第一章 世界の終わりは始まり

 私の大切なものは、半径二十センチ以内にすべて揃っている。

よく勉強された偏差値七十八の頭脳、腰まである黒髪ロングヘアー。私の世界はいつも私中心に回っていて、私が世界の女王様だ。

 三十人程が詰め込まれた教室の中、私は頭の中に駆け巡る悪態を封じ込めるようにイヤホンで耳に栓をして英語の問題集を解いていた。

 イヤホンから流れ込む心地よい音楽の遠く向こう側では、男子が暴れて床が揺れ、女子が笑って手を叩く。私を除いて全員が何人かで固まって談笑をしている。授業が始まるまでの僅かな時間でさえ、お友達と遊んでいたいなんて。

「バカみたい」

 思わず零れ出た女王様のお言葉。しかし、誰も反応はしない。私は世界の中心で女王様ではあるが、それと同時に私の世界は私ひとりきりだからだ。

 ふいに誰かが私の机にぶつかって、私の筆箱が落ちた。突然の大きな音に、顔を上げる。

「ありゃ、佐野さんごめん!」

「別に。藤里くんが拾ってくれたら、なんとも」

 このクラスの中で、私が話をしても良いと許している同級生・藤里くんは、相変わらず塩対応だねと言いながら、床に散らばった筆記用具と筆箱を集めて机の上に戻した。

「またお勉強?」

「受験生だもの」

「まあそれはそうだけど。あッ、学年一位の佐野さんでも間違えることあるんだね」藤里くんは問題集で×を付けたところを指さして言った。

「……そこは後から復習するところ。間違えてなんかない」

「ありゃ、それはまた失礼を。うーん、お詫びにこれあげる。新聞部推薦の実渡青果店特製ドライフルーツ!」藤里くんは小袋に入ったドライフルーツを机の上に置いた。

「別に、お詫びとかいらないよ」

「そう言わずに! 遠原さんは美味しいって言ってくれたから、多分美味しいと思うよ」

 遠原と言われ、私はつい彼女――遠原蛍のことを目で探した。髪の毛を器用にアレンジして、着崩した制服を身に付ける女子たちのグループの中で、例の彼女――遠原蛍は手を叩いて笑っていた。一瞬、私と目が合ったけど、特にリアクションはない。

「遠原が、ねぇ」

「あとで聞いてみてよ、遠原さんに。今日も塾は一緒に行くんでしょ?」

「それは、まあ、そうだけど」

「あとさぁ、駅前で絵を売ってる露天商、知らない? 佐野さんいつも朝早いでしょ?」

「知らない。話はそれだけ?」

「あっ……、ソレダケデース……」

 藤里くんは私の斜め前にある自分の席に戻って行った。相変わらず、お人よしだ。毎朝なんらかのやりとりがあるんだから。この学校で、遠原以外で口を利くのは彼くらいだ。

 丁度、次の授業を担当する教員が教室に入ってきた。名残惜しいけど、音楽はもうおしまい。イヤホンと問題集を片付けて、今度は古典の教科書とノートを広げた。今日の日直の生徒による号令もそこそこに、授業は冒頭からクライマックスの様相だった。

「ええかー? 古典は細かーい助詞や助動詞の分析して、よもよも解くモンとちゃう! フィーリングや!」

 定年間近の教員は指揮棒替わりの枝(たぶん校庭で適当に拾ってきたんだと思う)で教卓をバシバシ叩きながらそう言った。

 こんなだから、この教員は生徒たちからの人気が驚くほど低い。この高いテンションに付いて行けないからだ。だから、この教員による古典の授業の際は、みんな息を殺して気配を消していた。私は、先生を真っすぐ見つめて話を聞いているけれど。

