第7部 慟哭の雨音


 やはりこの男は面倒見が良いのだろう。一週間後の特攻で散華する予定の兵士一覧表を、村上がいつもの小言と共に置いて行ったのは五分前のことだ。興味がないからと放置されたそれ――もしかすると、次に死ぬ人間を知るのが怖くて避けているだけなのかもしれないそれは、腹立たしいほどに存在感がある。できるだけ視界に入れないようにしてきたのだけれど、ものの五分で諦めた。


 インクが付いたままのペンを書きかけの図面上に転がし、たった一枚の、なんてことないただの紙切れに吸い寄せられたイヅルは、恐る恐るそれを手に取った。


 まだ、紙面上の文字は見ていない。激しくなる動悸も震える手も、全て気のせいだと言い聞かせて思い切って視線を手元に下ろした。息が詰まる。心臓を何者かによって鷲掴みされているような感覚がして、あまりの息苦しさに微かだが脂汗が滲んだ。



「……っ!」



 一息に紙切れをぐしゃぐしゃに丸め、力任せに壁に投げつけた。叩きつけられたそれは、乾いた音を立てて壁を跳ねる。あいつなんて、ただ煩わしいだけの存在だ。なのになぜ、こんなにも動揺しているのだろう。分からない。こんなの別に、どうでもいいことだろう?


 この気持ちは、あの時と同じだった。恭二と和樹の出撃が決まった時と同様に落ち着かないばかりか、胸のあたりをぐっと締め付けられるような感じがして、扁桃が熱くなった。



『お前に良く懐いていたあの奇妙な男がいただろう。今回はそいつに出撃命令が下されていた』



 そう言えば、村上はそう言っていた。全てしっかり聞くのも馬鹿馬鹿しいので大半は聞き流していたわけだが、何故だかそのことは頭の中に残っている。


 投げ飛ばした紙切れは、この戦乱の非常時にも暢気に眠りこけている銀の体に乗っかった。足腰に力が入らず、這い蹲るように銀に近づいたイヅルは、それを再び手に取った。破れないようにゆっくりと開き、掌で伸ばす。皺だらけになってしまったが、文字を読むのに支障はない。



「吾妻……榛名……」



 末尾に記された上等兵曹の名前は、不本意ながら良く知っている……呟くように名前を読み上げた後、全身が痺れる程の寒気に見舞われた。出会いのときとはまた別の種類の――未知ではなく喪失への戦慄が走ったがゆえの寒気だった。




            ※




 大量の没設計図を残らず焼き払いたい気分だが、長時間煙を立ち昇らせるという自殺行為をする訳にもいかないので、今はぎちぎちに縛り固める作業を行っているところだ。大人しくなどしていられなかった。とにかく何かをしていないと、心がもやもやして仕方なかった。実に腹立たしい。なぜ俺が、あいつの身を案じてやきもきしなければならないのだ。



「荒れてるなあ、イヅル。そんなに榛名のこと、気になる?」


「……うるさい」



 半ば面白そうに話しかけてくる銀を睨みつけると、彼はいとも簡単に怯んで何も言わなくなった。


 あり得ない。絶対にあり得ない。榛名なんかを気にかける日なんて、後にも先にも絶対に訪れることはない。いつもそう思っている。けれど、気を抜けば榛名の屈託のない笑顔が浮かんでしまうのも事実で、だからこそこうして無駄に動き回っているのだ。



「……榛名の匂いがする」



 寝転がっていたところを起き上がり、銀は鼻をひくつかせながら扉へと向かい歩きだした。『榛名』という固有名詞に逐一反応してしまう自分が嫌だ。扉を引っかき「開けろ」と催促する銀は無視して、イヅルはひたすらに作業を続けた。



「イヅル君、いる?」



 それから間もなくして扉が開き、それと同時に銀は彼女に向って飛びかかった。バランスを崩して靡いた髪、銀を撫でまわす細い指。不覚にも綺麗だと思ってしまった。その感性とは反して、捉えた彼女の姿に、仕草に、不快感が募る。だからそれ以上は榛名を見なかった。胸が無性にむかついて、泣きたくなった。



「……何の用だ」



 床に座り込んだ榛名に近づき、極力直視しないよう、冷えた目で彼女を見下ろした。できる限り辛く当って、さっさと嫌われてしまえばいい。好かれていると知っているから、もしかしたらこちらを理解し受け入れ、楽にしてくれるのかもしれないと変に期待してしまうから駄目なんだ。嫌え嫌え嫌え、俺を嫌え。ただそれだけを願うイヅルの思いを裏切って、彼女は相変わらずの笑顔で、暖かくイヅルを見ていた。



「うん。ちょっとイヅル君の顔を見たくて」



 本当にただそれだけなんだと寂しそうな笑顔を一瞬だけ浮かべた後、榛名はごろごろと甘えてくる銀の白い背中を撫でた。


 長く気まずい沈黙が続く。程なくして、いつもの厚かましい様子とは違いたどたどしく、ぎこちなく不自然に喋りはじめた。勿論、イヅルは相槌さえ打たない。「顔が見たい」なんて言ったくせに、榛名は顔を上げようとしなかった。


 榛名が今回の特攻出撃について触れると、不意にイヅルの顔が強張った。その僅かな空気の変化も榛名は見逃さなかった。



「もしかして、もう聞いたの? 驚いたかな? あれね、自分から志願したんだ。無理にお願いしてね」



 あの紙切れを見たときと同じように、激しい動悸と息苦しさに襲われた。目の前がチカチカして、それとほぼ同時に、ぐにゃりと世界が湾曲した。


 吐き気がする。寒気がする。もう正直に白状する、俺はあの事実が怖かった。受け入れたくなかった。いま確かに目の前に在って、手を伸ばせば触れられる榛名も、もう数日後に居なくなる。はじめからなかったのと、同じように。


 また人が死ぬ。俺の目の前で、容赦なく。関わった全てが、揃って命を捨てて行く。



「……何故」



 気を抜けば震えてがちがちと音を立てる歯を、思い切り食いしばった。無様な姿は絶対に晒したくない。緊張のせいで限界まで狭まった声帯を根性で無理やりこじ開けて、どうにかイヅルは問いかけた。答えはなかなか返ってこない。



