪い。いや、絶対に私が悪い。

 授業が終わるとみんな我先にと教室を出て行った。私はみんなよりも一拍遅れて席を立った。まだ太陽は高い、帰るにはまだ早すぎる。けれど、自習室に行く元気もない。きっと、今ごろ、佐野のうわさで持ち切りだ。そんなの聞きたくない。

 私は塾の外へ出て、スマホで電車の時間を調べた。いつもは親に連絡して迎えを呼んでいるけど、明かるいし自分で帰るか。ひとりで。じわりと目が熱くなった。

「おーい、遠原さーん」

 藤里も塾の建物から出てきた。いつもヘラヘラしてる新聞部のヤツ。今は誰にも会いたくないのに。

「……んだよ、私、もう帰るんですけどぉ」

「ちょっと気がかりなお話を聞いたんだけどさ。すごかったんだって? 佐野さんが、教室で急に……」

 佐野。ニヤニヤと下心漫才の気持ち悪い笑みを浮かべて、その汚らしい口から佐野の名前が飛び出した。ユイちゃん、お昼、教室。こいつが聞きたいのは佐野のあの一件のことだ、間違いない。

 気が付くと、私は自分の目線よりも高い所で、藤里の制服のネクタイをひねり上げていた。肩にかけていた鞄がアスファルトに落ちる。大事な電子辞書が入っているのに。

「ちょ、ちょっと! そういうんじゃないんだって! 冗談通じないんだから! 落ち着いて!」

「テメェ、どの面下げて佐野の噂、聞きまわってんだ?」

「お、面白いなとは思ったけど、心配なんだって! これはホント! マジで!」

 藤里は私の手を払いのけると、さっきまでの笑みを引っ込めてそう言った。こいつが佐野を心配してるだって? じゃあさっきのキモイ顔は何なんだよ。突き放すようにネクタイから手を放してやると、藤里は私の鞄を拾い上げ、それをなぜか自身の肩にかけた。

「タクっちゃう?」

 藤里は私の鞄を持ったままずんずん歩いていく。ちょっと待て。コイツ、何をする気なんだ? 私は藤里を追いかけた。だって、私の鞄を持ったままなんだもん。

「タクシーでさ、佐野さんチ、行っちゃう?」

「え……」

 ぱあーっと車がクラクションを流しながら走り抜けた。私たちは何もしていない。ただ大人しく歩道を歩いているだけなのに鳴らされた。これは、何かの合図なのだろうか。そんなわけないか。

 藤里が手を挙げた。トロトロと一台のタクシーが私たちの前に停車する。ぱたんと開いた後部座席のドア。藤里は私の背中を押した。

「角ヶ芽みたいなクソ田舎でタクシー捕まえられるとか、コレ絶対行けってことだよね」

 藤里も私に続いてタクシーに乗り込んだ。生徒手帳を開くと、ペラペラととある住所を運転手に言いつけた。なんで佐野の住所知ってんだ。やっぱりこいつは怪しいし、キモイし、気に入らない。

 車窓を流れる風景は見慣れた通学路なのに、この車はどこか別次元の世界へ向かっているような気がした。

「青野のことだけど、俺、ちゃんと怒っといたから。女子同士だと後先まずいでしょ?」

「……あっそぉ」

「あと、今回の試験はいろいろおかしいんだ。いろんな悪い噂が流れてる。妬み嫉みも入ってるとは思うけど」

「……ふうん」

「遠原さんも佐野さんも、何も悪くないんだと思うよ」

 私が悪くないだって?

 私はこの日初めて藤里と目を合わせた。

「私って酷いんヤツなんだよぉ。佐野に何言われても仕方がないんだからぁ」

 また、目が熱くなった。じわりと視界の輪郭がぼやける。喉がキュッと締まって、息がしずらい。嫌でも肩が揺れる。

 藤里は何も言わずに、自分の鞄の中を漁り始めた。あったあったと私に差し出したのは、綺麗にアイロンが掛かった青いハンカチだった。

「母さんが持てってうるさくて。まあ、使ってよ。ちなみに未使用だからご安心を」藤里は車窓のほうに顔を向けて続けた。「まぁ女子特有の話でしょ? まあ、ふたり見てて変だなとは思ったけどさ、佐野さんとの距離の取り方としては賢かったんじゃない? あの人、ひとり大好きじゃん」

「違う。佐野はね、我慢してるの。ほらぁ、いつもイヤホンしてるでしょ?」

「音楽が好きなだけじゃないの? ノーミュージック・ノーライフ的な」

「藤里、お前、ホント、バッカだなぁ……」

 そうじゃないんだよ。本当に一人が好きなら、わざわざ周りの音をシャットダウンするようなことなんてしない。わざわざ早い電車で登校しない。わざわざ休み時間まで勉強なんてしない。

 一人が好きなんて、嘘だ。

 そうでもしないとその場にいられないだけ。

 私はそんなことまで頭のどこかで分かっていても、真美たちと一緒にいることを止められなかった。

 今から佐野の家行って、私、どうすればいいんだろう。さっきはごめんねって言えばいいの? でも、悪いのはユイちゃんで、私じゃない。ああそうか、最初から全部を謝ればいいのか。私はぼっちになりたくないから、登下校のときと塾のときだけ友達ヅラして、佐野のことを利用しましたって言えばいいのか。

 それで解決するのだろうか。佐野はまた私と一緒にいてくれるだろうか。ああ、駄目だ、またそういうずっこいことを考える。私は本当に……。

「もうすぐ着くよ」

「分かってるしぃ……」

 佐野の家は、学校の最寄駅――角ヶ芽駅から東に十五分ほど乗ったところにある平入駅(私たちが毎朝待ち合わせをしている駅である)というところで降りて、徒歩五分のところにある。駅から見える大きなマンションの九階に住んでいると、以前に話してくれたことがあった。タクシーはマンション前に乗り付けると、後部座席の扉を開けた。

 藤里がテキパキと支払いを済ませると(半分出すといったのに聞いてくれなかった。ムカツク)、佐野の家があるマンションの前に私たちは降り立った。

「やっぱりオートロックかぁ。よし、とりあえず行こうか」

「うん……」

 私は藤里の後に付いて中に入った。一つ目の自動ドアを通過し、二つ目の自動ドアが待ち構えるホールに入ると、左手側に数字のボタンとスピーカーが並んだスペースが設けられていた。

 藤里は佐野んチの部屋番号まで知っていて、あっさりと呼び出しボタンを押した。なんでそこまで知ってんだよ!

