第2部 鬼と野良猫


 凄く遠い過去のように思えるが、実際は二年前と割と最近のことだ。神戸の港で自分を拾った東坂称壱という男との出会いは、至極強烈なものだった。


 家族という組織の中で生活していたのは、五年前の六月が最後だ。純正な極東人の母と四つ下の妹と三人、長峰山の麓でひっそりと暮らしていた。大和撫子という言葉が似つかわしい母の涼子は、生まれつきなのか過労のせいなのか体が弱く、よく床に伏していた。それでも子を二人養うには働かねばならず、元気になっては神戸の工場へ働きに行くのだが、六日働いては二日寝込むの繰り返しで、本当にこの人は大丈夫なのだろうかと心配になったことはよく覚えている。


 父親は、物心ついた頃からいなかった。父親もいないのに母は身籠ったし、兄妹で全く似ていないから、きっと自分と妹の父親は違うのだろうとイヅルは思っている。一人の女が異なる二人の男との間にもうけた私生児、その上毛唐の血が混じっているとなれば、不用意に近づくものなど誰一人としていなかった。


 住居は、人目を憚るように木や草花が生い茂るばかりの山道にあった。稀に登山客はあったけれど、伸びきった雑草や木々で家は見えないので、母と妹以外の人間を見ることは殆どなかった。しかしイヅルには、このときからヒトと動物の区別が付かなかったので、その事を知らない。


 寂しく刺激のない生活を送っているだろう子らを気遣ってか、ある日から涼子は勤め先の工場から不採用になった設計図を貰ってくるようになった。妹のアヤは大して興味をそそられなかったようだが、イヅルは初めて見るそれに衝撃を受け、心の中にある何かを思い切り揺さぶられた気分になった。


 たった一枚の紙面上に描き出された、今までに見たことのない幾何学的な図形と数値が所狭しと書き連ねられているそれは、見ているだけで面白い。転写もした。自分なりのアレンジもした。存在自体が楽しくて仕方のないそれでもっと遊びたくて、その一心で字の読み書きも覚えたし、数字の意味も理解していった。転写を繰り返すうち、次第に応力計算ができるようになり、母の力添えで耐久性を考えた材料選びもできるようになった。今ではこの手で、白紙に完成品を描き出せるまでに成長している。



 設計の才が伸び続ける一方、イヅルの情動反応能力は伸び悩んでいた。母が「阿婆擦れ」と罵られていても気にならなかったし、それぞれ違う男との間に自分たちをもうけることになった経緯については興味もなかったから、一度も追求したことがない。彼女が阿婆擦れと呼ばれても憤らなかったし、かといって嫌悪感を抱くこともなかった。


 正直に言うと、母のことは好きでも嫌いでもなく、本当に母と認識しているかどうかも良く分からなかった。一緒にいる時間が、あまりなかったからかも知れない。アヤがいなくなった経緯も、実はよく分かってない。突然家に乗り込んできた極東兵たちに腕をひかれて連れて行かれる彼女の姿は良く覚えているのだけれど、残っているのは映像のみで、理由が全く分からない。今思えばアヤも、紫陽花色の髪に赤い目と奇抜な色をしていた。理由はそこにあるのだろうか?いくら考えたって分からないことなのだが。


 二人暮しになってしばらくした後の母の様子は、目に見えて可笑しかった。顔色は決して良くなく、息も浅く早いことが多い。なにより肌が赤く爛れぼこぼこした腫瘍まであり、正直気味が悪かった。遂に寝たきりになり、幾ら問い質しても「大丈夫、なんともない」と笑ってはぐらかされるばかりだった。こうなってしまえば、母が折れることはない。結構な頑固者なのだ、あの人は。


「またこれか」と、ある日のイヅルは諦めて山へ出た。生活のために釣りや野草収集をした日の黄昏時、帰宅した直後に見たのは、身動き一つせず横たわった母の姿だった。様子は家を出たときと全く変わらないのだけれど、ただ生きていると思えないくらいに白く冷たかった。


 何が、何が起こった。この状況は一体何だ、うまく読み込めない。混乱のあまりに痛む頭を抱え、速くなるばかりの動悸と呼吸をまずは抑えようと試みたが、どうにもうまくいかない。落ち着くどころか過呼吸寸前まで悪化していたが、このままじっとしていても状況は変わらない。


 無様に震える手を伸ばして母の安否を確認したが、呼んでも揺すっても全く応答がない。揺らした衝撃で薄く開いた目がこちらを見たような気がして、心臓が止まりそうになるほど怯えた。イヅルが初めて、ヒトの死に直面した瞬間だった。