「何故……って言われてもなあ。ここは必死隊って言われてるくらいの部隊だし、その時は必ず訪れるよね? 私――僕は、今が自分の行くべき時だと判断したんだ。それに」



 こうして目的も果たせたし、思い残すことなんて何もないんだよ。少しでもイヅル君と一緒にいられたことが、私の最高の幸せなんだ。


 硬く拳を握り締め、俯いたまま動かなくなったイヅルを見、榛名は苦笑した。今の自分の気持ちは、嬉しさ半分不安半分。いつもは冷静で無感情にも見える目の前の彼が、こうして必死に感情を殺そうとしている。それは確定した私の死を認めたくないからか、或いは本気でこちらを疎ましく思っているからか。


 どちらにせよ、胸の内を明かしてくれない彼がどう思っているかを知る術なんてない。「表情を読めばわかる」と恭二は言うが、榛名にはまだまだ分からなかった。



 思い残すことはないと言ったことに偽りはない。けれど何だか無性に寂しくなって、榛名は俯いたままのイヅルから逃げるように、何も言わずにその場を立ち去った。




「大丈夫か? イヅル……」



 榛名が去った後、藻掻くように首筋を掻き毟って崩れ落ちたイヅルを、銀は心配そうに覗き込んだ。顔を覆い隠す手の隙間から見える目は、焦燥にぐらぐら揺れていた。


 机や備品にぶつかりながら扉を締め切り、壁に寄り掛かって小さく蹲ったのはもう十分前のことだ。仄かに血の匂いのするイヅルは、擦り寄っても舐めても甘咬んでも、なんの反応も示してくれなかった。


 イヅルは混乱していた。


 死を自ら希望した。思い残すことはない。幸せだった。彼女が吐いた言葉全て、どれも今のイヅルには全く理解できなかった。病死した母、精神崩壊の末に自決した称壱、その東坂称壱に射殺されたゲルマニア将校、そしてこの地で見送った、名前すら知らない大勢の特攻隊員たち。自分の目の前で死んでいった者たちの顔が、ぐるぐると脳内を駆け廻る。


 もう嫌だ、これ以上死ぬのは嫌だ。両腕で自身を掻き抱き、イヅルは蹲ったまま、体を床に預けた。全身の震えが止まらず、がちがちと歯の鳴る音が静かな部屋に響く。


 銀の問いかけにも答えられない程に取り乱したイヅルを、銀は静かに見守っている。きっと彼の脳裏には、鮮明な遺体映像が映し出されているのだろう。また気絶するまでこの状態か。そう思うと胸が痛くなり、頬を舐めてやるくらいしかできない自分が、やはり嫌だった。




            ※




 いつもと何も変わらない。あれは夢だったかと思うほどで、頭の鈍痛以外はいつも通りだった。


 隊員たちは必死の命令を下されようが、平時と変わらぬ様子で訓練をこなす。明後日に飛び立つ菊水神鳴隊に組み込まれた六人の隊員が、他の隊員に混じりグラウンドを走っているのを今朝に見かけた。誰もが死の恐怖を少しも滲ませず、談笑している者だっていた。榛名は……知らない。あれ以来、榛名には会わないようにしている。向こうもこちらと会わないようにしているらしいので、姿を見かけることはなかった。


 これで良かったのだ。


 寧ろこれを望んでいた筈なのに、どうして俺は今、虚しさを感じているのだろう。何一つ解らなくて、もどかしくて、イヅルは力いっぱい拳を握った。爪が食い込んで、じわりと血が滲んだ。



「……今日は騒がしいな」



 もともと規律の厳しい帝国海軍、先輩兵士の怒号が飛び、暴力紛いの教育が行われるのはいつものことだ。しかしそれとは違う類の騒がしさがある。この空気は、少し前に起きた隊員同士の喧嘩と良く似ている。



「岐山さん……!」


「初春」



 慌ただしく駆けこんできたのは初春涼平だ。相当に急いできたのか、呼吸も荒く汗ばんでいた。子犬のように転がり込んできた涼平は、頭一つ分背の高いイヅルの肩を掴み、覗き込むように青い目を見た。



「どうした、何かあったか」


「姐さん……いや、吾妻上等兵曹が暴れ始めて……手に負えないんです。今は島風が抑えてくれてるんですけど、石田少尉も深田少尉も別件で手が開かなくて。だから、どうか岐山さんの力をお借りしたいんです……!」



 息を切らせながらも真剣に言う涼平をみて、イヅルはよほどの緊急事態なのだろうと判断した。正直、菊水神鳴隊の連中には会いたくないが、そんな我儘を言っていられる状況ではない。正直役に立つか解らないが、とにかく行ってみようと思った。




            ※




「だからお前が何を言ったかって聞いてんだろうが! 何黙ってんだ、さっさと答えろ!」



 現場に近づくにつれて聞こえる怒号は、決して野太い男のものではなかった。かといって女性的でもなく、中性的なそれの持ち主を捜すと、搭乗服の男を押し倒し、胸倉を掴んで今にも殴りかかりそうな榛名がいた。


 普段の柔らかな、人懐っこそうな笑顔はそこにない。代わりにあったのは、怒り声を荒げた鬼のような形相だった。この豹変ぶりに面食らったのか、仲裁に入ったはずの煉は、斜め後方で呆然と立ち尽くしていた。



「ああ、何度でも言ってやる……! あいつは俺たちの敵だ、カメリアと繋がってる売国奴だ!」



 どうやら原因はまたも自分らしいと理解したイヅルは、案内役の涼平に気付かれないように小さく溜め息をついた。またしても売国という冤罪により罵倒されているが、怒りも悲しみも生まれてこなかった。いつものことだ、もう慣れた。



『このまま戦争が激化すれば、お前はいつか売国奴と呼ばれる日が来るだろう。だがそれを気にしてはいけない。それは大抵本心でなく、罪なく苦行を強いられる自分たちの心を落ち着かせるための儀式みたいなもんだ。いわば八つ当たりってやつか』



 まあ、せいぜい頑張って身代わりの羊を演じきれ。悪い顔で笑いながらそう言った称壱を思い出した。そんな彼の言葉通り、戦争が劣勢へと傾くにつれて八つ当たりを全身に受ける身分になったので、これくらいのことは平気だ。多分。


 放心状態から怒りと不快で激情した煉は、今にも飛び出して乱入しそうな雰囲気だった。皺を寄せた眉間の下に、一層鋭い眼光を湛えている。そんな彼を片腕で制し、イヅルは静かに一歩を踏みだして現場に近づこうとした。そのときだった。