『はい、佐野でございます』

 佐野のお母さんの声だ。藤里は私を手招きした。どうやらここからは私の出番のようだ。ゴクリと喉が鳴った。ぎゅっと拳を握り締めて、スピーカーと向かい合う。

「あの、えっと、さ……じゃない、葉月さんと同じクラスの、遠原です」

『あらあら、遠原さん。こんにちは。えっと、葉月に御用があるのかしら?』

「あ、う、はい。すみません、お願いします。すみません」

『いえいえ。ちょっと待っててね、すぐに下のドア開けるから。どうぞ上がってきて』

「はい、すみません……」

 佐野のお母さんの佐野を呼ぶ声が漏れ聞こえてきた。お母さん、マイクの電源入れっぱなしだけどいいのかな。

 スピーカー超しに、二度目の葉月コールが聞こえてきた。さっきよりも苛立った声だ。ほとんど叱りつけるような言い方だった。佐野はきっと嫌がってるんだ。だったら、そこまでして来てもらう必要なんてない、かな。もう佐野の気持ち、分かっちゃったし。

 お母さんにもう大丈夫ですって言って、今日はもう……。私が口を開きかけたとき、スピーカーから今度は佐野の声が聞こえてきた。しかし、遠すぎるのか、ゴモゴモとくぐもった声にならない音しか聞き取れなかった。

『勉強だけできればいいわけじゃないのよ!』

 佐野のお母さんは一際大きな声で怒鳴った。続いて佐野の叫び声が聞こえる。やっぱり何を言っているのかわからない。

 あれ、なんだかおかしくないか? 私と佐野の喧嘩と、佐野のお母さんの言い争い。何がどう繋がっているのかさっぱりだ。もしかして、それもこれも全部私のせい? 一体、何がどうなってるんだ?

「なんか、大変なことになっちゃってる?」

「知らないよぉ……やっぱ来るのはまずかったんじゃないのぉ?」

「んー、でもさぁ、こういう場合、早いうちにどうにかするのが一番って思わない?」

「質問に質問で返すなよ、馬鹿ぁ!」

 ああもう最悪だ。コイツのせいで何もかも。いや、それは責任転嫁か。ああもう心底自分が嫌になる。佐野のお母さんに、やっぱり帰りますって言おう。

「ね、ねえ! あれ!」藤里は私の腕を引っ張った。

「んだよ! 邪魔なんですけどぉ!」

「ほら、佐野さんだよ! 降りてきてくれたよ!」

 藤里が指差す先を見る。一人の女の子がこっちに向かって走ってくるのが見えた。一直線にかけてくる。長い黒髪が揺れている。間違いない、佐野だ。藤里を押しやって、私は佐野に駆け寄った。

「佐野ッ! 佐野ぉーッ!」

 固く閉ざされていた自動ドアは、佐野を感知して簡単に開いた。佐野は体を斜めにして開ききっていないドアの間をすり抜けた。

 ここにきてようやく佐野は私を見た。けど、それもほんの一瞬だけだった。

「ごめん……ッ」

 ただ一言、去り際にそう呟いて私の目の前を走りぬけた。

 ごめん? ごめんって、何? どうして佐野が謝るの?

 それから、どこへ行くつもりなの?

「藤里、これ持っとけ!」

 藤里に鞄を押し付けて、私は佐野を追いかけた。マンションの外に出ると、佐野は平入駅方面に向かって走っていた。クソ、なかなか足が速いな。そっか、そういやこの人、体育でも当然に成績が良いんだった……って、今はそんなことどうでもいい!

 私は佐野を追いかけた。何度も佐野の名前を叫んだけど、佐野は立ち止まらないし、振り返りもしない。あぁ、心臓がバクバクする上に、心がバキバキに砕けそう。

 駅に通じる道の交差点は青の点滅信号だが、私たちはお構いなしに駆け抜けた。

「佐野ッ! 止まってよぉ!」

 佐野はやっぱり振り返らない。真っすぐ一直線に走っている。まるで、どこか目的地があるかのようだ。それに、なぜかリュックサックを背負っている。しかも結構大きい。動きやすそうなジーンズに、カッチリした七分袖の白いシャツを着ている。足元は紺色スニーカーだ。佐野らしくないスポーティーな服装だ。

 まさか、佐野には「目的地」があって、そこへ行くのだろうか?

 でも、どこへ? そもそも、どうして何のために?

 ――家出、失踪。

 この単語が頭の中にぽつんと浮かんできた。イヤな予感がする。駅構内に入っても佐野は走るのをやめない。このまま佐野が改札を抜けたら、黒だ。ダメだ、佐野行っちゃダメだ!

「佐野ォ! 行くなあッ!」

 佐野は上着のポケットから定期券を取り出した。そして駅員に見せ、走る勢いそのままに改札をすり抜けてしまった。

 佐野を行かせちゃダメだ。私はその一心で改札をすり抜けようとしたが、駅員は腕を伸ばして通路を塞いだ。

「ちょっと、ちょっと! キミ、切符はッ?」

「……ッ!」

「あ、あります! ぼ、僕の連れですから! 先、行かせてください!」

 背後から藤里の叫び声が聞こえた。二人分の鞄を抱えてすっかり息を切らしていて、今にも倒れ込みそうだ。

「行けッ! 遠原さんッ!」

 一瞬、駅員がひるんだところを、私はすり抜けた。階段を駆け上がり、その先は二股に分かれている。佐野の姿はもう見えない。佐野はどっちに行った? いや、定期を見せてたから、学校と同じ角ヶ芽方面だ!

「くそぉ……ッ!」

 私は角ヶ芽駅方面の電車が止まる左側の階段を駆け上がった。足が重たくて上がらないけど、ここで行かないとダメなんだ。私は足を殴った。動けよ、こんな時くらい! あと五段、ホームがちらっと見えてきた。

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 ホームに着くと、まず佐野を探した。田舎の駅とは言え、ホームは広いものだ。人もそれなりにたくさんいる。その中で佐野を探さなければいけない。長い黒髪の、リュックを背負った女の子、私の自慢の友達、どこにいる?

 狭いホームを走った。電車を待つ人の顔をひとりひとり確認した。佐野はいない。どうしよう、もしかして向かいのホームにいるのだろうか?

