第10話 水見さんは近づきたい ②

 ピークには少し早い時間だったが居酒屋の席は大半が埋まっていた。自分たちと同じくらいの年代のグループや、仕事帰りらしき一団もいたりとにぎわっていた。

 自分たちも通された席に着くなりつまみと酒を注文して、すぐに周囲とは見分けのつかない居酒屋の景観の一部になり果てる。

 川村と市成はハイペースでビールを飲みまくる。それを横目にちびちびと日本酒を飲んだ。以前の記憶が飛んだ一見以来セーブのきいた飲み方しかできなくなっていた。また飲み過ぎて同じような目に合うのが怖かったからだ。


「小寺さあ、最近様子おかしくね?」


 何杯目か分からないビールを手にしながら市成が脈絡もなく突然そんなことを言い出した。


「そんなことねえよ。俺はいつも通りだ」

「いや、俺も市成の意見に同意だ」


 川村も話に参戦する。そのことで市成は「だよなあ」と声を張り上げ、川村と頷き合っている。面倒くさいことになりそうだと思っていても、このまま話を流しては市成の指摘を認めることになる。個人的には全く自覚はない話なのだが。


「おいおい、ちょっと待てよ。俺のなにが様子がおかしいって言うんだ?」

「何がって、そりゃあ。あれだ。小寺、俺らに何か隠し事してるだろ?」

「隠し事?」


 市成の言葉に思い当たるものがない。市成は前のめりになっている。川村は追及は市成に任せたのか枝豆片手にビールに口を付けながら、市成の言葉に相槌を打っている。


「そりゃあ、一つや二つ隠してることなんてあるだろ。性癖とかオープンにしているわけじゃないし」

「違う。そういうこと言ってるんじゃない。というか、まじで自覚ないのか?」

「なんのことだよ?」

「お前さ、もしかして彼女できた?」

「はああああ!!!?」


 市成の予想外の言葉に変な声が出る。川村もそれは予想外だったらしく、「まじでか!?」と俺以上に驚いた顔をしている。


「なんでそんなことになるんだ?」

「例えば、最近、スマホ気にする頻度が増えただろ? 今日だって試験終わりに誰かとのやり取りに夢中になってたみたいだし」

「いやいや、誤解だって。お前だって、誰かと短い時間で何往復もやり取りすることはあるだろ?」

「いや、そういうときは電話するから」

「じゃあ、一般論としてだ。別におかしくない話だろう?」


 市成はそう言われればそうかもしれないと半歩身を引く形になるも、そこからさらに一歩踏み込んでくる。


「じゃあ、これも誤解か? 試験の少し前くらいかな。小寺が早朝に女の子連れて歩いてるの見たっていう話聞いたんだけど」


 それには思い当たる節がある。


「いやいやいや。ないって。そもそも誰からそんな話聞いたんだよ」

中村なかむら

「えっと、誰?」

「高校からの付き合いで同じ大学の別の学部の友達。小寺も川村も何度かあったことあると思うよ」


 確かに市成の友達とは何人かと面識はある。学食で一緒に食べたり、空いた時間に合流して一緒に時間を潰したりとかあったからだ。その中の誰かということなのだろう。


「それで、その中村くんはなんだって?」

「深夜バイトの帰りに見かけたって言って、写真撮って送って来たぞ」


 そう言い、スマホを操作して、画像を表示させテーブルの中心に置く。そこには確かに自分が写っていた。予想通り、水見さんと朝ごはんを買いに行ったあの日の朝のことだ。しかしながら、幸いなことに角度的に水見さんの顔は見えないので、これだと相手が誰か分からない。もし分かっていたらもっと噂になるか、市成にもっと早くに問い詰められていたはずだ。


「で、小寺。誰なんだよ、これ」

「――この人は俺のお隣さんだよ」

「はあああ!!!?」


 今度は市成が変な声を出す。俺は嘘はついていない。


「なんでお隣さんと早朝に一緒に歩いてんだよ」

「その日、たまたま早起きしてベランダで涼んでたら、お隣さんも同じようにしててさ、最近引っ越してきて間もないって言うから、案内がてら近くのパン屋に一緒に行ったんだよ」

「下手な冗談はやめろよ」

「いや、まじだって。その写真の真相はそんなところだよ。分かってみれば大したことない話だろう?」


 繰り返すが俺は嘘はついていない。全て事実だ。しかしながら、市成はまだ納得できていないようだった。それでも、それ以上に追及する手札はないようで、頭をいて何か絞りだそうとしているが、何も出ないようだった。そして、市成はすっと立ち上がり、


「ちょっと便所行ってくる」


 と、口にして店内のトイレに向かう。川村も「じゃあ、俺も」と言い、市成の後を追いかける。席に一人取り残され、二人が見えなくなるのを確認して、自分でもびっくりするくらい大きなため息を吐いた。


