四節 火事

 あんなにも無慈悲で、酷い仕打ちを与えた神様に懇願した。あの時と同じように。


 行方不明の父の帰還を心の底から願った。けれどもその願いは、冷徹に、そして不条理に見放されてしまった。まだ生存しているかもしれない、そんな塵の如く僅かな希望を残して。


 馬鹿だった。無謀だった。一度裏切られた者にまた縋るなんて。けれどそうする他無かった。愚かにもそんな無礼者に無駄な救済を願うくらいしか、方法が無かった。日野子の為、では無いのかもしれない。ただ自分が、傷付きたくなかったから。


 結果は––––言うまでも無い。

 またヤツに……神に裏切られた。


「––––––––––––っ」


 幼い頃から見知った一軒家。それが紅き業火と夜の闇に照らされた白煙に囚われた姿を、僕はただ、呆然と立ち尽くし目に収めていた。


 パキパキと身が震えるような音を立て昇る炎。宙に舞う幾つもの火の粉。異変に気付き様子を見に来たのだろう近所の人々。普段は決して目にする事は無いだろう異質な空間が、視界いっぱいに広がっていた。


「消防隊はまだ来ないの?」


「さっき通報したんですけどまだ来なくて……。あと数分したら来ると思うんですけど」


「お父さんが点けたんじゃない? 最近揉めてるって噂されてるもの」


「娘さんは大丈夫なのか? 高校入学して間もないんだろ?」


 ざわめく人混みの喧騒。その後ろで訊いていたからか、それともあまりのショックで意識が遠のいていたのか、騒がしい筈の会話は段々と薄れ、耳に入らなくなっていた。


「……嘘であって欲しかった」


 誰に掛ける訳でも無く、僕は宙を仰ぎボソリと言葉を漏らす。目の前の悪夢から逃避しようと目を逸らすように。そんな事言ったぐらいで、状況が変わる訳でも無いのに。


 何で、こんな事に。

 よりによって、どうして日野子の家が。


「マスター!」


 いつしか飛んでいた意識を、背後から掛けられた言葉が繋ぎ留めた。チャックの声だった。言葉を返そうにも、生憎そのような気分になれず、視線は空を向いたままだった。


「急に飛び出されては困ります! 私にも貴方様を御護りする義務が……」


 そう言い掛けたところで彼の言葉が止まった。彼も目の前の惨状を見て言葉を失ったのだろうか。僕の視線は変わらぬままだった。少しの沈黙の後、横で飛ぶチャックが口を開く。


「……御母様の、仰っていた通りだったんですね」


 チャックの言葉に、僕はただ頷く。何だろう、彼の声色を聞くと少しだけ、傷んだ心が微かだけど落ち着きを取り戻せた気がした。まるで、仏が闇を浄化していくような、そんな感覚だった。


「幼馴染の家、なんだ……」


 再び僕は燃え続ける家と向き合う。


「昔っから無邪気でさぁ、ドジな事を起こすのがしょっちゅうなんだけどさ、凄く優しいヤツで、親友なんだよ」


「…………」


「あの家にも昔だけどお世話になったし、頭の片隅に残る大切な思い出の場所でもあるんだ。だから、そんな場所がこんなにも無惨に燃え続けてるって言うのは……何か、耐えられなくてさ」


 悔しさと悲しみが込み上げて来て、無意識に拳を握る力が強くなっていく。自分の力じゃどうにも出来ない、そんな無力さも噛み締めるように。


「……その子の安否もまだ解らないんだ。見たところ、まだ消防隊も来てないんだ。もう通報はしているらしいんだけど。今すぐにでも助けに行きたいんだけど、僕みたいな子供じゃどうしようも出来ない……。悔しいんだ、自分が無力過ぎて」


「……それでここに立ち尽くしていらしたのですね」


「……あぁ。魔力で助けるって手も考えたけど、僕はまだ未熟だ。万が一誤って事態を悪化させたらと考えると……怖くて」


 くそ、何が魔力で皆を護りたいだよ。結局動けず終いじゃないかよ。やっぱり魔力に対する恐怖を捨て切れずにいる。護りたいと言う意思よりも、傷付けたくないと言う思いが勝ってしまう。僕はどうしようもない意気地無しだ。我ながら反吐が出る。精々出来る事なんて、消防隊の一刻も速い到着を待つのみだった。