 無情にもアナウンスが流れた。4番ホームに到着の角ヶ芽、聴色寺、今平行きみなみ8号です、白線より後ろに下がってお待ちください……。電車待ちの人々はみな電車が来る西の方を見つめだした。私は人々の視線の流れには向かうように東へ向かって移動した。

 風を巻き上げながら電車がホームに入ってきた。人々は我先にと自動ドアの前に集まりだした。人合密度がより高くなる。人と人が重なり合って訳が分からない。

 ダメだ。もう、見つかんない。このまま佐野はどっか行っちゃうんだ。私、なにも言えないまま。

「う、うう……っ」

 ぷしゅうと自動ドアが開く音がして、人の流れが一気に巻き起こった。電車から降りる人、いまから電車に乗る人、いろんな人がホームに突っ立ったままの私を避けていく。その中に佐野はいない。

 もういいや、帰ろう。私は何気なく自動ドアを開けて停車している電車の方を見やった。進行方向に対して一両目の電車。立っている人がいるくらい混んでいる。サラリーマン風の男の人、足太いくせに短いスカートの学生、背中の曲がった老人。長い黒髪の女の子。

「え……?」

 思わず声が出た。佐野だ。佐野が電車に乗ってる。

「佐野! 佐野ぉ!」

 車掌さんの笛の音が私の声をかき消した。けど、そんなの知るか。私は電車に駆け寄って、腹の底から声を出して佐野を呼んだ。

「佐野ッ!」

 最後の最後で佐野は私に気がついた。駆け寄ってくれようとしたけど、自動ドアがガコンと動いた。このままだと閉まってしまう。

 私は咄嗟にスカートのポケットからスマホを取り出して、車内めがけて放り込んだ。ドアが閉まりきる前に車内に滑り込んだそれ。車内のお客さんはみんな異様な目をして、ホームに立ち尽くす私と床に転がっているだろうスマホをちらちらと見ていた。

 その中でただ一人、佐野は顔をくしゃくしゃにして私をじっと見つめていた。ボロボロと涙をこぼしていた。なんで佐野が泣くんだよ。

 電車がのろのろと動きだす。すると、佐野は私に向かって何か言ってきた。口を大きく開けて、ゆっくりと一音ずつ発しているようだ。何を言ってるんだろう、こんな肝心な時に、佐野の言ってることが分からない。

 電車は私たちを引き離すように西へ向かって走り去った。佐野を乗せた電車はあっという間に見えなくなった。私は何もできないまま、その場に立ち尽くすことしかできなかった。

 あぁ、私の大切な友達がいなくなっちゃった。なんで、どうして、あのとき私がこうしていれば……。心の中は私史上一番の高波で大荒れだ。波がどんどん心をかき乱す。バキバキに砕けた心から、波が溢れて決壊寸前だ。私はいつの間にか固いコンクリートに膝を付き、座り込んでいた。

 一番大切なモノって、なんで無くした後にならないと気が付かないんだろうね。



 空が茜色に染まる頃、僕は仏間に寝っ転がってダラダラとスマホを弄っていた。いいや、正確にはスマホなんてまともに見てはいない。ただの指の運動である。頭の中は佐野葉月のことでいっぱいだった。

 黒くて長くて真っすぐな髪。髪と同じ色の意志の強い目。太陽を知らない白い肌。キッチリ正しく身に付けた制服。真っ白な靴下とピカピカの黒い革靴。はーちゃんと呼んだときの、驚きと喜びが混じり合った顔。イマドキあんな高校生がいるんだなぁ。

 スマホを放り出してゴロリと寝返りを打つと、背中でガサリと紙が擦れる音がした。最後に帰ってきたのが何時なのかも忘れた実家で、僕ができる暇つぶしと言えば絵を描くことしかない。家中の紙という紙を引っ張り出して、頭の中に浮かぶアイデアを書き出す遊びに興じた結果、仏間は床が見えないくらい紙でいっぱいになってしまったのだった。かといって、掃除をするような僕ではない。むしろ、これくらい荒れていて、たくさんの絵に囲まれている方が落ち着く。

 寝そべった視線の先に仏壇がある。供えていた花はとうに枯れていた。初七日法要までしか済ませていない上にこの仕打ち、遺影の中の父親は怒っているだろうか。いいや、今更これくらいの親不孝で怒らないか。

「あーあ……なにしようかなぁ……暇だぁ……」

 ポケットの中でスマホが震えた。緩慢な動きで取り出して画面を確認すると、「宮沢五鈴」と名前が表示されていた。暇だけど、彼女の電話に出る気にはならなかった。だって、絶対怒られる。遼平、アンタいつまで会社空けてんの! つーか、今どこにいんの! さっさと戻って仕事しろボケェ! このへんが妥当だろう。ヤダヤダ、怒った五鈴さんはめちゃくちゃ怖いからヤダ。

 鳴りっぱなしのスマホを枕代わりの座布団の下にしまい込み、膝を抱えて固く目を閉じた。しかし、座布団越しに微妙に伝わるバイブレーションは全く切れる様子が無い。

「あー……、まじかぁ……」

 起き上がって髪の毛をグシャグシャと掻いた。これは、五鈴さん、僕が出るまで電話切らないつもりだ。本気で怒ってるパターン。

 恐る恐るスマホを手に取って起き上がると、意を決して通話ボタンをスワイプした。

「もしもーし、ごめんって五鈴さん、早めにそっち帰るから仕事のことは――」

『何言ってんだ、遼平。俺じゃ、実渡』

「は……? アッ、そういう、なんだよぉ、お前かよぉ……」

 キンキン声の罵声が耳をつんざくのを覚悟していたら、野太い男の濁声が聞こえてきて、一瞬五鈴さんって本当は男だったの? って思ってしまった。なるほど、長いコール音は実は一回切れていて、五鈴さんと入れ違いに幼馴染が電話をよこしてきた、というわけか。僕は安堵のため息をついて、再びゴロリと横になった。数枚の紙が風で浮きあがる。

『お前、どうせ暇やろ。今から飲むぞ。付き合えや』

 僕の幼馴染――実渡國光はいつも横暴だ。命令形でお誘いがかかる。僕はあえて大きな溜め息をついた。

「えー、ヤだよ。國光、酒癖悪いモン。付き合いきれない」

『ええから来いや。ほら、桃むいでやるけん』

 桃。きっと大きくてよく熟れているんだろうなァ……。想像するだけで口の中に唾液が溢れた。

 國光の実家は青果店だ。商店街に店を構えていて、実渡青果店という。僕がまだこっちに居た頃――高校生の頃、國光の親父さんが店先で煙草をふかしながら店番してたのを覚えている。僕と同い年だった高校生が、今はすっかりオジサンになって親父さんの代わりに店番しているとは、時間の流れって恐ろしい。

 僕は通話をスピーカーに切り替えてスマホの画面を確認した。デジタル時計はまだ夕方の六時前を指している。まったく、田舎ってどうしてこんなに店じまいが早いのか。まぁ、遅くまで店を開けたところで客が入るとは思えない。だって、夜になって外に出るような人間がいないからね。東京とかと違って、ジジババばっかりだもんな、田舎は。