 ヒトが亡くなるのは初めての経験だ、正直どうしていいかが分からなかった。再び激しく混乱し、痛みはじめた頭を無理やり鎮め、あれこれ考える思考回路を強制的に断ち切った。どれだけ考えようが解らないものは解らない、考えたって無駄だ。



『そうだ。誰かに……誰かに知らせなくては』



 思考を断ち切る直前に、なぜだか不意にそう思った。母の親族も知人も知らなかったが、とにかく彼女の死を誰かに知らせなければならないと思った。相当動揺しているようで、頭で思うことと筋肉の運動がうまく噛み合わない。行くなと警告する自我とは相反し、覚束ない足取りで家を飛び出したイヅルは、何の当てもないままに長峰山を下ったのだった。



 長峰山から瀬戸内海方面に進んでいくと、そこには貿易都市神戸がある。山奥とは比べ物にならない程に賑やかな市街地に辿り着いた頃、突如として冷静さを取り戻したイヅルは、後悔の気持ちで一杯になった。直感を頼った軽はずみな行動で、人は愚かに死んで行くのだろう。イヅルはそう思った。


 そもそも、こんなところまで来てどうしようというのだ。誰か馴染みでもいれば話は別だが、そんなことは全くない。このまま自宅へ引き返し、自力で死体を処理するしかなかったが――自宅への引き返し方が解らないことに気がついた。気付いた時にはここにいた……という感じで、現在地がどこなのかも掴めず、完全に迷子状態だった。自分はこんなにも愚か者だったかと自分を恥じたが、恥じたところでどうにもならない。


 この人通りの多い空間は、なんだか好きになれない。チカチカ明るい街灯も、行き交う人波も、何もかもが落ち着かなかった。とにかく、ここよりも人が少ない所へ行きたい。だとしたら……行き先は海だ。海辺にもなれば、そんなに密集した市街地はないだろう。海には行ったことがなく遠巻きに見たことしかないが、今から山へ引き返すよりは、短時間で済むはずだ。


 しかし進むにつれ、居心地の悪さは濃度を増し、薄気味悪い恐怖へと移り変わって行った。すれ違う者が皆、敵意剥き出しの目でこちらを見ているせいだ。こんな感覚は初めてだった。こんなに沢山の人の中に飛び込むのも初めてだというのに、こんな目で見られてはひとたまりもない。


 なぜ、なぜだ。なぜ街の人たちはこんなにも恐ろしい目で俺を見るのだ。山に棲むあの子らは、ごく普通に遊んでくれていたはずだ。山と街では、一体何が違うというのだ。


 自分の感情は希薄だと思っていた。けれど本当に希薄なら、この恐怖など感じなかったはずだ。母の死に動揺などしなかったはずだ。冷汗だか脂汗だか解らないものが流れ落ちる。この時ばかりは、人並みに備わった感覚を呪いたい。足は竦むが、ここで立ち止まる訳にはいかない。イヅルはその場から逃げるように、神戸の街を闇雲に走り抜けた。


「鬼畜米英」。駆け抜け間際、風を切る音に混じってそんな言葉が聞こえてくる。その言葉の意味は知らないが、良い意味でないことくらいは馬鹿な俺にも良く解る。イヅルは纏わりつく恐怖を振り払うかのように走った。輪郭をとどめずに流れていくだけの人影が、不意に鮮明に映る。好奇や敵意などという、大変に居心地の悪い視線を寄越す人たちは皆、母と同じ色をしていた。自分とは違う、漆黒の髪と瞳に黄色い肌だった。


 なるほど、これが原因か。イヅルは、自分が他と色が違う事を思い出した。いつだって、どの世界だって同じだ。少数派は多数派になんて勝てやしない。山にいた猫や鳥もそうだ、異形の子は仲間からあぶれ、果てに死んでゆく。その様を、この目で、間近に見てきた。


 自分自身もその運命を辿るのかと自嘲してみたが、同時に何だかとても惨めな気持ちになった。生まれ持った色はどうにもできず、ゆえに安定した多数派には一生なれない。これから先、こんな視線を浴びながら生きなければならないと思うと……寒気がする。


 不意にどん、と右肩が何かに衝突した。


 そのまま体勢を崩して転倒したが、何にぶつかったかは確認しなかった。そんなことに気を取られ、時間を無駄にする訳にはいかないのだ。一刻も早く、人気のないところへ行かなければ。すぐに起き上がり、何かに取り憑かれたかのように走り出そうとするイヅルを誰かが引きとめた。


 がっちりと左腕を掴まれる感覚に「ヒッ」なんていう無様な短い悲鳴を上げ、気道を絞められるような熱烈な息苦しさを感じた。知らない誰かの掌が今、自分の手首に触れている。そこから感じる、ぞわぞわした気味の悪い感触は次々に伝播して、イヅルの全身を粟立たせた。