「乗り切った……」


 安堵する気持ちを噛みしめながら、日本酒の入ったコップに手を伸ばし、口をつける。そして、視線をあげると、思いがけないものが目に入り、ゲホッゲホッと日本酒が喉にひっかるような感覚からむせてしまう。


「噂をすれば影というけど、名前はだしてないっての……」


 先ほどまでの話のもう一人の当事者、つまりは写真に写ったもう一人の人間に顔を見られないようにテーブルに突っ伏す。そのまま腕の隙間から床の方に視線をやりながら、耳に神経を集中させる。ガヤガヤと騒がしい店内のなかで、パンプスのヒールが床に当たる硬い足音が二つ近づいてきて通り過ぎてゆく。おそらくこことは離れた席に案内されたのだろう。

 そのままもうしばらくは何があるか分からないので突っ伏していようと決める。それにしてもさっきまで酒を飲んでいたというのに頭がとてもクリアだった。何かの拍子に酔いがさめるというのは本当なんだと心底実感する。

 本当は顔を隠したりする必要はないのかもしれないが、さっきまでの会話で水見さんのことを相当意識してしまっている。だからというわけではないが、今は何となく水見さんと顔を合わせるのは気まずかった。願わくば、市成と川村の二人が水見さんに気付かないでいてくれと思うばかりだ。

 それにしても、水見さんは何でこの居酒屋に来たのだろう。しかも、パッと見た感じでは一人じゃなかった。

 考えても理由は分からないので、そのまま突っ伏して目を閉じて店内の喧騒に耳を傾け、気分を落ち着かせようと思った。

 しばらくすると、喧騒の中から足音が近づいてくるのが分かる。


「たーだいま。って、小寺どうした?」

「調子でも悪いのか?」


 顔の位置を変え、目を開けると、市成と川村の二人が席に着くなり、心配そうに声を掛けてくる。


「ちょっと飲み過ぎたのかもな。飲んだの久しぶりだったし、疲れで変に酔いが回ったのかも」


 そう言いながら体をゆっくりと起こす。


「本当か? 体調悪いなら先に切り上げて帰ってもいいんだからな」


 市成の言葉に川村も頷く。この二人は本当にいいやつらだと思う。そうしみじみと思いながら目の前のコップの残り少ない日本酒を飲み干し、足りない分を水をぐいっとあおり、口の中をさっぱりとさせる。市成と川村はその様子を見て、自分のビールに手を伸ばす。


「そういやさ、小寺。さっきトイレから戻ってくるときに、同じ学部の水見さんのそっくりさんを見かけたんだよ。なあ、市成」

「そうそう。もしかしたら、本人かもしれないけどここ照明薄暗いし、横顔をチラッと見ただけだからわかんないんだけどな」

「へ、へえ」


 その後の二人のやり取りを聞くと、どうやらまじまじと見ていないから確証がないということと、誰かと仲良く話していたから本人ではないのではということらしかった。そういうことならそういうことにしておきたい。俺も見間違えたと思いたいけど、見間違うとも思えなかった。


「その水見さんさんだけど、最近、変わったって噂よな」


 市成がそう言う。川村が「そうなのか?」と聞き返す。


「ああ。最近、水見さんがスマホを気にしているだとか、表情が柔らかくなったとか聞くよ。だけど、人を寄せ付けないのは相変わらずだから、『氷の女王』は健在だって話らしいけど」

「へえ。俺はそういうことをあんまり聞かないからよく分からないんだよな。小寺はどう思う?」


 二人の視線が集まる。そこで話を振られても困る。水見さんの話題は極力避けたかった。もしかしたら、市成の言う変わったと言われる水見さんは、自分のよく知るお隣の水見さんがはみ出してきたのかもしれない。そういうことなら、水見さんの変化を一番間近で見てきたのは自分ということになる。


「俺もよく分からないよ。そんなにみんな四六時中、水見さんのことを気にしているわけじゃないだろう? だから、何かの気のせいだってこともあるんじゃないか?」


 そう一般論に聞こえるありきたりな返答をする。


「まあ、そうかもしれないけどさ。もし変わったとしたら、何か心境の変化でもあったのかな? 好きな相手ができたとか」


 そう川村がニヤニヤとした表情で横から言葉を挟む。


「もしそうなら、相手は同じ大学生かな? それとも大人な包容力のある年上の社会人とか?」

「まあ、どっちもありそうだよな。勝手な想像だけど水見さん、年下や同年代に興味なさそう」

「めっちゃわかる。そうなると、そういう相手の前では笑ったりしてるわけだろう? あんな美人の好きな人にだけ見せる笑顔って破壊力すごそう」

「普段クールなのもギャップの振れ幅あるだろうし、普通の男はイチコロだろうな」


 川村と市成の想像の話は続く。たしかに、水見さんの笑顔は心を鷲掴わしづかみにされるほど魅力的だ。笑顔だけでなく、仕草の一つ一つが綺麗だ。いろんな想像をしているであろう川村と市成も、水見さんが鼻歌を歌うのは想像できないだろう。