 今から飲むとなると、帰りはすっかり深夜になったころ――日付が変わる前に開放されたら万々歳といったところか。

「ねぇねぇ、メロンはないの?」

『あーハイハイ、カットしたヤツなら出してやんよ』

「えー、今日売れ残ったカットフルーツでしょソレ。また賞味期限切れの残飯処理?」

『文句を言うな。つか、お前何処でおるん? 家か?』

「まぁ、そうだけどぉ。じゃあ、今から行けばいいの?」

『オウ。酒は買うてこんでええぞ。つまみは食いたいもんがありゃあ自分で買うでこい。ほんだら、六時半集合つーことで』

「へいへい、了解でーす」

 酒は向こう持ちだし、タダ酒にあり付けるのは悪くない、かもね。財布とスマホをズボンのポケットに押し込むと、僕はさっさと家を出た。

 細い路地が続く住宅街を抜け、はーちゃんとお話した角ヶ芽駅を通り過ぎ、商店街を北上する。古いアーケードの商店街で、駅前の二車線道路の道なりに続くのが多町商店街。多町商店街から南に伸びる商店街がさらにふたつあり、西側を北新町商店街、東側を十里町商店街という。國光の青果店は、北新町の方を南下してアーケードを抜け、信号を渡ったその向こうに店を構えている。ちなみに、正確に商店街の中に店があるわけではないが、昔からここらへんでは実渡の店は「商店街のくだもん屋」で通っている。

 とはいえ、商店街とは聞こえがいいが実際はシャッター街だ。八割がたの店は閉店済み。シャッターが下ろされて久しいボロボロの建物が並ぶだけ。僕がまだこっちにいたころ、良く通っていた文房具屋も閉店していた。並河文具店。良く行ってたのになァ。画材とか揃いが良かったから好きだったんだけど。

 人通りはかなり少なくて、雨風凌げるアーケードがあるということで、通学路にしている学生くらいしか見かけない。今日も例に習って人気はゼロ。僕が踵を擦りながら歩くだらしない音だけが寂しく響いている。

 母親の呼び出しで東京を飛び出して早一週間。父親の葬儀を終え、一通りの法要は済んだ。この地にもう用は無い。けれど、僕はまだ帰ろうという気になれなかった。

 向こうに残してきた仕事はもちろんある。自分が社長の会社すらあるのに、全部放り投げている現状に、なんら焦りが生まれない。

 絵が嫌いになったのかと思ったけど、仏間は僕の落書きでいっぱいだ。体はいたって健康。ご飯も食べられているし、夜はぐっすり眠れている。

「あーあ……」

 ただ、自分の中でぽっかりと空いた何かが埋まらない。

 何となく、この正体は分かってはいる。

 本当に気づいてしまって、正面切って向き合うのが怖いだけ。きっと、なんとなく、経験上、そんな気がする。

「なぁにやってんだ、ボケ!」

「あいたッ!」

 珍しく難しい事を考えて歩いていると、後頭部をいきなり叩かれた。一瞬で思考が停止して、ハッとした。商店街はすでに終わっていて、俺は赤信号の交差点に突っ込もうとしていたのだった。痛みがなお残る頭を擦りながら背後を振り返ると、店の名前がプリントされたエプロン姿の國光が立っていた。

「ちゃんと前見て歩けぇ、ボーっとしとんとちゃうぞ」

「もー、いちいち殴んないでよくない?」

「この方が早いやろが」

「絶対そんなことないし! 暴力反対! こっちはお前に付き合ってやるってんのに!」

 まだ夕方だというのにすっかり人気のない道路のど真ん中で騒いでいると、歩行者信号が青になった。國光は俺の襟元を引っつかみ、親猫が子猫を引きずるように横断歩道を進んだ。

「あーもー、服が伸びちゃうー、國光、強引すぎ、脳みそまで筋肉なの? そんなに酒が好きなの? いや、僕が好きなのか?」

「こっちの都合良く引っ張ってこれる輩つったら、お前くらいしかこの辺にゃいねーんだよ。埋め合わせ要員じゃ、調子に乗んな」

「うわ、言ってくれるね~。埋め合わせ要員でも居ないと飲めない寂しがり屋さんな癖に。このこの、おっきい体して心はウサギチャンって?」

「おーおー、やったらお前はエサを前にして喜ぶ犬っころじゃ。ほれ、中でどれでも好きなもん選べ」

「わーい、大将太っ腹ぁ!」

 横断歩道を渡り終えると、歩道を挟んですぐに國光の実家――実渡青果店がある。國光の宣言通りすでに店じまいを終えていて、半分シャッターが下りている。僕たちはそこをくぐって中に入った。薄暗い店内に所狭しと果物が収まった段ボールが積まれている。その片隅に、透明のプラスチックケースに入ったカットフルーツが乱雑に放り出されていた。売れる前に熟してしまった果物を加工して割安で売っているのだが、それでも売れ残った可哀想なフルーツたちである。

「おいしそーう! メロンとモモとパイナップルいただきまーす! ねぇ、余ってるやつは帰りに持って帰っていーい? それまで冷蔵庫に置かせて!」

「……ハァ、犬っころの方がまだ可愛げがあるな」

 悪態をつきながらも國光は、残ったカットフルーツたちを抱えて店の奥に掛かった暖簾のその先へ入っていった。そこからは急な階段になっている。二階は実渡青果店を営む実渡家の住居だ。國光に続いて僕も階段を上がった。上がり切ったその先には左右にドアが一つずつあって、左が台所や居間に風呂場、右が寝室となっている。左側のドアからテレビの音が漏れ聞こえてきた。國光の親父さんがいるんだろう。國光は親父さんの方を見もせずに、さっさと右側のドアを開けた。

 相変わらず、デザイン性もクソも無い、人が住んでますよ感アリアリの煙草臭い部屋だな。國光は備え付けの冷蔵庫にカットフルーツたちを押し込み、代わりに炭酸水と氷の入ったパックを取り出した。僕はその様子を眺めつつ、窓際のソファー(すっごくダサくてスプリングが死んでる)に腰かけた。

 カーテンを避けると、目の前はネオンと街頭に照らされた北新町商店街が見える。なんとなくこの風景には見覚えがあって、國光の部屋に来る度に見てしまう。クソ田舎の寂しさと忙しなさが入り混じった僕の大嫌いな町だ。

 高校時代からおそらくたいして変わっていないだろうこの部屋で酒を飲むのは変な感じだが、それだけ年を取ったということか。ローテーブルの上はウィスキーの大瓶とスルメやチータラなどのおつまみが占拠していた。あと、僕が選んだ賞味期限切れのフルーツたちも乗っかっている。

「同じでええか?」

「うん。最初は薄めでお願い」

 曇ったグラスに適当に勢いよくぶっこまれるウイスキーと炭酸水、そして氷。薄めって言ったのに絶対濃いでしょコレ。マドラーなんてあるわけも無く、スルメの足を使って強引にかき混ぜ、ちょっとイカ臭いかもしれないハイボールの出来上がりだ。僕たちはグラスを掴み、カコンと合わせた。

「かんぱーい」

「うい、お疲れさん」

 國光はグラスをグイッと仰いであっと言っという間に飲み干すと、そそくさと二杯目の作成を始めた。マドラーと転身を遂げたスルメの足はいまや國光の口の中である。まともに混ざり切っていないハイボールをまたグイッと仰ぐ。マドラーのスルメの足を齧り、ちょっと短くなったそれでグラスをかき混ぜる。