「佐野ォ、教科書の八十五ページ、五行目から読めェ」

 こんなだから、私はよく当てられる。別に嫌でもなんでもないが。立ち上がって、教科書を持つ。枕草子の有名な一節、春はあけぼのから読み進めた。

「うん、ええぞ。じゃあ、今日の日直から席順で訳して行けェ」

 日直の生徒はしどろもどろになりながら、なんとか一文を訳し終えると、彼女の前の席に座る男子生徒にバトンタッチされた。しかし、彼はなお悪く、途中で止まってしまった。

 教員はガシガシと後頭部を掻きながら、再び声を張り上げた。

「古典はフィーリングや言(ゆ)うとるやろ! 作者の言いたいことは、今とへど変わらん。結局、今も昔も人間同じよーに悩んでンねん。想像せえ! 作者に寄り添うんや!」

 男子生徒はもう座っていた。それを見て教員は私と目をわざとらしく合わせた。

「いま目が合った佐野ォ、こっから訳せるか?」

「……はい。」

 今度はノートを持って立ち上がった。すでに予習は済んでいる。先生はフィーリングで読めと仰るが、一応分節毎に区切って分析も済んでいる。つらつらと読み上げていると、半分も読み進めないうちに先生の方からもういいと言われた。教員は日直とその前に座る男子生徒、そして私が訳した部分を再度読み上げながら、黒板に文法的に難解な箇所を書き写し始めた。

 教員が背を向けたその瞬間、私は四方八方から視線を感じた。湿り気を帯びて纏わりつくようなそれは、間違いなく良い意味のものではない。誰もなにも言いはしないけれど、私はこのクラスの生徒たちから好かれてはいないんだろう。

 ――別にそれがどうした。

 私は、私を中心とした半径二十センチ以内の世界だけを愛する女王様。その他有象無象は管轄外である。

 私はただじっと先生の解説を聞き入った。すべては偏差値七十八の頭脳を維持するため。ひいては、いい大学に進学して、いい会社に就職して、高い給料を貰うのである。

 古典の授業が終わると、生徒たちはガヤガヤとまた騒ぎだした。これで今日の授業はすべて終了した。あとは担任の教員からの連絡事項を聞いて放課後だ。ちなみに、教室が騒がしくなると同時に、自然とあの視線は感じなくなった。

 しばらくすると、担任の教諭が紙の束を抱えて教室に入ってきた。気怠そうに紙の束を数え捲りながら、ゴホンを大きな咳払いをした。

「えー、じゃあ、この間の校外模試の結果が返ってきたので、成績表を返すから取りに来てください、と……。あー、それから、解説の冊子も一緒に取るようになー。今回の結果は、夏休みの勉強に向けて、重要な指針となる。ちゃんと見直しておけよー」

 今度は生徒たちの悲鳴が上がった。彼らは全く、笑ったり嘆いたり……忙しいものだ。

 担任の教員は、ざわつきが治まらないうちに、生徒の名前をどんどん読み上げていった。

 先に答案と成績を受け取った生徒たちの歓喜の笑い声と声すら失う絶望が入り混じるカオスの中、私もその順番が来た。一喜一憂する生徒たちをかき分けて教卓の前まで行くと、教諭は私を見て首を傾げると、ほんの小さな声で耳打ちした。

「今回はちょっとアレだったな、でもま、な。お前なら大丈夫だ、うん。次頑張れ、次」

「え、それはどういう……?」

 ふたつ折りにされた成績表を受け取り、そっと開く。

 偏差値の折れ線は、木の枝が強風で煽られて折れたみたいに、真っ逆さま。

「あ……」

 声が出ない。パクパクと口を開けては閉じることだけ。

 なかなか席に戻らないことを心配した教諭は、私の肩を叩いて席に戻るよう促した。私と入れ替わりで教卓にやってきた遠原は、さすがに私のことを案じたのか、声をかけてきた気がするが何も聞こえなかった。気が付いたら自分の席についていて、答案やらなんやらの紙を鞄の底に押し込んでいた。