 死の匂いがする。かつて見た、野犬に兎が喰い殺される瞬間が、イヅルの脳内にフラッシュバックした。


 悲痛な鳴き声、首を砕かれる鈍い音と広がっていく鮮やかな赤。ついさっきまで元気に駆け回っていた子が、一回りも二回りも大きな男に食いちぎられ、あっという間に肉塊になってしまったあの瞬間。それと今とは同じ状況で、俺が兎で誰かが野犬。このままではあの子のように殺されてしまう。何としてでも逃げなければ、俺もただの肉塊になってしまうのだ。


 やられる前にやれ。どこかから、そんな声が聞こえた気がした。なるほど、そうかとあまり深く考えずに納得したイヅルは、頭の中からそれ以外を排除しようとした。一方では、さすがにそれはまずいと僅かながらに残った理性が訴えかける。けれど錯乱した意識は職務放棄してしまって、もうどうにもできなかった。


 狂い散り散りになった感覚を、ジグソーパズルを組み立てる要領で必死に繋ぎとめようとしたが、どのピースを合わせてみてもちぐはぐにしかならずもどかしい。もうどうにでもなれと一切の思考を遮断し、僅かに残った理性も自ら砕いた。腕の脱臼も構わずに力いっぱい振り解き、その反動で再び転倒する。目に映った鋭利な瓦礫を拾い上げ、向い合せになった唖然とする誰かへと、勢いよく振り下ろした。



『イヅル……!』



 自分の名を呼ぶ声に、振り下ろした瓦礫は突き刺さる直前でぴたりと止まった。靄がかって不明瞭だった脳内が瞬時に明瞭になり、さっきまでちぐはぐにしかならなかった感覚のジグソーパズルは、今になって綺麗に完成した。たった今、自身がしようとしていたことの罪深さと愚かさに気付き、手に握られた忌々しい瓦礫を地面に叩きつけた。


――一体、俺は何をしようとしていた。自分が自分でなくなる恐怖は、謂れのない敵意を向けられるよりもずっと大きかった。震えの止まらない体を抱きかかえ、治まるのを待ってみたが、一向に治まりそうに

ない。



『やっぱりそうだな、君がリョウコの子なんだね』



 震えたまま、声の主を見た。見たことのない容姿をした男が、イヅルと目線を合わせるために膝をついている。抜きん出て高い背丈、短いプラチナブロンドの髪、綺麗な蒼い瞳に白く彫りの深い顔。明らかにこの国の者ではないこの男こそが、人々の言う「毛唐」なのだろう。彼の胸には、銀色の鉤十字が輝いていた。




            ※




 その男は、母とは深い仲だったようで、いくつかの思い出話を聞かせてくれた。流暢な極東語だがゲルマニア人らしく、聞いてもいないのにあれこれ自身の身上を話してくるせいで、この男について少し詳しくなってしまった。三国軍事同盟の都合上、極東に駐在していることとか、ゲルマニア国内の様子だとか。


 正直いろんなことがあり過ぎて疲れているので話を聞く気もないし興味もないが、こうも引切り無しに話しかけられては聞くしかない。リョウコに似て美しいだの精神的にも肉体的にも優れているだの、無意味に近い賛美をずらりと並べてくるが、そんな薄っぺらい褒め言葉に喜ぶほど、こちらも単細胞ではない。初対面のお前が一体、俺の何を知っているのだ。イヅルは心の中で毒づいた。第一、つい先程の何を見て優れていると思ったのだ。醜態しか晒していないというのに。

 

 母がこの男に自分のことをどう言っているのかは知らないし、イヅル自身もこの男の存在を知らなかった。それなのに妙に親しげに接してくる態度から察するに、きっとアヤか自分の父親なのだろう。しかしこの男は、母との関係や接点、なぜ彼を知っているかの詳細を話そうとしなかった。



『君は設計に精通しているとリョウコから聞いたよ。一度是非見てみたいものだ』



 瞬間、イヅルの中で一気に何かが崩れ落ちた。設計図の話を切り出した時の、男のぎらついた目。これで彼が設計図目当てでこちらに近づいてきたことが解ったが、そんなことはどうでもいい。それよりなぜ、母はこの男にそんなどうでもいいことを話したのだ。


 子供の成長を報告したかったから? 阿婆擦れと呼ばれている女が、将校の気を引きたかったから? このどちらかといえば確実に後者だろうと、イヅルの中では決まっていた。もともとあまり高くなかった母への好感度が、地に付きそうなほどに低下した。