 コイツ、酒の味とかそんなのどうでもよくて、ただ酔いたいタイプなのかも。あと、絶対コイツと一緒に居酒屋とか行きたくない。僕はグラスの半分以上残っている一杯目をチビチビと口に含んだ。

「ほれ、くだもんも食えや。足は短こぅになってしもたけど、完熟やけん美味いぞ」

國光は机に上のパックを次々と開けた。つまみとフルーツで机の上は満員御礼状態だ。異種混合、肴の坩堝。僕は早速モモに手を付けた。國光がこんなだから、素手で掴んでもお互い様である。

「ん、あまーい! おいしーじゃん。これ買わないなんて、お客さん見る目無いねぇ」

「ほうか、ほうか。そりゃ、安達さんも喜ぶわ。まぁ、旬にはちと早いけどな、今年の初モンや。縁起もええぞ」

 安達さんって誰だよ、モモの生産者? まぁいいか。國光は気分を良くしたのか、自慢げに話し始めた。

「最近はな、ゼリーも売り始めたんや。それが角ヶ芽高校のJKにバカ受けでな。結構ええ儲けになっとる」

「うわ、悪い大人だ。どんなゼリーなんだよ?」

「透明のカップに入っとる。透明のゼリーをな、シロップで甘(あも)うに味付けして、カットフルーツ入れるだけや。そんで、出すときにポイップクリーム乗せる。素人の俺でも余裕や」

「あー、分かった。最近流行りの映えるってやつ? 上手くやってんじゃん」

「そりゃあ、俺には此処しかないけんのぅ!」

 笑顔でそう言い放つ國光だが、その言葉は反比例するように重たく、暗い一面を覗かせていた。これは、僕への当てつけか? そこまで深読みするのは自意識過剰か?

 ソファーの上で姿勢を正しながら、カットフルーツを数個グラスの中に沈めた。

「まぁ、要するにや、俺ぁ、お前を心配しとるっちゅーこっちゃ」

「えッ、そういう話に繋がるの?」

「いつまんでも、こっちにおってええんか? お前、会社を経営しとる言(ゆ)うとったやろ。それ、どうなっとんや」

「えー? いや、会社は大丈夫だよ。すごく優秀なマネージャーがいるし……なんなら社長っていうのも形だけっていうか……」

 國光の顔がなんとなく見ていられなくて、僕は再び北新町商店街を眺めた。クソ田舎の割に、車の通行量は多い。その代わり、人の姿は見えない。明かりだけを灯して暗闇を晴らすのに、その先に居るはずなのだが。なんて無機質な眺めだ。

 かといって、東京のように人がウヨウヨいたところで、それはそれで孤独である。ああ、僕は東京も好きじゃないのかも。

「まぁ、テキトーにどうにかするよ。帰るときは言うからさ」

「……別に、親父さんのことを悲しんどるわけでもないやろう。お袋さんのことやって」

「もう、止めてよ。方言がうっちゃうじゃん」

「お前かて、ちょーっと前までこやんして話っしょったやないか」

「うるさいなぁ、せっかくのモモが不味くなるだろ」

「お前、ホンマは東京で何かあったんやないんか」

 むしろ、何かあった方が良かったよ。

 こんな、自分でも自分が分からないような状況になって、毎日無気力に生きるくらいだったら、いっそのこと利き手を切断したとか、両目が潰れたとか、誰にでも分かる悲劇に見舞われたかった。

 母親に呼び出されてコッチに帰ってきたときの荷物に、パソコンやスマホ、タブレットや専用タッチペンなどの仕事道具が含まれていたのが唯一の救いだった。今は、「一色遼平」としてではなく、名無しの絵描きとして適当に仕事をこなしている。SNSのアイコンとか喫茶店のメニューとか描いてほしい等の小さな案件。東京でやっていたような案件と比べればお遊びのようなもの。とりあえず、今日明日食べるものに困ることはない。まぁ、貯金もあるし。

 そんなことをしても、その場しのぎにしかならないことは、さすがの僕でも分かっている。けれど、これしか今の僕にできることはないし、なぜかやりたいとも思えなかった。

 今のこの環境が、丁度いい。何もないクソ田舎、大嫌いな故郷、誰もいないボロ屋の実家、妙に心配性で世話焼きな友人。

「何にもないよ。ちょーっとお休みしてるだけじゃない」

「ホンマにお前のその気色悪い標準語だけは、俺ぁ、好かん」

「ンなこと言われてもなぁ。方言なんて、とうの昔に忘れちゃったよ」

 それから僕たちは各々で好みの酒を作りながら、あえてなんでもない話をした。

親友割引で店の看板作ってくれよだとか、商店街の組合の会合が暇すぎるとか……僕にとって違う世界の話だった。僕は自分の仕事の話はしなかった。今日は朝から駅前で絵を描いていたこと、角ヶ芽のバスってそこそこ発達してて微妙に便利なことなど。結局、お互い一緒にいることになんだかんだメリットがある、というわけである。

「お前、露天商みたいなことまでしよんか」

「いやいや、売ってないよ。描いてるだけ。欲しい人がいたらタダであげるの」

「……なんじゃそりゃ。お前は遊んでばっかりやなあ」

「遊びも仕事のうちってね。國光が働きすぎなんだよ。僕なんか今日新しい女の子とお友達になっちゃった。いいでしょ~」

「ハア、お前、顔だけはええからな。で、どんな子なんや?」國光はグラスの中のウイスキーを一口呷った。

「ツヤッツヤの黒髪ロングで、ちょっとツンってしてる感じ。超可愛いの」

「ふうん。お前にしては新しい感じやな……で、持ち帰りってか?」

「してないからココに居るんだろ? というか、その子、女子高生だし、ンなあからさまなことしたら捕まっちゃうって~」

 國光は飲んでいたウイスキーを噴出した。噴霧状になった酒が僕の方にまで飛んできた。

「きったねッ! 何やってんだよ!」

「俺のセリフじゃボケェ! 女子高生にまで手ぇ出しやがってこんの……ッ!」

「手出してないもん! はーちゃんは友達なの!」

「キッショイ話し方すんなや! お前、もう出頭しやがれ! 角ヶ芽警察署まで徒歩五分じゃ! ついでに去勢もしてもらえ!」

 抱えていたパイナップルの器を奪われてしまった。なんでそんな怖い顔すんのさ。女子高生ってそんな神聖なモノなのか? 視界に入れるのもの許可がいるのか? 僕とはーちゃん、なかなか波長が合うし、仲良くできると思うんだけどな。

