第6部 馴染み


 平穏無事な日々は取り戻された。


 目下戦争中の時分に言う言葉ではないのだろうが、自身の心の平和が取り戻されただけで、イヅルには十分だった。清々しい朝の空気を存分に肺に取り込み、兵舎を出る。


 今日こそは、今まで処分しようと思っていた設計図たちを焼却しよう。そこらを駆け回る雀の子らを微笑ましく思いながら炉に火を起こしたところで、平穏をぶち壊したがる人物の声がこちらを呼ぶ。憎々しく振り返ると、満面の笑みの恭二が立っていた。


 しゃがみこんで火をくべるこちらを腕組みしながら覗き込む、にやにやした至極楽しそうな彼に腹が立つ。それを無視して紙束を炉に突っ込むと、煤の臭いが鼻腔を擽った。この臭いは、案外嫌いではない。


 それでも騒がしく追及しようとする恭二を無視することなど、もはや容易(たやす)いことだ。彼は先輩だし、情に篤く人望も厚く、尊敬できる人物である。しかしこんな場面では話は別だ。無礼だとか生意気だとか思われるかも知れないが、自分の神経はそれくらい受け流せるくらいの強度を持っている……はずだ。



「よお、イヅル。最近の榛名嬢、なぁんか機嫌悪い気がしないか?」



 今にも笑いだしそうな震えた声で恭二は言う。確かにここ数日、榛名は寄り付いてこない。自分は怒っているのだと主張したそうな態度で睨んでくるのだが、別に榛名の機嫌が好かろうが悪かろうが、イヅルには関係のないことだった。


 手に入れた平穏無事な日々の理由といえばそれなのだが、これはこれで気味が悪いと思っているのが、イヅルの本音だった。何か嫌な裏があり、何か大変なことが起こりそうな気配がしてならないが、確認する気になれなかった。自分から榛名に近づくということは、なんだか調子づかれそうなので極力したくない。



「知りませんよそんな事。吾妻の機嫌なんて興味ありませんので。本人に聞いてみては如何ですか」


「いや、それがさあ……」



 相変わらずにやにやと、忌々しい笑みを湛えてイヅルの肩を抱き、無意味に顔を接近させてくる。ああ、こんな一面さえなければ文句なしに尊敬できるのに!


「岐山」



 今度は凛とした声がこちらを呼んだ。なんだか凄く救われた気がする。恭二はなかなか根気があってへこたれないから、どんなに冷たくあしらおうが無視しようが、粘り強くつついてくるのだ。そのいたたまれない状況を、この石田和樹は打破してくれた。恭二に絡まれたまま、熱い尊敬の眼差しで和樹を見る。すると彼は、照れくさそうに苦笑したのだった。



「岐山、客だ」



 長身の和樹の後ろから、人より小さめの少女がひょっこりと顔を出した。火曜日早朝の来客となれば、この東坂百合恵しかいない。性格は全く似ていないくせして、兄に良く似た狐目をしている。二つに括った髪に女子学校の制服は、半年前には毎日目にしていた装いだ。


 この火曜日は、あの東坂称壱が自決した曜日であり、妻のリヲナが後を追った曜日でもある。彼女は毎週、基地に隣接した東坂の墓参りに来ていた。イヅルもほぼ毎日、墓前で手を合わせているが、一般的な墓参りは盆と彼岸、命日くらいだと聞く。家から墓地まで結構な距離があるはずだ、毎週ご苦労なことだと思う。


 百合恵はここに来ると、必ずイヅルのところに来てから墓へ行く。称壱が自決するまで一緒に暮らしていた敵だらけな彼が、心配で仕方なかった。イヅルもイヅルで、百合恵のことは好きだった。


 世間に出てから今までの間、最も関係が良好なのも百合恵だ。共通の趣味を持つ大記も、自分を受け入れてくれる恭二も和樹も煉も涼平も好きだし落ち着くが、彼女ほどに気の置けない、絶対の安心感のある子には会ったことがない。全力で世話を焼こうとするところにはかなり途惑ったが、今はそこも含めて全部好きだ。