 成績表が生徒全員に返ると、担任教諭はすぐに教室を後にした。ざわつきは結局最後まで静まることはないまま、ホームルームはいつの間にか終了して放課後になっていた。

 席から立ち上がらない私のところへ遠原が駆け寄ってきた。カラーリングしたのかどうか判断が微妙な栗色の髪と、規定の長さよりも物差し一本分は短いスカートが揺れる。

「ねぇ、佐野。さっきから様子おかしいよぉ? なんかあった?」

 周りを見渡すと、私と遠原以外、教室には誰もいなかった。

「……別に、なんでもないよ」

 私は可能な限りいつも通りの微笑みを浮かべた。

「ホントにぃ?」

「うん。ほら、塾に行くから私のところに来たんでしょ。早く行こう」

「うんっ!」

 心配そうな顔から一転、遠原は笑顔で私の腕を取って教室を出た。模試の結果を思い出さないように、遠原のどうでもいい話にいつも以上に相槌を打った。


(その日の夜の記憶がない。したがって、その翌日早朝から続けていく。)


 私と遠原の関係は、普通の友達ではない。

 そういうキラキラしていて純粋で透明感のある爽やかな言葉で言い表してしまうと、私たち以外の「友達だとお互いに思っている人たち」にとても失礼だ。

 私と遠原は、お互いを都合の良いように利用しあうだけの仲である。セフレみたいなもの。私という狭い世界は、遠原の世界との外交をしているのだ。我々は原則として、朝の通学・放課後の塾・塾終わりの下校のときのみ一緒に過ごすこととする――そんな条件の下で付き合っている。

 なので、当然のように模試の返却があった翌日も、私はいつも通り遠原と一緒に七時半に学校の最寄り駅に当たる角ヶ芽駅に到着した。

 こんな早朝から電車を利用する人は少なく、ぱらぱらと疎らに乗客が改札を出ていった。遠原の後に続いて駅舎から出ると、すでに真夏の気配をちらつかせる太陽がギラギラと頭上で輝いていた。私はハンカチで頬に垂れる汗を拭った。

「佐野ォ、終業式の日くらいもうちょっと遅い電車でも良かったんじゃないのぉ?」

「電車で座っていられるのはこの時間のくらいだよ。遠原が立ちたくないって言ってたし、ちゃんといつも通りの時間に駅にいたじゃない」

「それはそうだけどぉ……。一応、私、昨日佐野にメッセージ送ったんだよぉ? 明日は遅い電車で行こうって。でも既読になんなかったから」

「ごめん、昨日スマホ壊れちゃったから。しばらく連絡手段ないけどよろしくね」

「えッ、そうだったの? よく平気そうな顔してられるね? 早く直しに行きなよぉ?」

「そのうちね」

 危なっかしい足取りで歩く遠原の横を一緒に私も歩く。人気のない駅前の広場に、ずるずると地面を引きずる音と、コツコツと踵が鳴る音が混じり合っていた。

「あれぇ、佐野、あそこ見てぇ」

「なに?」

「こんな時間に、人がいるよぉ?」

 その言い方は色々と多方面に失礼だが、ある意味事実なのであえて指摘はせずに、遠原の指さす方を見た。

 一人の絵描きがいた。私たちの進行方向にある石のモニュメントを椅子代わりにして座っている。黒いフワフワした癖毛を揺らしながら、背中を丸めて何かを書いていた。足元にはハガキサイズの絵が並んでいて、カラフルな色彩だけは認識できた。なにが描かれているのかは、よく見えない。

「……絵描きの人だね」

「朝からお絵かきかぁ~、いいなぁ羨ましいよ」

「そうだね」

 私は曖昧な返事を返して、絵描きの前を通り過ぎようとした。

 その時、この時期にはあまり吹かない強い風が背後から襲い掛かった。広がるスカート、舞い上がる落ち葉、白いハガキ。私は咄嗟にスカートを手で押さえ、目を瞑った。荷物がたくさん入った鞄が煽られて、少し体勢を崩した。数歩、よろめいてしまった。