「國光はなんでも体の関係に持ってっちゃうからダメなんだよ」

「女と男に友情はねえ。常識だろ」

「僕とはーちゃんは違うし!」

 國光は眉間に深くしわを寄せて、ぎりっと僕を睨んだ。「はーちゃんって、どんな子なんや?」

「気になってんのかよ! わっかりにくいなぁもう!」

 悪いか! 國光は僕に向かって叫んだ。あーはいはい。こんなド田舎でちっさい店やってたら出会うのなんかジジババばっかりだよな。

「おい、写メねえのか、写メ」

「無いよ! ホント、自分の欲求に素直だなぁ」僕は自分のスマホを國光に投げた。はーちゃんの写真なんて一枚も入ってないけど、画像フォルダを探しまわれたらそれで気が済むだろ。

「おい、無いやんけ! はーちゃんどこじゃ!」

「知らな~い」

「はあ、世の中、世知辛ぇわ。ホレ、着信やぞ」國光は僕のスマホを投げてよこした。空中でキャッチすると、サイレントモードにしていたスマホの画面が光っていた。

 非通知でかかってきていた。電話の主は分からない。

 けれど、頭の中をある想像が駆け巡った。仮にこんな夢みたいなことが起こる可能性がほんの一握りあるとして、あの子が電話をかけてきていると考えるのは、いけないことだろうか。

「出ねえのか?」

「い、いや、出る。出るよ」

 画面をタップする指が震えた。そっと耳にスマホを当てると、まず聞こえてきたのは駅の構内放送のアナウンスだった。それから人の雑踏、荒い呼吸、鼻を啜る音。電話口の相手の声は一向に聞こえない。

「もしもし、一色ですけど。もしもーし?」

 呼びかけても返答がない。これが國光相手なら悪戯を疑うが、切る気にはなれなかった。

 はーちゃんかもしれない。僕はこの可能性をなぜか手放せなかった。

 もしもし、もしもしと繰り返すが、電話口の向こうの相手は何も話してくれない。けど、電話が切れる気配はないので、僕は呼びかけるのをやめなかった。

「葉月ちゃんでしょ。知ってるんだからね」僕は鎌をかけた。

 國光は今日二度目のウイスキー噴出し芸をしでかした。「その電話、はーちゃんからかよ!」

 うるさい、外野。今それどころじゃないんだ。つーか、はーちゃんかもしんないってだけだっての。國光の口元に向かって、人差し指を立てやった。

 三十八回目のもしもしを言ったころ、受話器の向こうから咳払いが聞こえてきた。

『夜分遅くにすみません……』

 雑音混じりに聞こえてきたのは、確かにあの子の声だった。

 間違いない、はーちゃんだ。

 まさか、こんな奇跡ってあるのか? これは夢か? 体がフワフワする。グワッと体温が上がる。スマホを握る手に汗がにじんだ。

「い、いや、いいよ。で、どうかした?」

『あの、無理を承知で、お願いしたいことがあるんですけど……いいですか』

「え? お願い? いいよ、はーちゃんのお願いならなんでも聞くよ!」

 あ、やべ。ちょっと素が出ちゃった。ちらっと國光のほうを見た。すごく怖い顔で僕を睨んでいる。やっぱりはーちゃんかと、ドスの効いた低い声で呟いていた。

『あの、本当に無理なら無理ってハッキリ言ってください。私、どうかしてるんです』

「まあまあ、言ってみてよ。それからさ、僕にできることなら本当に何でもするし」

 はーちゃんは、ふっと小さく息を吐いた。

『私を泊めてもらえませんか』

「……トメル?」

 止める、留める、停める、富める……。僕の頭の中には様々なトメルが駆け巡った。はーちゃんがどれを指して言っているのか分からずに黙っているところに、はーちゃんは繰り返した。

『一泊だけでいいんです、玄関でも、廊下でも、クローゼットでも、ベランダでも、どこでもいいので泊めてください』

 イッパク、そしてトメル。ここまでくれば、いくら馬鹿な僕でも分かる。

 ――はーちゃんが僕ンちに「泊まる」?

 さっきまで手汗びっしょりでスマホを握りしめていたはずなのに、長方形のそれはカーペットの上に転がっている。僕は國光の方を向いた。僕の言動から事態の異常さを察したのか、目を合わせることができた。

「はーちゃん、僕ンちに泊めてって言ってるんだけど……」僕は情けない声で救いを求めた。

「はッ? ちょッ、おい、それはダメだろ! マジかッ!」國光は一般常識的反応で答えた。

『あの、一色さん、聞こえますかっ? あの、もしもし?』彼女はそんなこと知る由もない。

 はーちゃんが、僕の家に泊まりたいだって? まさか「そういう目的で」言っているわけないか。佐野葉月は「そういう」ことができるような女の子じゃない。断言できる。はーちゃんは、とてもしっかりした子だ。歩く校則、歩く聖少女なのだ。白い百合の花がよく似合う。

 つまりだ。はーちゃんは「自分でもおかしい」と思っているけど、それでもほぼ初対面の知合って間もない僕を頼らざるを得ない状態に陥っていると考えた方がいい。

「おい、遼平、そいつ頭おかしいぞ。バックにヤのつくヤベエ奴らが控えてんだって」

「きっと事情があるんだよ。はーちゃんは、そんな子じゃない」

「まさか、お前、そいつの言うとおり泊める気か?」

 國光の方言癖はすっかりひっこんでいた。真剣な目で僕を睨んでいる。僕はカーペットの上に転がっているスマホを手に取った。

「……今どこに居るのかな。迎えに行くよ」

 はーちゃんは震える声で居場所を教えてくれた。角ヶ芽駅の南口のタクシー乗り場。つい数時間前まで一緒にいた駅前広場だ。いますぐ迎えに行くからその場を離れないように、もしタクシーが停まっているなら、適当に捕まえて乗っていてほしい旨を伝えた。

「どうなっても知らねえからな」國光は僕らのやり取りと聞きながら、低い声でそう呟いた。



 電話口の向こう側から聞こえた声は二人分だった。一色さんと、もう一人低い声の男の人。私の馬鹿なお願いを一色さんは受け入れてくれたけど、もう一人の方は否定的で、耳ざとい私は、彼の声まで拾ってしまったのだった。当り前か、私は彼を否定しなかった。聞こえていないふりをして、一色さんの好意に甘えた。

 一色さんはひたすら心配してくれたが、夜の角ヶ芽駅は決して初めてではない。塾が終わって帰る頃には二十二時を回っていることなんてザラだし、こういう時間帯に一人で駅にいる状態自体は、言ってしまえば慣れている。

 けれど、親と友達を裏切ってここまで来たことが、私の心の中を傷だらけにした。傷を付けたのは紛れもなく私自身。なのに、帰る気にならない私はどうかしている。ほぼ初対面の、それも男の人に頼るなんて正気の沙汰じゃない。私は狂ったんだ。夜風で少し冷えた腕を擦った。