 向き合って談笑するイヅルと百合恵を、あの恭二が見逃すはずがない。目と口をぽかんと開いたまま興味津々と言った感じで凝視しながら、彼らににじり寄って行こうとする。百合恵も既に彼の奇行に馴れているのか、特に怖がりも驚きもせずに苦笑している。これ以上近づくなとイヅルに押し返される恭二に流石に呆れたのか、和樹は彼の首根っこを鷲掴みにして連れ去ろうとしてくれた。



「바보 、 개방해존하 ! 이런 희소인 장면 、 두 번 다시 보여지지 않는다 !(ばかっ、離せ静和! こんな希少な場面、二度と見れん!)」


「極東本土では極東語を使うんだな、深田少尉」



 必死になるあまり、母国語を出してまで抵抗して留まろうとする恭二の姿は、誰がどう見ても異様だった。誰がそれを目撃しても距離を置かれず、こうして茶化されるだけで留まるのが、きっと彼自身の人徳だろう。こちらはこちらで何だか面白そうだが、これから行かなければならない場所がある。



「じゃあ行こうか、百合恵」


「うん、そうね」



 百合恵の持っていた桶や花を奪い取るようにして持つと、イヅルは和樹に会釈し、歩きだした。「チクショウ!」なんていう恭二の悲痛な叫びは、聞かなかったことにした。




            ※




 百合恵は、本当にあの「鬼教官」の妹かと疑う程、優しくておっとりしていた。称壱も優しいといえば優しかったが、どうにも種類が違うようだ。称壱は冷たさの中に垣間見える乱暴な優しさを持っていたが、彼女のものは暖かさの中にある。それはすごく心地いいし、何より百合恵には毛唐への差別が全くない。それがイヅルにとって何より嬉しく、安心できた。


 このように、イヅル自身は彼女に頼りきりで申し訳ないと思っている。けれど僅かだが、彼女の支えになれたことも一度はあると自負している。それは亡くなる前の称壱が、親友だった兼吉の雰囲気に似たものを矢鱈に拾ってくることについてだ。


 自分自身がその第一号のようで、次いで銀など、その他にも拾ってきたものの数々が東坂邸に点在しているらしかった。一度は精神病棟から解放されたものの、未だに精神的な異常がありそうな素振りを見せることが気がかりで、百合恵は狂い始めた兄の身を案じて悩んでいた。


 イヅルは因縁前の称壱を知らないし、精神病への対処法も知らないので実際は何の役にも立たなかったが、話を聞くだけで十分だったそうだ。身内に精神病患者がいるということを口に出してはいけなかったから、こうして相談することも容易ではなかったのだ。



「ねえ、イヅル」



 顔は墓の方へ向けたままなので、表情は良く分からない。けれど、かつて良く見ていた心配そうな目をしているのだろう。声で何となくそうなのだろうと思ったと同時に、「今日も来たか」とイヅルは身構えた。ノンストップで問い詰めてくる百合恵には気圧されるが、それはそれで結構嬉しくて、満更でもなく思っている。


 彼女には、ここに滞在し続けると言ったときには大いに反対された。そんな敵だらけな環境に置いておけるものですかと涙ながらに訴えられたが、異色で世間知らずな自分と二人きりにさせておくのは、酷な気がしてならなかった。


 別に自分自身が侮辱されたり悪口を言われたりするのは構わないが、それで百合恵が責められるのは嫌だった。それに――彼女と二人だけで生活するというのはなんだか抵抗があった。決して、百合恵を嫌っているわけではないのだけれど、とにかく。



「別に、平気だよ。先輩たちの中には良い人もいるし。ちょっと変だけど……大丈夫だよ本当に。お前は本当に心配性……」



 まだ言い終わらないうちに、背中に強い衝撃と重みを感じ、前につんのめった。ぎりぎりで踏み留まり墓石に顔面を強打するという事態は免れたが、この体勢は腹筋にも背筋にもかなりの負荷がかかって辛い。その背中の重みは銀だと解っている。彼は自分と同じくらいの身長だし、頻繁によじ登られているから重さだってよく知っている。



「おい銀、お前……」


「ねえイヅル君、その子……誰?」



 背中の銀をどかそうとしている最中に聞いた、聞き覚えのある声にぐっと胃のあたりが締め付けられるのを感じた。やはりこいつは苦手だと思いながら、背中に張り付いた銀をそのままにイヅルは声の聞こえた左方を見る。


