37話 マリオネット 喰うか、喰われるか
九月初旬。学校も再開して少々経った日の昼休みに、七恵は返却する本を数冊抱え、図書室へ続く廊下を歩いていた。昼休みなので廊下には賑わいがあり、複数の生徒が友人と談笑などをしている。その中に俯きながら歩く虎白の姿を見つけた。
「あ、虎白ちゃーん」
「美倉先輩、どうもです」
七恵が小さく手を振ると、廊下の向こうに居た虎白も軽く会釈をして近づいてくる。しかしその足取りは何処かフラフラとしていておぼつかない。
「どうしたの虎白ちゃん、体調悪い?」
「そうなんです。保健室に行ってみたんですけど、今日は早退した方が良いと」
虎白は額に手を当て気だるそうな表情を浮かべる。少し紅潮した頬に荒い息遣い。体調が悪いのは一目でわかった。
「そうなんだ……お大事にね。愛ちゃん達には今日は集まりに来ないって言っておくから」
「ありがとうございます。私は教室にカバンを取りに行ってから帰るので、それでは」
そう言うと虎白が、七恵とすれ違いその場を去ろうとした。しかしその不確かな足取りではしっかりと歩くことができず、その場でふらつき七恵の方へ寄りかかってしまった。
「きゃっ! 大丈夫? 虎白ちゃん」
「だ、大丈夫です……少し目眩がしただけで……」
虎白の顔が七恵の胸の内に収まる。強化された嗅覚は白虎に変わらずとも、胸元に抱きかかえていた本の匂いと、九月と言えどまだ暑いのか若干汗の匂いを嗅ぎとる。思わずそのまま動けなくなってしまった。
「えっと……本当に大丈夫?」
七恵が未だに顔をうずめたままの虎白に呼びかけるも、聞いていないのかまったくもって動く気配がない。それどころか前より密着されている気がする。
「良い匂い……」
「えっ?」
虎白が優しく胸に包み込まれたまま、ポツリと呟いくと、ハッとして七恵から離れる。
「あっ……すみません何でもないです。今日の私、なんかちょっと変ですね」
離れたのは良いが、虎白のよろめきは止まらない。そんな様子を見た七恵は虎白の手を取り、再度体を寄せた。
「辛かったら言ってね? 私、頼りないかもだけど一応は先輩なんだから」
柔らかな感触と温かみが伝わってくる。後輩を思う気遣いはありがたいが、これ以上は危ないと手を跳ね除ける。
「ひゃっ! し、失礼します!」
一旦距離を取ったものの、虎白の心拍数は一向に下がらない。これ以上の心配も接近もさせるわけにはいかないと慌てて廊下を走り去っていった。
「うーん……食欲もないって言ってたし、心配だなぁ……」
走り去っていく背中を見つめた後、七恵は本を持ち直して、当初の目的通りに図書室へ向かっていった。
「なんなのよ……さっきのアレ、はぁ……」
虎白は人通りのない平日の昼の通学路を歩きながら、先ほどの廊下での七恵との出来事を思い出す。体調の優れなさから生まれた一時の迷いとしては、あの時の彼女への感情は明らかに異常だった。
高鳴る鼓動に見開く瞳孔、あの時感じていたのは何も恋などではない。虎白の心をその時支配していた感情は――
『食べてしまいたい』と思う衝動。
一口齧っただけで壊れてしまいそうに繊細で、不安定で、それなのに健気に生きている彼女をめちゃめちゃにしたいと心が叫んだのだ。
「ああ、もうッ!」
首を激しく左右に振って頭の中に再度沸き上がった衝動を振り払う。人を食べたいなど今までの人生で感じたことなどなかったし、到底通常の精神状態とは思えない。思い返せばこのような症状が出たのはいつからなのか。ここまでひどい衝動になったのは今日からだが、予兆が出てきたのは八月三十一日……最後に白虎の姿となり戦った直後からだった。人目を避け元の姿に戻った時に息切れが酷かったのを覚えている。戦闘の後の興奮が収まらないのだと自分に言い聞かせ、体の火照りに堪えてきた。起きているのに夢うつつのような、ボーっとした感覚に苛まれながらそれでも今日までは普通に暮らせていたのだ。