「さ、佐野ッ、左足ッ! 足どけて!」

「はあ? 今度は何?」

 突風が治まると、なぜか遠原がバタバタと手を振りながら焦っていた。ついさっきまで眠いとボヤいてダラダラ歩いていたのに、すごい切り替えだ。

 というか、左足がどうしたっていうのだ。視線を下げて私の左足を見た。白い肌に黒いハイソックス、艶々のローファー、黒い布、白い紙。鮮やかな絵の具。背中に垂らしていた自慢の黒髪が、だらりと前に流れてきた。サラサラと細い髪が白のブラウスの上を滑り落ちていく。

「あっ、おはよう、ございます……」

 男の人の声がした。

 はっとした。足元から少しだけ視線を上げると、さっき遠原が指さしていた絵描きの人と目が合ったのだ。

 今時流行りの大きなレンズのメガネをかけていて、顔や手は絵の具で汚れていた。酷い癖毛の下に見え隠れする人懐っこそうな目がじっと私を捉えて離さない。

「おはよう、ございます……」

 口から滑りだした言葉は、なぜか謝罪ではなく挨拶だった。

「そうじゃない! 足! 足どけて!」

「あッ、えっと、すみませんッ!」

 遠原の突っ込みで私は再びはっとした。ぱっと足を上げると、私の靴の跡がくっきりと付いた絵が現れた。私は咄嗟に鞄から財布を取り出した。

「買取ります。おいくらですか?」

 絵描きは、弾かれたように抱えていたキャンパスを下して、ぱっと私に踏まれた絵を手に取った。まるで、大切なもの守るように、胸の中に絵を抱いていた。

「いやいやいや! 売り物じゃないから、コレ! でッ、でも……」

 絵描きは、私に問題の絵を差し出した。土汚れを払って、真っすぐ私の方に向けられた。

「これ、貰ってくれませんか……?」

 葉書ほどの大きさの紙に、桃色の躑躅が描かれていた。青々とした緑色の葉が密集する中、わずかに二輪の躑躅がぽつんと描かれている。細いボールペンで描かれた線画に、水彩絵具で絵の具を滲ませて色を乗せていた。

 純粋に、綺麗で上手な絵だと思った。こんな絵の上に、私の足形が浮かんでいる。

「ね、貰って……?」

 絵描きは私の眼から視線を外さない。目は、怒っていなかった。なんとなくだけどわかる。目もそうだけど、口調と、口角と、手つきと、眉毛と……。

 何が決定的なのか分からないが、絵描きの纏う雰囲気は優しい温度をしていた。自分の手で描きあげた絵を踏まれたのに、どうしてだろう。

 私はそっと手を伸ばした。なんとなく貰おうと思った。この絵を手に取ることが、ごく自然なことのような気がしたのだ。伸ばされる手を見て、絵描きはさらに笑顔を深くした。目元に皺が寄っている。この人よく笑うんだろうな。

「行こっ!」

 急に遠原が私の腕を引っ張った。私の指先は絵に触れることなく、宙を掻いた。ぐんぐんあの絵描きから遠ざかっていく。絵描きはそれでも私から目を離さない。私が踏んでしまった絵は、差し出されたままだった。

 私はついに絵描きから目を反らした。前を急ぐ遠原の後頭部に視線を移した。あっという間に駅前の広場を通り抜けて横断歩道に差し掛かったが、赤信号を無視して道路を突っ切った。

「何やってんの! あんなの、絶対ワナじゃん!」

「でも、貰うだけだよ?」

「タダより怖いものは無し! それに、私たち受験生! 推薦貰えなくなるよッ!」

「……それは、遠原のことでしょ。私は普通に試験受けるから」

 遠原は小さくため息をついて、それよりさぁと全く別の話題を振ってきた。この切り替えの速さには、いつも助けられている。確かに遠原の言うことには一理ある。私たちは受験生で、立ち振る舞いには気をつけないといけないし、変な人と関わっている暇はない。あの絵描きなんてまさにそうかもしれない。

 学校に着くと、今日も遠原はすぐに私から離れて行った。いつも通りの一日の始まりだ。さっきはどうなることかと思ってひやひやしたけど、今日も勉強の一日になりそうだ。早朝自習の用意をしていると、藤里くんが教室に入ってきた。

