第25話 水見さんは話さない ④
恋をすると、世界は一変した。
夜空に浮かぶ月や星、誰が住んでいるのか知らない一軒家の玄関先のガーデニング、公園の遊具にマンションにまばらに点いている電気の
そんな何でもないようなことさえも小寺くんと一緒なら特別に見えた。
こうやって、ただ一緒に歩くだけでも楽しいと感じてしまう。
「じゃあ、ここのコンビニでお酒買おうか」
そう言って小寺くんはコンビニに入っていく。
「今から飲むの?」
「さっきそう言ったじゃん」
確かに、十数分前に飲みたいとは言ったけど、まさか今からとは考えてもなかった。
「それで何飲む? ビール? チューハイ? それともカクテル?」
小寺くんはお酒が並んでいる大きな冷蔵庫の前に立ち、尋ねてくる。
「チューハイがいいな」
「わかった。どれがいい?」
お酒をまだ飲み慣れていないので、スタンダードっぽいレモンチューハイを指さすと、小寺くんはそれを五本以上ごっそりとカゴにいれ、ビールも同じようにカゴに入れる。
そして、お菓子コーナーでスナック菓子や柿の種などを適当にカゴに入れ、レジに持って行く。表示された金額は結構な額で、思わず財布を出そうと鞄に手を伸ばすが小寺くんが財布から万札を出してあっという間に会計を済ませてしまう。
ただお釣りを上手く受け取れなくて小銭を床に落としてしまった。さいわい他の客がいなくて、店員も拾うのを手伝ってくれた。小寺くんは小銭を上手く拾えていなくて、ほとんど店員と私が拾った。
小寺くんは拾った小銭を受け取り財布にしまうと、重そうな買い物袋を手にゆっくりとコンビニから出ていった。店員にお礼を言い、小寺くんを追いかけた。
それから五分も歩かない場所にあるアパートの前で足を止める。私は驚いた。そこはついこの間、私が引っ越してきたアパートだった。まだ周辺の地理に詳しくないうえに夜で辺りが暗く景色の見分けもつかないので、まさかここに向かっているとは思っていなかったのだ。
「小寺くん、どうしてここに?」
「どうして? ここ俺の住んでるアパート」
「えっ?」
そう言うと、小寺くんは慣れた様子でズボンから鍵を取り出し、オートロックのアパートの玄関扉を開けて中に入る。それを見て、本当に同じアパートの住人なんだと認識はするが、それ以上に動揺し混乱する頭は目の前の事実になかなか追いついてくれない。
小寺くんの後を追うようにオートロックの扉を抜け、階段に向かう。しかし、小寺くんはそこで力尽きたのか階段の一番下で座り込んでしまった。
「どうしたの?」
「階段上るのがしんどい。もうここで飲んでもいいかな」
「さすがにダメだよ」
「だよね。でも階段……」
仕方なく小寺くんに肩を貸す。お姉ちゃんと違って男の子はやはりというかかかる重みも違った。小寺くんに肩を貸しながら床に置かれたコンビニの袋を持ちあげる。想像以上に重く、指に食い込む袋が痛かった。それに耐えながら、
「何階?」
「三階」
自分と同じ階に驚きつつも、今は力を振り絞って荷物と小寺くんを三階までなんとか運び上げる。息も絶え絶えに、
「部屋はどこ?」
と、聞くと小寺くんは私の手からコンビニの袋をさっと取り、「こっち」と壁に寄りかかりるようにして歩き始める。たどり着いた部屋は私の隣の部屋だった。
引っ越してきてから数度挨拶のために訪ねたがいつも留守だった部屋の主が小寺くんだった。
もう驚きというより衝撃だった。
そして、小寺くんに恋をしてしまった私は運命かもしれないと、いつになく前向きにその事実を受け入れた。
それから小寺くんの部屋でお酒を飲んだ。私が何を話しても小寺くんは嫌な顔一つせず相槌を打ちながら聞いてくれた。そして、一緒になって笑ってくれた。今まで苦しかったことやがんばったことを話すと、
小寺くんは本当に人との距離感の
そう思うと自分のことも好きになれそうな気がした。
たくさん飲んで、たくさん話して、たくさん笑って――。何もかもが初めての経験だった。
どれだけの時間が経過しただろうか。小寺くんはいつの間にか床に横になって寝息を立てていた。その寝顔を見ているだけで幸せな気持ちになれた。ずっとその寝顔を見ていたい気もするが、私も眠気が限界だった。寝ている小寺くんのために電気を消す。電気を消したので眠るためにベッドに倒れ込み、布団に潜り込んだ。
そして、寝るにはスキニージーンズはストレスを感じて邪魔なので脱いでベッド脇に落とす。そのまま無意識でいつものようにブラジャーを服の中で外し、同じようにベッド脇に落として、楽になった体と心を布団に沈ませていった――。
小寺くんの声で目を覚まし、眠気の残るぼんやりとした意識で起き上がり、まだ焦点の定まらない視界で辺りを見回す。すぐに自分の部屋じゃないことに気付き、目の前で困惑したような表情の小寺くんと視線が合う。昨日のことを思い出し、恥ずかしさと照れから手近にあった布団で体を隠す。そして、ふと肌に触れる感触に違和感を覚え、布団の中を覗き込むと、下は下着姿で、上はノーブラで。自分の格好に恥ずかしさと焦りを感じ、耳まで熱くなるのを感じる。
なんでこんな格好なのか思い出せず、さらにどうして小寺くんのベッドで眠っていたのか分からない。だけど、なんとなく想像はできる。お酒って怖いと心底思った。
そう思いつつ、もしかしたら意識がないうちに小寺くんと一線を超えたかもしれないと考えるも、シーツは汚れていなかったし、体に感じる異変は胃のあたりが気持ち悪いという以外は何もなかった。
初めて感じる二日酔いだった。
それから変わりたくてもすぐには変われず、人と正面から向き合うことに慣れていない私は、重たい空気と恥ずかしさから逃げ出してしまったが、小寺くんが追いかけてくれたおかげで繋がった関係が切れずにすんだ。
小寺くんの反応や言動からあの夜のことは覚えていないかもしれないということはすぐに察しがついた。小寺くんの私に対する距離感というものが遠くなったのを感じたのだ。だから、今度は自分から歩み寄ろうと思った。
小寺くんにしてみれば、私との関係はゼロからのスタートかもしれない。それでも優しさや気遣いは変わらなかった。そのたびに私の小寺くんへの気持ちは強くなっていった。
酔っていても、酔っていなくても、小寺くんは小寺くんだった。
そんな小寺くんに私は感謝と恋をしている――。
夜になると時々、あの日のことを思い出してしまう。
小寺くんは何があったのか気になっているのだろうけど、私からは話すつもりはない。
これまで何があったかということは確かに大事だ。思い出を共有できるのは素敵なことだと思う。だけれど、もっと大事なのは今とこれからだ。人は過去に縛られるが、未来は自由だ。そのことを私は知っている。
私はこれからも小寺くんの隣を同じペースでどこまでも歩いていきたい。
暗い海から聞こえる波の音を聞きながら、気付けば鼻歌を口ずさんでいた。
そのとき、ロッジの方から小さな床鳴りの音が聞こえた――。
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