いや、もっと前からだろうか? もう慣れたものと思い深く考えもしなかったが、白虎に姿を変えれるようになったあの日からずっと食欲がない。色々なことがあったストレスが原因だと片付け、それでも食べなければ体に悪いと気が乗らないが何か口に入れる日々を続けていた。虎白の脳裏に嫌な考えが浮かんでくる。通常の食べ物が喉を通らなくなり、人を喰らわんとする……まるでそれは『奴ら』の様じゃないか。
以前、龍二が奴らと自分たちの決定的な違いは人を食べないことだと言っていた。それは寧ろ、人に仇名す化け物と自分たちの違いを表すのはその一つのラインしか無いのと同じだ。絶対的で超える事などない筈だと思っていたそのラインを、自分の抑えきれない本能は越えようとしている。それが今は怖い。
「――ッ!」
考え込みながら歩いていた虎白が突然後ろを振り向く。しかしその視線の先には誰もいない。
「ストーカー……いや、その方がマシかもね」
虎白が背後から感じ取ったのは冷たく刺すような殺気。平和な住宅街でこれほどの物騒な物をぶつけているのは、十中八九ベルゼリアンであろう。普段ならば自分の命を狙ってくるのであれば返り討ちにしてやろうと思い立つのだが、今日は何より体の調子が悪い。逃げると言うのは負けたようで癪に障るが、この場は振り切ろうと、虎白は路地裏に向かって走り出した。
虎白は姿の見えない追手から逃げようと、狭く入り組んだ路地裏を疾走する。追跡を撒く為にはこれ以上ない条件のはずなのだが、背後から迫る殺気は依然として消える気配がない。
「追い込まれてるの…!?」
それどころか、逃げているうちに徐々に奥まった位置に迷い込んでしまったようで多少は土地勘のある虎白でも今どこにいるかわからなくなっていた。いや、そうではない。逃げているつもりでも誰も助けの来ない、奥深くに誘導されていたのだ。それを確信したのはついに逃げ場のない袋小路に閉じ込められてからだった。
「やれやれ、随分手間を掛けさせてくれたな。どうせ見知らぬ顔ではないだろう?」
「あんたはッ!」
虎白を追っていた殺気を纏う影がついに正体を見せる。そこに現れたのは虎白を捕らえ、白虎の力を与えた張本人であるベルゼリアン、ジャックであった。
「また私の前に現れて、今度はどうするつもりなのよ!」
「ふん、何も今日は君に危害を与えるのが目的ではない。むしろ良い知らせを届けに来たと言ってもいい」
最大の敵意を持って、虎白がジャックを鋭く睨みつける。だがジャックはそれも想定内かと言わんばかりに不敵な笑みを浮かべた。
「何が良い知らせよ! 碌なものじゃないのは聞かなくてもわかるわ」
「ほう、信じてはくれないか。では持ってきた知らせというのが、今の君が一番に思い悩んでいる事を解決できる。そういう物だとしたら?」
「あんたに何がわかるってのよ!」
虎白はジャックの話を聞く価値などないと、白虎に姿を変える。だが相手が明確に戦闘の意思を見せてもジャックはうろたえる様子はない。
「なら言い当てて見せよう! 君の不安、心の奥に潜む恐怖を! 今、君は人を食べたくて仕方がない。食人衝動こそが君を支配し、親しい友人でさえも手にかけようと――」
「やめろ!」
瞬間、その瞬発力を活かし虎白が攻撃を仕掛ける。あらゆる物を切り裂く鋭き爪。だがそれはジャックのナイフによって軽く弾かれた。
「早とちりをしてはいけないな。解決できると、そう言っただろう?」
口角を少し上げ、ジャックの笑みが今までより大きくなる。
「我々ベルゼリアンは人を喰らい、人の因子を得なければその体を維持できない。だからこそ我々は人々を襲い続け、いずれは支配と管理をする……だが君はそうもいかない」