 鈍く、肉を打つ音がした。イヅルも煉も涼平も、はっきりと見た。榛名の拳が、嫁入り前の乙女の拳が、男の顔面にめり込んだ。あまりの出来事にしんと静まり返った周囲が、ようやく動揺でざわつき始めたころ、榛名は完全な怒りで無口、無表情に成り果てていた。振り上げられた榛名の腕を、イヅルは掴む。そうでもしなければ何度も殴りつけそうで、このままでは最悪、この男は頭蓋骨陥没で死んでしまいそうだった。



「放せ……!」


「落ち着け」



 隊員たちがイヅルの姿を捕えると、ざわついていたのが急にしんと静かになった。集中する視線ひとつひとつのその根源は、どれも滲み、混濁していた。恐怖と動揺、そして罪悪感。それらにぐちゃぐちゃと纏わりつかれた彼らは皆俯き顔を伏せた。前は向けなかった。男を医務室に運ぶよう煉に指示するイヅルの声だけを聞いていた。



「駄目だ……俺……俺……!」



 なぜだ。なぜ彼は平然としていられる。なぜ俺たちを責めない。岐山イヅルが諜報活動をしていないことも、そもそも極東にもカメリアにも執着がないことも、ほぼ全員が知っている。精神的に追い詰められた自分たちの不満を一身に受け止めていることも、毎晩何かに脅かされ、魘されていることも――。


 ただの八つ当たりだと解っているから、責められたほうが随分と楽だ。なのに彼は、責めも恨みもしない。その分苦しめ、ということか……イヅルの差別に加担した男たちは、苦悩に頭を抱えて蹲っていた。



「お前たちは、そのまま続けておけ。それとこいつ、しばらく借りて行くぞ」



 悔いる彼らは敢えて無視して、イヅルは自分でも驚くほど手際よく冷静に指示を飛ばした。無言で頷くしかない彼らもやはり無視した。自分があれこれ考えて悩もうが、変化することなど何もない。称壱の言ったように、身代わりの羊を演じ続けるしか、道はないのだ。




            ※




「こんな所に連れ来てどうするの、再教育でもするつもり? 私がこんな馬鹿なことしたから……!」



 榛名ひとりが未だ落ち着きがなかったので兵舎裏まで引き摺ってきたのだが……自棄になっているせいかこちらの話を聞こうともしない。しかも男を演じようとせず、《吾妻榛名》は《城側榛名》に完全に戻っていた。このまま放置するのは危険だ。事件を起こした上に女であることがばれた最悪の事態なんて、漠然としすぎて想像もできない。



「落ち着け、少し黙ってろ」


「どうして落ち着けなんて言えるの? あんな酷いこと言われて黙ってられるはずない!」


「別にお前が言われた訳じゃないだろう。いいから大人しくしとけ」


「できる訳ないでしょ……!」



 聞き分けのない榛名に、イヅルは腹が立った。なぜ。どうして。他人が受けた罵詈雑言に、本気で憤るこの女の心理が分からない。『俺のことをこんなにも思ってくれているなんて』と喜ぶべきなのだろうか。悪いがそんなこと、どう頑張ってもできそうにない。


 こいつに何が解るというのだ。ほんの数週間、数えきれるくらいの時間しか共有していないこの女が、存在を否定されることのない正統な極東人が、全てを理解しているような素振りをすることが堪らなく気持ち悪かった。


 イヅルの感情のブレに気付かず、榛名は言葉を吐き続けた。好きな人を馬鹿にされて、大人しくしておける人間などこの世にあるものか。榛名はそう思っていた。


 女は大人しく言うことを聞き、男の三歩後ろを歩くものだということは前々から聞いている。しかしその三歩後ろで、後悔するだけの生涯は嫌だ。どうせ短い人生だ、自分の気持ちに素直に生きていたい。よって、私の何より大切な岐山イヅルを無下にした奴は何があろうと許さない。そう伝えて顔を上げ、彼の青い目が見えた途端、左頬に強い衝撃を受けた。確りと捉えた碧眼は、背筋が凍りそうなほどギラついていた。


 状況はよく理解できている。私の生意気な一言が、彼の怒りを暴発させたのだ。見開かれた目、拡散した瞳孔、眉間に寄った深い皺。普段は無気力そうな平坦な表情をしているせいか、今の彼が激昂しているのが良くわかる。後悔しないようにと取った行動だったが、榛名は今、それにより激しく後悔していた。



「うるせえ奴だ……! 許せないって何がだ? お前が許さないことで何が変わる? 何も変わらねえだろうが!」



 叩かれた左頬を抑えて地面に座りこみ、困惑――と言うよりも怯えた様子の榛名を、イヅルは怒鳴りながら見下ろしていた。頭が痛い。息が上がる。こんなに気が立ったのは初めてだった。イヅル本人も、暴走した感情に戸惑い恐れていた。



「今はカメリアと命の取り合いしてんだぞ、少しでもそこと関わりがある奴が疑われんのも恨まれんのも仕方ねえことだろうが!」



 吐いた言葉に偽りはない。どれもこれも、仕方のないことなのだ。半分もカメリアの血を持って生まれたからには、スケープゴートとしての役割をしっかりと果たさなければならない。少数派が弱いのは世の中の常であり、それらが何を喚いたところで世界は少しも動かない。


 分かっている。それくらいのことは分かっているけれど、俺も一応は人の子だ。辛くなることだってたまにはある。そして密閉した筈のそれを、うっかり外に漏らしてしまうことも。


 これは、完全な八つ当たりだ。ようやくそれが認識できたと同時に、膨大な質量の罪悪感が、爪先から脳天にかけて這い上がってくるのを感じた。そうか、彼らもこんな気持ちだったか。ついさっき見た若い隊員の姿が自分とダブり、イヅルは強く拳を握り締めた。


 しかし状況を理解しても後悔しても、冷静さは戻ってこなかった。ぞわぞわした、もやもやした、もどかしい気持ちばかりが内側に蠢いた。全身に虫が這う感触を、肉と皮膚の間に感じる。いくら掻き毟っても改善されない不快さに、イヅルは気が触れてしまいそうだった。



「……俺に関わった奴は皆死んでいくんだ。お前だって死ぬんだろ。死んでいく奴に心配されたって、何も嬉しくなんかない……っ」



 髪を乱し、自身の首を引っ掻きながら言い、慌ただしく立ち去るイヅルの背中を見た榛名は、沸いた体温が平常に戻るのを感じていた。停滞気味だった思考回路も平常に戻ったようで、考え事ができるまでに復旧していることに気がついた。


