2-4
ガサガサ、と草木を揺らしながら現れる魔物。
涙で歪む視界の中、ファンヌは確かにその姿を見た。
バウバウッ!
犬と似て非なる声。それは、彼らがより獰猛であり、「魔物」という言葉が相応しいという証である。銀の毛並み、赤い瞳、小さくても鋭い犬歯……
誰か……たすけて……。
割れそうになる頭の奥。そこは恐怖で熱くなるばかり。
彼女は、ただひたすらに助けを乞う。
「――――ファンヌ!」
聞きなれた兄貴の声がした。
始めは時が止まったかのように、彼女は感じた。何が起こったのかを理解するのに、普段の倍は時間を要しているような感覚だった。
バウウッ!!
魔物の内三匹ほどがファンヌを強く睨みつける。小さなその身体であっても、獲物に襲い掛かる様は立派な狩人。ぐっと脚のバネに力を込め、弾かれたように前に跳び出す。その華奢な体の一体どこに、そこまで動ける筋肉があるのか。そんなことを考える暇もない。彼女は自分の身を守るために咄嗟に目を瞑り、無造作に腕を前に構える。
何かをぶつ音とともに、子犬のような悲鳴が聞こえてきた。
「大丈夫か!?」
声変わり前の、ほんの少しだけ低い声。それを聞いた瞬間、ファンヌは全身の力が抜けたような感覚に陥った。
よかった、来てくれたんだ。
彼女はゆっくりを顔を上げ、自分の兄の姿を見る。
そこには、飾りつけも何もされていない、簡素な紙の仮面をつけたのアウジリオが居た。彼の手には、振り回すのには丁度良い木の棒が握られている。どうやらこれで、奴を殴ったようだ。
「ファンヌちゃん! ディアちゃん!」
今度はルベルの声だった。
赤い上着に他四人よりも質の良い仮面。フードから零れる金髪を揺らしながら、彼女は自分の前に立った。右手には小さなナイフがある。
「ただのフラギリスのようだね」
遅れてきたのはドナート。でたらめな虹色の仮面をずらして、視界を確保している。
「うん。だけど油断は禁物だ。ドナート、後ろの警戒をして」
「わかってるさ」
ドナートは自分たちに怪我がないかどうかを確認し、それが終わるとすぐに後方を睨みつけた。つられてファンヌも見つめるが、どうやら何もいないようだった。
「いよいよクエストっぽくなってきましたなぁ!」
ルベルが嬉しそうにそう言った。彼女の周りからは風の魔力が湧き出て、ひゅうひゅうと音が鳴っていた。仮面の冒険団においては、彼女が最も頼れる存在なのだ。
しかし、彼女以外は気分が上がらない。
「……今度からファンヌは禁止な」
アウジリオがぼそりと言う。ファンヌはそれを聞いて少しだけ泣きそうになるが、自分が非力なのが仕方がない、と何も言い返すことができなかった。彼も意地悪で言っているのではない。それは分かっているのだけれど、悔しかった。
『あれって、魔物だったのか? 犬にしか見えん……』
ディアには、相変わらず緊張感のきの字もなかった。
ルベルとアウジリオは一呼吸おいて、狼たちに襲い掛かる。武術の型も何もなく、ただ欲望の赴くままに棒とナイフを振り回しているだけだったが、逆にそれが危なかった。狼もこれは危険だと思い、むやみやたらに襲い掛かってくることはなく、彼らの猛攻から逃れるので精一杯だった。程なくして、辺りに居た狼たちは居なくなった。
「くっそお……すばしっこいなぁ」
「ま、いーんじゃないか?」
「どーせだったら討伐したかった」
ルベルは、攻撃が当たらなかったのが不服だったようだ。いつもよりも声の調子が悪く、なんだかミヤビのような口調になった。そして、ナイフに映る自分の顔をまじまじと見つめている。どうやら風の魔法ではなく、そのナイフ自体で攻撃したかったらしい。
「終わった?」
後方をしっかりと警戒していたドナートが、微笑み交じりに言った。「うん」とアウジリオが返すと、彼は「そっか」と返し、振り向いた。
「じゃあ、帰ろうか」
「……そーだな」
ドナートの提案にほんの少しだけ難色を見せたアウジリオだったが、今のこの状況を見て大人しく帰るように決めたらしい。
ファンヌには少し意外だった。兄なら、いつもの調子で「大丈夫!」とか言って、遅くまで遊んで怒られるのがパターンだったから。
「えー!? もっと遊ぼうよ! まだ夕方でもないんだよ?」
ルベルは相変わらずだ。
仮面をつけているから、表情こそ分からないが、あの下はきっと唇を尖らせているに違いない……そう、ファンヌは思った。
「帰り道の分かるうちに引き返さないと。もしここで迷ってしまったら……」
「えー」
ドナートがしっかり諭した。
「お兄ちゃんが帰るなら、私も」
「ファンヌちゃんまで!? ……もう、分かったよぅ」
ファンヌの後押しのおかげで、ルベルは渋々諦めたようだった。
「てかファンヌお前、あれくらいで何泣いてんだよ」
「泣いてないもん。お兄ちゃんが早く来ないのがいけないんじゃない」
「お前がちゃんと着いてこないからだろ!」
「むぅ」
「……俺も悪かったよ」
ファンヌはふと、ディアの方を見た。
未だ元気なメンバーとは違って、彼女はまた一つ大きなあくびをした。そして、どこか森の遠くの方を眺めている。ファンヌも一緒にその方向を見るが、特に何もいない。薄暗い森が広がっているだけ。
『なんだ? 何かが……』
ディアは、ほんの少しだけ魔力の違和感を感じていた。魔物なら中級クラスの力だったが、しかしこの辺には力の強い人間がいることもあって、特に気にすることではない、と決めた。
「ねぇ、ディアちゃん、何してるの?」
『……うん? 帰るのか?』
「……って、言葉が通じないんだっけ」
気が付けば、三人はまた先に行っていた。
「ファンヌー! ディアちゃーん! はやくー!」
アウジリオの声が響いた。それを聞いた彼女は、「次ははぐれないようにしなければ」とディアの手を引いて彼らに向かって走り出す。
「またはぐれるなよー」
「おいてかないで!」
ふと、風がこちらに向かって吹いた。
それはいつも通りの生ぬるい風だったが、どこか違和感があった。
「ねぇ、何か今の風……変な臭いがしなかった?」
真っ先に疑問を口に出したのはルベル。男子二人もこくりと頷いた。
「あれ……なんだっけ、この臭い」
ファンヌも自分の記憶の中を探す。その独特な臭いをどこかで感じたことはあったが、それをはっきりと思い出すことはできなかった。臭いと言っても、ほんの少しだけだから。
……ところが、ルベルは思い出したようだ。
「あっ」という言葉の次に、突然呻き声のようなものを上げ、苦しそうに頭を押さえてその場にへたり込んだ。
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