敵意を未だに見せる虎白に臆する様子もなく、ジャックが至近距離まで近づき話を続ける。
「一度人を食らえば二度と仲間の元には戻れない。人間としての生活を、友人をすべて失う!だが、それら全てを解決する魔法の薬が、今ここにはある」
ジャックが懐から数粒、錠剤を取り出して、手のひらに乗せ虎白に見せつける。
「これは疑似的に人の因子を得ることのできる錠剤だ。人の因子と言っても紛い物で腹持ちが悪い、故に短い期間で定期的に摂取が求められる。君たちの感覚で言うならば、サプリメントで全ての食事を済ませる様なものだ。これを君に渡そう」
「そんなものを私に渡して、あんたは何をしようっての!?」
「特段代償は求めんよ。ただ……君の人生は私の掌の上にある。それを重々承知してもらえれば良いのだ」
虎白は眼前に突きつけられた白い錠剤を見つめながら考えを巡らせる。代償を求めないとは言っているが、この取引を呑んでしまえば、ジャックに逆らうことができなくなる。そうなれば彼にとって、敵中に都合の良い操り人形を送り込んだのと同じだ。
だがこの薬を飲まなければ人喰らう怪物として生きていく道しかない。どちらを選んだとしても奴の思う通りだと言うのなら。虎白は人間の姿に戻り口を開いた。
「道は一つしかない……か。仕方ない、その薬を飲むわ」
「契約成立だな。しかし」
突然ジャックが虎白を殴る。思わず倒れこんだ虎白が睨み返そうとしたときには、虎白の喉元数ミリ先にナイフの刃が迫っていた。
「これからはその反抗的な目と口は慎んでもらおうか。でないと……私の腕が君を切り刻みたくて堪らなくなってしまうのだよ。あの紅神のメイドのようになぁ……」
紅神のメイド――朱里の事だ。彼女の事もこんな狂気に満ちた笑みを浮かべながら切り刻んだのだろうか。
「わかり……ました」
ここは相手の要求を全て呑むしかないと、虎白がジャックに従順に従うフリをする。俯くことでその叛逆の意思に未だ燃える瞳を隠し、声はわざとか弱い猫撫で声で媚びるように言葉を紡ぐ。
「私に……この惨めで浅ましい私に、そのお薬をください……あなたに忠誠を誓いますから!」
「ハーハッハッ! いい子だ。従順な女では切っても心が滾らんからな。褒美をやろう。ほれ」
錠剤を持っている手をそっと虎白の口に当て、無理矢理に飲ませるジャック。虎白はそれを唾液を使って無理矢理飲み込んだ。
「んぐっ――」
口の中で少し溶けた錠剤、その味は正に鉄の味。口の中に広がる不快感とは正反対に、食べたいという欲でいっぱいだった頭の中は清々しい風が通ったかのようにスッキリする。なるほど、人の因子を取り込むというのはこういうことか。
「どうだ? 人を喰らう快感は? 疑似的ではあるが君にもその魅力がわかるだろう。人としての生のために哀れな道しか進めない私のモルモットが! まぁ、後はどうとでもすると良い。君の行動に口をはさむつもりはない。ただし、月に一度はここに来てこの薬を貰うことだ」
そういうと時刻は夕方を過ぎ暗くなり始めた路地裏からジャックがゆっくりと去っていく。余裕に満ちたその背中を、虎白はただ睨みつける事しかできなかった。
相手が去ったことを確認すると、虎白はその場にへたり込みながらその顔を怒りと憎悪で歪ませる。
「あのゲス野郎ッ! 私にこんな屈辱を味合わせたことを後悔させてやる! あの野郎は……必ず私が殺すッ!」
虎白の叫びが誰も居ない路地裏に響く。歯を軋ませどれだけ悔しさを噛みしめたところで、その相手はもうここには居ない。制服の汚れを払いながら立ち上がり、虎白は再度帰路につくのであった。
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