 気を遣ってか、チャックは無言になった。敢えて何も言わないのか、それとも次の言葉を待っているのか、当然僕には解らなかった。



 と、その時だった。


「あ、奥さん! 大丈夫ですか⁈」


 一つの叫び声も筆頭に、人混みから歓声が湧く。奥さん、と言う事は日野子のお母さんか? 僕も人混みの方へと駆け寄り、間から様子を見る。


 やはり日野子のお母さんだった。顔が炭でか黒く染まり、左腕が紫色に腫れていた。恐らく火傷によるものだろう。何であろうと無事で良かった。僕は一先ず安堵する。


「無事で良かった……! 娘さんは無事なん……」


「お願いします! 助けて下さい!」


 人混みの中の一人が歩み寄った時、お母さんは慌て切った様子で叫んだ。そのただ事では無さそうな様子から、僕は嫌な予感を察する。


 そしてどうやら……その予感は的中したようだった。


「娘が……日野子がまだ中に居るんです! 瓦礫に脚が下敷きになっていて……」


 そう言い掛けた矢先––––。


 けたたましく轟音が響くのと同時に、瓦礫が物凄い勢いで崩れ、玄関口を塞いだ。土埃が火の粉と共に舞い、人混みの方へと流れていく。


「………………っ」


 一同突然の出来事に呆然と立ち尽くした。僕自身も目を見開き、息が止まった。が、しかし一つの悪い予感が的中し、胸がざわめき心臓の鼓動が速くなる。そして一つの事実を反芻する度に意識を取り戻し、やがて我に返る。


 日野子がまだ––––家の中に取り残されている。

 それも、瓦礫に埋もれて、だ。



 その事実が––––僕の身体を動かした。



「––––––––っっ!」


 気付けば走り出していた。玄関口とは真逆の場所にある、庭の方へ。炎は上がっているが近くに水道があった筈。それで服を塗らせれば––––。


「マ、マスター! ちょっと、御待ち下さい!」


 声のした方を振り向くと、予想通りチャックがすぐ横を同じ速度で飛んでいた。僕の後を追い掛けて来たのだろう。


「……やっぱり僕は、馬鹿だったよ」


「……マスター?」


「魔力がどうとか無力がどうとか、変な言い訳をしてた」


 僕は視線を戻す。


「確かに僕は無力かもしれない。けど、そんな事、この状況下じゃ関係無い。日野子がピンチなんだ。ここで助けられなかったら日野子が死ぬかもしれない。危害云々よりそっちの方が、怖くて仕方がない」


「…………」


「だから、助けないと。僕が死のうと構わない。だけど日野子だけは助けないと。消防隊なんか待ってたら……焼け死んでしまうよ」


 そう決意をぶつけているうちに、僕等は庭の前に着く。業火のその勢いは裏口だろうと変わらず、けたたましく唸っていた。熱風が此方へと吹き荒れ、ピリピリと肌を刺激する。


 しかし、玄関側よりは被害が少なく、リビングへと繋がる窓も無事だった。瓦礫は散乱し入口はとても狭いが、僕の背丈なら入れるだろう。


「よし、まずは服を……」


「御待ち下さい、マスター。私に一つ提案があります」


 チャックの言葉に僕は静止し、其方へ振り向く。


「私達精霊は、幾つか〝秘術〟を持ち合わせています。その中で一つ、今の状況に適正を持つ能力があるので、使わせて頂きます」


「秘術? それって一体……」


 僕が尋ねるより先に、チャックは右掌を此方に向ける。すると突然、身体の奥から何やら温かい波のようなものが湧き出るのを感じ、息を飲んだ。


 やがて指の先まで波が行き渡るのと同時に、まるで何事も無かったかのように違和感はすっと消えた。何だったんだろう、今の不思議な感覚は。


「〝精霊の加護〟と呼ばれるものです。これを用いる事で、凡ゆる温度変化や状態異常等から身を護る事が可能となります」


「ほ、本当かい?」


 半信半疑で僕は問うが、その変化は肌身で直接体感出来た。先程まで目に染みる程の高熱を誇っていた熱風が、今では暖房の温風程まで軽減されていた。目も痛くない。成る程、確かにチャックの言っていた通りだ。


「これにより炎の中でもある程度の活動は出来るでしょう。但し、完全に無効化出来る訳では無い点と時間制限がある点に注意して下さい。故に長時間の滞在と、火に触れる等の無闇な行動はなるべく避けるべきです」


「わ、解った。しかし、こんな力があるなら先に言ってくれれば良かったのに」


「先程のマスターの意志を考慮した上での判断です。さぁ、急ぎ救出しましょう」


 チャックの言葉に僕は頷き、瓦礫の隙間を潜るように家の中へと入る。


 当然、家の中は記憶の中とは大きく異なり、一種の地獄絵図を生み出していた。壁、天井、四方八方を炎が広がり、黒く焦げた瓦礫が至る所に散乱していた。床には細かな硝子の破片が散らばっていた。