「ねえねえ、朝から遠原さんが騒がしかったけどさ、なんかあったの?」

「別に、関係ないよ」

「佐野が危なかったのぉ! 私、助けたんだよぉ! って。ほら、佐野さん関係あるじゃん。で、なんかあったの?」

 藤里くんは遠原のモノマネをしながらそう言った。それが存外似ていて思わず笑ってしまった。遠原は身ぶり手ぶりが大きくて、間延びした語尾が特徴なのだ。

「こんな話すら聞きに来るくらい新聞部は記事のネタに困ってるの? 教えないけどね」

「えー、佐野さんは冷たいなぁ」

 藤里君にどう思われようと、私はどうでもいいのだけれど。

 私はイヤホンをしっかりと耳にはめ込み、音楽を流した。あまりうるさくなくて、テンポのいい曲に合わせて、ペンを動かす。

「佐野さん、その、なにも書けてない、よ?」

 ノートにはミミズが這ったような文字にならない何かの跡があるばかりで、文字らしいものは一切なかった。

「……なんでもない」

「それに、手の怪我どうしたの?」

 藤里くんは私の絆創膏が巻かれた指を、指さした。

 肌と同じ色をした地味な絆創膏をあえて選んで貼ったし、というか怪我と言うほどの大きなものではないんだけど。血はもう止まっている。傷はまだ塞がっていないけど。

 私は藤里くんの目線を遮るように手を机の下に隠した。

「怪我って……、大袈裟だね」

「フェミニストだから、こういうことには良く気付くんだよ」

「自分で言っちゃう?」

「言葉にしないといられない質だから。新聞部だし」藤里くんはそれまでの笑みをそっと消して続けた。「ねぇ、もしかして、昨日……、模試のことで、何かあった?」

 不愛想な私に話しかける飄々とした彼の顔しか知らなかった。こんな顔、できるんだ。

 模試。昨日返されてからまだ開いていないし、親に見せてもいない。今、鞄の底でクシャクシャになっているところだ。

「何かあったら校内新聞のネタになるの、新聞部部長さん?」

「佐野さん、僕は本気で――」

「花を摘んでくる」

「へ? は、花?」

 私は藤里くんの追及から逃れるように……、いいや、言葉のままの意味で、席を立った。人気のない廊下を走り、彼が立ち入れない花園――女子トイレに入った。個室に籠ってしっかりと鍵をかける。

「ハァ、ハァ、ハァ……」

 絆創膏を巻いている指先が痛い。ドクドクと心臓が脈打つように傷が疼く。

「ハァ、ハァ……」

 本当に痛いのは指先ではない。

 今も血を流し続けている、心。鮮やかな生傷が昨日の衝撃をハッキリと思い出させる。私の守るべき王国が、偏差値が、成績が、将来が。無くなってしまう。

「あぁ……ッ」

 私は両手で顔を覆った。そうでもしないと叫び出してしまいそうで、居ても立っても居られない。

 昨日、担任の先生から受け取った模試の結果。酷いものだった。いつもはこんなことはない。そう、あの模試を解いていたあの時だって、手ごたえはあった。なのに、なのに。

 どうしよう。私は、どうしたらいい?

 第一志望の大学は、E判定だった。

 偏差値は、六十二にまで下がった。

 ずっと一位だった校内の順位さえ維持できていない。

 何も分からない。何がダメだったんだろう。

 私は急に馬鹿になってしまったんだろうか、いや何も心当たりはない。

 どうしよう。いや、どうしようもない。

 私が必死になって守って、縋りついていたものは、こんなにも脆いものだったんだ。あっという間に私が私でなくなった。

 私を目の敵にしている連中は、さぞ胸のすくことだろうよ。先生に媚びていると陰口をたたくヤツ。ボッチなのに強がっていると笑うヤツ。賢ければ何をしても良いと思っていると逆恨みするヤツ……。

