2-5

 ファンヌには、何が起こったの分からなかった。

 いつも気丈に振る舞うルベルが、目の前で弱々しく蹲っている。ふるふると震えて、何かから怯えるように。いや、確実に怯えている。何に怯えているのかははっきり分からなかったが。


 次の瞬間、彼女も違和感の正体に気が付いた。

 血の臭いだ。進行方向からほんのり微かに、錆鉄の臭いが流れている。



「ど、どうしたの? ルベル」


「…………いやだ。いやだいやだいやだ」


「……!?」



 心配そうに顔を覗き込むアウジリオを無視して、ルベルは町とは逆の方向に走り出した。ただひたすら逃げることだけを一心に、足元を何度かもつらせながら。


 「ルベル!?」と、アウジリオとドナートは同時に叫び、彼女を追いかけ始める。

 遅れてファンヌも追いかけるが、彼らは速く、置いていかれるかもしれないという恐怖が再び訪れた。それに、敵が何か分からないのだ。形の分からない敵ほど恐ろしいものはなく、痛々しいこの臭いでさらに悪想が掻き立てられる。


 薄く錆鉄の臭いがする空気を大きく吸い込み、姿勢を整える。

 今はひとまず逃げるのが先、と自分に言い聞かせ、ディアの手を引いて走る。



『ん……?』



 ファンヌの脳裏に浮かぶのは、最悪の光景。先程までずっと頭をぐるぐるしていたものよりもさらに凶悪で残酷な結末。

 ……そんなことを考えては頭を振り、イメージをかき消す。


 枝と枯葉の割れる音。

 柔らかい土の感覚。

 流れていく風の臭い。

 奥へと続く薄暗い森。


 自分の意識を「現実」に集中させる……!



 ――――グォォォ!!!



 次の瞬間、耳を覆いたくなるような咆哮が聞こえた。

 森中に響き渡るその声の元……「空」を見上げる。


 それを視認すると同時に、何か巨大なものの影に自分が入り、辺りが暗くなったように感じる。目から得た情報が脳で処理され、事を理解する、「してしまった」。



「あれは……!?」


「レッドモルスドラゴンだ! ……紅い月!?」



 頭の回転の速いドナートは、「ただその存在」だけでなく、「その影響」までも悟って臆した。


 レッドモルスドラゴン。

 必ず「紅い月」の前に現れ、森と町をいくらか焼いていくドラゴン。ドラゴンの中では体は小さな方で、比較的弱いとされている。金級冒険者らに討伐され、年に数回ほど食卓に並ぶことがある。討伐の際、子供たちは家の中に避難させられるので、大人しくじっとしているファンヌは見たことがなく、絵本だけで知っていた存在だ。


 が、これは彼女の想定外だった。てっきり自分が思っていた奴の姿は、ほんの少しだけ大きい鳥。だが、目の前にいるそれに、自分たちが立ち向かえる自信が無い。燃えるような色の鱗。生き物を切り裂くための鋭い爪。子供であるファンヌにとっては、それが大きすぎる存在に見えるのだ。


 ――――火を吹いた。

 何もかも焼き尽くしてしまいそうに思えるくらいの。


 その火が、恐らくルベルがいるだろうという場所に向けて放たれた。ファンヌの思考は停止して、ただただ瞳に炎が映っているだけだった。どのくらい固まっていたのかは分からない。もしかしたら凄く短い時間だけだったのかもしれない。けれど、その時間の中で、ファンヌは様々なことを想像して、想像して……怖くて仕方が無くなっていた。



「ルベルちゃん!!」



 気付けば叫んでいた。

 ルベルちゃんが死んだ……のは私のせい? そんな嫌な考えが止まらなくなる。



「……くそっ!」


「アウジリオ!? 危ないよ!」



 燃える木々の中へ、アウジリオは仮面を投げ捨て、そして飛び込んだ。

 ドナートはそれを追おうとするが、炎々と燃えるそれに狼狽える。当たり前だ。熱いのだ。皮膚が焼け固まって、転びでもしたらあっという間に飲み込まれて、苦しんで死ぬ。息を吸えば肺が燃え、瞼を開ければ眼球が燃え、足を踏み込めば命が燃える。立ち入れない……!!



