第4部 誇りとは、


 そわそわして、なんだか落ち着かない。


 嫌がらせの意が込められていたかどうかは知らないが、いつも八つ当たりに来る将校たちも言っていたし、島風しまかぜれん初春はつはる涼平りょうへいも浮かない顔をして報告に来た。この二人は恭二と和樹によく懐いている整備員で、近頃はなぜかイヅルにも懐いているようだった。



『明日の正午、菊水雪花隊に出撃命令を下す』。



 この言葉を、すぐに理解することはできなかった。理解を拒んでいたのかもしれない。このたび出撃命令が出された菊水雪花隊は、恭二と和樹が所属する隊だった。


 いつか必ず、この瞬間が訪れると解っていたはずだった。名前も知らない、ただ顔を合わせるだけのその他大勢と彼らに違いはなく、ここの誰もが皆、必ず死ななければならない必死隊なのだ。


 どれくらいの時間を送っていたかは定かではない。恐らく長い間、あまりの衝撃に頭がサチって真っ白になっていた。それが突如正常に動き出し、その途端に全身虚脱と同じ要領で酷い怠惰感に苛まれた。イヅルは壁にもたれかかって地面に座り込み、信じたくない現実に追い立てられて震える手を握った。――何てことだ、あの二人が、明日には消え去ってしまうというのか。


 何かを喪うことなど、全く平気だったはずだ。死ぬために征く青年たちを送った時も、妹を連れ去られた時も、


 称壱が亡くなった時でさえ、仕方のないことだと、それが当然なのだと、哀しみなど微塵も感じなかったはずだ。


 それなのになぜ今は、こんなにも大きな悲しみを感じている?


 なぜあの二人を喪うことを大いに恐れ、打ちひしがれている俺がいる?


 いくら考えても解らず、これ以上追究することはやめた。漸く震えの止まった手を額の前で組み、今後の事を考え始めた。


 俺も機体の整備担当だ。このまま長距離を飛べないように巧く細工をしてやろうか。どのみち、特攻で征ったところで大した戦果も上げられないのだから、始めから征かなければいい。わざわざ無駄に命を捨てる必要など全くない。早速実行しようと立ちあがったところで、イヅルは前に聞いた「帰還兵士の収容施設」について思い出した。理由はどうあれ、出撃後に戻ってきた兵士たちを軟禁して精神再教育を施すというアレだ。再教育、なんて言ってもつまりは暴力なのだろうけど。暴力はいやだ。植え付けられた痛みと恐怖は、どんなに振り払おうとも付き纏ってくるのだ。


 その付き纏うものから逃れるために出撃を望む彼らも、結局のところ操られた傀儡人形である。そういう解釈しかできない俺には、完全な極東国民になれる日は到底訪れないだろう。過去二年余りの年月、軍国少年を目指して早々に挫折したのも恐らくそのせいだ。もう、そういうことにしておきたい。



「おい、イヅル大丈夫か?」



 恭二の切迫した声が聞こえてきたので何事かと顔を上げると、心配そうな顔をした恭二と和樹がいた。床に座り込んで力なく項垂れていれば誰だって心配するだろうが、ここには率先してイヅルに声をかけるものなど極僅かだ。



「和樹さん……恭二さん……」



 心神耗弱気味のイヅルを見て、恭二も和樹も苦笑した。こちらとの別れを惜しんでくれるのは嬉しいが、まさかこれほどまでに思い詰めているとは予想外だ。彼も今まで散々見送り、幾度となく別れを経験してきただろうに、今更なにを思い詰める必要があるのだろう。彼にだって解っているはずだ、この隊にいることが何を意味し、何をしなければならないかくらい……。


 イヅル自身も、こんな気持ちは初めてなのだろう。困惑の表情で項垂れ、部屋の隅で蹲って震えていた。そうするしかない彼の頭を、恭二は宥めるように撫でる。掛ける言葉を見つけられなかった和樹は、黙って見下ろすしかできなかった。




            ※




 今晩は恒例の送別会だ。こんな日は物資不足も関係なく贅の限りを尽くし、神に成り行く人々を称えている。


 世話係の女学生を含め、はじめは皆、葬式を思わせるくらいに暗かった。しかしこれは仕方のないことだと思う。国のためとはいえ、明日にでも死にに行けと言われたところで、気分が高揚するわけがない。


