第2話 児戯
木々がさざめき、胸中の焦燥の炎を煽り立てる。まだ明るかったはずの森が徐々に表情を変える。
「ま、まさか……追っかけてきたのか? 闇が……」
兵士の狼狽の声をエルドは背中で聞いていた。視線は一点、闇の広がりつつある眼前の光景に注がれていた。白布に血が滲むようにじわり、じわりとゆっくりとだが、しかし獲物を追い詰める獣の如く着実に迫ってきていた。
「隊長……!」
隣に居たクランツの声にも焦りの色が伺えた。
「クランツ、皆を連れて先に行け」
エルドは視線を一切動かさずにそう告げた。そしてすらりと鞘から剣を引き抜くと、首にかけていた兜を被って構えをとった。
「無茶です! 無謀にもほどがあります!」
クランツは異を唱えた。しかし、エルドはその言葉に一切耳を貸すことは無かった。「たとえ無謀でもだ。命令だ。急いで村に戻って住民の避難と聖都への連絡だ」
遠くで鳥が飛び立った。闇から遠ざかって逃れるために、エルドたちの目指していた方角へ向かって。
「クランツ、お前の考えていたことが当たりだとしたら、ここで奴らの足止めをしなければ、奴らは俺たちを追って村へと雪崩れ込むだろう……そんなことはさせん」
「しかし……」
尚も食い下がろうとするクランツの言葉を、エルドは前に歩み出しつつ遮る。
「心配するな。『死に遅れのエルド』なんて言われてるくらいだ。今回だって、死ねんさ……」
そう言ったエルドは自嘲気味に笑っていた。実際、嘲りに使われる二つ名であるものの、こんな状況なら少しぐらいは励まされるようにも感じられるものだった。
「行け、クランツ。後は頼んだぞ」
「……ならば、剣だけでも共に」
クランツは剣を抜き、それを地面に突き立てた。心残りな気持ちもそこに一緒に置いていくつもりでの行いだった。そして、踵を返して兵士たちの元へと駆けて行った。
「皆、退却だ。血の付いた足甲は外せ。行くぞ!」
迅速な指示に、兵士たちは狼狽えつつも応じて行動した。その場に留まったエルドの身を案じ、視線を送りつつも脱兎の如く駆けだしたのだった。
「……『生き残れ』なんて、戦うことよりも酷な命令だな。すまない、クランツ」
気配はいよいよ目前へと迫ってきていた。黒い闇の中から聞こえる獣の唸りにも似た音の数々が、挫けそうな心に纏わりつくようだった。
だが──エルドは傍らに残されたクランツの剣に手をかけると、己を奮い立たせるべくして一層力強く柄を握って、地面から引き抜いた。
「来い! 全員まとめて相手してやる!」
エルドの言葉に応えてか、闇が渦潮のように蠢いた。先の見えない闇の中からぼんやりとした何かが現れた。ひとつ、またひとつとそれらは次々と形を成していく。
その光景に目を見張るエルドは、足を釘で刺されたように動けなかった。それはただ純粋に、恐れからくるものだった。
ひとつ、息を呑む。浅く吸って、深くゆっくりと吐き出す。そうして己の『中身』を切り替える。昔教わった『おまじない』だった。
闇の中から現れた異形、魔族たちが群れを成して迫ってくる。雄叫びを上げ、獰猛さで目を輝かせて。
「……行くぞ……!」
刮目し、神経を研ぎ澄ます。鋭い針のように。体中に緊張が走った。
「……覚悟はとっくに出来てる──特に死ぬ覚悟は!」
たった二つの武器を手に、エルドは絶望に向かって駆け出した──。
クランツ率いる退却兵たちは征伐の中継地点とした村へと辿り着こうとしていた。
皆が息も絶え絶えになりながらも、休むことなく鬱蒼とした森の中を走り続けた。
「見えた!」
兵士のひとりが大声で叫んだ。
景色が開け始めると、前方に小さく家々が見える。森を切り拓いて作られたごく小さな村だった。
「待て──様子が変だ」
そう言いつつ、クランツは兵士たちを制して立ち止まる。
さっきまでは頭上を覆う木々に遮られて、見えなかった景色が目に飛び込んできた。村の各所から煙が立ち上っていた。もうもうと空へと伸びてゆくそれは、行きがけに見たそれとは異なる──黒い煙だった。
「そ、そんな……! 村が……!」
兵士が悲痛な声を上げた。その場に居た全員の表情が、見る間に青ざめていくのが分かった。
「バカな……」
辺りは闇に覆われていない……なのに、何故? 一体何が起こっている?