――岐山が噛み付くのは、相手に気を許している証拠だ。


 和樹が以前そう言っていたのを、今になって思い出した。こちらに対して攻撃的なのは、疎まれているからだとばかり思って苦しい日々を送ってきた。だが案外そうでもないらしい。


 それを思うと、びりびり響いて痛む頬も忘れるほど大きな喜びが、榛名の全身に広がっていく。苦痛に歪む表情、他人を拒絶して悶える姿。不謹慎だと分かっているが、そんなイヅルの挙動ひとつひとつが、榛名にとって幸せそのものだった。



「……死ぬのが惜しい」



 最後の最期で気付いた、既に開通済みの思いには、ただただ無念さが溢れるばかりだ。地についた手を握り締め、唇を噛みしめた榛名の頬から、次々と滴が伝い落ちる。あっという間に湿らせた地面は見ずに、榛名は声を殺して泣いた。




            ※




 落ち着きを取り戻し、新作の設計に打ち込んでいた頃のことだ。作業場に恭二、和樹、煉といつもの面子で乗り込んできた訳だけれど、「すまなかった」の突然の謝罪に、イヅルは途惑った。



「……? 何がですか」



 驚いて取り落としそうになったペンを持ち堪え、きょとんとした表情でイヅルは問う。彼らは沈痛な面持ちだけれど、別に何かをされた記憶はない。



「吾妻のこと、なんだけどさ。聞いただろ、あいつが明日征くって。あれな、結果的にだけど俺たちが出撃を勧めたようなもんなんだ」



 その大きな理由は、榛名が男ではないと疑い始めている――或いは既に気付いている者がいたことだ。今後の対策を練るために本人に事実を伝えたのだけれど……気付いた頃には出撃の嘆願書を提出していたのだそうだ。「まあ、なんとかなるでしょ!」なんて笑っていた彼女からは凡そ見当のつかない決断だったが、今となっては良くわかる。吾妻榛名は、自身が早々に散華することで事態が明るみに出ないうちに片付けようと考えたのだった。


 こうなってしまっては、誰も彼女の死を止められない。できることと言えば精一杯明るく見送ってやるか、自分たちのように不調で引き返してくるのを祈るくらいだ。恭二はそう言いかけたが、イヅルの首筋に見た引っかき傷のせいで声が詰まり、言えなかった。きっと容赦なく爪を立てたのだろう。凝固して赤黒い塊になった血液が、彼の白い肌によく映えていた。



「止められなくてすまなかった。言い訳にしか聞こえないだろうが、気付いたときには上官殿に頭を下げに行って血判状まで書いて出していたんだ」



 恭二の声が詰まったせいで続いてしまった静寂を破った和樹だったが、この先どうしていいか分からなかった。


 そもそも、どうして俺たちは彼の部屋を訪れた?これは、不安定で今にも倒れそうな彼の心をわざわざつつきに来たようなものだ。榛名の出撃を彼に謝罪した意味も、今となっては良くわからない。激化した戦争の最中、自ら志願するということは大して珍しくない。そもそもあの子は「必死」を条件に補充された、一端の兵士なのだ。


 なぜ止める必要がある。なぜ言い訳する必要がある。俺も恭二も吾妻も、飛行機ごと敵艦に激突するのを承知の上で志願した。理由こそ違えど、しっかりとした目的を持っている。動機が余りに衝動的だったけれど、これが彼女の選んだ道なのだ。俺たちにそれを止める権限は微塵もない――。


 自分たちは彼に対して過保護なのだろうかと思う和樹の傍で、煉は黙って空間を見渡していた。なんだかしんとしてしまった静かな空間の中、煉も吾妻榛名の姿を脳内に呼び出してみた。


 喧しくて人懐っこくて、簡単に男の中に混じって働ける、度胸のありすぎる女というのが煉の中にある榛名の概念だ。奥ゆかしくて従順で、待つのが得意な極東の女子とはおよそかけ離れた彼女は奇抜だったが、その性質は案外嫌いではない。初めて会った時程の嫌悪感も、既になかった。ずば抜けた行動力は常時変わりないが、勤務中の榛名は聡明で、非常に頼りがいがあった。



「しかし……凄いですね、吾妻さんの行動力は。そこばかりは、俺も見習いたいもんです」



 あの情報の伝達から出撃が決定するまで約半日。いつも以上に溌剌と訓練をこなし、上官に出撃への情熱を土下座つきで熱弁し、更には血判状まで提出した末に望みは叶ったのだった。


 確かに、彼女の行動力はすごいと思うし、羨ましくもある。見習えるものなら見習いたい。けれど、今の自分では確実に無理だとイヅルは思う。生れ持った変えようのない宿命を受け止められず、人と接触すれば取り乱してしまう自分が怖くて、逃げてばかりいた過去。まずはこの臆病さを矯正しなければ、俺はきっとこのままだろう。


 それでは駄目だ。一人でもしっかり生きていけるように、変わらなければならない。崩壊覚悟で……その一歩を踏み出してみようか。



「あ……和樹さん……」


「な、何だ岐山?」


「俺……」



 ほんの僅かでも、イヅルは榛名に歩み寄ってみようと思った。安直な考えかもしれないが、彼女が喜んでくれそうなことをするつもりだ。明日にでも散り逝く女に善意を尽くすことほど虚しいことはないという気持ちと、せめて最期くらいはという気持ちが混在している。


 この気持ちは果たして好意なのか同情なのか、はたまた単なる自己満足なのか……考えれば考えるほど深みにはまり、ついには抜け出せなくなりそうなので思考は遮断した。しかし長年、交友関係の構築を怠ってきたせいなのか、肝心の「喜んでくれそうなこと」が何一つ思いつかない。


 百合恵に聞くのが一番な気もするのだけれど、この前の睨みあいから察するにあまり仲良くないみたいだし、煉も涼平も自分と同じくらいに知らなさそうだ。だとすれば、あとは和樹に聞くしかない。無論、恭二など論外だ。



「ああーっ! もうあれこれ考えたってしょうがねえ! 今日の送別会は極限まで盛り上げるぞ、煉!」


「え、あ、ちょっと……!」



 急に叫んだかと思うと、恭二はバタバタと走り去って行った。その巻き添えを食った煉もまた、強制的に廊下を走らされる。それに便乗した銀も走り去り、この部屋にはイヅルと和樹の二人きりになった。