「……私の、せいだ」


「ファンヌちゃん! 逃げよう!!」


「もとはと言えば、私が……」


「ファンヌちゃん!!」


『なんだ、あの弱そうなドラゴン……殺したほうがいいのか?』


「……うわぁああん!!」


「まだ僕たちは気付かれていない。今のうちに逃げないと!」



 とうとう、ファンヌは泣いてしまった。

 ルベルが死んでしまった悲しみ。殺してしまった罪悪感。殺されるという恐怖。それらすべてが重くのしかかり、フラギリス・ウルフだけでも潰れかけた彼女の心はあっという間にぐちゃぐちゃになった。齢八の女子には、到底受け入れられる現実なはずがない。大人たちが守ってやらねばならない、脆い存在だった。


 ドナートはファンヌの手を引く。今は彼女だけでもと、自分にできることをただやる覚悟があった。しかし、彼女の体は重く、必死に呼びかけても聞こえやしない。



「ディアちゃん……何を……?」



 ファンヌはディアの方を見た。

 彼女は呑気に石をいじっていた。目の前で大変なことが起こっているというのに。


 そう思うと、急に腹が立った。彼女はここまでずっと何も考えていなかったじゃないか。自分が魔物に襲われて、自分が必死になって立ち向かおうとしているときにも欠伸をして……誰かの命が危ないというときも、何も感じずに。


 ゆっくりと立ち上がり、ディアの方へ歩く。



「ディアちゃんは……何もしてないでしょ!!?? 少しは何か役に立ったらどうなの!? 私たちだけが頑張っているじゃん!! だから、ルベルちゃんが……」



 怒りのまま、ディアに言葉をぶつけた。たとえ言葉が通じないとしても、少しでも自分たちの苦労を分かってほしくて、必死に。嘆いて、嘆いて、嘆いて。

 だけど、こんなことで状況が変わるわけがないと、分かっていた。





 次の瞬間、彼女から破裂音が聞こえた。

 それから一切の音が聞こえなくなる。時間も遅くなったように感じる。





 石を投げた、ということは分かった。破裂音は、彼女が投げる際のエネルギーが音となって聞こえたものだということも理解した。しかし、ファンヌには意味が分からなかった。その事実が自分の中で形にならないまま、彼女はドラゴンの方を振り向いた。


 その顔面に風穴があいていた。

 断末魔さえも上げずに、まるで糸の切れた操り人形のように、そのまま落ちていく。


 ……なにが、起こったの? ドラゴンが、倒された? ディアちゃんに?



「おらぁ!!」



 炎の中からアウジリオの声がした。そして、ルベルの手を引いて戻ってきた。

 ファンヌは事態を理解すると、腰が抜け、その場にへたり込んだ。幸いにも、彼らに目立った外傷はなかった。その事実が嬉しかった。だが同時に、自分の愚かさに気が付いた。


 私は……何をしたんだろう?

 泣いて喚いて、皆に甘えただけなのではないか、と。それなのに調子に乗って、ディアに腹を立ててしまった自分がいることが、嫌だった。



 だが今度は、別の恐怖が襲ってきた。

 ディアは一体何者なのか、という。



 火は、勢いを強めている。もうすぐ夏で、青々と茂っているくせに。自分たちにできることは何一つとしてない。だから、一刻も早く町の大人に知らせなければならない。

 ……だがそのためには、血の臭いの方へ進まなければならない。



「……あれ? さっきの魔法って誰が撃ったの? ドナートってわけじゃなさそうだな」


「僕なわけがないでしょ……ディアちゃんが……」


「……は? うそ……」


「いや、本当」


「マジで? すっげぇ! これなら安心して進めるぜ!!」


「あれは、魔法だったのかな……?」


「何ぼそぼそ言ってんだよ」


「いや、なんでもないよ。それより先を急がなきゃ」

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