第2話 忘れたい

息をすると、喉がやけつくように痛く、鼻を突く異臭にむせそうになる。

異臭の正体は、近くに横たわる大人の人間程の大きさの物体。否、大人の人間だ。立ち上がろうとするが、立ち上がる事が出来ない。真上から、明らかに重力とは別の力が働いているようだ。脱け出そうと身をよじっていると、皮膚に焼けるような痛みが走る。近くで起きていた火災の火が、すぐそこまで迫っていた。

喉のやけるような痛さもこのせいだろう。普通なら、恐怖に叫びだしそうな状況だが、人は恐怖の極致に到ると逆に冷静になるらしい。

長い間、重い物体が上にのし掛かっていたためか、四肢の感覚も無くなり、意識を保っているのも難しくなってきた。

――……もう…いいか…

恐怖を感じなくとも、痛みは感じる。今は痛みに慣れて久しいが、耳の周りを蚊が飛び回っているようで鬱陶しい。

そして、沈みゆく意識に身を預け、少女は静かに目を閉じた。



* * *



目が覚め、一番初めに目に入ってきたのは白い天井。目が覚めた事に疑問を感じつつ、首を左右に動かしてみる。

――白い…

何もかもが白い空間だった。一瞬、"あの世"という場所なのかと思ったが、体に複雑に巻き付いた無数のチューブや、顔に取り付けられた酸素供給用のマスクを見て、現実である事を理解する。

どうやら、

――助かった…のかな…

一度は生きる事を諦めたにも関わらず、今ちゃんと生き残っている自分を少しみじめに感じつつ、押し寄せてくる安堵に頬が緩む。あの地震の大きさだったから病院も倒壊しているのかと思い、それも命を諦めていた理由の一つだったのだが、病院は無事だったようだ。因みに、災害時でも電気を利用出来るのは、病室全てに中型の蓄電池が備え付けられており、そこに溜めてある電気を利用しているからだ。

その時、不意に病室のドアが開かれ、白衣を着た男性と女性が入ってきた。

「意識が戻ったようだね。良かった」

男性の方が口を開いた。

少女はその男性を見ると、無意識にこう答えていた。

「あり…とう…」

「ん?何だい?苦しいのかい?」

聞こえなかったようなので、次ははっきりと力強く言った。

「…助けてくれて…ありが…とう…」

それを聞いた男性は、感極まった様子で一瞬眉尻を下げるが、すぐに取り直し、

「君を助けたのは私じゃないんだ。あの人が…自分の命を犠牲にして君を連れて来てくれなかったら…助からなかったよ…」

一度取り直したが、話している内にまた男性の眉尻が下がっていく。

「…あの人…って…?」

「あぁ、君の…お父さんだよ…」

その言葉に、少女は目を見開く。さっき、男性はあの人は自分の命を犠牲ににしたと言わなかったか?訳も無く焦燥感に駆られる。

「お父さん…は…?」

答えを分かっていても、理解していても聞かずには居られない。目の前の現実を受け入れる事が出来ないからだ。目から一筋の涙がこぼれた。

男性は、少女の問いに答える事はなく、ただ俯くばかりだった。

だがそれが、少女の焦燥をさらに加速させていく。

「…答えてよ…ねぇ…!答えてよぉ…そうだ…お母さんは…?」

その問いに男性は顔を上げ、ようやく口を開いた。

「君のお母さんはここに来てすらいない…もう…助からない…」

そこで、少女の心のダムが決壊した。

「…うぅ…う…ああああぁぁあっあああぁぁああ!!!」

目の前の現実に押し潰されそうになる。溜め込んでいた激情が、絶え間無く溢れ出す。その場の誰も、止める事は出来なかった。



* * *



退院して、今日で2週間が経つ。

町は相変わらず瓦礫の山で溢れており、どこか哀愁が漂っている。避難用施設も例外なく瓦礫と化し、道路は行き場のない人々で溢れかえっている。それほどまでに、自然という名の災害は、大きすぎた。

――私は何のために生きているのか

日々、考え続けているが答えは未だに見つからない。家族は全員死に、友人も誰一人として見かけない。時間が経つにつれてあらゆる感情が希薄になっていくのを感じ、その事実に恐怖する心があることに安心する毎日。

――死ねば楽かもしれない

何度も、そう思った。だが、少女を形作る最後の砦がそれを許さない。頭では死にたいと思っていても、自分でも分からない程の心の奥深くでは、生きようとする意志があるようだ。

溜め息一つ、少女は立ち上がり、いつものように、亡霊のように死んだ町をさ迷い始めた。



* * *



以前は、このように町を歩くだけで、胸の高鳴りを覚えたものだ。だが今は、歩いても景色は変わらず、住居などに遮られ、見えなかったはずの地平線までもが見える。

少女は立ち止まり瞑目して、

「…もう、何もかも忘れてしまいたい…」

静かに呟いた。

自分でも馬鹿馬鹿しいと思った。口に出したところで何も変わらない。いくら望んでも現実は非情で、気づけば終わりかけている人生。こんなものに、どんな価値があるというのだろう…

そして、歩みを進めようと目を開けると――

「………え……?」

目の前には、日の光に照らされ輝く、草原が広がっていた。

「…どういう…こと?さっきまで…瓦礫の山に居たはずじゃ…」

――夢…?

少女は混乱を隠せない様子で、その場に立ち尽くしている。

「…ここは…どこ…?」

その時、ようやく足下の植物へと意識が向けられる。

「花?いや…草?」

そして、少女その場にしゃがみこみ、その植物を一本摘んだ。

「…うっ!あぁ…!!」

瞬間、頭の中から何かをごっそりと持っていかれる感覚に耐えきれず、地面に膝をつく。

頭の中が渦巻き、浮かび、消えていく奇妙な感覚に呆然とする。痛みは無かった。

――どれくらいの時間が経っただろう。一時間…はたまた30秒程度かもしれない。時計がないこの空間では、正確な時間経過が分からない。

「…何か…変わったかしら…?」

少女は、先程の出来事で何が起こったか理解していないようだった。それも当然だろう。忘れたい記憶、つまり先の大災害の記憶を『忘れた』のだから、何を『忘れた』のか、否、『忘れた』ことすら理解することが出来ない。

「…あ、早く学校に行かないと遅刻しちゃう。急がないと…」

そして、少女はどことも知れぬ草原を、一人歩き出した。



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