 生憎こんな時間にタクシーなんて一台も停まっていなかった。私はとりあえずタクシー乗り場のベンチに腰掛け、迎えに来てくれるという一色さんを待った。

 通話を終えてから五分ほど経ったころ、北新町商店街の方から、男の人が二人やってきた。私は立ち上がって目を凝らした。

「はーちゃん!」

 はーちゃん。朝、私は人生で初めてニックネームを貰ったんだった。はーちゃん、それは私のことだ。私は私を呼ぶ人に向かって曖昧に手を振り返した。

 手を振っている男の人は、こっちに駆け寄ってきた。暗闇の中から徐々に輪郭がはっきり見えてきた。間違いない、この人は一色さんその人だ。

「はーちゃん! とりあえず無事? 変なオッサンに絡まれたりしてない?」

 一色さんは私の両手をパッと掴んだ。暖かくて、大きな手だ。紛れもない、大人の男の人の手だ。おずおずと大丈夫ですと答えると、その手はすぐ離れて行った。

「変なオッサンはお前やろが。あー、これで悪戯の線は消えちまったし、どうすっかなぁ……」一色さんの後ろに立っている大柄の男の人が、頭をかきながらため息をついた。「おい、お前、親には伝えてんのか?」大柄の男の人は私を見て言った。

「伝えて、ないです。あの、この人は?」私は一色さんに視線を向けた。

「こいつはね、実渡國光っての。僕の幼馴染なんだよ。実渡青果店って知ってる? 北新町商店街を出た先にある。そこの店長さん」

「悠長に自己紹介してる場合じゃねえ。おい、はーちゃん、お前、要するに家出して泊まるところがねーからコイツに頼ったんだろ。違うか?」

 実渡さんは私が話す前にすべてを言い当ててしまった。私は彼に向かってこくりと頷いた。

「長居するつもりは、ありません。一日だけ、泊まれたらいいんです」

「はあ……、最近の若モンは阿呆か? はーちゃんよぉ、こんな童顔男やのうて、お友達のオウチに厄介になればええんとちゃうか?」

「國光、それは言い過ぎ。僕だってはーちゃんの友達だよ?」

「お前、よう考えてみい。下手したら犯罪モンやぞ。俺はお前を心配してやな……」

 実渡さんの言うとおりだ。友達に頼って、一泊すればいい。ビジネスホテルでもなんでも、泊まればいい。けれど、私の中にその選択肢はなかった。

「私、友達がいないんです。いたんですけど、今はいません。ホテルとか考えたんですけど、このへんラブホばっかりだし……。でも、一色さんの名刺だけは持ってて、それで……」

「あーあー。わあったよ。おい、遼平、金ちっと貸してやれ。商店街に古いけど民宿がある。今日はそこに泊めりゃいいだろ」

 実渡さんは第三の選択肢を提示してくれた。「お金を私に貸し、宿を手配する」である。子供の私には考えもつかなかったことを、大人の実渡さんは簡単に示してくれた。そうか、そうすれば最小限の迷惑で済む。

「あ、はい……そうです、ね。そういう方法も、ありましたね……」

「よし、んじゃあ宿屋のおやっさんには俺から連絡しといてやる。スマホ、スマホっと……」

 私は実渡さんの様子を眺めていた。すると、グイッと腕を引っ張られた。一色さんが怖い顔をして実渡さんを睨んでいた。

「なんでそうなるの? 違うでしょ、ソレ」

「遼平、どういうつもりや」

 私を間にして大人の男の人が声を荒げていた。訳が分からないけど、怖いという感情ばかりが溢れて、私は足元をじっと見つめることしかできなかった。ギュッと掴まれた左腕が熱い。

「僕を頼ってくれたのは、ただの雨風しのぎじゃない。正真正銘、僕を求めてくれたんだ。宿屋ってそれ、意味ないじゃん」

「俺は、お前も、はーちゃんも、両方心配して最良の手段を考えてやったんやぞ」

「……はーちゃん、僕の家に行こう。コイツの言うことはさ、聞かなかったことにしてよ」一色さんは腕ではなく、左手をしっかりと握り直してそう言った。

「遼平、ええ加減にせえ。お前、おかしくなっちまったんか」

「うるさいなぁ。一人の寂しさも知らねえヤツに、分かるわけないだろ」

 行こう、はーちゃん。一色さんはそう言って私の手を引っ張った。駅前広場をずんずんと進んでいく。私は実渡さんの方を振り返ったが、追いかけてくる様子はなかった。

「あの、一色さん、私、実渡さんの言う通りにします、だから喧嘩は止めてください」

「いいの。はーちゃんは、何にも気にしないで」

「でも……っ」

 一色さんはスタスタと歩き出した。実渡さんは一色さんの後ろ姿を睨んでいる。私は何もできなくて、ふたりを交互に見つめて慌てるばかりだった。

「今は実家で暮らしてるんだ。そんなに綺麗じゃないから期待しないでね。僕以外誰も住んでないから、変な遠慮はいらないよ。はーちゃん、早く。こっち」一色さんは歩きながら言った。

 私は一色さんに引きずられるまま、素直に付いて行くことにした。実渡さんの姿が見えなくなって、私たちは角ヶ芽駅の北側にある住宅街の中へ入っていった。細い路地が入り組むそことしばらく歩くと、二階建ての建物が見えてきた。門扉には、一色と表札が出ている。ちょっとした庭があるけれど、草が茂ってしまっている。壊れたままの犬小屋や自然に還ってしまった家庭菜園の跡がある。とてもひっそりとしていて、人が住んでいるとは思えなかった。

 一色さんはポケットから鍵を取り出してドアを開けると、私の背中をそっと押した。

「どうぞ、入って」

「お、おじゃまします……」

 中は当然真っ暗だったが、後から入ってきた一色さんによって明りが灯された。分厚い埃を被った下駄箱とその上に黒電話が置いてあった。天井には蜘蛛の巣が張っていて、お世辞にも綺麗とは言えない。ほぼ廃墟と言っても良い。一色さんがここに住んでいることが驚きだ。

 靴を脱いで揃えていると、一色さんは先に部屋の中へ入っていった。ついでに一色さんの靴も揃えて追いかける。玄関のすぐ右側のドアだ。

「何にも無いけど……ようこそ我が家へ」 

 そこは虹色の世界だった。たくさんの絵――駅前で書いているような水彩画もあれば、油画、デジタルアートを印刷したもの、立体的な創作物まで、様々な作品で埋め尽くされていた。壁も床も、絵で満ち溢れていた。そんな空間に申し訳なさそうにちゃぶ台とテレビが置かれていた。その上にはペンや紙や飲み終わった缶やペットボトルが散乱していて、本来の使い方はなされていないようだ。なるほど、ここは居間らしい。

