第5部 愛ゆえの奇行


 やはり嫌なものは嫌だ。イヅルは自身にしつこく付き纏う人物を、冷ややかな目で見た。彼の名は吾妻あづま榛名はるな、神奈川県横須賀出身の十七歳だと、たった今不必要な自己紹介を貰ったばかりだ。


 名前もさる事ながら容姿や声も女のようだったが、身長は平均よりもやや高い。和樹ほどではないが恭二よりもやや高いらしく、自分と目線も近い。極東人には珍しく色素の薄い目と髪をしており、髪は海上航空隊の特権をフルに活用した長髪だった。この春に予科練を卒業したばかりらしく、早々に特攻を熱望したのだそうだ。


 そんな彼と出会ったのは、ほんの数分前のことだ。今こんなにもしつこくからまれているは、「岐山さん」と呼ばれ、うっかり返事をしてしまったからだと思う。最近は整備員、隊員共々なぜか話しかけてくるようになったし、俺も少しは人間に近づいたのかと考えてみるけれど、あまり深く考える余裕はなかった。


 見て呉れだけは威圧感のある銀に威嚇してもらえば、それなりに人を寄せ付けないでいられる。しかし彼も、いつになくぐいぐい押してくる相手の態度に恐れをなしたか、少し離れたところで尻尾をまいて、びくびくしながらこちらを眺めていた。かと思えば、彼が出したちょっかいに乗ってにじり寄り、今では完全に手懐けられて、腹まで見せてじゃれついている。――全く、役立たずな番犬だこと。



「吾妻榛名上等兵曹、今日からここに配属になりました! ねえ、君が岐山イヅルさんだよね? あの有名な設計士のさ」



 そう問いかけてくるだけならまだしも、他愛のない世間話を延々と試みる榛名に眩暈がし、寒気がした。これは新手の嫌がらせなのだろうか。浮世離れしたイヅルにとって、人間との他愛のない世間話ほど苦痛なものはないのだが、彼が話を切り上げる気配は微塵もない。


 とはいえ、こんな素性の知れない相手の話に最後まで付き合える自信も、途中で遮る勇気もない。今のところ彼からは悪意も敵意も感じないけれど、それがかえって厄介なのだ。悪意のない者を無闇に邪険に扱うのは、何か抵抗がある。


 イヅルは、この吾妻榛名は深田恭二に似ていると思った。話に脈絡がなく突拍子もないところとか、機関銃さながらに喋り続けるところとか、どことなく似ている。もし彼と同じ人種だとすればこの話は脱線に脱線を重ねて脱出不可能になるに違いない。ふわっと気が遠くなるのを感じ、ふらついた頭を何とか持ちこたえ、イヅルは小さく溜め息を吐いた。


 榛名は今、必要以上にイヅルに接近している。いつのまにか侵されたパーソナルゾーンに不快感を募らせ、腕と腕が触れ合ったと同時に強烈な寒気がイヅルを襲った。瞬間の出来事だというのに、無性に内臓がごわごわする。蟀谷こめかみがぐっと締め付けられるように痛く、呼吸も苦しくなった。


 あの日、初めて人里に出たときに感じた気を狂わすほどの強大な恐怖。今感じているものは間違いなくあの時と同じものだった。



「ん? どうしたんですか、岐山さん」



 怖い。この無遠慮に自分の領域に侵入するこの男が怖い。俄に震えだしたイヅルの腕を掴む榛名に、あの時のゲルマニア将校の姿が被った。あの、兎を喰い殺そうとする、野犬の姿が。



「わっ、岐山さ……」


「俺に触れるな……!」



 自分でも驚くほど大声で叫び、イヅルは榛名の腕を全力で振り払った。彼は驚き戸惑っていたけれど、そんなことを気にする余裕はない。脳裏に蘇る鮮烈な赤と、微かに漂いはじめた鉄の臭い。それらに気を狂わされそうになったイヅルは何もかもが怖くなり、銀を置いて走って逃げた。




            ※




 連日の作戦により欠員した隊員の補充は、毎日のように行われている。何だかんだで結局は世話好きらしい村上に毎度名簿を貰うのだが、正直頭に入ってこない。どうせ数日後に居なくなってしまうのだということを考えると、どうも覚える気がしないのだ。連なる名前を流して見ていると、その中に惹きつけられる文字列があった。


 苗字も名前も既存の軍艦のものだ。まあ、つまりは山の名前なのだけれど。それはそれとして、やはりイヅルも軍艦が好きなのでどうしても反応してしまう訳だが、その「吾妻榛名」という名前はどこかで聞いた気がする。あれは何だったか……と名前をじっくり見た後に問題はすぐさま解決し、またあの寒気に襲われた。



 吾妻榛名。それはこちらに対して笑顔を絶やさず、何を考えているのか全く分からなかった、あの得体の知れない気味の悪い男の名だ。



「おっ、イヅルのやつ何してんだ」



 窓からイヅルの姿を捉えた恭二は、彼専用の作業部屋に身を乗り出した。イヅルは設計図にしては小さい紙切れを前に頭を抱え込んでいて、普段なかなか見ない光景に、これは珍しいものを見たと恭二は目を輝かせた。


 図面の前で一人、数日間も悩んでいる姿はしょっちゅう見るが、設計以外でこんなに真剣な彼は稀だ。しかし真剣ではないとはいえども、別にちゃらんぽらんな訳ではない。何に対しても執着心が希薄というか、特に興味をそそられることもなければ何かに感動することも、いつからかあまりなくなったと彼から聞いた。