 そんなどんよりしていた空気も今は晴れ、大いに盛り上がっている。半ば強制的に場を盛り上げたのは、明日に出撃が決まっている深田恭二だ。彼はいつもそうだ。この空気に耐えかねて立ち上がり、率先して手拍子と共に明るく歌い始める。その恭二の気づかいに便乗してきた後輩たちも次々歌いだし、こうして明るい空気は生み出されるのだ。


 この時に限り、出撃する隊員たちは積極的にイヅルに話しかけてくる。常々気になっているらしいが、なにせ彼は、半分があのカメリアの血でできている。恐ろしさと後ろめたさで近づくことすらできなかったが、明日に死ぬとなると話は別らしい。大半が艦や飛行機の話で、この飛行機の性能はどうだ、あの戦艦の機動力はどうだと、目を輝かせて問うてくるのだった。稀に海外の暮らしを聞いてくる者もあるが、イヅルは極東での暮らししか知らないので答えようがなくて困る。


 一方のイヅルも、このときばかりは妙に饒舌だった。艦や飛行機の話は好きだし、なんだか対等になれたようで少し気分が軽くなる。それに相手はどうせ酔っ払いだし、明日にはいなくなってしまうのだし、後のことを恐れて気を遣うこともない。



「え? 岐山お前、学校に行ったことないのか?」


「ええ、まあ……学校なんてものがあると知ったのはつい最近ですし。そこがどういうところかはわかりませんが、別にいかなくても問題無いのでは」


「……そうか?」


「じゃあ、どうして字の読み書きができるんだ? 設計には必要だろう」


「だよな、それに、計算もできなきゃいかんだろう」


「あれはまあ、どうにでもなりますよ。ようは形と音を一致させればいいんだ」


「……お前もお前で、苦労してるんだなあ」



 眉間に微かに皺をよせ、眉を垂らしてこちらを見る目は、あまり心地のいいものではなかった。同情や憐れみなんて嬉しくとも何ともない、寧ろ不快だということは敢えて伏せておこう。折角頂いた好意だ、無下にしてしまうのは心許ない。


――なんか、悪かったな。アメ公の血が流れてるってだけであんな扱いして。


 会話の節々で彼の過去を垣間見た隊員たちは、ほぼ必ずこのように謝罪するのだった。そんな彼らを見るとイヅルは不思議な気持ちになる。何一つ悪いことなどしていない彼らは、なぜ俺に謝罪し、許しを乞うのだろうか。


 それよりも、申し訳なく思うのはこちらの方だ。イヅルは彼らの名前を一切覚えていないので、正直誰が誰だか解らない。けれど殆どが「話せてよかった」と笑顔で言うので、名前くらい覚えておけばよかったといつも思う。しかし思うのはその一時だけで、以降は覚えようという気が湧いてこない。これは自分に人間的な欠陥があるせいだと、イヅルは思い込むことにしている。


 施設内の騒ぎの中心を見てみると、既に出来上がっているのか、上半身裸の恭二とそれに巻き込まれた煉と涼平がいた。そこから少し離れたところに、同期と何やら話し込む和樹がいる。彼は酒に強いらしく、次々盃を傾けても様子は少しも変わらない。



「今日も人気者だねえ、お前!」



 いつもよりテンションが高く、いっそう鬱陶しくなった恭二は渦中から抜け、遠く離れていたイヅルの傍に腰かけた。衣服を剥ぎ取った上半身が汗ばむほどに騒いでいたのだから、彼も相当飲んでいるのだろう。イヅルはそう思ったが、すぐ隣にいる彼からは酒の匂いが一切しない。不思議に思い酒は飲んでいないのかと尋ねると、「飲んでいない。明日に酒を残すと操縦に支障が出る」と真顔で返された。つまり彼は今まで、素面のままで騒いでいたということだ。



「なんか嫌だな。こんなときだけ絡んできて、いつもは知らん顔とか。そんなのだったら、まだあの八つ当たり大尉のほうがましじゃねえか?」



 恭二は相手の都合の良さに不満があるそうだが、顔はしゃっきりせず声だけが凛々しかった。


 たまに、恭二が解らなくなる。


 明るく面倒見は良いが、阿呆のような一面もあり、実際に後輩たちからも変人扱いされているのを頻繁に見る。更に、にやにやしながら精一杯、誠心誠意の嫌がらせをしてくるのもよくあることだ。


 けれどその半面、頭の切れが相当に良い男だと思う。難しい数式だって簡単に解いてみせるし、複雑怪奇な航空学の理論だって、言い淀むことなく誰にでも説明できる。それに、銀に向けて真摯な表情をして何か話していることだって知っている。和寧語だったので何を言っているのかは解らなかったが、とても真剣な内容だったと思う。