 そんな今まで見てきた水見さんを思い返すだけで自然と口の端が上がってくる。


「なに、笑ってるんだよ。小寺」

「いや、なんでもない。水見さんって不思議な人だよなって思っただけ」

「はあ? 意味わかんねえよ」


 そう言い、スマホを取り出すと、気付かないうちにメッセージが届いていた。


『小寺くんに教えてもらったお店にお姉ちゃんと行くことになりました』


 それを読んで、画面をスクロールさせ、その前のやり取りを見る。もしかしたら、水見さんは最初から来る気だったけど、一人で行くのが難しいというか怖かったから、お姉さんを誘って来たのではないか。それでも、水見さんのことだから来たとしても声を掛けるなんてできなかっただろう。

 そう思うと、水見さんと合流したくなった。きっと連絡すれば、すんなり水見さんは了承してくれるかもしれない。しかし、川村と市成はどうだろうか。今、このメンバーで相席したとすれば、女性の目を見て話せない川村に、女性と話すときぎこちなくなる市成。そんな二人にとって水見さんの会話のテンポの悪さや、『氷の女王』と呼ばれる一因でもある受け手にとっては突き放すかのように感じる会話のぶつ切りなど、それらはきっと二人の心をえぐる。あの二人にとっては酒の席でなくシラフの席で時間を掛けないと相いれないもののように思えた。

 そう思っていると、持っているスマホが短く振動する。それは水見さんからのメッセージで、


『お姉ちゃんが一緒に飲みたいと言っているのですが、どうする?』


 それを読んで思わず頭を抱える。なんでこうも今日に限ってタイミングよく現れたり、メッセージを送ってきたりするのだろうか。


「小寺、どうした? やっぱり調子悪いのか?」


 川村が話を中断し声を掛けてくる。川村と市成には悪いが、ここはこの場を早々に解散させて一旦店を出て、戻ってくるのが最善に思えた。


「そうかも。やっぱ飲み過ぎて、変に酔いが回ってるのかも」

「大丈夫か? てか、さっきからスマホ見てるけど気になることでもあるのか?」

「ああ、明日のバイトのシフト、代わってくれって回って来たんだよ。試験でシフト緩めにしてたから、試験が終わった身としては断りにくいしでどうしようかなって」

「それは仕方ないとはいえ辛いな」


 市成が苦笑いをして頷く。川村はきょとんとしているが市成は同じような経験が少なからずあるのか、あわれみの視線を向けてくる。

 しかし、全部とっさの作り話で、平たく言えば嘘だ。


「じゃあ、今日はここらで解散にするか?」


 市成がそう言うが、「解散は小寺だけで、市成はまだ飲むよな?」と川村が言う。市成はそれに付き合ってやるよと同調する。

 そう言うと席を立ち、会計を済ませ一緒に店を出る。店の前で、市成と川村は「じゃあ、また今度ゆっくり飲もうぜ。またな」と言い残し、別の店に行くぞと雑踏の中に消えていった。

 その二人の背中に聞こえないように「すまないな」と謝り、いつかは本当のことを喋ろうと心に誓う。そして、スマホを取り出し、水見さんに電話をする。


『も、もしもし』


 水見さんの声が聞こえる。後ろは相変わらず騒がしい。しかし、次第に静かになっていく。もしかしたら、トイレとか人の少ないところに移動したのかもしれない。


「あのさ、水見さん。これから合流してもいいかな?」

『いいの? でも、小寺くんは友達と飲んでいるんじゃなかった?』

「そうだったんだけどさ、今さっき別れて俺一人なんだけど、他のやつも一緒の方がよかった?」


 しばらく、水見さんからの返事が返ってこない。これで断られたら、恥ずかしいってどころじゃないし、今さら市成たちと再合流なんてできないので、寂しく一人で家に帰らなければならない。


『私は――私は小寺くんが来てくれるなら、それだけで嬉しい』

「よかった。それで、悪いんだけど、どこに座っているのか分からないし、店を一回出ちゃったからさ、一度外まで出てきてくれないかな?」

『うん。わかった』


 そう言うと、通話はぷつりと切れる。しばらくすると、


「小寺くん」


 と、水見さんが店から出て声を掛けてくれる。たしかに、市成の聞いた噂通り水見さんの表情は柔らかくなった気がする。川村の想像通り心境の変化があったのかもしれない。ただ、今はそんなことより、嬉しそうにほほ笑む水見さんのその表情が自分に向けられているということが嬉しかった。

 そう思ったことを水見さんに気付かれたくなくて水見さんの顔を直視できないまま、一緒に店に入り直した。

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