 決して見たくなどなかったが、百合恵に迷惑がかかるので延々このままにしておくわけにも行かない。乗らない気分のまま伏せた目を持ちあげると、怒り顔の吾妻榛名が立っていた。



「ねえちょっと……説明してよ、私にもしっかり解るように説明して! その娘、イヅル君のなんなのよ!」



 浮気なんて許さないんだから! と叫びながら、榛名は銀の体重を全身に受け止めているイヅルの首に、腕を絡めて力一杯抱きついた。前方に榛名、後方に銀と完全に挟みこまれ、肺と気道の両方を圧迫されて呼吸が辛い。


 浅く短い息、呻き声も混じっているにもかかわらず、両者とも動く気配がない。榛名がもろに女口調なのも気になったが、いや待て、浮気ってなんだ浮気って。別に俺とお前は、同僚以外の何者でもないだろうが……。


 イヅルの思いは、誰にも届かない。銀はこんな時に限ってべたべたと甘えてくるし、榛名も榛名で大好きなイヅルに密着できて御満悦な様子だ。怒っているくせに何を幸せそうな顔をしているんだと腹立たしかったが、噛み付いて指摘できる程の気力はない。


――まずい、これは非常にまずい。このままでは本当に死んでしまう。こんな死に方は嫌だ、自由時間にじゃれあって窒息死なんて記録を残されてしまったら、死んでも死にきれない。



「やべえ、何だこれ面白すぎる! なあ、これ本当に止めなきゃ駄……痛って!」


「当たり前だろう、このままだと岐山が死ぬぞ。全く、本当にお前は……」



 意識が朦朧として僅かに視界が霞んできた頃、この状況を面白がる恭二の憎たらしい声と、それを諌める和樹の声がどこからか聞こえてきた。ゴツ、とくぐもった音がしたあたり、和樹が恭二を殴ったのだろう。



「……和樹さん、本当は助けてくれる気、ないでしょ」


「そうだな……この状態を動かすのは何だか惜しい気もしている」



 足音が近づいても一向に楽にならず、一層腹立たしさを助長させる恭二の馬鹿笑いが聞こえるだけだ。これはどういうことかと目だけを動かして見ると、案の定腹を抱えて蹲っている恭二と、顎に手を当ててこちらを凝視している和樹がいた。


 俺は、百合恵に嘘をついた。ここには本当に、敵しかないのかもしれない。




            ※




 放置されること約十分。非常に息苦しい思いをしているが、それなりに意識と体力は維持されている。体力は確実に奪われているが、否応なしに肺活量が強化されつつあることを実感しているところだ。いやでも順応し始めている体に、俺は一生このままでいなければならないのだろうかとイヅルは一人思った。


 二人を呼んできてくれたのは百合恵だった。この非常事態をいち早く打破しようと取った行動なのだろうが、状況は一切変わっていない処か悪化してしまった。煉を呼んできてくれればきっと早く楽になれたのだろうが、彼は徹底的に榛名を警戒しているし、険悪な雰囲気になることに違いはなかった。


 銀はごろごろと猫のように喉を鳴らしながら背の上で寛いでいる。これはこれで可愛いと思うし、やはり大事な弟分だ。彼のことは許そうと思う。問題はこの、人の肩に顔を埋めて至福の時間を過ごしている、いまいち男だか女だか解らない上等兵曹だ。


 彼――いや彼女の力が緩まることは全くなく、更にはイヅルの傍に立つ百合恵

を、先程から睨んで牽制している。こっちには逸早く退いて頂きたいと思っている。許さん。



「和樹さん……吾妻……引っぺがしてもらえませ」


「吾妻は無理だな」


「……そうですか」



本当に無理なのかもっと楽しみたいのかは分からないが、和樹は一切悩むことなく断った。悩む素振りくらい見せろこの野郎、とイヅルは心中で悪態をついたが、正直そこまで文句を言えるほどの体力はない。