 今だってそうだ、馬鹿みたいに騒いでいたかと思えば、明日の操縦のために酒を控えるという生真面目さを見せる。思えば、今まで彼は自分の前で真摯で生真面目な一面を見せたことがない。そう思うと何だか寂しかった。その寂しさを心の片隅にさえ残らないように一掃し、今まで気になっていたことを聞いてみることにした。



「一体、何のために死にに行くんですか。貴方達に、この国に尽くす忠義などないはずだ」



これが失礼な言い方だとは重々承知している。しかし解らなかった。義務も忠義もなく、かといって護るべき家族もここにはない。だとしたらこれは、まさに犬死なのではないだろうか。イヅルはその思いが頭から離れないのだ。


 恭二の淀みない瞳が、イヅルを射抜く。初めて見る表情に怯みかけたが、そこを堪えて彼の目を見つめなおした。


 恭二は今、イヅルの問いの答えを考えている。確かにこの国への忠誠心もないし、戦死することに悠久の大義も感じない。恭二には、特攻で逝くことに理由など必要なかった。けれどそれを、イヅルに言ってしまえばどうなるだろう? かなりの高確率で理解してくれないだろう。理由を欲しがり、それだけで我々が死にゆくことを甘受しようとしているのなら、どうあっても理由を考えてやらねばなるまい。



「そうだな……そうだよな。確かに、何かのためとかそういうのじゃない。少なくとも俺はそうだ。かといって下された命令に粛々と従うわけでもない」



 ただ、穢してしまった民族の誇りを浄化するためだけに逝きたい。どこか遠くを見てそう言った恭二の目は、切なげに伏せられた。




 イヅルへの返答と共に頭に浮かんだのは、まだ故郷の城津にいた頃の記憶だ。この頃の恭二は幼馴染みの和樹と共に労働力搾取の標的となり、学校にも行かずに製鋼所で働いていた。本当は実家の米作りを手伝いたかったが、工場勤務も支配者から強制されていることなので背く訳にもいかない。それでも、たったひとりで農作業をしている母は心配だった。



『飛行機に乗りてえなあ……』



 近郊にある極東軍所有の滑走路から、空を翔ける戦闘機を眺めては思う。三年前の三月に突然「深田恭二」という名を与えられた、パク日順イルスンだった青年は大きく広がる青空を見上げて大きな溜息をついた。


 境界のない空には、大いに憧れる。ここは植民地で、自分は格下の原住民だ。あちら側は同等に扱っていると主張するが、結局は見下しているのだろうと、極東人の憲兵を見るたびに思うのだ。あの物を見るような目が、嫌いだ。


 あの飛行機に乗れたらどこにだって行ける。今の束縛された自由のない生活とだって訣別できる。しかしながら、今の俺には空に上がる術などない。空に上がるには、空を駆ける素敵な流線形をしたあの機体に乗り込むしかなく、そうするには骨の髄まで完全な極東人になりきらねばならなかった。後に敵対するかもしれない異民族に、貴重な飛行機を触らせてくれるはずもなかったのだ。


 前に一度、家族に飛行機乗りになりたいと洩らしたことがあったが、「お前に和寧民族としての誇りはないのか」と酷く叱られたものだ。


 その言葉をそっくりそのまま返してやりたい。そう両親に向けて思ったのは、この時が最初で最後だ。民族の誇りがどうだとかいうのなら、なぜ創氏改名などに応じた。文化と誇りを護ろうという強い心があったのなら、こんな政策には応じなかったはずだ。


 そこまで強くは言えなかったが、やんわりと非難を浴びせると「監視や圧力からは逃れたい。どうか解ってくれ」と、父に頭を下げられた記憶がある。肩を落とし、背を丸めて頭を垂れる父の姿は、何だか凄く惨めだった。


 今はそんな父を見ることはない。父だけではなく、母以外の家族全員が、ごっそり居なくなってしまった。父と兄たちは労働力として極東の炭鉱へと行ったきり。姉は極東に嫁いで行った。妹は現在も行方不明だが、恐らく慰安に持って行かれたか自ら行ったかのどちらかではないかと恭二は予想している。賑やかだったこの家も、真珠湾攻撃を機にすっかり寂しくなってしまった。


 歩を進める毎に、重油臭さが鼻を突く。作業場となる工場に入る前に、まず掲揚された日章旗の前に立ち止まり一礼した。できることならしたくないが、しなければ目の前に立っている憲兵に何をされるか解ったものではない。