 衝動で思いついたこととはいえ、いざ相談するとなるとなかなかに照れる。俄に熱を帯び、紅潮し始めたらしい頬を抓り、イヅルは俯いた。こんなに照れたのは久しぶりだ。百合恵に初めて見せた設計図をべた褒めされて以来のこの気分は、かなり面映ゆい。



「何なのか良く解らないけど、吾妻の毒気に当てられたというか……とにかく、俺自身の何かが変わった気がするんです。そこには感謝してるけど、俺はまだ、あいつに何も返せていない。して貰ってばかりで征かれては分が悪いし、何か一つでも借りを返しておきたいと思ってるんですけど……俺には何の見当もつかなくて。俺にでもできることって、何かありますか?」



 これまで自己主張を殆どしなかったイヅルにしては、珍しくはっきりと自分の気持ちを告げた。右頬を抓ったまま、和樹の目を真直ぐに見る。


 この子は、なぜこうも要所要所に可愛げがあるのか。和樹は彼を見てそう思い、思わず笑い出しそうになった。けれどここで笑う訳にはいかない。きっと彼は、この覚悟を無下にされてしまったと捉えてしまうだろう。



「何を言うか。お前が吾妻にしてやれることなんて山ほどあるよ」



 腕を組んでにやりと笑った和樹は、確かに心強かった。




            ※




 曇り始めた心とは裏腹に、空は憎たらしい程に晴れている。刻一刻と迫り来る死の匂いを感じつつ、榛名は賑わう滑走路を見渡した。同期、上官、後輩、女学生。大勢が見送りに出向いている。無意識に想い人の姿を捜し、溜め息を吐いていることに気付いた。いくら見渡しても、周囲には自分と同じ黄色い肌と黒い髪しかない。榛名の望む色はそこにはなく、それを思うと、胸が痛むのだった。


「こんなの自分らしくない」と叱咤し、大きく深呼吸して胸を張る。あれ以来、彼には会っていない。寂しいけれど、会ったら会ったで未練がましくなりそうなので、もうこのまま会わない方が良いと思っていた。


 それでも目は必死に彼を探す。……これが「恋は盲目」ということなのだろうか。欲に溺れる自身に情けなくなったが、彼に全力で彼に恋し、追い続けた日々は全く後悔していない。


 あと十分。あと十分で、この地を離れなければならない。もう二度と戻ることはないのだと思うと震えあがるほど恐ろしいが、やらねばならない。これは自らが希望した道、後に引くことは勿論のこと、感情剥き出しに行きたくないと駄々を捏ねることだって許されない。せめてこの場に彼が――イヅルがいてくれたならどんなに心強かっただろう。



「吾妻……!」



 諦めて機体に乗り込もうとしたときのこと。幻聴かと疑うほど不意に聞こえた声は、愛しい彼のものだった。決して聞き違えることはないと振り返ると、思った通りの姿があった。



「イヅル君!」



 白いワイシャツに土色の航空衣袴といういつも通りのイヅルが、そこにいた。付いてきた銀を置いて翼に飛び乗ってきたイヅルに、榛名は堪らず抱きついた。途端、「岐山に不用意に接触すると失神する」と言った和樹の言葉を思い出した。


 彼の体が強張り、ひゅ、と狭まった気道に息が吸い込まれる音がする。これは不味いと榛名も体を強張らせたが、彼が傾いでいく様子もないので安心した。大きく吐き出された息が耳にかかり、くすぐったい。



「吾妻」



 ぐいと肩を押して体を離し、イヅルは初めて榛名の目を見た。今まで知らずに済んだ彼女の可憐さを目の当たりにして、少し見惚れた。でもそれを認めるのは悔しくて、そう言えば面と向かって名前を呼ぶのも今日が初めてだなと考えて気持ちを誤魔化し、イヅルは彼女に右手を突きだした。



「何? ……あ」


「これしかなかった」



 彼の手から覗くのは白。どうにも見覚えのあるそれは、航空隊員に支給されるマフラーだった。見覚えあるはずだ、今まさに、自分の首に巻いている。



「こら、まずは事情を説明しろ」



 こつこつと軍靴を鳴らしながら近づいてきたのは和樹で、彼の向こう側にはこちらの事情を概ね察知したらしい煉が、必死に恭二と涼平の気を引こうとしているのが見える。和樹は地上でうろうろしていた銀の頭を撫でながら、翼上の二人を軽く見上げて微笑んだ。



「吾妻。実はな、岐山に言ったんだ。お前が岐山の飛行服姿を見てみたいと言ってたこと」



 イヅルが元々特攻要員だったと榛名が知ったのはつい最近のことだ。今となってはそのことを知る者はごく僅かで、誰もが初めから「帝国海軍専属の設計士」だと思っていた。特攻隊員だった事実も設計士に落ち着いた理由も、今では「売国奴に貴重な航空機を壊されちゃ適わんから」などという、厭味に近い冗談の種程度にしかならない。


 だが榛名は、真っ先に「彼の飛行服が見たい」と思った。普段どんなに冴えない男も、飛行服を着ると凛々しく格好良く見えるのだから、きっとイヅルが着るとそれはもう眩しいのだろうというのが彼女の思う所だ。


 榛名はそのマフラーを手から取り、徐に彼の首に巻いてみた。実物で全体像を完成させることはできなかったが、これでより正確に想像できるかもしれないという思いがあった。その状況を理解したらしい和樹は、飛行服の上着を脱いで榛名に渡す。迷うことなくそれを受け取った彼女は、着せ替え人形状態のイヅルに黙々と着せて行く。


 そこに完成したのは恋焦がれた飛行服の岐山イヅルで、予想以上に格好良い……と思うのは、自分が彼に盲目的に惚れているからだろうか。聊か不安になったが、自分が良ければそれで良いという気持ちに落ち着いた。下で見ている和樹も腕を組んで頷いているし、いつの間にかギャラリーとして加わった恭二や煉、涼平も見惚れている様子だ。決して悪くはないのだろう。



「あと五分はある。心残りのないようにしておけよ」



 まあ、ほどほどに。彼にしては珍しくにやりと下卑に笑った和樹は、離れたがらない恭二の首根っこを掴んで去って行った。彼の珍しい表情に唖然とした煉と涼平もそれに続く。周りに人は大勢いるのに、なぜだか二人きりになった気分で気まずい。絹のマフラーも窮屈だし外したいのだけれど、そんな素振りを見せようものなら全力で榛名が阻止してくるのでそれは叶わない。

