第9話 水見さんは近づきたい ①

 最後の試験を受け終え、外に出るとセミがうるさく、開放感から伸びをする背中にはじわりと汗が浮かぶ。つい先日、八月に入ってからというもの気温が右肩上がりに上昇しているのでは錯覚するほどだった。

 同じ試験を受けていた川村と市成も「終わったー」と心の底からの言葉を発していた。そして、冷たいジュースを近くの自動販売機で買い、「試験お疲れー」と乾杯をし、乾いた喉をうるおす。


「試験終わったし、これから飲みに行くか?」


 川村がそう提案し、市成と同時に「それいいねえ」と即オーケーの返事をする。


「このまま居酒屋行くのか?」


 市成がスマホで時計を見ながらそう尋ねると、


「ふっふっふ……甘いな、市成くんよ」


 と、なんとも不敵な声で意味深な発言を川村がする。


「何がだよ? あとなんかきもい」

「いやいや、きもいは言いすぎだろ、市成。確かにきもいけど」

「ちょっとお前ら、俺に対してひどくないか?」


 急に川村が素に戻るので市成と俺は声を出して笑う。そして、最初に話を振られた市成がしぶしぶといった感じで話を進める。


「それで、川村。俺の何が甘いんだ?」

「いや、特に何か甘いわけじゃないんだけどな」

「なんだよ、もったいぶって何もないのかよ」

「いや、準備はしてるんだ。俺の部屋に」

「なにを?」


 川村はにやりと笑い、


「冷蔵庫でキンキンに冷えたビールと、冷凍庫にジョッキをいれてスタンバってるんだぜ」


 と、親指を立ててこちらに手を突き出す。それに思わず市成と二人同時に感嘆の声を上げ、


「ありがとう、川村」

「お前、本当に気が利く最高にいいやつだよ」


 と、口々に川村を褒め倒す。川村は鼻を伸ばしているのが見て取れる。


「というわけで、居酒屋行く前に軽く家飲みしようぜ」


 川村の言葉で一気に予定が決まる。そのまま持っているジュースを飲み干すまで自動販売機近くのベンチで、雑談と先ほどの試験の答え合わせを始める。

 話し始めて少しすると水見さんが別の棟からの人波に紛れて歩いているのが見えた。こちらに気が付くと、水見さんはその人の流れから外れ、さっき自分たちが飲み物を買った自動販売機でペットボトルのお茶を買い、すぐ近くの日陰に入り、買ったばかりのお茶にひとくち口をつけると、鞄からスマホを取り出していじり始める。

 その一部始終がベンチに座っている位置からはよく見えてしまった。しかし、水見さんを気にしているのは自分だけで、市成と川村は隣で試験問題の解答であーだこーだと意見を言い合っている。

 そのときズボンのポケットの中のスマホが短く振動するのを感じた。スマホを取り出して確認すると、水見さんからのメッセージだった。


『小寺くんは今日で試験終わりですか?』


 この距離なら直接口で言えばいいのにと思い、顔を上げ、水見さんを見ると、こちらには無関心かのようにスマホの画面を注視している。きっと水見さん的には今、俺は市成と川村と話しているから気を遣って直接話しかけるのをやめたのだろうと推測したが、実際のところはきっと話しかけづらいからメッセージを飛ばしたとかそんなところなのだろう。


『俺は今日で終わり。水見さんは?』

『私も今日まで。それで小寺くんはこれから時間ありますか?』

『これから今隣にいる二人と飲みに行く予定なんだ』


 それっきり返事が返ってこなかった。さっきまでテンポよく返ってきたので何かあったのかと水見さんの方を見ると、スマホをいじってはため息をついているようだった。


『水見さん、もしかして何かしたいことでもあった?』


 水見さんはメッセージを確認したのか、数瞬すうしゅんこちらを見つめた後、再度スマホに視線を落とす。


『小寺くんとお疲れ会としてご飯でもと』


 そう返ってきて、水見さんらしいなと思った。水見さんも飲み会に誘ってみようかなと思ったけれど、川村の家に水見さんは推奨できなかった。川村の家は座るところにさえ難儀なんぎする汚部屋だった。きっと女の子には精神衛生上よくない場所だ。なにせ、脱ぎっぱなしの服や下着が落ちていて、キッチンスペースの床にフライパンが無造作に落ちているぐらいには汚い。