『日順、そんなものに頭下げる必要はない』



 背後から颯爽と現れたのは幼馴染みである静和ジョンファ、「石田和樹」と名乗らざるを得なくなった青年だった。追放されたはずの和寧語を容赦なく使用する彼だから、当然、極東政府に目を付けられている。今でこそ物静かで冷静な男になったが、人一倍民族性を大事にしているのか、過激なまでの反感を剥き出しにしていることもあった。



『……まあ、そうだろうけどさ。ちょっとくらい懐柔された素振り見せとかなきゃ、あとが遣りづらいぜ』



 頭を下げる素振りすら見せない静和に、憲兵は睨みを利かせている。気づかれないように彼に小声で忠告してみるが、彼がそれを聞き入れたことなど一度もないのだった。


 自分たちが生まれる十年以上も前から、この国全土は極東の統治下にある。統治前後で何が違い、民族性の何が守られ何が喪われたかなんて、伝え聞いたことくらいしか知らない。それでも彼が、極東統治を激しく憎んでいるのは、恐らく追放された母国語のせいだろう。



『馬鹿言うな、お前だって和寧民族だろ。文化を奪われてなんともないのか』



 そう吐き捨てながら、和樹はいつも通り一礼せずに構内に入って行った。憲兵が強い口調で引き留めているが、「極東語なんて解らない」と和寧語で返す和樹を見て、恭二は苦笑するのだった。――解ってるじゃないか。本当に、相変らず頑固者だな。

支配されて悔しくないのかと言われれば、どちらかというと悔しい。けれどこの統治が悪いことだけではないとも恭二は思う。


 そんなどっちつかずの気持ちが長らく続いており、正直もどかしいが、こんなことを相談できる相手など身近にいない。勿論、民族性も文化も護って行きたいという気持ちもちゃんとある。しかしこの植民地としての統治が悪いことばかりではないと思う俺は、和寧人民失格なのだろうか。確かに、自分たちとは何の関係もない他民族に見下されるのは腹が立つし、急に名前を奪われるのも気分の良いものではない。


 けれど彼らが来なければ、こうして字の読み書きはできなかったのではないだろうか。階級差別は酷いままだったのではないだろうか。極東政府による身分解放が行われる以前、身分最下層の白丁だったらしい朴家だから、恭二は余計にでもそう思う。なにせ白丁は、文字を知ることも道を堂々歩くことも許されないのだ。



 恭二と和樹とでこんなにも意識が違うのは、育った環境のせいでもあった。朴家は両親に反極東の感情はあったが、兄弟たちには全くなかった。寧ろ大好きで、姉の梨花イーファに至っては極東の軍人と恋愛結婚したくらいだ。恭二自身は彼らほど好きではないが、ただあの飛行機には憧れる。飛行機乗りになれる可能性を少しでも掴みたくて、東華戦争時には兄共々極東軍に志願しようとしたこともある。しかしそんなことをすれば両親は嘆き猛反対するし、和樹には殴り飛ばされてしまう……。だからこれは、兄弟だけの秘密だ。


 一方の李家は、一族全員が反東家で両親と兄、姉が活動家だった。極東による和寧への横柄な態度の数々――申し訳ないが、あまり信用していない――の知識が無駄な程にあるのはそのせいだろう。その知識もかなり信憑性に疑いがあるが、それには触れないでおこうと思う。しかしこんなに熱心な活動家ならなぜ、一族全員が創氏改名に応じたのだろう。これも気になって仕方ないが、そこを追究してしまっては痛い目にあいそうなので、やめておこう。


 夕焼けの中に音楽が聞こえた。なんとも可愛らしい子供の声、恐らく学校帰りの小学生だろう。二列で並んで歩く姿は何だか微笑ましい。男児のチョゴリなんて久しぶりに見るな、と思いながら歌声に耳を傾けてみた。微笑ましい光景に似つかわしくない、聞き慣れない言葉で生堅い響きの歌だった。


 すぐ横を通り過ぎるのも構わずに、何の歌かじっくり考えてみた。あれはたぶん極東の軍歌で、確か「歩兵のうた」だ。軍歌にはあまり詳しくないが、姉の梨花が上機嫌で歌っていたことがある。交際中の恋人、つまりは今の夫から教えてもらったのだと、幸せそうに言っていた。