――まあ、あんな生活してりゃあ無理もないか。


 彼の生活ぶりを思い起こすたび、恭二はいつもそう思う。けれどいかんせん彼は一般的な生活がどのようなものかを知らないだろうから、情動が希薄になってしまった原因を理解して頂こうとは思っていない。存在自体を忌まれ、何一つ悪事を働いていなくとも罵倒され、特異的な外見のせいで始終好奇の目に晒され……心休まる時などないだろう。彼が感情という感情を殺した末に心の平和を得ているのなら、好奇心が湧かず無感動なのは致し方ない。


 彼に比べれば恵まれた環境で育ったけれど、彼の気持ちは解ると恭二は思う。俺もそうだ、飛行機に憧れたために航空学に嵌り、それさえ出来れば後は何でもよかった。彼が設計図に惹かれ設計工学にのめり込み、それしか必要としていないのと同じように。



「なーにやってんだイヅル。今更ながらに隊員の名前覚える気になったのか?」



 冷徹だと思われているようだけれど、根は暖かくて素直な少年だと俺は知っている。ただ手先の器用さに相反し、感情表現に関しては不器用なだけだ。そんな彼が堪らなく愛おしくなり、恭二はイヅルを茶化してみた。


 しかし、イヅルからの反応は何もない。勿論彼の声は聞こえているけれど、今そんな余力はない。収容施設から奇跡的に六日程で帰ってきた、今や兄同様の恭二のことは大好きだ。しかしだからといって彼の相手をしている暇はない。


 犬が飼い主にじゃれるように、「構え」と肩や頬をつついてくる恭二を無視して、イヅルは再び頭を抱えた。正直あの時間の記憶は曖昧で、あれは狂気の中で見た幻覚なのだと思っていた。そうであればいいと願っていたけれど、彼は現実に存在しているのだそうだ。


 この先どれほど残っているかもわからない恭二との時間は大切にしなければならないが、この状況では話が別だ。いつもなら攻撃的に反抗して構ってやるところだが、今はそれどころではない。この寒気をどうして治めようか、そして奴が近づいてきたらどう撃退してやろうか。早急にそれを考えなければならない。



「……どうすれば……」


「あ、そういえば」



 様子のおかしいイヅルに構わないことにした恭二は、唐突に話を切り出した。彼と自分に似ているところがあるのなら、きっと今は、考えすぎてどつぼにはまっているだけだ。それならいっそ別の話題を提供してやろうと思ってのことだが、イヅルはその気になれなかった。


 恭二は何か伝えたいことがあるらしいが、できることなら聞きたくない。にやけ面の彼が言うことには、大抵の場合、碌なことがないからだ。



「昨日入ってきた吾妻とかいうやつ。お前のことえらく真剣に探してたけど、知り合いか?」


「そんな訳ないじゃないですか……!」



 反射的に声を荒げたイヅルは、やはり碌なことなどないと思った。知り合いといえば知り合いなのかもしれないが、そんなことはこの俺が何としても認めない。突然声を張ったイヅルに、恭二は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしたが、それは本当に一瞬だった。


 その場の空気は読むものではなく無視するもの。以前彼がそう言っていたことを思いだしたイヅルは、彼に聞こえるようにわざと大きな溜め息をついた。そんなこちらにもお構いなしに、けらけら笑う恭二を睨んだけれど、彼は怯むことなく扉の方を指さした。そこには例の男が、満面の笑みを浮かべて立っている。



「なんかすげえ必死だったから、連れてきた」


「……!」



 イヅルは全身を粟立たせ、冷汗を流し絶句した。恭二の軽はずみとも言えるこの行動は、もう奇行と言っても間違いはないと思う。榛名の姿を捕えた瞬間に顔を強張らせたイヅルの反応は、どうやら恭二にとって予想外だったらしい。恭二は若干の焦り顔で「……あれ?」なんて言って、イヅルと榛名を交互に見ている。作業場を知られてしまっては、ここに通われてしまう可能性がある。「何てことを!」と怒鳴りたかったけれど、思うように声が出ずに断念した。


 恭二を見るのも気まずく、榛名を見るなんて以ての外。目のやり場に困ったイヅルは、仕方なく今にも迫り来そうな吾妻榛名の襟元を見た。間違っても、瞳だけは見てはいけない。人の瞳とは恐ろしいものだ、その双眸を向けられるだけで、何もかもを暴かれた気分になる。


 見詰めていた襟の桜が揺れ、僅かながらにこちらへ近づいた。それはほんの一センチ程の動きだったけれど、イヅルの鳥肌を助長させるには十分だった。自分でも驚くほど速く、補強のため米印にガムテープが張られた窓に手を掛け開け放した。


 どれほどの高さがあるかも確認せず、足の骨折覚悟で窓から飛び降りる。幸いにして一メートル強しかないそこから綺麗に着地し、イヅルは走って逃げようと、後ろは一切振り返らずに地面を強く踏み込んだ。脚力には自信がある。むかし散々、山道を走りまわっていた。


 すぐそこには銀と遊ぶ和樹と、彼に良く懐く整備員の島風煉と初春涼平がいる。銀は窓を開け放った音に驚いたのか、びくりと全身を震わせた後に耳を伏せて尻尾を巻き、無様にも地面に這い蹲って、こちらの様子を覗っていた。全く、なんて臆病な奴なんだろう!



