第3部 銀


 俺はイヅルが、毎晩うなされているのを知っている。銀はようやく落ち着いたイヅルの頬を舐め、穏やかになった彼の寝顔を見た。東坂に拾われ、イヅルに育てられることになった約二年前からずっとこうだ。気絶するように眠りに落ちて、数時間も悶絶する姿を銀は見ているが、きっと本人はこのことに気付いていないのだろうと思う。


 睡眠時間は夜十一時から朝五時までの六時間、そのうちの三分の二は魘されているので、実際たいした睡眠は取れていないはずだ。よくこんな生活を続けて壊れないなと感心するが、同時にすごく心配だった。


 イヅルは世間に好まれない私生児である上に、この国の人間が憎々しく思っているカメリアの血が流れている。そのせいで周りは敵だらけだし、人一倍警戒心が強かった。


 寝姿のあまりの異様さに一度医者に診てもらうことを勧められていたが、異常なまでに嫌がっていた記憶がある。物静かであまり表情を変えないイヅルが、必死の形相で暴れるのだ。東坂家の住人たちも心配はしていたが、彼のそんな様子から見守ることに決めたらしい。以来、深く干渉することはなくなった。


 今この国が、どこか違う国と大きな戦争をしているというのは知っている。頭が悪いので詳しくは分からないが、大勢の人が犠牲になっているらしい。この前も、恭二が戦争に対する不平不満と疑問をぶつけに来た。


 他の人とは違う言葉を使っていたが、これは彼の母国語なのだろう。最初は何を言っているのか解らなかったが、イヅルが作業しているところを見計らってしょっちゅう来るので、何となくわかるようになってきた。恭二は普段明るく振る舞っているが、この時は違う。いやに真摯な顔つきで、真面目な話をしてくるのだ。



『ここから飛び立つ飛行機のパイロットたちが、自身の命と引き換えに国を守ろうとしているとみんな思ってる。だけど本当は違うんだ。こんな空っぽな国のためなんかじゃない、もっと大切なものを守るために、みんな進んで死んで行くんだよ。俺も、和樹も、みんな……』



 そう言ったときの恭二の目には、うっすらと涙が滲んでいた。躁病を疑われるほど明るい彼も、実際はこんなにも思いつめ、涙している。戦争とはこうも人を傷つけていくものなのかと感じた銀は、何だか悲しい気持ちになった。けれど余りに無力な自分には何もできない。なにせこちらは落第した軍犬、愛嬌を振りまき、僅かな癒しになるのが精々だ。


 そういえば、自分を拾った東坂の主人――皆が称壱と呼んでいた優男も、他とは違う目をしていた。あの頃の自分は、兄弟たちとは違う白い毛並みと赤い瞳……所謂アルビノに産まれたせいで育児放棄され、時代も時代だったので飼育係にも見放され棄てられていたんだっけ。


 寒いし寂しいし、まだ幼すぎて自由に動けないし、本気で死を覚悟したものだ。そんな自分を掴みあげたのが、称壱だった。こちらを見る目はすごく寂しげで、自分ではない何かを投影されている気分になった。




            ※




 白い毛並みの子犬を見つけたのは、雪の積もる真冬の頃だ。銀世界に同化しかけたそれを、東坂称壱はなんの躊躇いもなく拾い上げた。



『こんなに小さな体に雪を積もらせては寒いだろうに』



 まだ生まれたばかりだと見受けられるそれは、弱々しく鼻を鳴らしながら、赤い瞳でこちらを見ている。珍しい、アルビノかと思った後、自分はこれを拾ってどうするつもりなのだと自問する。連れて帰っても愛し抜いてやれる自信はない。かといって再び雪の中に戻して見放せば、この子は確実に死んでしまうだろう。


 状況を考えれば考えるほど、あの時の光景が目に浮かぶ。微笑んだ親友の横顔、赤い水溜り、硝煙の昇る拳銃、頭に開いた風穴、飛散る脳、赤く染まった、自分の手。彼は本当に薄倖な男だったと思う。ただ自分の信念を貫き、貫き通したがゆえに殺害された。止めを刺した瞬間を思い出し、この手が彼を殺したのかと感じるたび彼に会いたくなる。会う資格など、欠片もないのに。


 全くブレない気持ちの強さに憧れ賛称する自分がいる一方で、その近視眼的な性格がなければこんなことにはならなかっただろうと蔑んでいる自分もいる。この狭い自身の中で、互いが互いを打ち消しあおうと大暴れしているのだろう、こんな時は激しく頭痛がする。意識が朦朧として仔犬を取り落としそうになったところで不意に現実に呼び戻され、転落死させる事態は免れた。