「イヅル大丈……っ!」



 百合恵は顔面蒼白なイヅルが心配になり声を掛けたが、榛名に物凄い剣幕で睨まれ怯み、言い終えることは出来なかった。いつもなら怯えたまま目を伏せる百合恵だが、今日は違った。この吾妻榛名という――多分女? なこの人はきっと、イヅルに恋慕しているのだろう。そして誰にも負けないつもりらしいが、それはこちらも同じだ。


 百合恵は兄に似ず大人しい性分で、男の恰好をしてまで彼に近づいた榛名のように積極的にアプローチできたことはない。だからと言って、ぱっと出の女なんかに負ける訳にはいかない。百合恵はいつになく強気な表情で榛名を睨み返した。


 女二人の間に、火花が散る。しかし渦中のイヅルはすぐ近くで自分自身を賭けた女同志による戦争が開戦されたことなど、全く気付いていない。



「じゃあ、銀でもいい。何でもいいから……早く楽になりたい」



 イヅルの目は虚ろだった。思考能力もすっかり低迷しているようで、彼の言葉通り、楽になれるなら死をも選びかねない様子だった。


――さすがにこれは面白がりすぎたか。俺も恭二のことは言えないなと反省し、和樹はイヅルの希望通りに銀を退かしてやろうと動き出した。そうだ、ついでに吾妻も退かしてやろう。無理だと思ったのは本心で、自身の腕力が彼女の執念に勝てるとは到底思えなかった。けれど、負ける確率はゼロではない。どうにかして、俺も戦ってみることにしよう。



「よし、了解した」



 和樹は全く役に立たない幼馴染みを放って、イヅルに歩み寄った。銀を軽々片腕に抱え、もう片方の腕で榛名を後方に軽く押すと、思いのほか簡単に引き剥がすことができた。


 急に体が軽くなった。イヅルは、倒れないようにと重心を傾けていたせいで後ろに二、三歩よろけ、立っているのが辛くなってその場に座り込んだ。久しく存分に空気を肺に取り込もうとしたが、上手く出来ずに咳込んでしまった。ずきずきと、肺が痛む。


 成す術もなく、されるがままに絞められ顔面蒼白となったイヅルを見て、和樹は彼が可哀そうに思えてきた。からかって面白がり、要請を半ば無視して救出しなかったのは自分なのだけれど、これが心の傷として、ざっくりと刻まれてしまわないことを心から祈る。



「そこまで。吾妻、そんなことでお前の大好きな岐山を死なせるつもりか?」


「それは……嫌です」



 聊か不服そうではあったが、仕方がないと渋々従った。彼女自身も、これ以上はいけないと分かっているようで、更にイヅルに迫ることはしなかった。


 榛名と百合恵の間には、依然として男が立ち入ることのできない、何か殺伐とした空気が漂っている。その正体を突き止めようなどと言う愚かは、たとえ恭二であっても犯さない。率先して面白がりそうな恭二だが、これが本気の戦いだと判断し、無暗に介入しようとはしなかった。


 和樹は不意に、イヅルの行く末が心配になってきた。


 今はこうして、彼に対する陰湿な嫌がらせを未然に防いだり、イヅルが処理しきれない度を超えがちな恭二の悪戯を成敗したり、僅かながらに後援できている。しかし、もし自分が逸早く、特攻で散華してしまったならどうなるのだろう。一体彼は、どうして自身を防衛して行くのだろう。


 前足を持ちあげられたまま、バランスがとりづらくよたよたする銀にも構わず、和樹は静止したまま現状の全体を見渡した。今のイヅルの思考回路が、正常に作動しなくて良かったと思う。作動していれば、なぜこのような状況になったのかを熟考し、こちらに問い詰めてくるはずだ。


 榛名の到来が、「百合恵が来た」と面白半分に恭二が密告したことに由来すると知れば、きっとイヅルは激怒し、その気持ちを吐き出すことも整理することもできずに憔悴するだろう。運良く事が過ぎ去ってくれたと和樹は安堵し、荒れたい放題の現場を放置して空を見上げた。


 そうだ、自分の後任は島風煉に任せよう。和樹は後のことを勝手に決め、掴みあげていた銀の肉球をぐにぐに触ってみた。硬くざらざらしていて、触り心地の良さはない。仔犬の時ほど柔らかくないのが残念だ。



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