第2話 クールな年上の場合
「お先に失礼します。」
既に19時を回っている。私にとって19時は夕飯を食べて帰るか、帰宅して母の手料理を食べるか決断しなくてはいけないリミットタイムだ。
大体この時間は空腹がピークに達し、母に「食べて帰るね」と連絡することが多い。
しかし、今日は会議自体が終わるのが遅く、お茶の時間も遅かったため、まだお腹はもちそうだ。よし、今日は帰ろう。私はなるべく早く家に着きたくて、歩くスピードを上げた。
駅のホームに着くと、いつも乗っている停車待ちの場所に見慣れた人が立っていた。職場の先輩だ。気さくに話のできる仲ではないので、声を掛けようか悩んだ。
しかし、声を掛けないとなると、彼を避けるために降りるときにエスカレーターから遠い車両に乗る羽目になる。空腹との闘いの最中に、その選択肢はあまり得策ではない・・・1分、1秒が命取りだ!私は意を決し、
「先輩、お疲れ様です。」と声を掛けた。
「あ、お疲れ様です。」
どちらかというと寡黙なタイプの先輩は、笑顔を見せるでもなく、世間話を自ら始めるでもなく、返事だけをした。やっぱり話しかけなければ良かったかな・・・。
「あの、どこまでですか?」
「新宿まで。」
「同じですね。私も新宿で乗り換えなんです。」
「本当はまだその先まで行くんだけど、今日は高校の同級生とこれから飲み会があるから、新宿で降りるんです。」
彼はちょっと時計に目をやりながらそう言った。
「もしかして、もうスタートしてるとか?」
「そうなんですよ。まあ、皆社会人だから、俺以外にも多少遅刻はいると思うけど。」
そこに電車が来た。ちょうど混んでいる時間帯だ。出るときが反対側のドアになるため、なるべく奥に詰めた。まだ隙間はあり、不快指数は高くない。当たり障りのない話をしながら、あと一駅というところで、
「うわ、潰される・・・」
私は思わず眉間に皺を寄せた。毎日のことだが、ここで一気に人が押し寄せる。私と彼は横並びに立ち、話していたが、さらに降りる予定のドア前に押しやられた。後ろからサラリーマン、大学生、高校生・・・いろいろな人が入ってくる。どんどん余裕がなくなり、彼との距離も縮まる。すると、
「こっち。」
と彼が私をドアの前に立たせた。私のすぐ後ろはドアだ。反対側のドアが閉まり、電車が動き始めた。彼と私の距離はゼロに等しい。揺れると彼と完全に密着しそうになる。恥ずかしさで顔が絶対真っ赤になってるかも・・・と上を見ないでいると、
「きつくないですか?」
と彼の声がした。バツが悪そうに声の方向に目をやると、彼はドアとポールに手をやりながら、なるべく私が潰されないように立っていてくれた。
「大丈夫です・・・。」
それでも近い距離のせいでよく鍛えられた腕の筋肉、ワイシャツから覗く喉元が目の前にあり、いつも以上に言葉が出なくなってしまった。
無事新宿に到着し、彼と私は途中で別れた。何事もなかったかのように彼は雑踏へ消えていったが、「あー、やばっ・・・」と顔を赤くしながら困った表情で歩いていたことを、私は知らない。
マイナス距離の功罪 みなづきあまね @soranomame
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