イヅルの目に入ったのは、赤みを帯びた榛名の頬だった。あの時のことは、正直良く覚えていない。きっと容赦なく手を上げたのだろう。腫れの引かない頬がその証拠で、混乱していたとはいえいたたまれない気持ちになった。称壱も和樹も恭二も、女は大事に扱うものだと言っていた。俺は相当にいけないことをしてしまったらしいと思いながら、イヅルは榛名の頬に手を添えた。



「イ、イヅル君……!」



 掌から伝わる熱に、寒気がした。そこだけが妙に熱い。この感覚は良く覚えている。かつて嫌というほど味わった、殴られた時の痛みが全身に蘇る。やはり俺は、相当にいけないことをしてしまった。辛いと分かっていることを、なぜ人にしてしまったか。イヅルは己の愚行に、人知れず奥歯を噛みしめた。



「……お前も死ぬのか」



 離れる手に名残惜しそうな榛名は見ないように、俯いて呟いた。名残惜しいと思っているのは、認めたくないがこちらも同じ。この鬱陶しくて喧しくて、人の心の中に土足で踏み込もうとする奴なんて、いない方が良いと思っていたはずだ。しかし、やはり死んでしまえと思ったことはない。……征って欲しくない。榛名をしっかり捕まえて、征かないでくれと言ってみたい。


――俺も、とうとうイカれたか。昨日からどうも感情的で、「人の形をした何か」の自分らしくない。嘲笑するかのように口元を歪め、肺に溜め込んだ空気を大きく吐いた。


 掠れた声で死ぬのかと問うイヅルを見た榛名は、殺したはずの未練が復活しつつあるのを感じ取った。死への恐怖と永遠に閉じられる未来への寂しさに溢れだしてしまいそうな涙を堪え、榛名はこちらに向いた青い目を見た。ぞくりと肌が粟立ち、胸が苦しくなった。


 イヅルの目の奥から滲み出た感情は、一切の曇りなく榛名の脳に伝わった。彼は私を、一人の女としてなど見てはいない。この目は丁度あの時と同じ、両親が離別する時に見た、妹の奈津子の目そのものだった。


 いかないでお姉ちゃん、離れ離れは寂しいよ――そう言って泣きじゃくる奈津子も、こんな目をしていた。同じだということは、つまり私は、彼にとって姉以上の存在にはなれないということか。



「あーあ……知りたくなかったな、こんなこと」



 結局最後の最後で失恋かと、報われない気持ちを憐れみながら空を見た。やはりそこは、憎々しい程に晴れ渡っている。不思議と悲しくはなかった。寧ろ今、胸にあるのは沸々と滾る闘争心で、必ずや彼を振り向かせるという気持ちでいっぱいだった。


 ここで諦め、運命のまま大人しく散るのは「後悔せずに全力で生きる」という私の流儀に反する。絶対に死なず、生きて帰る。そして全力でこの気持ちをぶつけ、思いを通じあわせてみせる。あの百合恵とかいう子にだって負けないし、「お姉ちゃん」というポジションに落ち着くつもりも毛頭ない。彼の隣は、私のものだ。



「大丈夫。私、絶対に帰ってくるよ」



 囈言のように呟いた「知りたくなかった」の言葉に小首を傾げたままのイヅルを視界いっぱいに捕えながら、榛名は晴々とした青空に誓った。この馬鹿みたいな前向きさは一体何だと内心苦笑しつつ、彼の眉間に皺が寄るのを見た。


 きっと彼は、こちらが気休めの嘘を言っているとでも思っているのだろう。けれど残念なことに、この言葉に偽りはない。根拠なんて一切ないけれど、なぜだか、生きて還る自信に満ち溢れていた。



「……」



 一瞬にして曇った瞳を伏せ、イヅルは俯いた。絶対に帰ってくる。その言葉は嬉しかったが、絶対の保証はあるのだろうか。いや、ないと自問自答し、所詮は気休めだと卑屈になった。


 しかし、このままでは駄目だ。このままでは何をしにここに来たか分からない。少しでも何かしてやらねばと、少しでも彼女に近づこうと、崩壊覚悟で挑みに来たはずだ。それなのに卑屈になってしまっては、いつもと変わりないではないか。



「これ……」



 思い切って顔を上げ、イヅルは再び、右手を突きだした。ほぼ強制的に掴ませたそれは何の変哲もない茶封筒で、その中には昨日の送別会にも参加せずに考えた、渾身の贈り物が詰まっている。



「ん、なに?」


「船の図面……好きだろ、船。もって行け」



 榛名は「うわあ」と嬉しそうな声を上げ、目を輝かせた。船は好きだ。彼の設計図にも興味がある。他よりもイヅルに近い位置にいたけれど、いつも見るのは彼が設計図を燃やす場面だし、作業部屋に入ったら入ったで結局イヅルばかりを見つめてしまって図面をしっかり見たことがない。一生の宝にしようと大事に胸に抱き、満面の笑みで「有難う」と言う。


 その言葉を受けたイヅルは、微かに紅潮した頬を抓り、俯いてしまった。頬を抓るのは、照れた時の彼の癖らしい。抱きしめたくなった衝動は抑えず、榛名はイヅルに抱きついた。そして、



「……っ」



 抱きついたまま、少し高い位置にあるイヅルの唇に口付けた。年頃の乙女がはしたないと思われるだろうし、何より事情を知らぬ他人に見られれば衆道だと思われるだろう。けれど別に、そんなことはどうだっていい。ただ後悔のないように生きる。それだけだ。



「ねえ、イヅル君。私、帰ってきたら『岐山榛名』になりたいの。覚悟しておいてね、本気だから。必ず、君の隣を勝ち取るよ!」



 驚いたのか拒絶したのか、口付けたとほぼ同時に翼からずり落ちたイヅルは、地面にへたりこんだまま、呆然と榛名を見上げていた。


 覗き込むようにこちらを見下ろす彼女の顔は逆光で良く見えなかったが、自信たっぷりの不敵な笑みだった気がする。その強気な態度も朗らかな人格も、晴れ渡り澄んだ青空に良く合っている。純粋に綺麗だと思ったが、イヅルの口からは上手く言葉を紡げない。動揺に目を見開いたまま、一言「……分かった」とだけ返した。


 いつの間にかすぐ近くまで戻ってきていた和樹に呼ばれたイヅルが立ちあがるのを見届けてから、榛名は操縦席に体を滑り込ませた。後ろ姿までもが愛おしい。いつもの面子のもとに駆け寄るイヅルをキャノピー越しに見詰め、脳内に焼き付けようと必死だった。