「……ああっ、イヅル君!」


「静和っ! イヅルを……イヅルを捕まえろおっ!」



 背後の声は聞かなかったことにしたかったが……何だか無性に腹が立って、無視することができなかった。初対面にも拘(かかわ)らず馴れ馴れしく名前で呼ぶ榛名もそうだが、それ以上に、この状況を楽しむ恭二が非常に腹立たしい。おかげで踏み込む力が強まり良いスタートダッシュが切れそうだが、生憎と目の前には、こちらを捕まえる気満々の男がいる。



「畜生……どいつもこいつも……!」



 大変済まなさそうに手を合わせる煉と、銀同様に怯え戸惑う仔犬のような涼平を見ながら、イヅルは呆気なく和樹に捕まった。今持ちうる最大限の憎しみを込めて叫んでみたけれど、この気持ちが煉と涼平以外に伝わることはないだろう。


 ムカつくほどにはっきり聞こえてくる歓声と笑い声を聞きながら、イヅルは生涯恭二を怨むことに決めた。尊敬できる先輩ではあるけれど、どうにもこればかりは許せそうにない。




            ※




 腕に擦り寄ろうとする榛名は見ずに、イヅルは独りごとの暴言を吐き続けている。一方の榛名はそれも気にせず、幸せそうにイヅルを見つめていた。悪態をつきつつも攻撃しないのは、彼が榛名を心の底から恐れているからだ。


『近づくな、触るな』と警戒心剥き出しで威圧的に言っていれば、大抵は好感度と引き換えに言うとおりにしてくれた。けれど、どうしたことか彼は違う。どんなに暴言を吐こうが粗悪な態度を取ろうが、敢えてパーソナルゾーンを侵し、接触してくる辺りが何だか無性に恐ろしかった。これは彼なりの嫌がらせなのだろうか? だとしたら……相当に性質が悪い。



「……あの、石田少尉。どうされたんです、そんなに岐山さんを凝視して」



 不機嫌、というよりも怯えて虚勢を張っているイヅルから目を離さない和樹を見て、煉は不思議に思った。怖がる彼を面白がり、敢えて様子を見る姿は何度か目撃したことがあるけれど、こうして何かを考え込むように、探るように見ているのは初めてだった。彼には何か思うことがあるのだろうか。「早急に救出したほうが良いのでは」と思う他には何も浮かばず、見当もつかない。だから煉は、和樹に問うてみたのだった。



「いや……」



 そう言ったきり、和樹は再び黙り込んでしまった。彼からの言葉を待っている間に、煉は気付いてしまった。


 イヅルの手が、微かだが震えている。必死に堪える彼の姿がなんだか哀しくなり、もういっそ、自分の手で吾妻榛名を引き剥がしてやりたかった。しかし……自分がこんなことをして許されるのだろうか。植民地から来た補助員風情が、支配者たる内地の人間に意見するなど許されるのだろうか。こんな気持ちが邪魔して、煉は何もすることができなかった。


 もう一人の頼りである恭二を見れば、彼は震えるイヅルを微笑ましく見つめている。そんな彼らをみると、もう何が何なのか解らなくなる。もどかしくなって、煉は膝の上で拳を堅く握りしめた。



「何というか……見る限りではこいつに執着するあまりにここへ来たように思えるんだが、気のせいか?」


「は……?」



 突然口を開いた和樹にイヅルは暴言を止め、彼を凝視した。『執着』という言葉に、全身の筋肉が強張った。彼は敵意のない素振りをしておいて、こちらが気を抜いた隙をついて攻撃してくるというのか。そういった猜疑心を張り巡らせるイヅルの隣には、呆然と口を半開かせた榛名がいる。彼は否定も肯定もせず、それがかえって、イヅルの猜疑を助長させていた。



「……そうですね。僕は彼に会いたくて仕方なかった」



 急速に全身の力が抜け、静かに肯定した榛名の声がどんどん遠ざかっていくのを聞いた。そればかりか暗くなっていく視界をどうにもできず、全身に降りかかる重力にも逆らえず、イヅルは大人しく意識を手放した。




            ※




「お前……なんてことを!」



 意識を失い、床に崩れ落ちたイヅルを見た直後、煉は榛名に向って怒鳴っていた。口元を抑えてうろたえている様子から、榛名もこうなるとは思っていなかったのだろう。誰だってそうだ、会話の最中に人が失神するだなんて、「普通は」思わないだろう。


 けれどその普通が通用しないのが、岐山イヅルなのだ。下らない好奇で彼を傷つけようというのなら……この島風煉が許しはしない。煉は左右で色が違う切れ長の目で、榛名を鋭く睨んだ。


 同郷の恭二や和樹にも憧れていたが、それ以上にイヅルは彼の憧れだった。持って生まれた全ての色が西洋人寄りだというただそれだけの理由で、あんなにも蔑まれている。それでも強く生きている彼は本当にすごいと思う。煉自身も空色と淡褐色なんていうアジア人離れしたオッドアイに産まれたばかりに、散々嫌な思いをしてきた。


 西洋との混血ではなく、先天性の遺伝子欠陥だということがせめてもの救いだった。もし自分にも西洋の血が流れていたとすれば……考えただけでぞっとする。遺伝子異常のせいで「欠陥品」と苛められることもあったけれど、それは良品を超える能力をつけて見返してやればいい。けれど流れる西洋の血による差別ばかりはどうしようもない。


 彼のように自我を保てる自信はないので、さっさと自ら命を断つか、目が合うもの全てを斬りつけていたのではないだろうか。元来気性の荒い性格なので、恐らく後者が有力だろう。



「落ち着け、島風。吾妻はなにも、岐山を傷つけてやろうなんて考えていなかっただろう」



 今にも殴り掛かりそうな煉をどうにか抑えつけながら、和樹は極力優しい声色で言った。今の彼に諌めるような口調で言った所で、怒りの感情が抑えられるとは到底思えない。真面目で気の良い奴なのだが、如何せん反骨精神旺盛で血の気が多い。


 榛名に悪意がないのは、誰が見てもよく解る。けれどそれが解らないのが、岐山イヅルと島風煉だ。目の色だけで散々痛めつけられ、人一倍警戒心が強くなったらしく、人の好意は裏がないかを入念に確認してからでないと受け取れないらしい。すんなり受け取る姿を、今まで一度も見たことがない。