 まだ難しい極東語はあまり得意ではないので内容は良く分からないが、何だか楽しそうで明るく弾んだ曲調だ。これは負けていられないなと妙な対抗心が生れ、恭二も口ずさんだのは「トラジ」だ。これも歌好きの梨花に教えてもらった。この歌は好きだ。こっちの方が明るくて良い。



『おい、貴様』



 良い気分をかき消され、武骨な男の声に振り返ると、そこには険しい顔をした憲兵がいた。極東の憲兵か和寧の憲兵かは解らないが、なんだか卑らしい顔つきをしている。一体なんだと不快な思いになったが、ここで悪態をつく訳にはいかない。少しでも彼の気に入らない行動をとれば、その手に持っている警棒で叩きのめされてしまうのだろう。



『自分が何かしましたか?』



 呼ばれた原因が少しも解らず、恭二は問うた。すると言うなり、彼はその警棒で恭二の肩を打った。強烈な痛みに一瞬だけ目の前が白み、足元がぐらついた。どうやら無意識のうちに仕出かしたらしい。しかしいきなりぶつこともないだろうと文句を言ってみたが、彼の耳には届かなかった。



『貴様に問う。今の歌はなんだ』



 その一言で、恭二はようやく気がついた。あの歌を、母国語だった和寧語で歌っていたようだ。――いや、無意識とは全く恐ろしいものだ。恭二が一人感心していると、憲兵の彼は続けてこういった。



『何度も言っているだろう、本当に聞き分けのない奴らだ。ここが極東領である以上、和寧語は方言でしかない。国を統一するためには言語も統一されるべきで、方言など不要なものだ。お前たちの誇りとやらと同じでな……。帝国臣民である以上はそんなものさっさと捨てて、大和民族に同化しろ』



 この横暴な態度に、さすがの恭二も頭にきた。こいつは間違いなく極東の憲兵だ。極東人全てがそうだとは思いたくないが、この粋がり方は極東人だ。たかが憲兵風情が支配者風を吹かせて、こちらを見下しているにすぎない……ただの……。



『それは違うんじゃないの? ただあんたら極東人がこっちの言葉を理解しきれなくて困るから、自分たちに馴染のある極東語を使わせてるんでしょ』



 仕返しと言わんばかりに、恭二は思い切り小馬鹿にした口調で言ってやった。この知識は和樹から得たものだ。向こうは大まかな和寧語を理解できても、慣用表現や俗語までは理解できずにもがいていた時期があったらしい。努力が足りないんじゃないの、と更に付け足すと、彼の顔は怒りで紅潮していった。


――これはまずい、もう後戻りはできない。自分らしくない浅はかな行為を自嘲しつつ、彼から逃れることは諦め、大人しく殴られることにした。



 殴られて帰ったあと、和樹と母が煩かった。極東人憲兵に対し喧嘩を売ったことを決して諌めはせず、寧ろ良くやったと褒め称えられた。しかし褒め称えられたところで恭二は少しも嬉しくない。人と人のいざこざほど、面倒で質の悪いものはない。


 誰もが平穏無事に過ごせれば、人種や国家で線引きなどせずに楽しく共存できればどれだけいいだろう。恭二は不意にそう思うことがあるが、きっとこの戦乱の世には叶わない願いだ。領土だ資源だと物欲や虚栄心にまみれた指導者がいる限り、戦争なんて無くなりはしない。



 恭二は今、真剣に悩んでいる。


 戦争消滅の解決策に悩んでいるのではなく、自身の戦争に対する意識と、これから取ろうとしている行動との矛盾点に悩んでいた。


 無くなってしまえと思うものに対し、今自分は加担しようと考えている。それも、早期解決を目指してのことではなく、私利私欲のためにだ。もう今すぐにでもぶちまけてしまいたい胸の内を押さえこむたび、恭二の気持ちは沈みゆく。誰かに相談したいけれど、身近にできる人がいなかった。母や和樹にでも言おうものなら、叱咤や拒否で一層この苦しみは増すはずだ。それなら、始めから言わないでおく方が幾らもましだというものだ。ああ、こんなときに兄姉がいてくれれば!