 トイレに私を呼ぶ声が響いた。

「佐野さーん、大丈夫? 終業式、出られそう?」

 この声は聴いたことがある。私の前の席に座っている並河さんだ。藤里くんか担任教諭を経由して、適当な女子生徒を遣わせてきたんだろう。

 私は声を振りしぼって、トイレのドア越しに返答した。

「ごめんなさい、朝から体調がすぐれなくて。悪いのだけど、鞄を持ってきてくれない? 今日はもう帰ります」

「分かったよ、先生にも行っておく! すぐに鞄持ってくるから、ちょっと待ってて!」

 並河さんは私の言った通りに私の鞄を抱えてすぐ戻ってきてくれた。それをお礼と共に受け取ると、さっさと学校を後にした。



 学校からの逃亡は案外簡単なものだ。いいや、私という「成績優秀な生徒」だから多少の我儘も受け入れられるんだろう。進学校になればなるほど、校則が緩いというアレだ。遠くから校歌の伴奏が聞こえてくる。今の時間は全校生徒が体育館で終業式に並んでいるんだろう。このクソ暑い中、ご苦労様なことだ。

 下を向いて、劣化したアスファルトの歩道を歩いた。今のところ、誰ともすれ違っていない。私はそれをいいことに、ずんずん歩いた。腕を振り、息を吐き、きゅっと口を結んで歩いた。額に滲む汗をハンカチで押さえ、ついでに目に溜まった涙を拭いながら、ただひたすらに前に進むことだけを考えていた。

 ただ黒いだけのアスファルトが続いていたが、足元に黄色いペンキでかかとを揃えた足のマークが見えてきた。私はいつの間にか駅前広場に繋がる横断歩道を渡っていた。

「あれー? もう帰ってきたの?」

「あー……」

 なんとなく駅前広場を歩いていると、ふいに誰かに自分の名前を呼ばれ、ぱっと前を向いた。黒いもじゃもじゃ頭の絵描きの男は、まだ駅前広場で絵をかいていたのだった。そりゃそうか、朝見かけてから一時間ほどしか経過していない。居てもおかしくないか。

 ついさっきの今で同じ人に見かけられるのは、ちょっと気恥ずかしくて気まずい。私は前髪を直すふりをして顔を隠した。

「えっと、お友達は?」

「いません。ひとりです」

「ふぅん……」絵描きは私を見てニヤッと笑った。「サボりだね。いいねぇ、青春って感じがする!」

「別にサボってなんか……、いえ、なんでもありません」

「僕は君を咎めはしないよ。そういうのもたまには良いよね。無責任バンザイ!」

 絵描きは絵筆を放り投げて笑った。地面に綺麗に並べていた絵の上に落下した筆は、色塗りまで完成したと思われる向日葵の絵の上に豪快に着地した。もちろん、筆の汚れがついてしまっている。鮮やかな緑色の葉の上に、赤い染みが一つ付いてしまった。

「汚れた、と思うでしょ」絵描きはわたしの顔を覗き込みながら言った。

「だって、筆を落として付いたし、向日葵に赤い色は使いません」

「でもね、こうすると……」

 向日葵の絵を拾い上げ、絵描きは赤い絵の具が付いた筆でさらに何かを描き加え始めた。パレットや水差しを行き来しながら、紙の上をサラリサラリとなぞり上げる。

「ほら、できた。まだ汚れだなんて言える?」

「うわあ……!」

 絵描きは紙を私の方へクルッと向けた。そこには向日葵の周りを赤い金魚が泳ぐ幻想的な絵が出来上がっていた。赤い染みは金魚の尾ヒレとなり、柔らかくゆったりと泳ぐ様子を見事に表している。