 あんなに強気な態度を取っても、やはり征くのは怖い。「絶対に死なない」と宣言しても、頭では常に死が過る。死んでしまえば彼との約束を破ることになってしまうし、それ以前に二度と会うことができなくなる。やはり死ぬのは惜しく、それを思う度に、目には涙が滲むのだった。


――最近はどうも涙脆くていけない。最後くらいは笑顔でいなければ。


不安げに振り返るイヅルへのときめきを原動力にして、操縦桿を軽く握った。自身を奮い立たすよう、何度も深呼吸する。大丈夫、大丈夫、怖くない……。



「じゃあね、行ってきます」



 今持ちうる最大限の笑顔を作り、榛名はイヅルに別れを告げた。きっとこの声は、プロペラとエンジンのけたたましい鳴き声に邪魔されて彼には届かないだろう。けれど笑顔は届いたようで、それに気付いたイヅルは、哀しそうな笑顔を浮かべた後、これ以上にない精悍な顔つきを見せ、榛名に敬礼するのだった。


 凛々しい彼に「やはり好きだ」と再確認した榛名は、幸せな気持ちを携えて沖縄に向かい飛び立った。七月二十八日の、午前八時のことだった。




            ※




 錦江湾を通り過ぎ、広大な海をひたすらに南下すると、米粒程の島影が見え始める。次第に多くなる雲に悪天候を予感しながら、広がる海の青を見ていた。この色は彼の瞳と同じ色。そう思うと、この危険な長旅も楽しく思えてくるのだった。


 榛名は、胸に手を押し当てた。落下傘と飛行服の間に挟んだ、あの封筒が気になって仕方がなかった。最悪の事態を想定すれば、これは自身と共に跡形もなく消え去ってしまうものだ。これでは冥土で再会した時に感想を述べられないではないか。少し他所見をするのは心許ないが、後悔になるよりは幾らも良い。そう自身に言い訳した榛名は周囲の警戒を忘れずに、懐から封筒を取り出して片手で器用に紙面を広げた。



「……わあ」



 大和までとは行かないが、そこそこ大きな巡洋艦の設計図だった。イヅルらしく攻撃と防御のバランスを考えた船だったが、恐らくこれも焼却炉行きのものだったのだろう。赤で袈裟がけたような線が引いてある。


 びっしりと書き連ねた幾何学模様、自分には一つも理解できない数式。その数式の一部が途中で途切れているあたり、きっとこれは強度不足で没になったのだろう。その作業風景が頭に浮かぶ。熱心に線を引いているときも、悩んでペンを弄んでいるときも、集中した彼の視線はいつだって熱かった。



 頬に触れた手の温かさ。


 抱き締めたときの以外に逞しい感触。


 頬を抓りながら照れる顔。


 最後の、凛々しい敬礼。


 紙面に触れただけでその全てが一気に甦り、榛名の心は幸せに埋め尽くされていた。                                 

 

――敵機の存在にさえ、気付けないほどに。



 空を覆いそうなほどに量を増した雲の陰には、宿敵のヘルキャットが潜んでいた。すぐ近くで、機銃が吠える。ヘルキャットから放たれた砲弾が、物資不足ゆえに防弾設備無しとなった零戦を突き破るのは、大して難しいことではなかった。


 全身に強い衝撃を感じて、目の前が真っ赤に染まっていく。何が起こったかはすぐに分かった。砲弾が操縦席の脇を抉り、この体を貫いたのだ。



「ああ……くそう……!」



 声になったかも定かではないが、己の愚かさを自責し、榛名は唸った。結局私は、戦士としても人間としても未熟だった。気持ちを抑えきれずに、戦地で恋い余ってしまうとはこの上ない失態だ。



「このまま……死んで堪るか……!」



 不思議と痛みは感じないが、意識は確実に朦朧としている。はっきしりない脳とごわごわする体を気力だけで持ち堪え、榛名は操縦桿を握りなおし、眼光鋭く前を見据えた。しかし上手く体を動かすことができず、目も翳んで良く見えない。砲弾により筋肉や血管を容赦なく引き裂かれ、操縦席を血で満たす勢いで出血が続いている。


 良いところだったのに。折角彼が心を開いてくれたというのに。お前と言う奴は、なぜ私の恋を邪魔してくれたのだ。そんなお前は、この手で必ず撃墜させてやる。


 今にも息絶えそうな体に鞭打ち、榛名は肺に残った全ての空気を吐き出した。キャノピーはべったりと血で濡れていて前は見えないが、一部だけ濡れていない箇所があった。そこから見える憎い敵――幸福の邪魔をする《性悪女ヘルキャット》に照準を絞る。


 機銃発射レバーを握ったとき、急にクリアになった視界の中に、緑の目をしたパイロットが見えた。肌が白くて、顔立ちもはっきりとしている。脳裏に焼き付けたイヅルの顔を思い浮かべて、なるほど、確かに彼は西洋人寄りの姿をしていると思った。


 初めて本物の西洋人を見たけれど、東洋人よりは遥かにこちらのほうが近いと一人納得した。そして彼が愛する者、彼を愛する者のことは一切考えないことにして、榛名は改めて、機銃発射レバーを引いた。



「……天国は近い……悔い改めよ……」



 かつて叱られる度に、熱心なキリスト教徒だった父が言っていた。思い出した言葉に懐かしさを感じ、榛名はそれを口にした。確か、「裁きが近い、地獄に突き落とされぬよう悔い改め、備えをせよ」という意味だったか。


 名も知らぬ敵の彼に、そして自分自身に宛てて呟いた彼女は、曇った空に強い光を見た。――あれが、煉獄への入り口だろうか。煉獄で愚かな自身を浄化しよう。彼に、イヅルに会うのはそれからだ……。


 撃ったヘルキャットが炸裂するのを聞き届けた後、照準器に体を預けたまま、吾妻榛名は絶命した。彼女の有した零戦は、大きな飛沫をあげて特攻する事無く海へ墜ちた。多量の重油とA型の血液、零戦の残骸がゆらゆら漂う海面を、大きな雨粒が容赦なく叩いていた。




           ※




 寂れた鉛色の空を、ただ見上げる。イヅルの横顔は恨めしそうでもあり、捨てられた子犬のようでもあり、虚無でもあった。途中まで付き合ってくれていた銀は、早々に退屈したようで既に眠ってしまっている。出撃して間もなく曇りだした空に、イヅルは天候の悪化を予感した。今の現に、大きな雨粒が窓を叩いている訳だが、戦闘機が引き返す気配は一切ない。