『おい日順、どうしたんだよ。最近のお前、ちょっと変だぞ』


『……俺が変なのはもとからだろ』



 非常に珍しく大人しい恭二を見かねて、和樹は問うた。しかし彼から望んだ返答はなく、更にはしおらしくて気持ちが悪い。幼馴染みのあまり見ない一面に、和樹は無表情のまま、項垂れる恭二を見た。


 この様子は一年の内に片手で数えられるほどしか見ないけれど、この時の彼は非常に面倒だ。普段は必要以上に言葉一つ一つに反応する彼だが、こうなってしまうと何にも応じなくなってしまう。賢い恭二のことだ、また何か深く考えすぎてどつぼに嵌っているのだろう。全く、生真面目もいい加減にして頂きたいものだ。


 どうせ今の彼の悩みは極東絡みのことだ。どうでもいいことは容赦なく俺に相談するくせに、こういうことは全く相談しないのが、彼の困ったところだ。まあ、こちらがあれだけ反極東感情を剥き出しにしていれば仕方のないことか。和樹は自己解決させた後に大きく溜め息をついた。何だか少し寂しくなった。



『何があった。言ってみろよ』



 幼馴染みなのに水臭い、と言い終わる前に、恭二はびくりと肩を震わせ勢いよくこちらを見た。



『駄目だ……!』



今にも泣きそうな顔をして、恭二は大声で言った。そのまま足元で蹲ってしまった恭二を見下ろし、和樹は眉間に皺を寄せた。塞ぎ込んだり大声出したり、一体こいつは何なんだ。呆れを通り越して苛立ちに代わり、彼を睨んでみるが効果はない。なぜなら今、恭二は頭を抱えて蹲っており、視界に和樹は入っていない。



『何が駄目なんだ……!』



 恭二の首根っこを掴んで立ち上がらせると、彼は「ひえぇっ」と間抜けな声を出す。府抜けた恭二に凄むと、彼は身長差ゆえにつま先立ちになったまま、逃れようとじたばたするのだった。



『駄目だ、絶対お前には言えないっ!』


「極東軍に志願したいなんて、お前にだけは絶対言えない」と喚く恭二に、和樹は唖然とした。発言内容も勿論そうだが、なにより言えないといいつつも確り言っているあたりに唖然とした。本当に、彼は聡いのか馬鹿なのか全く分からない。


 きっと今のは無意識のうちに言ったのだろう。和樹は呆気にとられ、彼の首根っこを予告なしに解放した。支えを失くして地面に転がった恭二を見下ろし「極東軍に志願したい?」と復唱すると、恭二は「お前、俺の心の中が見えるのか!」と心底驚いたように言うのだった。うん、馬鹿だこいつは。間違いなく。



『志願は駄目だ』


『ほら、ほら! 解ってたんだよ、お前にはそうやって……』


『諦めろ。俺たちは、志願しても採用されることはない』



 今までの気持ちの重さが嘘のように一瞬にして軽くなり、思考回路が冴え渡った。少し冷静になった恭二は、和樹の言葉を反芻する。「俺たちは、志願しても採用されない」。彼は今、そう言った。



『え……?』



 すっかり沸きだった脳が、一気に静まり返る思いだった。これでは、和樹も志願したいのだと捕えられる発言だ。彼の言葉を深く理解したくてもう一度聞き出そうとしたけれど、それは次に続いた彼の言葉によって遮られた。



『お前、志願したいとか言ってるくせに選抜条件とか読んでないだろう、絶対。活動家やそれらしい感情を持った者や、その家庭に生まれた者は採用せず。そう書いてあった』



 だから、お前も俺も極東軍人にはなれない。いつになく冷たい口調で言った和樹は、どこか寂しげだった。和樹は突き刺さりそうな恭二の視線を受け止めず、ただぼんやりと青空を眺めた。


 時折きらりと光る銀色の腹、それは活動一家に生まれた彼でさえも憧れる戦闘機だ。ここから数十キロも離れているだろうに、こちらにもしっかりと聞こえるくらいのエンジン音を轟かせて上空を舞う影を指差しながら、和樹は小さく呟くのだった。



『俺も、あれが好きだ。操縦士になりたいと思っていた』



 和樹の寂しげな表情を見た後、この男に上手く騙されていたと気づいた。あの反骨的な態度は、極東を激しく憎んでいたからではない。夢を完全に断たれた青年は、失意と社会への憤りをどうすることもできず、ただ八つ当たりしていただけだったのだ。本当は全ての原因を生み出したのは親族なのだけれど、この胸の靄を家族にぶ

つける訳にもいかないので、ああして他人である憲兵に向けて発散していたということだ。


 和樹に騙す意思はなく、ただ恭二が勝手に騙されただけなのだけれど、それこそ幼馴染みなのに水臭い。彼も恭二と同じ、いや、それ以上に飛行機に憧れ、あれに乗るためなら極東人に成りきって死んでやるという強い熱意があった。