「どんなことでも、意味を持たせることは簡単だと思うんだよねぇ」

「意味?」

「うん。僕がここで君と一日に二回も会った意味だって、きっと何かあるんだよ。君に絵を踏まれたことだってそう」

「……あの、あの時はすみませんでした」

「いや、そうじゃない! えっと、僕が言いたいのはね……」

 絵描きはごそごそとズボンのポケットを探ると、折れ目のついた一枚の名刺を私に差し出してきた。

「自己紹介くらい、しないとなぁって。僕、一色遼平。東京でデザイナーをしてます。一応、会社の社長さんなんだぞぅ!」

「デザイナーなのに、一色(いっしょく)……?」

「ああッ! それは僕のコンプレックスというか、触れてほしくない所だから、そっとしておいて!」

「す、すみません」

 絵描きさんもとい、一色遼平さんがくれた名刺をじっと見つめる。肩書はデザイナーとなっている。なるほど、彼は画家ではないのか。名刺の裏には彼の個人情報――各種連絡先が記載されていた。

「あの、私の名前は――」

「サノさんでしょ? 今朝、短いスカートの子がそう呼んでた」

「あ、はい。佐野葉月といいます。サノは、人偏に左の佐と、野原の野。ハヅキは葉っぱの葉に、お月様の月」

「葉月ちゃんかぁ……。じゃあ、はーちゃんかな」

「はー、ちゃん?」

「おかしい? 葉月ちゃんでしょ、だからはーちゃん。うん、可愛い響きだ。イヤ?」

「あ、いえ、私のことは好きに呼んでくださって結構です」

「じゃあ、はーちゃん。僕たちは今この瞬間、友達だ」

「はぁ……」

「よろしくね」

 一色さんはニコリと微笑んで、頻りに「はーちゃん、はーちゃん」と言った。でも、不思議と嫌な気分にはならなかった。むしろ、心がじんわりと温かくなって、ちょっとだけソワソワした。そんなふうに私をニックネームで呼んでくれる人は初めてだ。

 それから少し話をして、一色さんは私を駅の改札まで見送ってくれた。お近づきのしるしにと、さっきの向日葵と金魚の絵や今朝踏んだ躑躅の絵を含め、たくさんの絵をプレゼントしてくれた。

 帰りの電車の中で、私は一色さんの絵を見続けた。画家ではないらしいが、それでも絵はとても上手で、淡く優しい色使いと輪郭の薄い儚い描写が今の私には丁度良かった。

 家に帰ると、母がいた。今日はパートで仕事に行くはずだと思っていたが、きっと学校から連絡を受けて帰ってきたのだろう。しきりに私のことを心配していたが、私は大丈夫だとだけ言って自分の部屋に引っ込んだ。そうだ、一色さんの名刺にホームページのURLが記載されていた。スマホはなぜか画面が割れていて使い物にならなかったので、自分専用に買い与えられたノートパソコンの電源を入れた。しかし、こっちも画面はずっと黒いまま。いつまでたっても電源が入らない。

 リビングにいる母にパソコンの電源が入らないと相談すると、大袈裟に肩を揺らして、引き攣った笑みを浮かべた。

「そう、それも壊れてたのね。ええ、今度買い替えに行きましょう、お父さんも一緒に。ね、大丈夫よ」

「うん、そうだね」

「今日は母さんのスマホ使いなさい。スマホも昨日壊しちゃったでしょ」

「ううん、別にいいの」

 私はまた自分の部屋に引っ込んだ。

 床には投げ捨てられた本や破り捨てられた紙。バラバラに切り刻まれた塾や学校のレジュメ。参考書と教科書を並べていたはずの本棚はひしゃげて倒れている。歩くたびに舞い上がるのはクローゼットに押し込んであったはずの羽毛布団の中身の羽たち。昨日の私はこんなところまで手を出していたらしい。

 昨日、私は「なにかをしでかした」のを覚えてはいる。しかし、具体的にその時の様子をいまいち思い出せない。変に気を遣う母を見れば、きっと私は私ではなくなって、酷い言葉を吐いたのかもしれない。部屋をめちゃくちゃにするだけじゃなくて。

 私はズタズタに切り裂かれたベッドの上に寝っ転がった。一色さんから貰った絵と名刺をじっと眺めた。気付けば、頬に涙が伝っていた。

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