「恭二、悪いが後は頼む。俺はこいつを兵舎に連れて行く」


「ん、りょーうかいっ」



 緩く微笑みながら親指を立ててきた恭二に苦笑しながら、この状況に呆然とするばかりの榛名を連れて、和樹は部屋を出た。少し心許ないが、この男はこんな時案外頼りになるし大丈夫だろう。





 榛名の姿が消えた後、煉は扉に向かって再び牙を剥いた。そんな様子を見た恭二は苦笑しながら、煉の肩を軽く叩いた。



「別にみんな、お前たちのことが憎い訳でも嫌いな訳でもないと思うんだ。ただあんまり見ない珍しい色だから、ついついまじまじと見ちゃうんだよな……」



 耳を伏せ、今にも泣きそうな銀に顔をべろべろ舐められているイヅルを抱き起こしながら恭二は言う。事実、不躾だと解っていても恭二もまじまじと見てしまうことがある。無理に主人と引き剥がされ、きゅう、と鳴きながら恭二の体に登ろうとする銀の頭をぐりぐり撫でながら、自分の行動を振り返ってみた。


 そう言えばよく、その目を見ている。特に、外で見るのが好きだ。透き通っていてきらきらしてて、子供の頃に図鑑で見た宝石のようだ。本人たちには申し訳ないが、好奇心は確りとある。けれどその目を見てしまう一番の理由は、やはり単純に綺麗だからだった。


 本人たちは快く思っていないようだけど、こればかりは仕方ない。銀のような赤い目も良いけれど、特に青い目が好きだ。この二人の青は、俺の好きな青。イヅルが海で、煉が空。迷惑をかけているのは重々承知だが、好きなものはずっと見ていたい。そんな俺は、凄く我儘だと思う。



「だってしょうがねえよ。お前らの目って、すげえ綺麗だもん」



 恭二が言うと、煉は怯んで後退った。内心、彼は動揺していた。戸惑い半分、嬉しさ半分でどちらを表にしていいかが解らなかった。目の色に関しては、散々馬鹿にされたり忌まれたりしてきた。そんな悪い記憶しかなく、「綺麗だ」なんて言われた記憶は、家族でさえない。


 他の同年代に比べて達観しており、並大抵のことでは揺さぶられない自信が煉にはあった。しかしこんな突然のことに対処できないとは、俺もまだまだ未熟者だということか。



「やっぱり……すげえな、あの人」



 あの一言で一気に冷静さを取り戻した煉は、小さく深呼吸して呟いた。イヅルの代わりに銀に顔を舐めまわされ、けらけら笑う気の抜けた男を、煉は憧憬の眼差しで見た。彼のように大きく、柔軟な男でありたいものだ。




            ※




 初めに会った時のような勢いと明るさはなく、完全に俯いてしまった榛名を和樹は見た。まさか不用意に近づいただけで失神してしまうなどとは、予想もできなかっただろう。


 しかし彼の対人恐怖は相当なものなのだと思われる。彼は気づいていないのかもしれないが、八つ当たりの最中もよく、おびえた羊のように震えている。和樹は、イヅルが東坂大尉と共にこの地へ異動してきた時のことを思い出した。



 彗星の如く現れた天才設計士がこの基地に来るというだけでも大騒ぎなのに、それが僅か十四歳の少年で、しかも開戦前から仮想敵国として険悪だったカメリアの血が流れているとなれば、隊員たちが雑談の話題にしない筈がなかった。


 一度も会ったことがないだろうに、売国奴だ憎い敵だなどと言いたい放題で、それは見ていて気持ちの良いものではなかった。彼が現れたかと思えば一斉に視線を向ける姿は何だか下卑ていて、その視線を一身に受けなければならない彼を思うと、申し訳なさが募るのだった。



『うわすっげぇ……なあなあ、見ろよ静和。あいつの目、凄い綺麗だぞ』


『おい日順、その態度は失礼だぞ。お前自身、そんな目で見られんのは嫌だろ』


『どうしよう、お近づきになりたい。俺、ちょっと挨拶してくる!』


『お前、俺の話聞いてないだろ……』



 こうしてイヅルに一目惚れした恭二はいつものように暴走し、称壱の後ろをついて歩くイヅルに突撃した。彼があまりに瞳を輝かせているものだから捩じ伏せる訳にもいかず、早足で進む恭二を黙って追いかけるしかない。


――頼むから、妙な真似はしないでくれよ。和樹は内心はらはらしつつ、目の先まで差し迫った称壱に、恭二共々敬礼した。



『菊水雪花隊、深田恭二少尉であります』


『同じく菊水雪花隊、石田和樹少尉であります。東坂大尉、遥々遠い所からご苦労様です』


『ああ。……貴様らの話は良く聞いている。良く、後輩共を育ててくれているそうじゃないか』



 二人は、顔を見合わせて喜んだ。鬼教官だと人柄の評判は悪かったが、教育者としての評価は高い称壱に褒められるなど滅多にない。「戦後は教育者になってはどうか」という勧めを曖昧に流し、恭二は早速ターゲットに視線を向けた。その目は、未だに強く輝いている。



『貴方が岐山さんですか!』



 名前を呼ばれてびくりと震える様は、まさによそ行きの子猫だった。堪らず撫でまわしてやりたい気分になったが、初対面でそれはさすがに不味いだろうと我慢する。もうこのときから、恭二はイヅルが可愛くて堪らなかった。



