昇進の条件



 大人になった僕は、信念と性格を生かした職業についた。物理学者というやつだ。専門はソフトマター物理学といい、基本的な物理学が少し散歩した所にできた窪地みたいな分野の研究者になった。


 両親は僕の選択を歓迎してくれた――他の職業には向いていないからという理由だったとしても、僕にはそれが嬉しかった。


 30歳を過ぎた頃、研究所で徹夜して書いたちょっとしたレポートが、組織の上の方で高く評価されたと耳にした。


 背景はわからないのだけれどその結果、僕の給料がいきなり2倍近くになった。そして気づいたら僕は、ボスのオフィスに呼び出されていた。


「レイリー、今回の研究の成功報酬のひとつとして、君には役職が付くことが確約されている。だが君はどうみてもマネジメント向きではない。だからといって規定をないがしろにする訳にもいかない。そこで提案だ。君の今後の勤務規定に完全自宅勤務リモートワークの特例と、自由に使える助手を若干名つけてやろう。その代わり君自身の意思で、役職を辞退する書類にサインをして欲しい。どうかな?」


「ご提案をお受けします」もちろん、2つ返事で申し出を承諾した。


 僕は社会的な出世にも競争にも興味が無かった。それより自宅勤務になれば、あまり得意ではない人付き合い――同僚の視線やコミュニケーション――を気にしないで済む。だからこれは願ってもない魅力的な提案に思えた。


 ひとつ気にかかるのが助手の存在だった。そいつはどうやら自宅にまで押しかけて来るというのだ。長期に渡る円滑な労働契約の行使(監視の間違いではないか?)という面で、外せない条件だという。まったく、成果報酬の国とは思えない押し付けだった。それでも僕は自宅で好きな音楽を聴きながら仕事する魅力に逆らえなかった。


 やっかいな助手の問題については解決方法が浮かび始めていた。無理難題を押し付けて、辞めさせてしまえばいい。もしくは給料は払うけれど自宅に来なくていいと言えばいい。毎月のレポートさえ上司に提出してくれれば問題ないのだから。


 やがて研究所が用意した3人の助手候補(女・男・女)の面接をする事になった。


 僕は面接の場でわざと、相手がドン引きするような態度や質問を繰り返し投げつけた。「トイレの時は前から拭きますか、それとも後ろからですか?」とか「家でマリファナを吸いますが、何本までなら許せますか」とか。こんな上司とは一分一秒も同じ部屋に居られないと思わせる為に、前日徹夜で考えた策だった。


 それが功を奏し、最初の2名は面接の時間が終わる前に、部屋から出ていってしまった(男の方は泣きながら)。


 そして最後の女性の番になった。現れた彼女はとても痩せていて、瞳が見えないぐらい分厚く度の強い眼鏡をかけていた。赤いチリチリした髪の毛をくしけずったのは何年前だろう。年齢は他の候補者と同じ20代だという。


 僕は彼女にも差別なく下品な質問を浴びせかけた。前の2人の面接で口が疲れていたとはいえ、手を抜いたつもりはなかった。


 それなのに、この女性はまるで「私、傘をささなくても大丈夫。濡れるのが好きなタイプなんです」とでも言うかのように、涼しい顔で僕の質問の雨を受け止め、いなしていった。最後に喋り疲れ、肩で息をしていたのは僕の方だった。


「それでは、来週からお宅にお伺いすれば良いでしょうか?」僕の攻め手が無くなったのを知ってか、彼女は締めの質問をしてきた。


 僕は彼女と仕事をしている未来を想像して深い溜め息を漏らした。「……あなたは僕がこの研究所の中でも特に『変人』と呼ばれているのは知っていますか?」


「はい、私は先生と同じ大学に通っていました。その頃から噂を聞いていましたから」


「そんな僕の下で働くことに不満や不安はないのですか?」


「もちろん、ありません。光栄だと思っています。それに私も変わってると言われます」


 彼女の声は真剣で、悪ふざけなどは一切感じなかった。僕はこの時点でほぼ彼女を追い出す企みを諦めていた。


「……では最後にひとつだけ質問があります。あなたの『好きな長さ』を教えて下さい」


「え?」


 何にも動じなかった彼女だが、この質問には意表を突かれたらしい。顔が困っていた。


「一緒に働くのなら慣れておいて欲しいのです。僕は時々こうした変な事を訊く人間ですから」


 彼女は腕を組んで少し考えていたが、やがて顔を上げて言った。


「49.2mm です」


「それは何の長さですか?」


「長さに詳しいレイリー先生なら、お分かりなんじゃないですか?」


 僕は首をかしげた。これまでにあらゆる長さを測り、ノートに記録してきた僕だったが、端数を含めて記憶にないサイズだった。


「降参します。教えてくれませんか?」


「来週以降・・、職場でお教えしますよ」


 この瞬間、助手の座を獲得した彼女――ミー・ホワイトは、勝ち誇ったような表情で僕を見つめた。

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