 こちらを見ていた瞳はすでに逸らされており、その姿を知らずのうちに兼吉と同化させていた。しかし今の称壱には、そこに気付けるだけの判断力はない。完全に兼吉を投影してしまった仔犬を雪の中に戻さず、手の中に収めたまま称壱は歩きだした。


 仔犬は、思いのほか歓迎された。称壱こそが自身の全てであるリヲナが反対するはずもなかったし、百合恵も動物好きだ。物資不足の時代だったが、何かと優待されている華族軍人なので、仔犬一匹養うなんて容易いことだった。


 称壱は軍装のまま廊下を歩き、かつては自分の書斎だった部屋へと向かった。右手には、たいぶ乾いて温かさを取り戻し、もぞもぞと落ち着きなく動く仔犬が乗っている。黒塗りの、少し薄めのドアを開けると、紙と書籍に埋もれた少年の後ろ姿があった。


 東坂邸にしては小さい六畳半の部屋には、気分が悪くなるほどのインクの臭いと、シャッとペンを走らす小気味良い音が充満していた。名前を呼んでも物音をたてても反応しないくらいに集中した彼の邪魔をする気にはなれず、一通りの作業を終えるまで待つことにした。


「この部屋をお前にやる」といったとき、この少年は無表情ながらに喜んだものだ。常に警戒網を張り巡らせ、感情を表に出そうとしない彼の年相応の反応が嬉しくて、製図の道具も揃えてやった。申し訳なさそうな顔を見せたがお気に召していただけているようで、ずっと使ってくれている。


 俺はどうして、彼を拾ったのだろう。最近になってこんなことを考えるようになった。頼りも居場所もない少年を憐れんだのか、犬猫を飼う感覚だったのか、或いは――兼吉への罪滅ぼしのためだったのか。恐らくは罪滅ぼし目的だったのだろうが、この先を考えるのはやめた。このまま兼吉の事を考えると発狂しかねない。そうなれば鎖に繋がれて幽閉される日々に逆戻りだ。やっと解放されたばかりなのだから、気をつけなければならない。



『イヅル』



 一通りの作業を終えて道具と書籍を片付け始めた少年に、称壱は声をかけた。すると彼は、こちらに向かって微笑んだ。彼は最近になってようやく心を開き始めてくれたらしく、こちらの存在を確認すると今のように微笑むようになった。


 イヅルは確かに称壱にむけて微笑んでいたが、徐々に怪訝そうな表情に移り変わっていった。目線は、掌の仔犬へ。……この子は犬が嫌いだったのだろうか。眉間に寄った皺を見て、称壱は思った。



『どうした、犬は嫌いか』


『……』



 無言のまま、イヅルは視線を称壱にずらした。怪訝さは不快さへ。イヅルは称壱の「犬」という言葉を聞き、そのまま俯き呟いた。――この、人攫い。



『なぜ人攫いなんだ? 人など攫っていない』


『嘘だ。じゃあ、それは何ですか』



 珍しく感情的に歯向かい、称壱の掌を指差した。一体この子が何を言っているのか、称壱には良く分からなかった。これは何だと聞かれても、俺には仔犬にしか見えない。


 まさか彼は、この仔犬が人の子に見えているとでもいうのか。きっと……恐らくそうなのだろう。この俺を人攫いだと言ったのだから違いないと思う。これは幻覚や錯覚や一種なのだろうか。今度、例の件で世話になった軍医に聞いてみよう。



『イヅル。お前から見て、これは人か?』



 眉間に皺を寄せつつ、イヅルは黙って頷いた。これで彼の認識と周囲の認識が大きく異なるという事実が判明したが、脳医学にも精神医学にも明るくない称壱にはうまく説明できそうにない。下手な説明で困惑させるのも気が引けるし、これはこれで面白そうなので、人の子として扱わせるようにしようと、称壱は決めた。



『そうか、そうだな。これは人の子だ』



 知り合いの子だが、いろんな事情があって育てられなくなったのだと勝手に設定付けし、「お前に預ける」とイヅルに差し出した。人との関わりは皆無に等しかったが、働き詰めの母に代わり幼い妹の面倒を見てきたと聞いたから、預けても平気だろう。