『自分は菊水雪花隊の深田恭二であり……あれ?』



 にやけて歪んでしまいそうになる口元に力を入れつつ、恭二は更に近づいて挨拶しようとした。しかし一歩前に踏み込んだところで、目線とほぼ同じ高さにあった二つの青が不意になくなった。一体どこに消えたんだと辺りを見回してもどこにもいない。にゃんこが、にゃんこが消えた! なんて和樹に向って叫ぶ恭二を見て、称壱は口元を抑えたかと思うとその場に蹲ったのだった。


 その異様な全光景を目の当たりにした和樹は絶句し、ただ立ち竦むことしかできなかった。きょろきょろと落ち着きなく周囲を見回す幼馴染みと、腹を抱えて大爆笑する大先輩。そして腰を抜かしたのか地べたに座り込む子猫ちゃん、もとい話題の設計士殿。いったいどれから手をつければ良いのだと本気で悩む。


 眉間に皺をよせ腕を組んで悩んでいたが、そのとき不意に、軍服の裾を掴まれた。その正体は、少し落ち着いたのか息を整えながら目元に浮かんだ涙を拭っている称壱だった。



『石田……すまないが、あいつに手を貸してやってくれないか』



 名前は岐山イヅル、お前たちよりも階級は上だが何も問題はない。近所の餓鬼にでも接するようにしてくれればいいと称壱は言う。鬼教官という通り名が偽りではないかと思う程の好青年な彼の命令に黙って従い、和樹は恭二のすぐ足元にいるイヅルに歩み寄った。まだこちらには気づいていないようで、口を開けたまま、ただ慌てるだけの恭二を見上げていた。




「おい、大丈夫か?」



 俯いて歩いていたせいで壁にぶつかりそうになった榛名の細い腕をひいて、和樹は問うた。彼の様子は落ち込んでいる、というよりも何やら考え込んでいるといった方が妥当だ。一体どうした、と重ねて尋ねてみるが、榛名は左右に軽く首を振り、自身を誡めるかのような笑みを浮かべるばかりだった。



「失礼いたしました、石田少尉。大したことはありませんので、お気遣いなく」



 声変わりがなかったかと疑う程、高く少年のような――女性のようでもある透き通った声で榛名は言う。


 こいつ、気丈なふりをしているな。


 和樹は瞬時に、そう判断した。長い間ここにいると、嫌でもそういうことが解るようになる。死など恐れず、敬愛する主のためなら命も惜しくない。そうして気丈な立ち振る舞いをする連中を散々に見てきたせいだろう。


 しかしこの、彼女ともとれる彼の引き攣った微笑みを見ていると、何より大切な敬見の事を思い出す。微笑ましいような、哀しいような……なんとも複雑な気分に苛まれ、和樹は頭一つ分も低い榛名を見下ろした。



「まあ、あまり気にするな。あいつは少し特殊でね。親しくない人間に不用意に近づかれると、どうも失神してしまうらしい。理由は……まあ、察してやれ」



 その言葉の途中にも、榛名の顔は見る見るうちに明るさを取り戻した。胸の前で手を組み合わせ、歓喜に満ちた笑顔で和樹を見上げ「はい、有難うございます石田少尉!」と気持ちワントーン高い声で返事をし、そのまま踵を返したのだった。


 和樹は、目を見開き驚いたまま、榛名の背中を見送っている。今、目の前にあったのは航空隊員などではない。一瞬目を疑ったが、あれは間違いなく乙女だった。この世にはどうしても、女のような外見に産まれてしまった男もいる。体は男でも、心ばかりは女だという奴もいる。和樹はその両方を間近で見たことがあるが、榛名はそのどちらにも該当しない。



「まさか……あいつは……」



 初めて見たときから猜疑の気持ちはあったけれどここは軍隊、服を脱ぐ機会などいくらでもある。もしそうなら、健康診断の段階で強制送還させられていたはずだ。猜疑は迷妄へと移ろい、迷妄は確信になる前に葬った。


 地獄の底から舞い戻りたがる確信により、妙な胸騒ぎに見舞われたが……まずは訓練が先だと自身に言い聞かせ、和樹は愛機の眠る格納庫へと足を向けた。




            ※




 榛名の心は、完璧に舞い上がっていた。こんな所を先輩に目撃されれば、「娑婆っ気が抜けていない」と制裁を喰わされるぞと自身に叱咤したが、なかなかに効果がなかった。彼が失神した時は驚いたが、同時に哀しかった。はじめから避けられている感じはあったけれど、あれは完全に拒絶された瞬間だった。もし本当に拒絶されたとしたら、きっと落ち込んで立ち直れない。なにより命を張ってまでここに来た意味がなくなってしまう。



「大丈夫かな、イヅル君」



 とはいえ、失神してしまった彼は心配だ。「察してやれ」といった時の和樹の顔もどこか悲しそうだった。彼は長年敵だといわれてきたカメリアの血が流れていると聞く。ただそれだけのことで、多大な苦しみを背背負わされてきたのだろうか? 身近に混血児がいなかったし、自身も純正の極東人だし、きっとその苦しみを理解することはできないだろう。


 もっと早くから彼の傍にいられたなら、こんなに苦しい思いをさせなかったのに。私が付いてるから大丈夫だよって、言ってあげられたのに。榛名はガムテープの米印越しに、外に広がる青を見た。


 榛名が特攻隊に志願し、鹿屋まで来た理由は岐山イヅルだ。敵国の血への憎しみや侮蔑などの意味ではなく、ただ岐山イヅルという一人の男に恋焦がれてここまで来た。もしかしたら向こうは覚えていないかもしれないけど、こちらの心は去年の春に彼に撃ち落とされている。



「ちゃんと届いてくれるかなあ……私の気持ち」



 楽しそうに呟きながら、弾んだ胸もそのままに、榛名は滑走路に向かって早足で進んだ。可憐な笑顔を浮かべ、すれ違う隊員たちに挨拶してゆく恋する乙女――吾妻榛名は、イヅルを思いながら空へと行くのだった。




