第8話 水見さんは関わりたい ②

 次の日の朝、目が覚めると頭や体が軽く感じた。おそらくちゃんとした食事をとり、よく寝たことで、疲労がかなり和らいだからだろう。


「こりゃあ、水見さんのおかげだな。あのおかゆ、おいしかったし」


 昨日の水見さん特製、鶏だし卵がゆは味もさることながら、たくさん食べても胃が重くなることはなかった。ご飯を食べた後、すぐに自分の部屋に戻りシャワーを浴びてベッドに横になるとすぐに睡魔に負け、気付いたら眠っていた。

 体を起こし、近くにあったスマホで時間を確認する。まだ朝の六時前だった。早起きをするのは久々でいつもは七時半にアラームをセットしていて、一時間目から講義がある日は家を八時過ぎには出るようにしている。そうじゃない日は二度寝をしたりとのんびりとした朝を送っていた。

 そして、ダメな大学生の自分は一時間目にできるだけ講義を入れないように時間割を組んでいた。もちろんすべての曜日の一時間目を回避するというのはできないが、二年生の前期は一番辛い月曜日の一時間目を回避できていた。

 講義が二時間目からと分かっていても、今日は二度寝する気にはなれず、冷蔵庫から水割り用に買い置きしている水のペットボトルを手にベランダに向かう。

 太陽は昇りきっていないがすでに周囲は明るかった。朝の空気はどこか澄んでいるように感じるがときおり吹く風は生暖かく、そのことで今日も一日暑くなりそうだと思ってしまう。

 水をちびりちびり飲みながら、のんびりとしていると、隣の水見さんの部屋の方からベランダに通じる窓を開ける音が聞こえ、ベランダに出てくる音が聞こえる。

 水見さんは早起きなんだなとそんな間の抜けたことを思いつつ、話しかけてもいいのかと迷ってしまう。そんなことを考えつつ、体勢を少し変えた拍子に手に持っていたペットボトルがベランダの手すりに当たり、低いボーンというような金属音を鳴らした。


「小寺くん?」


 その音に隣の水見さんは反応して、ベランダの仕切り板の向こう側から声を掛けてくる。こうなってしまっては無視するわけにはいかず、


「ああ、うん。水見さん、おはよう」


 と、姿の見えない水見さんの方に向けて返事をする。そのままなんとなく水見さんの部屋の方に顔を向けると、水見さんはベランダの手すりにひじを置きこちらを覗き込むように顔をこちらに向けていた。


「えっと、水見さん?」

「なに?」

「いや、何でもないけど」

「そういえば、体調はどう?」

「すっかり元気だよ。むしろ調子がよすぎるくらいだね。それもこれも水見さんのおかげだよ、ありがとう」

「そう? よかった」


 こんな風にベランダで隣の部屋の住人と話すことになるとは、考えてもみなかったなと内心ではちょっと笑えた。


「そういや、水見さんって、いつもこんなに朝早く起きるの?」

「うん。実家にいるときから朝早かったよ。大学までちょっと遠かったってのもあるけど」

「そうなんだ。そういえば、なんでこんな時期に一人暮らし始めたの?」

二十歳はたちになったから、いい機会かなって」

「そうだったんだ」


 会話が途切れる。ベランダの仕切り板を挟んで並んで立ち、朝の風に吹かれる。


「水見さん、改めて昨日はありがとう」

「いいよ。心配だったのもあるけど好きでお世話しただけだし」

「そっか」

「うん」


 またしても静かな沈黙が包む。この沈黙も最初の頃は居心地が悪かったり、間をどう埋めようかと考えていたが、今では何もしなくてもいいと分かっているので気が楽だ。水見さんも話したければ話しかけてくるし、話しかければ嫌じゃなければ答えてくれる。水見さんとの付き合い方というのに少しだけ慣れてきた。今ではこの沈黙さえも居心地がいい。


「ああ、そうだ。水見さん。昨日のお礼したいんだけど」

「お礼なんていいよ」

「そう言わないでさ」

「でも、私、本当に……そんなつもりで」


 水見さんは自分が何かするのはいいが、何かされる側になるのには慣れていないのか言葉に影が差す。そして、ふといいことを思いついた。


「ねえ、水見さん。朝ごはん、もう食べた?」

「いや、まだだけど」

「じゃあ、朝ごはんの用意だったりは?」

「これからだけど、よかったら食べにくる?」

「ううん。でも、まだならちょうどよかったよ」

「なんで?」

「よかったら朝ごはん一緒に食べよう」


 水見さんは何を言われているのか理解できていないのが伝わってくる。それは仕方のないことだけれど、水見さんが返事に困って、「えっと……」「その……」と何度も何かを言いかけては止めるという状況がなんだかおかしかった。


「水見さん、これからパン屋にいかない? 朝一番の出来立てパンを買いに行こう。それからコンビニに行って、コーヒーを買うんだ。どうかな?」

「うん。行きたい」

「じゃあ、準備できたらまた前みたいにインターホン鳴らしてくれる?」

「わかった」

「じゃあ、またあとで」

「うん。またあとで」


 ベランダでのひとときは終わり、部屋に戻ると出かけるための準備を始める。と言っても、着替えて顔を洗うくらいなのですぐに終わり、暇を持て余した。テーブルの上に広げたままにしている教科書やルーズリーフに目を落としテスト勉強をしようかとも思ったが、そんな気分にもなれなかった。水見さんがいつ来るか分からないので集中しきれないだろうし、今は読んだ文字が直後に零れ落ちるのではないかというくらいそわそわとしている。

 スマホを見てまだ朝の六時半を少し過ぎた頃合いで、近くにあるパン屋の開店時間は七時だったはずだ。歩いても十五分もかからない。仮に早く着いても一人じゃないのだから待つのは苦じゃないだろう。事情を話せば時間つぶしがてらに水見さんと朝の散歩ができるかもしれない。それはそれで楽しそうだ。

 これからどうしようかと考えるだけでどうしようもなくワクワクしてしまう。

 ピンポーンとインターホンが部屋に鳴り響き、急いで玄関に向かう。扉を開けると水見さんがいつものようなクールな顔ではなく、薄く微笑みながら立っている。こんな顔を朝から見ることができるなんて幸運だ。


「じゃあ、行こうか」

「うん」


 言葉少なく俺と水見さんは歩き出す。何も言わなくてもすぐ隣を歩く水見さんをそっと横目で見る。相変わらず分かりにくいけれども楽しそうで、その証拠に今日はよく口角が上がっている。

 いつもよりゆっくりとしたペースで、まだ温度の上がりきらない早朝の道を二人で歩いていく。

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