『……名前は』



 イヅルは仔犬を掌に受け取りながら、称壱に問うた。勿論、拾ったばかりだから名前などない。何か適当な名を言えばいいのだろうが、性別が分からないせいか、なかなか思い浮かばない。なにか中性的な名前はないものかと模索しながら、どうにか誤魔化してやろうと目を動かしてヒントを探った。明らかに挙動不審なこちらを覗う、イヅルの視線が痛い。



『名前は』


『まあ待て、今思い出すから……』



 じっとこちらを見つめながら催促する彼の視線に耐えかねてそう言ったが、今思い出すというのもおかしな話だ。誰にどのように詰め寄られても動揺などしなかったというのに、彼には何かと動揺させられる。それが精神が脆くなったからか、彼を我が子のように可愛がっているからかは分からないが、今はそれを探っている暇などない。



『……銀』



 必死に目を動かした末に、インクを乾かす為に広げてあった設計図を見つけた。そこに書いてあった文字は《雪銀》、イヅルが今設計している巡洋艦の名前だ。そこから一文字頂いた。


 白銀の毛並みの子に「銀」など、あまりに安直過ぎたかとすぐに後悔した。良く考えてみれば、幾らでも回避方法はある。生れたてな訳だし、名前もない設定にして、みんなで決めようと提案すればよかったのだ。きっと更に怪訝そうな顔でこちらを見ているだろうイヅルを確認したかったが、何だか恐ろしくてできなかった。こっそり横目で、彼の様子を覗う。



『銀――か』



 イヅルの目は、普段の厭世的なものとは違って珍しく輝きを放っていた。完全にイヅルにペースを崩され、馬鹿みたいに一人焦った自分が何だか可笑しくて、称壱は人目も憚らず大笑いした。




            ※




 共に生活してから一年ほどの間、イヅルは銀を人だと信じて疑わなかった。ようやく疑い始めたのは半年前、あっという間に自分と同じくらいの年にまで成長した銀の姿を見てからだ。百合恵や大記に「銀は人間か?それとも犬か猫か」と何度も確認する彼の姿を、銀は間近で見ている。ついでに、彼の言動に愕然とする二人の姿も。


 イヅルは好きだ。親も兄弟も、俺を教育しようとした軍人も、皆アルビノに産まれた自分を気味悪がるか好奇の目を剥くかのどちらかだった。けれど彼は違う。色がどうだとか一切気にしないから、こちらとしても彼の隣は居心地がいい。


 欲を言うなら……もう少しだけ、こちらを理解して貰いたかった。訓練中にイヅルの作業場に逃げ込む一番の原因は、訓練が怖いからじゃない。ただただ、昼間の屋外が苦痛だったのだ。


 昼の日差しは銀にとって毒でしかなく、曇りの日だってじりじりと肌を焼かれ、日の光は痛いほどに眩しい。この頃は忌々しい夏が近づいているらしく、強度を増した紫外線のせいで寒気がするほどの眩暈に苛まれるのだ。


「腰抜け」と呼ばれる度に悔しい思いをするのだけれど、訓練が怖いのも、痛みや眩暈になかなか耐えられないのも事実なので言い返せないでいる。


 命の恩人である称壱は、自分絡みのことでイヅルをからかうことに全力を注いでいて、彼の作業中にこっそり近づいてきては「お前は他所から養子に来た可哀そうな子という設定になっている。上手くやってくれよ」と囁きに来るくらいだ。イヅルが銀の正体を聞きに来れば、そのたびに途中で答えられなくなるくらいに笑ってしまって、結局まともに答えたことなど一度もなかった。



 イヅルがこちらをどう思っているかは知らない。けれど俺は、他の誰よりも大切に思っている。彼が特別だということは、言うまでもないのだ。飼い主であり育ての親であり、兄であり相棒でもある不思議な存在だ。彼も自分と同じで、色が少し、他の人とは違っていた。みんな怖がったり馬鹿にしたりしているけれど、銀はあの青い目が好きだった。


 岐山イヅルという男は、その華奢な体に見合わないほどの重荷を常に背負っている。生まれながらに運命づけられたその過負荷を、少しでも軽くしてやるにはどうすればいいのだろう。なかなか解決策が浮かばない自分の出来の悪さに腹が立ったが、そう苛々しては彼の心労を増やすだけだ。もう一度頬を舐め、銀は無意識に頭を撫

でてくれているイヅルにすり寄った。


 外はすでに明るい。彼が起床するまで、あと僅かしかない。



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