            ※




 眩しい光に目を攻撃され、イヅルはずるずると闇の中から引きずり出されていく。視界いっぱいに広がっているのは、心配そうにこちらを見る銀の赤い瞳だ。これは近すぎるといつも指摘しているのだけれど、目の弱い彼にはこれくらいの距離でないと落ち着けないらしかった。



「イヅル!」



 死んじゃったかと思った! なんて涙目で言いながら、銀はべろべろと顔を舐めてくる。いつのまにか寝台に寝かされている自身の状態から、どうやら暫く意識がなかったらしいと予測する。あれからどれだけの時間が経ったかは解らなかった。



「よかったねえ、銀ちゃん」


「だけど人間って、そんな簡単には死なないと思うけどねっ」


 

 銀ではない声がして、イヅルは窓際を見た。そこには三匹の猫が屯しており、窓枠から身を乗り出し、にやにや笑いながらこちらを見ていた。茶と金の混じった毛並みの女は更紗さらさといい、黒髪が綺麗な色白の女は藍染あいぞめ、そして彼女の頭の上には、きぬという銀のように真っ白い子供が乗っている。


 この名前は全て、イヅルが付けた。野良のせいか彼女らには名前がなく、つけてくれと頼まれたのでつけてやった。案の定「安直だ」とからかわれたが、気に入ってくれているのか、その名前を手放そうとしなかった。



「ああ、また来たんだ。いらっしゃい」



 この子らは、雀の群れと並んで良くここに来る。一度こっそり食べ物を別け与えたのがまずかったのか、この三匹は完全に居付いてしまった。この人懐っこい彼女らには愛嬌があり憎めず、追い払うこともできずにこうして馴れあっている。



「ねえねえ、聞いて? 銀ちゃんったらイヅルの周りをぐるぐる回って、落ち着きなかったんだよ」


「そうそう、鬱陶しかったよねえ」


「ちょっ……何言ってるんだよ、ばか!」


「あはは、銀ちゃん可愛い」



 安易に想像できるその現場を想像し、イヅルは微笑んだ。体の小さな彼女らにいじり倒される大柄の銀はやはりまだまだ子供なのだと、こんな時に一層感じる。これも年の功か、とイヅルは思ったけれど、怒られそうなので言わないでおく。


 こんな「日常的」らしい一時が、イヅルは好きだった。こうして動物たちと話していると、今が戦争中だということも忘れられる。なにより彼らは、色がどうだ血筋がどうだとかでこちらを邪険に扱わないから、気持ちが楽だ。



「ほら、お前たちはそろそろ戻らないと。怖い人間たちに追い回されるぞ。特に藍染は絹を連れてるんだから、見つからないうちに帰れ」


「えぇー、つまんない」


「イヅル、もう私たちのことも飼ってよ。銀ちゃんよりも役に立つ自信あるよ!」



 そうやって銀をからかうのが彼女らの日課で、銀も銀で飽きもせず反撃しに行く。この姿を見るのは、微笑ましくて実に良い。しかし世の中は甘くなく、ずっとこのままな訳にもいかない。廊下に響き始めた足音を聞くたびに、びくりと震えてしまう自身が、イヅルは堪らなく嫌いだった。



「おいイヅル、起きてるか?」


「ひゃっ、人間が来た!」


「じゃあね、イヅル。また遊んでね」



 人間の気配を素早く感じ取り、機敏に逃げ帰った彼女らを見送る暇もなく、開かれた扉の先を見た。そこにはいつも通りの和樹と恭二と煉、それに加えて榛名がいる。煉は隣にいる榛名を絶えず睨んでおり、何だか獲物を管理する狩猟犬のようだった。睨まれている榛名といえば、特に煉を気にする様子もなく、熱っぽい視線をイヅルに向けていた。


 視界に榛名を取り入れた瞬間、イヅルは再び気管をぎゅっと締められるのを感じた。やはり彼は苦手だ。そう思いながら、再度失神するという失態を避けるべく、素早く榛名を視界から外した。



「大丈夫か? ……って聞きたかったけど、なんか駄目みたいだな」



 斜め下を向き俯いたまま何も言わない、正確には何も言えないイヅルを見た恭二は言った。一見不貞腐れているように見えるイヅルだが、彼は別に不貞腐れているわけではない。


 長過ぎた孤独な暮らしが祟ったのか、こんなときにどうすればいいかが全く分からないのだろう。嫌なものを嫌と言えれば良いのだけれど、根が優しい上にあの一件が深いトラウマとなり、強く人に意見できないのが岐山イヅルだ。


――さすがにやり過ぎてしまったようだ。


 恭二は自分の軽率な行動を深く反省し、後悔した。イヅルはいつも表情が平坦だけど、自分たちに対しては感情剥き出しで挑んでくることが多々ある。それこそが彼が心を開いている証拠であることを知っているから、恭二は率先して誂うようにしている。長年閉ざしたままでは感覚も鈍ってしまうだろうから、こうして解してやっているのだ。今回も例外ではない。好意を持ってイヅルを探し求める人物がいるという特殊な状況をみすみす逃す訳にもいかないと判断し、恭二は榛名を彼の元へと導いたのだった。


 平穏無事に生きるため、数年前に感情という感情を殺してしまったイヅルの中にも、まだ少なからずしぶとく生き残っている奴もいるはずだ。死んだ奴らを再生し、奥底に引き籠ったそいつを引き摺り出すには好条件だと思ったのだが……どうやら逆効果だったらしい。気絶後の気だるそうな表情と、微かに震える腕を見ると罪悪感が残る。