 しかし李家は一族で活動家、条件から完全に外れている。今は審査も厳しく、また倍率もかなり高いので、その枠の中に入るのは非常に困難だろう。しかし戦局は一層悪化しているように思えるから、そこが狙い目だと恭二は言う。激化して人手が足りなくなれば、枠が広がり条件も緩和されるはずだからだ。しかしそれまでどうしても待ちきれないと、家も誇りも全て捨てて、二人で夢を選んだのは一昨年の夏のことだ。



 

「今ここにいるってことは、民族の誇りを穢してるってことで……すげえ我儘かも知れないけど、俺はそのままのうのうと生延びるだけはしたくなくてね。特攻で死ねたら、それが浄化できるって俺は信じてんだ」



 そう言う彼の横顔を盗み見ると、いつになく凛とした恭二がいた。馬鹿なことばかり言って嫌がらせをしてくるいつもの彼と、今の聡明な彼が別人のように思えて仕方ないが、紛れもなく同一人物なのだろう。長話をするときに右手親指の付け根を揉む彼の妙な癖は、今も現れている。



「でも、これは多分俺だけだろ。和樹は……ねえ?」



 ちら、と横目で和樹を見た後、恭二はにやりと笑った。その気持ちが悪い程の満面の笑みに嫌な予感がし、イヅルは微かな寒気を感じた。もしかしたら恭二は、イヅルと和樹だけの機密事項を知っているのかもしれない。きっと煩いだろうから、と伏せるようにしていたのだけれど……この男はやはり侮れない。


 しかし、彼の思うことが「例の件」であるとは限らない。あまり慌てふためいては怪しまれると、イヅルは平常を装うことに決めた。



「……なあ。お前、あの子と近づく機会あるんじゃねえの?」



 小声で囁いてきた内容で、思わず体がびくりと揺れる。決意した矢先に乱され戸惑い、見開かれたままの目で、すぐ近くにある恭二の黒い双眸を凝視した。


 気付かれている。完全に気付かれている。予想外の事態に動揺を隠す余裕もないイヅルを見て満足そうな笑みを浮かべる彼は、もしかしたら弩級のサディストかもしれない。恭二はイヅルと向かい合うように座りなおし、しっかりと肩を掴んで小さく揺らした。



「これ、俺からのお願い。ていうか、命令? 明日確実に、あの子に送ってもらえるように仕組んで」


「仕組むって……」



 次第に大きくなっていく揺さぶりに抵抗できず、イヅルは大人しく揺られることにした。しかしこのお願い、もとい命令はかなり難易度が高い。以前、あの子は隊員たちの見送りだけは絶対にできないと言っていた。だったら、対象が大切な人なら尚更だろう。正直、来てくれる可能性はゼロに近い。



「絶対、絶対だからな。出撃は一二〇〇(十二時)、間違うなよ!」




            ※




 今日は快晴。今のところは快晴。雲ひとつなく清々しい青空に、神々しい彼らは良く似合うと思う。純白のマフラーが眩しい搭乗服に軍刀と方位磁石を備え、防寒帽の上にはゴーグルと、雄々しく『轟沈』と書かれた日の丸鉢巻がある。軍国少年たちが憧れる航空隊士そのものの姿が、今ここにあった。


 機体の整備は万全、燃料も満タンに入っている。当初の計画は実行できなかった。機体に不備を生じさせ、任務遂行することなく帰還させるという計画で整備員共々同意していたが、事態はそんなに単純なものではないと途中で気付いた。


 不備があれば飛行中の事故で殉職する恐れだってあるし、帰還させればあの妙な施設に入れられる可能性もあった。再度話し合った結果、結局は良い状態で送ってやることが一番良いだろうということになり、今に至っている。


 颯爽と愛機に乗り込む恭二は、悔しいが格好良かった。普段はムカつくほどいい加減だがこんな一面があるせいか、彼は女学生たちの憧れの的だった。けれど本人はその熱視線に気づいていないようで、後輩たちと遊ぶことや航空学の勉強にばかり熱心だった。女学生たちには申し訳ないが、ここが彼の良いところだ。


 恭二とイヅルの目が、不意に合った。すると彼はゴーグルを下げようとしていた手を止め、にやりと不敵に笑ってくる。



『ただ、穢してしまった誇りを浄化するためだけに征きたい』。



 そう言った彼の寂しげな目が、イヅルの脳内に鮮明に蘇って息苦しくなった。そんなイヅルの気持ちなど知らず、恭二の――朴日順の心は晴々としていた。心待ちにしていた出撃の時、これであの禁忌が浄化されるのだと思うと清々しい。