 だから、水見さんを誘うならその後からだった。どうせ繁華街にある市成のバイト先のカラオケ店から、ほど近いところにあるいつもの居酒屋に行くのだろう。


『水見さんもよかったら一緒に飲みに行く? 夕方くらいから居酒屋に行くんだけれど』


 そう送り、追加で居酒屋の場所をさりげに伝えて様子を見ることにした。


『私一人で行くのは少し難しいので、今日はお姉ちゃんを誘ってみることにします』

『わかった。じゃあ、近いうちに一緒においしいもの食べたり飲んだりしよう』

『ええ、もちろん』


 顔をあげると水見さんは嬉しそうに頬を緩ませているように見えたがそれは一瞬ですぐにいつもの水見さんに戻り、スマホを鞄にしまうと、歩き去っていった。それをなんとなく姿が見えなくなるまでぼんやりと眺めていると、


「おい、小寺。聞いてんのか?」


 と、市成に声を掛けられる。


「なんだっけ?」

「ちょっとしっかりしろよな。夏休み突入したからって早々にぼけてるんじゃねえよ」

「悪い悪い。それで?」

「だから、ジュースも飲み終わったし、これから川村の部屋に移動しようぜって言ってんだって」


 市成の隣で川村も頷いている。「わかった」と返事をし、スマホをポケットにしまい、残っているジュースをぐいっと一気に流し込む。思ったより量が多くて、飲み終えた直後にゲップが出てしまう。それを見た市成と川村に笑われ、そのまま楽しい空気感のまま川村の家に向かった。


 川村の部屋に着くなり、冷房の効いた部屋でキンキンに冷えたビールを、指がグラスにくっつくのではないかというほど冷やしたジョッキに注いでぐいっとやり、夏場の最高の贅沢ぜいたく堪能たんのうする。

 そのまま夏休みの計画を立てようと川村が提案するが、市成が「いつも通り暇なときに気楽に集まればいいじゃん」という一言で全てを流そうとする。


「そうじゃなくて、みんなで日帰りでいいからどっか行こうぜ。海でも温泉でもキャンプでもどこでもいいからさ」


 川村はそう食い下がる。


「俺は別にいいけどさ、それを男だけで行くのか?」

「そうそう。ただでさえ、むさいのにこれ以上は勘弁だわ」


 口々に川村に文句を言う。


「そうなんだけどさ、女子とキャッキャッフフフとひと夏のアバンチュールってやつを経験してみてえじゃん。だからよ、誰か誘えるような人いたらそれとなくアプローチしてくれよ。二人ともバイト先とか、もろもろ女子と繋がりあんだろ?」


 川村の心からの言葉に、何も感じることがなかった俺と市成は「とりあえずビール飲もうぜ」と川村を無視して、お互いのジョッキにビールを注ぎ合う。

 無視しても続く、川村のモテたいという愚痴を聞きながらふと考える。

 ここにいるメンバーに彼女ができることはあるのかと。

 川村は見た目で誤解されやすいうえにバイトをしているわけでもない。それは仕送りで生活できるほどのお金を貰っているうえに、基本用事がなければ家に引きもるタイプで、その時間で投資をしてそれなりに儲けている。金銭的な余裕のある珍しいタイプの大学生だが、大学以外で出会いというものがない。

 市成は雰囲気的にはイケメンな部類に入り、取っつきやすくもある。さらに、バイト先の同僚に同年代の女性がいて連絡先も交換してはいる。しかし、市成は男子高校出身なうえに元々女子と気さくに話すタイプではない。男子とばかり行動していたので女性との接点や親密になる機会を失い、女子との距離感の測り方が苦手な少々かわいそうなやつだ。バイト先の同僚の女性とも事務連絡以上のことはできていない。

 じゃあ、自分はどうだろうか? バイト先に同年代の女性は多く、休憩室などで雑談はするが、連絡は事務連絡以上はするつもりがなかった。高校も共学で仲がいい女子もいたがそれはクラスみんなが仲がいいというだけだった。最近は、水見さんと仲良くなったと言えなくもないが、どういう関係かイマイチ分からない。

 相変わらず、自分たち三人は残念な奴だと思った。童貞をこじらせて、彼女が欲しいと思いつつ、彼女を作る努力をしていないのだ。

 ビールをぐいっとあおり、二人を見る。きっとこの二人とは、ずっと先の未来も何かしら連絡を取り合っているんだろうなということだけは確信を持てた。

 川村の用意したビールの最後の一本を飲み干すころには窓から見える景色は空は明るさを失いつつあり、ぽつぽつと街灯が灯りはじめていた。

 そして、蒸し暑い夏の夕暮れに、酒と涼を求めて居酒屋に向かった。

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