「やっぱり君は覚えてないのかな? あの時のこと、今でも忘れられないのに……」



 あまり不用意に近づいてはいけない。榛名は和樹に忠告されていたけれど、再びイヅルに会えたことへの喜びでそのことを忘れていた。一歩、二歩と近づいては、一歩、二歩と遠ざかる。イヅルの肩が震えているのを見かね、煉は二人の間に割って入った。イヅルを庇うように立った切れ長のオッドアイが、鳶色のぱっちりした目を睨む。


 その心を知ってか知らでか、榛名は一人、乙女チックに悲しみに暮れている。口調も物腰も柔らかく、更に花の香りが漂いそうな乙女な雰囲気をまとえば、彼は完全に女だ。女が航空服を着ているのは、何だか違和感がある。そこに性的な何かが燃え上がる男もいるようだが、生憎こちらにそんな趣味はない。


――何だろう、なんだか苛々してきた。


 我慢の限界を超えたイヅルは、彼の行動に嫌気が差しはじめていた。潤んだ視線が突き刺さるのを感じたが、それに応えてやるつもりなど毛頭ない。それでも、榛名の乙女度は上昇していく。


 榛名の乙女度が頂点に達したとき、イヅルの中で何かが吹っ切れた。所詮はこの子も恭二と同じ、空気も人の話も無視するものだと考えているのだろう。人の話を聞く気配もなく、自分勝手に突っ走っている。覚えているいない以前の問題で、そもそも俺は、吾妻榛名という男など全く知らない。



「去年の四月二十八日、神奈川の横須賀港で……」



 誰に催促されるでもなく、榛名は語り始めた。イヅルは榛名に対する恐怖など既になく、若干の嫌悪を込めた目で、榛名の襟元を見る。妙に事細かく状況を伝えつる彼の声を聞きながら、イヅルは少し、情景を想像してみた。




            ※




 去年の四月二十八日のことを、榛名は良く覚えている。新聞記者だった父に連れられ、横須賀の造船所に行った日だ。この日は例の天才設計士が手掛けた駆逐艦《淡雪》が完成した日で、暇だからと、その取材へ行く父に付いて行った。榛名が戦艦好きになったのはその頃だ。以前は戦艦の魅力がわからず、ただ「国を守る海の要」という認識しかなかった。しかし実物の迫力は圧巻で、これまでに見てきた何とも違う面白さがある。


 しかし取材中は、なかなかに退屈だった。父は仕事中で、話を聞いたりひたすら写真を撮ったりしているので邪魔をするわけにもいかない。更には厳しい軍事機密のせいで構内を無暗にうろつく訳にもいかず、一人で帰るわけにもいかなかった。もっとたくさんの船があれば長い時間楽しめたのだろうけど、ここには《淡雪》一隻しかない。ついてきた自分も悪いのだけれど、二時間もの時間を持て余すというのは、生殺しにも近い仕打ちだった。



『ああ、貴方が例の! いやぁ、なかなかにお若い……』



 ひたすら海を眺めて暇を潰していると、ワントーン程上がった父の上機嫌な声がした。何事かと思い振り返ってみると、異色の少年が父の前にいる。その少年の隣には、長身の優男の姿があった。



『なるほど、これで《淡雪》完成ですか。やはり実物は良い、図面よりもずっと迫力がある』


『……当たり前でしょう、あれはただの紙だ、迫力なんて』



 この会話から、この異形な彼が例の天才設計士、岐山イヅルなのだろうと判断した。前もって聞いていた話から想像していた彼の人物像はもっと年上だったけれど、まさか自分と同じくらいだったとは。


 それにしても、随分と大人びた子だ。初めて混血児を見たけれど、外国の子らはみんな早熟なのだろうか。人が「毛唐の子」と悪意を込めて呼び、父が全面的に庇う彼らは一体どういうものかを知りたいという好奇心は、不躾にもある。しかし実際見てみればなんてことはない。無下にできるところなどないと思うし、どれどころか美しい。肌も白くて顔も均整、目は海のように深く青く、綺麗だと思う。彼の髪がもう少し黒く瞳も黒ければ、きっとその容姿は女に持て囃されただろう。



 話し込む大人たちは気にせずに、彼は気ままにふらりと歩きだした。そして、ひたすら《淡雪》を眺めているだけのこちらへ近づいてくる。彼は不意に顔を上げると、初めてこちらに気付いたかのように驚いていた。その驚き顔のまま会釈してきたので、榛名は返礼してやったのだった。



『これが……《淡雪》……』



 じっと《淡雪》を見つめていたイヅルは、ぽつりと呟いた。無愛想な彼にしては随分と熱っぽい口調だったので、榛名は思わず彼を見た。するとどうだろう。イヅルは至極嬉しそうな微笑みを浮かべ、優しい目を向けたまま船体を撫でつけていた。


――ああ、なんて素敵な笑顔をする人なんだろう! 気付けば榛名は、彼の笑顔に魅入っていた。胸がぎゅっと締め付けられる感じがして暖かい。きっとこれが、世に言う恋なのだろう。




            ※




 榛名の話は、およそ三十分に渡った。まだまだ続きそうだったが、ここにはさほど自由時間はないので和樹が強制的に終わらせた。話の内容が未だに見えないというのが、イヅルの心境だ。


 確かにその日は、惜しくも海戦にて沈没してしまった今は亡き《淡雪》を見に行ったが、この男とは会っていなはずだ。軍人以外でそこにいたのは城側しろぎわという新聞記者と、自分と同年代らしい彼の娘だけだった。