「副隊長……」
「……分からん。だが今は行く他ない。皆、警戒を怠るな」
今自分が迷えば全員を危険に晒してしまう。クランツは動揺を見せぬよう、努めて落ち着き払って移動を再開した。
「回り込む。こっちだ」
兵士を引き連れ、横道へと入っていく。再び森の中へと足を踏み入れる。荒くなった息を、必死に抑えて気配を静める。
村まで近付き、草陰に身を潜めると、これから目にするであろう光景を否が応にも予感してしまった。それはクランツだけでなく、他の者もそうであった。
「静かすぎる……」
「本当に誰も居ないのか?」
草葉の隙間から目を細めて様子を見た面々が、口々に呟いた。
「……何の痕跡もなさそうだぞ……」
「ありえるか? こんな……」
そう。こんなことは今まで無かった……。
クランツはこれまでにも襲われた村々をいくつか見たことを思い返していた。それでも、この村のように血の跡や死体も無いなどという状況に出会ったことはなかった。兵士から受け取った剣に視線を落として考えを巡らせていると、
「そんなところで何してるんですか?」
「わあぁ!」
突然、背後から声がした。状況に不釣り合いなくらい緊張感無く発せられた言葉に、兵士たちは心底驚いた。振り返ると、そこには声の主と思しき少女が居た。赤い服を着た普通の村娘、木陰に溶け込むような黒髪が唯一の特徴といったところだった。
「おい、なんだよ。おどかすなよ……」
「君、村の子か? 他の人達は……」
兵士たちが少女に話しかける。現れたのが少女と分かって、緊張の糸が少しだけ緩んだようだった。危ないから、と小声で呼びかけつつ、自分たちの傍へと手招きをしていた。
そして少女が訳も分からぬといった様子でこちらへ向かってきた時、クランツの抱いていた違和感は確信に変わった。
「待て、こいつ──!」
木陰で分かりにくかったが、臭いで分かった。この娘の服──血塗れだ。
「ハ。バレんの早すぎ」
少女の表情が、まだあどけなさの残る顔が、血塗れの衣装に似合うほど猟奇的に一変する。そして、少女の周囲から黒い影が塊となって水面下から這い上がってくるかのように現れた。それらは瞬く間に姿を変え、まるで狼の群れのような変化した。禍々しく光る赤い目が兵士たちを睨みつけていた。
「な、なんだこれ……うわあぁ!」
影の狼たちが兵士たちに襲いかかった。兵士たちは身構える暇もなく、次々に迫る狼たちに為す術もなく蹂躙される。
「ぐああ!」
ひとり、またひとりと断末魔の叫びを上げる。狼が倒された兵士に飛びかかって噛みつくと、狼はそのまま地面の影の中へと溶け込んでいく。そうして、あっという間に兵士たちは跡形も無く消え去ってしまった。
ただ一人、クランツだけは未だに抵抗を続けて生き残っていた。必死の形相で殺到する狼たちを斬り伏せいなし続けていた。
「ふーん……」
その様子を傍観していた少女は、小指でくるくると髪の毛を巻きながら、興味ありげに眉を吊り上げた。
周囲の狼を一通り斬り伏せたクランツが、少女の方へと猛然と駆け出した。
「うおおッ!」
突進の勢いを活かした大振りな横薙ぎ──少女はそれを後方へ跳んで難なく躱してみせた。
「おいおい、子ども相手に容赦なしか?」
「黙れ! 貴様──!」
再びクランツが食ってかかる。銀光を走らせた剣が風を切って振り下ろされる。が、またしてもそれは空を切った。少女は軽やかに飛び退いたのだった。
──ここだ!
「ハァッ!」
クランツは振り下ろした剣をそのまま腰だめに弓を引くように引きつけて、弾かれたように一気に突き出した。
「──ッ」
流れるような連係技。渾身の一撃が少女の胸を刺し貫いた。だが──。
「……化け物め……!」
心臓を狙って突いた……手応えもあった──なのに、死なないどころか、こいつ……。
「へへ。痛いじゃんよ」
まるで何事も無かったかのように平然と──クランツが目を剥く一方で、少女が自分の胸に突き立てられた剣を、見もせずに引っ掴む。
「お前ーずいぶん頑張るよねぇ。人間にしてはさぁ」
動かない……!
剣を引き抜こうとするも、まるで岩に突き立てたようにびくともしなかった。
「貴様……いったい何者だ」
「何者って。アハハ、見て分かるでしょ? お前らが目の敵にしてる『魔族』だよ」
少女は愉快そうな笑みを浮かべながらクランツに歩み寄った。一歩、二歩と進む度に剣が深く突き刺さり、彼女の体を貫いていく。
「俺は悪魔の指……ベルタティ。よろしくね……クランツ副隊長サマ」
「! 貴様──」
名前を呼ばれたクランツが驚きに声を上げると同時に、覗き込むようにクランツを見ていたベルタティの目が、全身が一瞬にして黒く滲んで染まると、次の言葉を継ぐ間もなく、二人を闇が包み込んだ。
黒い靄の立ち上る村には、再び静寂だけが残った。
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