 デザイナーって、こういうことなのか。一色さんはさっさと部屋の中を進んでいくが、私は足元の作品を踏まないようにゆっくり歩くので精いっぱいだった。

「あぁ、踏んじゃっていいよ」一色さんは苦笑しながらそう言った。

「いえ、二度も踏むわけには」私は僅かに見える床に足を下ろした。

 一色さんは急に笑い出した。ああ、そんなこともあったねぇと言いながら、居間から奥に続く台所でなにやら作業をしている。

「インスタントコーヒーしか無いんだけど、いい?」

「すみません、ありがとうございます」

 紙に埋もれていた座布団を見つけたのでそれを引っ張り出し、一色さんの絵を踏まないように端に避けて座った。

 踏んでもいいと言っていたけど、ということは見てもいいのかな。私は散らばっている紙を数枚、手繰り寄せた。鉛筆と思われる黒い線で描かれていて、これは「スケッチ」というものなのだろうか。手や足、胴体などの、人間の体の一部を描いたものや、どこかの町のとある風景、なにかのアニメーションの絵コンテ、はたまた、意味の分からない幾何学模様まで。ただの落書きなんかじゃない、これらは大切な「発想の種たち」だった。

 私は心の底からすごいと思った。私にはできないことをできる時点で、尊敬の対象だが、この人はすごい。どう言えばいいのだろうか、語彙が気持ちに追い付かない。私はまた何枚かの紙を手繰り寄せた。やはり、どれも始めて目にするものばかり。自分の目が輝くのが分かった。ここは私の知らない世界だ。もっとたくさん見ていたい。

「そんなに面白い?」

 一色さんはふたつのマグカップを持ってやってきた。明るいところでようやくじっと彼の顔を見た。朝のもじゃもじゃ頭がちょっと落ち着いていて、無造作ニュアンスヘアーくらいに整えられていた。人懐っこそうな目は朝と変わらない。とても優しい笑顔をする人だ。

「あ、えっと、勝手にすみません」

「なんで謝るのさ。いいよ、はーちゃんなら見ても」

 私は白いマグを渡された。コーヒーはコーヒーだけど、パステルカラーの優しい色をしていた。恐る恐る一口飲んでみると、見た目通りの優しい甘さとコーヒー特有の香ばしい香りと優しくてまろい味が広がった。すごく美味しい。

 一色さんは私の隣に腰かけた。一色さんのコーヒーは真黒だった。気を使ってくれたのか。

「夜寝られなくなるといけないから、牛乳たくさん入れたけど、大丈夫? 飲める?」

「はい、美味しいです、とても。でも、一色さんは?」

「僕はこれからやりたいことがあるからね」

「絵を、描くんですか?」

「ん~、まぁ落書きというか、お絵かきというか、そんな感じ。頭の中にあるイメージはその日のうちに外に出しとかないと頭が容量オーバーでパンクする気がしてね。昔っからの癖だよ」

「へぇ……そうなんですか」

 一色さんは鉛筆を握ると、その辺の紙を引っ掴んで何かを描き始めた。シャッシャッと紙の上を滑る心地いい音がする。

「それ飲んだら、とりあえず寝た方が良いね。お風呂は朝でもいい?」

「いえ、お構いなく……」

 髪の上を走る幾重もの線は、いつの間にか丸になっていて、細くて薄い線をもっともっと重ねて影を付けていくと、丸はいつの間にか桃になっていた。大きくて赤く熟れていそうな桃。大きな葉も付け加えられていよいよ本当に生きているみたいだ。

 本当に一瞬で絵ができちゃった。本当にこの人はデザイナーさんなんだ。でも、デザイナーって絵描きじゃないよな。本業はもっと別ってこと? 多才な人なんだな。私なんか、たった一つの大切なものすら維持できなかった。壊れて跡形も無く消えてしまった私の王国。

 ほろりと涙が零れ、一色さんが描いた桃に雨を降らせてしまった。

「うえぇッ? はーちゃん、どしたぁッ? なんで泣いちゃってるのさ~!」

「あ、すみませ……、なんでも、ないです」

「いやいや、何もないときは人間泣かないから! あ~、ティッシュどこやったっけ……」

 一色さんは紙の山をかき分けて、ひしゃげた箱ティッシュを探り出すと、一気に三枚も引き抜いて私に手渡してくれた。石鹸みたいな匂いと鉛筆や油性ペンの匂いが微かに混じっている気がする。涙を拭いて、鼻を押さえた。次から次へと溢れる涙や鼻水は暫く止まる様子はない。私はもう二枚ティッシュを貰った。

「大丈夫、大丈夫。落ち着いて。ね?」

「は、い」

「一人きりで泣くことになんなくて良かったよ。寂しいもんね、一人。泣いちゃうと余計にさ」

「すみません、私、こんな、迷惑……」

「僕は嬉しいよ。青春ド真ん中のはーちゃんの、貴重な一場面に立ち会えて。きっと、今この瞬間は、十年経ったらキラキラした思い出になる。みんなが羨ましいと思う、そんな記憶になるんだ」

 一色さんはそう言うと、私の手からカフェオレが半分以上残っているマグカップを取り上げて、ぐじゅぐじゅになったティッシュを回収した。代わりにひしゃげた箱ティッシュを渡す。

「キミは今、正面切って自分の人生に挑んでる。それは勇気がいることだ。僕は応援するよ」

「なんで、私なんかに、そこまで……」

「なんでだろうなぁ……分かんない。ただ、放っておくのはイヤだなって思っただけ」

 一色さんはそう言うと涙が染みた桃の絵にしなやかな手を書き加え始めた。桃の実と守るように包み込み、そっと支えるような優しい手。決してその実を捥いで食べてしまうようなことはしない、慈愛の象徴のように見える。

 私には、その手が一色さんのもののように思えてならなかった。

 描かれたばかりのそれに、つい手を伸ばしてしまった。ざらりとした感触。触れたところがジワリと擦れて薄くなってしまった。

「この絵も、はーちゃんにあげる」

「え、いや、そんなつもりじゃ」

「遠慮しないで~。僕が仕事で描いたら、こんなラフでも一万は取るんだから~」

「いち、まん」

 じゃあこの部屋に溢れている絵たちを合わせたら一体いくらの価値になるというんだ。一気に血の気が引くような気がした。もしかして、一色さんって、有名な人?

「冗談はここまでにして。早く寝よう。仏間の横が襖で仕切れるようになってるから、申し訳ないけどそこで寝てくれる? 布団はたぶんその辺にあるから適当に使ってくれていいからさ」

「あ、はい……」

「僕は居間で起きてるから。何かあったら声かけて。あ、トイレは廊下の突き当りね」

「はい……」

 私は箱ティッシュと桃の絵を抱えて立ち上がった。座っている一色さんは私を見上げると、私の手を握った。

「おやすみ。何も怖いことはないよ。すぐ朝は来るさ」

 そう言うと、一色さんはすぐに私の手を離した。その動作はとても優しくて、さらっとしていて、あっという間だった。暖かい体温だけを伝え合う儀式みたいだった。

 なんで、この人はこんなに心に真っすぐ刺さる言葉が分かるんだろう。私はまた涙が零れそうになった。グシグシと目元を擦って、足早に居間を後にした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る