 ただ飛行機乗りになりたいがために骨の髄まで極東人になりきったふりをして、クーデターを起こそうとしていた同胞を、身内だろうが友人だろうが容赦なく片っ端から売った。


 密告を繰り返し、売国奴に成り下がった結果に夢を掴んだまま、幸せに生き延びるつもりなど全くない。――こんな汚い俺には、特攻なんて立派な名前がついた公開処刑が丁度良い。綺麗さっぱり消えてやる。可愛い弟分を、混血の彼を苦しめているアメ公共を道連れにして。


 恭二は、迷子の子犬みたいな顔をしたイヅルを見た。右手親指をぐっと立て、それをそのまま後方に指す。その先にいるのは飛行服を纏った石田和樹で、傍らには一人の少女の姿があった。その少女は隊員たちから大いに人気のある看板娘、今塚敬見だ。彼らは所謂恋人同士で、イヅルがこの鹿屋に来る前からの交際だったようだ。

「互いの一目惚れだ」と敬見に惚気られたことは、今でもよく覚えている。


 あの命令を下された後、一度は任務に失敗した。飴を預かるついでに説得してみたのだが、案の定頑なに拒絶された。拒絶する理由はただ一つ、笑顔で見送ることができないからだと言う。


 以前に女子挺身隊の子らと神鷲たちを見送ったことがあるらしいが、これから死にに行く彼らを思うと辛すぎて、泣いてしまったことがあるらしい。あまりに嫌がる彼女に無理強いする訳にもいかず、早々に諦めたはずだが……どういうわけだか今、敬見はここにいる。



「良くやったよお前。イヅルは本当に良い子だなあ」



 恭二が何度もしつこく手招きをするので仕方なく近寄ってやったが、途端に頭を撫でられ動揺している。頭を撫でられるなんて初めてで、嬉しいやら恥ずかしいやらでどうしていいか解らない。イヅルは仄かに頬を紅潮させ、仏頂面で俯いた。


 彼は自分の手柄ではないと伝えたが、そんなことはどうでもいい。ただ最後に、受けた愛情が極端に希薄なこの少年に、自分がいかに彼を愛しているかを少しでも多く伝えたかった。まあ、伝わっているかどうかは定かでないから、結局は最後の自己満足なのだけれど。――俺は、この子が可愛くて仕方がないのだ。本当の弟だったら良かったのにと、何度思ったことか。


 時間の経過とは早いもので、遂に午前十二時を迎えた。隊長機の号令で滑走路を加速しながら走り、戦闘機は次々と蒼穹に消えて行く。通り過ぎる間際に敬礼する隊員たちに返礼し、完全に姿が見えなくなるまで凝視し続けた。


 二度と彼らが帰ることはないと思うと、ぐっと胸が苦しくなった。もう幾度となく送り出してきたのに、今日は何だか様子が変だ。やたら痙攣したがる横隔膜を無理やり押さえ、イヅルは何もなくなった空を見上げた。




            ※




 ほぼ日常と化した空襲をやり過ごし、今はその修復を行っている。あれからまだ半日も経っていないけれど、外に出れば空ばかりを見ている。それは恭二と和樹に懐いていた島風煉も同様だった。あの隊は沖縄に向けて行ったので、もう突撃した頃ではないのだろうか。そう思うと膝が立たなくなりそうなほどの寒気がするのだけれど、これも仕方のないことだと割り切らなければならない。



「……岐山さん」


「何だ?」



 何もないはずの上空をぼんやりと眺めていた煉は、イヅルに問うた。



「このエンジン音、グラマンでもボーイングでもないですよね」



 煉に言われて耳を澄ますと、大気を震わせる低音が鼓膜を刺激した。確かに、これは敵機のエンジン音ではない。随分と聞き慣れ、馴染のある音だった。彼に倣って空を見上げると、八つの影が姿を現した。数時間前に見たそのままの姿が、荒れ果てた滑走路に向けて降下している。



『帰ってきた……帰ってきたぞ……』



 もうすでに走り出している煉を追い、イヅルは着陸した零戦に向けて走り出した。着陸したのは全部で八機、欠けることなく全て帰還した。ゆったりと降りてくる隊員たちの中から逸早く恭二と和樹を見つけ出し、飛びついている煉を見た。


 自分も彼のようにできればいいのだけど、いかんせん何かが邪魔してそれができない。少し離れたところから帰還した隊員たちの微笑みを見て、イヅルも少し幸せな気分になった。




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