 榛名を連想させる、晴れ渡っていた空が泣いている。ただそれだけで嫌な予感がする。正直なところ気が気ではなく、ただ待つしかない自分が歯痒くて仕方なかった。

作業台の上には、完全にインクが乾いた設計図と一通の封書がある。ついさっき、「吾妻さんから預かった」と、敬見から渡されたものだ。


 きっとこれは、辞世の言葉が綴られた『遺書』と言うものなのだろう。今は、これを読む気にはなれなかった。それに、遺書だとしたら生死の確認が取れてから封を切るべきだと、受け取って以来触れてすらいない。


 

 がたり、と物音がした。

 突然の物音に驚いて身構え、そちらを見てみると、今まで寝ていた銀が立ちあがっていた。



「……来たっ!」



 じっと空を見つめ、しばらく耳をぱたぱたと動かした後、けたたましく吠えながら外へと飛び出した。その直後、「帰ってきたぞ!」と叫びを上げる隊員が、慌ただしく廊下を駆け廻る。一斉に部屋から飛び出した隊員たちを呆然と見届けた後、イヅルも後れを取りながら、雨が降り続く滑走路へと向かった。




           ※




 帰還した零戦は五機、ここから飛び立った零戦は記録係含め七機。帰らなかった二機は突っ込んだのか、途中で墜ちたのか……それはまだ定かではない。



(あいつ、本当に帰ってきたのか……)



 自然と緩まる口許を隠しもせず、雨でずぶ濡れたまま微笑んだ。彼女と再会しようと零戦に近づき、操縦席を覗いてみる。放心状態でほうける者、張りつめた緊張の糸から解放されてがたがた震える者、絶望に項垂れる者など様々だ。


 ただ――肝心の榛名がいない。


 爪先から、じわじわと寒気が襲う。帰らなかった二機に彼女が含まれるとでもいうのか?いや、そんなはずない。あいつは必ず帰ると言った。だから、絶対に。何度も何度も周囲を見渡してみたが、更に零戦が帰る気配はなかった。



「おい……吾妻はどうした……!」



 唯一気丈なままで、事態を一通り報告し終えたらしい隊長の河内を捕まえ、イヅルは問うた。彼は掴みかかって問うイヅルの必死さに驚いたようだったが、すぐに目を伏せ、黙ってしまった。だがいずれ必ず教えてくれるはずだとじっと待つ。雨音ばかりが目立つ沈黙に耐え切れず、それを破った彼は言う。



「率直に申し上げますと、吾妻上等兵曹は戦死なさいました。恐らく、雲の合間に潜んでいた敵機に気付かなかったのでしょう……。狙撃され……手遅れでした。大義を果たせず無念だったでしょうが、それでも、果敢に敵機を撃ち落とす、立派な最期でした」



 涙ながらに語らい、無理に気丈を装って笑む彼から、これが事実であるとイヅルは知る。目の前が真っ白になり、立ち眩みがした。こんなに酷い糠喜びはない。ゆったりと侵食していた悲しみは急に歩みを速め、一気に感情を支配した。頭の中も真っ白になり、息苦しさも感じる。驚きに見開いたままの目から、一筋の涙が流れ落ちた。



「き、岐山さん……!」



 突然踵を返し、イヅルは作業場に向けて走った。地面に溜まった雨水が、ばしゃばしゃと跳ねる。雨は嫌いだ。人の涙を連想させる。何も考えないようにしてひたすら走り、慣れ親しんだ作業場へと駆け込んだ。意識はただ、机上の封書へ。引っ手繰るように手に取り、乱雑に封を切った。


 榛名が死んだ。本当に死んだのか? 信じられない、信じたくない。願望と現実が激しく打ち消し合い、頭痛がする。現実はいつか必ず受け入れなければならない。これを読めば少しは、この脳内で起こっている抗争を沈められる気がする。往生際悪く拒絶して、硬直する両手を無理に開き、イヅルは榛名からの手紙を開いた。



『君がこれを読んでいるということは、私は散ってしまったということだね。まず、約束を守れなくて御免。この約束だけは守りたかったし、まだまだ一緒にいたかったけれど、私には無理だったみたいだ。


 君にこの手紙を書いたのは、君に二点ほど、お願いをしたかったからだ。一つは、私の遺髪も遺品も写真も全部、君が持っていて。これは私が、ずっと君の傍にいたいから。気持ち悪いなんて、思わないでね?


 そして二つ目は、私のことを忘れないでいて。好きでいてなんて贅沢は言わないから、ただ、君を愛した城側榛名という女がいたことを忘れないでいてほしい。もう会えないのは寂しいけど、元気でいてね。私はずっと、君を愛しています。』



「忘れるわけ……ないだろう……」



 あの引くほど積極的な態度、こちらを見つめてくる熱い視線、しつこく名を呼ぶ甘い声。その全ての印象が圧倒的で、消したくても消えないほど、強く焼き付いている。押しの強さに怖気づいて、彼女に向き合ったことは殆どない。けれど耳にする話はどれも好意的なものばかりで、死の匂いが充満した基地も――卑屈に強情に捻くれた自分自身も、聊か明るくなった感覚がある。


 榛名の与える影響力がいかなるものか、それはこの身を以って体感した。殺伐とした隊内を、苦痛の世を明るく照らす太陽。その太陽は墜ちてしまい、永遠に失われてしまった。再び息苦しさに襲われ、誰かにぐっと締め付けられたように胸が痛い。次第に視界がぼやけてゆき、一粒の水滴が、手紙の上に付着した。



「あ……」



 これ以上、これを汚してはいけない。インクで書かれた文字が滲むのを見たイヅルは、慌てて手紙をしまった。最小限の被害で済んだと安堵した途端、水滴は、涙はぼろぼろと止め処なく溢れだした。頬を伝い、床に落ちたそれは、瞬く間に面積を増してゆき止まる気配がない。どうしようもない程の喪失感に呑まれ、全身に虚空が広がってゆく。これが『悲しみ』というものなのか―――。



「榛名ぁ……!」



 熱烈な虚しさを抑えることができず、イヅルはひとり慟哭した。薄暗い室内にひっそりと聞こえる悲しい叫び。痛々しくもあるそれをなかったことにするかのように、雨音と雷鳴が、喧しく鳴り響いていた。



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