 凄く、熱い。

 加護を受けた身でも、炎の圧倒的な熱量には耐え切れなかった。加護を受けなければ丸焦げになって死んでいただろう。そう考えると、加護の有難みが身に染みてくる。


 しかし、そうこうしている暇は無い。この間も家が全焼し崩れ始めている。加護の時間制限もある。それに、日野子の安否が心配だ。今でも死と隣り合わせの状態に陥っている筈だ。ここは一つ、行動を起こさなければ。


「チャック、出来る範囲で良い。飛び回って、家の中の状況を探って欲しい。誰か居たらすぐさま報告してくれ」


「了解しました。マスター、御気を付けて」


 そう言い残すとチャックは上空へ飛び、ほぼ炭と化した天井の隙間へと進入する。日野子の家は二階建てだ。だからこそ被害が大きくなり易い二階を捜索するのは非常に良い案だと思う。


 僕も捜索を始なければ。彼女の安否を確認するのも兼ね、日野子の名を呼びながら捜そう。


「日野子ぉぉっ! 何処に居るんだ? 居たら返事をしてくれっ!」


 彼女の生存への願いを込め、僕は腹からその名を叫ぶ。しかし、声に応えたのは日野子では無く、二階から砂利が崩れ落ちる音だった。床に響く轟音が危機感と焦りを一層強める。もう時間が無い……!


「日野子っ! 頼む! 返事を……!」


 リビングを捜索しつつ僕は再び叫ぶ。やはり返事は無いかと歯軋りをした、その時だった。



「助……けて……」



「……! 日野子!」


 日野子の助けを求める声を聞き取り、僕はその方向へと振り向く。弱々しく掠れた小さな声だったが、彼女の安否と場所を特定するには十分だった。声が聞こえたのは……厨房側にあるダイニングルームの方だった。そこには、天井から崩れた瓦礫が山のように積み重なっていた。


 もしかして、この瓦礫の下敷きに……。

 急ぎ瓦礫の山へと駆け寄る。


「日野子、そこに居るのか?」


「その声は……シルク? 何でここに……」


 間違いない、日野子の声だ。やっぱり瓦礫の下敷きになっていたのか。


「今はそんな事言ってる場合じゃないだろ? 身体は大丈夫か?」


「駄目、脚が挟まって動けない……。どかそうにも狭くて……。お願い、私なんかどうでも良いから早くここから逃げて……」


「馬鹿な事言うな! 待ってろ、すぐ助ける! チャック、日野子が居た! 応援を頼めるか?」


 チャックへ応援の要請をしつつ、瓦礫を安全なものから端に退けていく。火を灯してはいたが幸運にも燃焼し切って木炭となった物が殆どだった。急いで退かせば、まだ間に合うかもしれない。


「お待たせしましたマスター。日野子さんはその中ですか?」


「あぁ、一先ず安全な物から撤去を……!」


「解りました。安全な物で無くても霊体である故、私には問題ありません」


「ちゃっく……? 他にも誰か……うぐっ!」


 再び日野子の声がしたかと思うと、突然何かに苦しみ呻き始めた。まるで何か激痛を覚えたかのような。もしかして、脚以外にも大怪我を負っているのだろうか。


「日野子、大丈夫か? もう少しだから耐えてくれ!」


「に、逃げて……シルク……。何だかわたし……おかしいの。身体の奥底が、燃えるように熱くて……ハァ、ハァ。まるで自分が自分じゃなくなったみたいで……」


「お、おかしい? ……いや何にしろ、こっから出るのが最優先だ。逃げるのはお前を助け出してからだ」


「ち、違う……の……! うぐっ……駄目、もう、耐えられない……!」


「…………?」


 ……何だろう、何かがおかしい。

 段々と数が減っていく瓦礫の隙間から、異様な〝何か〟が肌身を刺激する。熱風では無い。家中を舞う火の粉でも無い。寧ろ、今までに感じた事の無い、そんな気配を感じ取った。まるで……初めて会った時のチャックと似た気配が。


「……っ! マスター、大至急そこから離れて下さい!」


 チャックの警告が耳に入ったのと同時に、瓦礫の隙間から日野子の姿が見えた。その瞳に涙が滲んでいる事、そしてその顔に絶望の色を浮かべた事を認識した時にはもう。


「–––––––––」


 ––––僕の視界は、赤く染まっていた。



「ウガっ!」


 背中が壁に叩き付けられ、初めて僕の身体が何かの衝撃で吹き飛ばされた事を理解する。全身に痛みが滲み、呼吸が出来ずに咽せた。身体の表面が焼けるように痛い。


 そして、意識を失う寸前で保った、ぐらりと揺らぐ視界の先には––––。


「そんな……シルク……ッ! う、うぐっ……が、があああああああああああああああああ」


 苦痛に悶える日野子が、紅く身体を光らせ、濃密な気配と熱気を発し、悲鳴を家中に轟かせていたのだった。

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