「いや、俺はやはりお前など知らん。確かにその日は、横須賀港にいた。だがお前らしいのはいなかったぞ」



 若干馬鹿にしたような表情で、イヅルは榛名を見た。堅く冷たい無表情ではなく、感情を剥き出しにした顔で、人の揚げ足を取って楽しんでいるようだった。その状況に勝ち誇った顔をしたのは恭二だ。――ああ、やはり俺の読みは違っていなかった。口元がにやけるのも隠さず、満面の笑みでイヅルを見た。



「やだ、まだ解らないの? 私だって去年から同じ姿してる訳ないじゃない。あのとき、娘を連れた城側って記者がいたでしょ? その娘が、私なんだってば」



 榛名以外の全員、特に煉が愕然とした顔で彼を見ている。一瞬、彼は女になりたい男なのかと思ったが、どうやら違うらしい。口調も声も、そこらの女学生のものに良く似ていた。流暢な女口調、記者の娘。男しかいないはずの海上航空隊基地に、正真正銘の女が一人、紛れ込んでいると自白された瞬間だった。



「もう、本当に鈍いんだから!」


「……なんか頭痛くなってきた」


「どうすんだよ、知っちまったからには、やっぱ何かしら対処しなきゃなんねえよな?」


「あの、取り敢えず声の音量下げませんか」



 混乱のあまりざわめきだした室内をなだめたのは、最年少の煉だった。彼は大抵冷静でいられるから、こういうときに役に立つ。一人何も言わなかった和樹は、引っかかって仕方なかったことを考え、整理していた。新聞記者の城側といえば、去年の暮れにスパイ容疑で拷問死したと伝えられた思想犯だ。



「今のお前の姓は吾妻だよな。この件は……?」


「ああ、思想犯の娘って何かと不便だから、姓を変えてるんです」



 格好いいでしょ? 吾妻って! とか何かとか言いながら自分で決めた姓を自慢しつつ、榛名はあっさりと、拷問死した思想犯の娘だと肯定した。「取り敢えず口調を男らしくしろ」と指摘する和樹に大人しく従った彼――もとい彼女は黙りこみ、男前な雰囲気を醸し出している。



「どうしますか、岐山さん。向こうが岐山さんを追ってきたとなると、いろんな方面から因縁つけられて責任取らされますよ。うまくかわす方法考えないないと」



 煉らしい捻くれた危険予知だと思ったが、実際にそうなる可能性も高いと和樹は思った。この軍隊には、何かとイヅルを目の敵にしている連中だらけで、いつかはどうにかしてここを追いだしてやろうと考えていた。手っ取り早い方法は特攻作戦に参加させることなのだけれど、正直彼の才能を失うのは惜しいので、そうさせることは上層部が許さなかった。


 騒ぎの渦中にいる榛名といえば、恭二とすっかり打ち解けており、何やら楽しそうに雑談している。全く、気楽なことだ。



「かわす方法を考えるのも確かに大事だが、吾妻の処置方法も考えないとな。女とばれるのは時間の問題だ。性質上、長期でここにいることはあまりないだろうが……一週間もあれば、暴かれるには十分すぎる」



 その理屈は、イヅルには良くわからなかった。大勢の男の中に女が一人いること、若しくは密室に男女二人きりという場面は何かと女性の身に危険が降りかかるというが、如何せん彼にはそれが何を示しているのか分からない。何となくの感覚なら分かるのだが、説明しろと言われれば全くできない。


 しかしだからと言って、身寄りのない彼女を強制送還するという酷な仕打ちをするわけにもいかないし、ましてや早々に出撃しろなどという非情な命令を出せるはずもない。それならまだ、女に戦わせるとは何事かと糾弾される方が幾分か楽な気がする。


 あれこれ考えているうち、イヅルの中にある一つの案が浮かんだ。この秘密を共有している彼らの部屋に吾妻を入れれば良いのだ。男の中に一人の女、という状況は変わらないが、幾らかはましになるだろう。


 あの六人部屋に割り当てられたのは和樹、恭二、煉、そしてここにはいないがもう一人、初春涼平だけだったはずだ。今、榛名は同期たちと同じ八人部屋にいるというから、どうにかして部屋替えしてもらうといい。



「これは俺から言っておきます。職権濫用すれば、これくらい簡単だ」



 イヅルのその提案に、和樹は感心した。彼は、本当に心優しい少年だと思う。常時無表情な外観上そうは見えないけれど、人が困っていれば真剣に考えてくれるし、頼まれたことは必ず遣り通してくれる。彼が混血でなければ――いや、他民族の血をなんの躊躇いもなく蔑むような国に生まれなければ、多くの人に慕われていただろうと、心底思わずにはいられなかった。



「ああ、頼むな。その時には恭二も連れて行け。何かと役に立つだろう」



 和樹はイヅルに伝えながら、白熱する恭二と榛名の会話に割って入り、イヅルの提案をそのまま伝えた。恭二も和樹同様に感心し、榛名は感動までして、涙目になっている。



「そんな、幸せだわ……憧れのイヅル君が、こんなにも私のことを考えてくれているなんて!」



 そう言って手で顔を覆い、完全に俯いてしまった。そんな様子を見た恭二が面白がらない筈もなく、いつも以上に茶化してきたのは言うまでもない。勘違いも甚だしい榛名と鬱陶しい恭二に板挟まれたイヅルは、恐らく自身の容量を超えてしまったのだろう。消沈して頭を抱え、動かなくなってしまった。特に恭二の茶化しはあまりに苛烈で、熱心に彼を尊敬する煉までもが引き気味だった。


 これから、こんな茶化しが毎日のように続くのだろうか。なんだか今までとは全く違う意味で毎日が辛くなりそうだとイヅルは思い、軽くめまいがした。取り敢えず今日のところは、銀や猫たちのことを考えて気を紛らわそう。



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