 事実、涼子はイヅルを自分の後任にする目論見があった。彼女は子らに工場で働いていると思わせていたが、実際はスパイ業務が主の娼婦だった。彼女の死因も、その職のせいで患った花柳病だ。イヅルに設計図を与えたのは、物事の細部まで理解し、洞察力と観察力を養うためだった。そもそも軍事機密扱いの軍艦設計図を、不採用になったからと一般市民に譲渡することなどない。勿論、客から盗ったのだ。


 副産物として設計の才が開花したのは予想外だったが……これは嬉しい誤算だ。軍事色が強く、各国と戦争ばかりの極東なんて嫌いだ。この子の創る優秀な兵器を以てすれば、必ずやこの国を負かせるはずだ。涼子はただそれを信じ、イヅルが優秀な設計士であると相手をした外国の官僚たちに吹聴し、自分の子を売ったのだった。


 イヅル自身では設計の腕がどれくらいのものか評価できないが、そこらの一般人よりは設計に関する知識を持っているのは確かだ。気まぐれに自宅に訪れる、変わり者の青年憲兵には「なかなかの代物」と褒められたこともある。この時点では実際に製造したことがなかったが、彼の描く船は速度も強度もあるように設計されたものがほとんどだ。彼が軍所属の設計士になってからも、物資と技術者不足により、思うように製造できたことはないのだけれど。


 涼子の吹聴の甲斐あってイヅルの噂は瞬く間に広まり、図面も出回った。彼女の唯一の誤算といえば、それが極東軍にも広まったことで、現役の専門家たちを呻らせる、精巧にして画期的な図面を生み出す若き技術者の誕生は海軍を喜ばせた。


 決して概念に囚われない、斬新だが合理的な図面を描く彼がぜひとも欲しいと思っているが、ひとつ致命的な問題があった。それはイヅルが、敵国の血を引いているということだった。この問題は決して解決することがない。そのせいでこのまま埋もれさせて放置するか、思い切って軍へ招き入れるか、なかなか決断できずにいた。一方の欧米でも、この少年設計士の処置を検討中だ。


 涼子の謀によって、自分の知らないところでその身の売買が行われていることなど、イヅルは全く知らなかった。元来の卑屈な性格のせいか厳重に張り巡らされた警戒心のせいか、彼の提案に乗り気になれなかった。こいつにだけは見せたくないと思いながらも、手はポケットを探っている。見せなければ、きっと俺は兎に逆戻り。それだけは絶対に嫌だ。あんな怖い思いは、年に二、三回だけで十分だ。ぎらついた本心が見え隠れする男の様子を覗いながら、イヅルは震える手で、探り当てた設計図を差し出した。



『全く……予想以上だ。どうだろう、見たところこれといって行き先もないようだし、ゲルマニアへ来て、本格的に設計をしてみないかい?』



 冷えた目で設計図を見た男は、急に暖かい目を作ってイヅルに微笑んだ。


――絶対に行くものか。イヅルは男への不信感と嫌悪感に唇を噛みしめて思ったけれど、正直心は揺らいでいた。家にも帰れず、頼りもないまま遣り過せば、衣食住の全てに欠けた生活を送る破目になる。こんな素性も知れない異端者を雇ってくれるところはないだろうから、野垂れ死には確実だろう。


 この先、まだ十三の餓鬼が一人で生きていくのはあまりに困難だ。そうすると、職を保証してくれるという彼に付いて行った方が良いのかもしれないと思うわけだが、すぐに答えを出すと碌なことにならないというのは、身を以って実証済みだ。


 取り急ぎ、そんなにすぐには答えられないと返そうとしたとき、耳を劈(つんざ)く破裂音がした。鈍い衝撃がイヅルを襲い、バランスを崩して地面にへたり込んだ。白い煙の向こうに見える男は、この世にはいない別の何かに思えて仕方なかった。


 耳鳴りがする。鼻の奥が痛い。聞きなれない三つの破裂音を聞いた後、強烈な火薬臭さが嗅覚を刺激した。徐々に気持ちの悪い鉄の臭いも混じり始め、軽く吐き気がする。その正体が分からず朦朧としていたが、真っ赤になったその両手を見て、自分自身が全身に血を浴びていることに気がついた。これは血だまりを作りながら自分に凭れかかり、絶命した男のものだ。返答次第では兎を喰い殺そうとした野犬が、狩人によって撃ち殺されたのだ。


 呆然とその死体を眺めていたけれど、不意に首根っこを掴まれて立たされたイヅルは、訳も解らぬままその男を見た。ずるりと体を撫でる死体の感触が気持ち悪い。視界を妨げる赤を指で拭うと見えた狩人の正体は、東坂称壱という、拳銃を手にした極東海軍の将校だった。


 紺色の詰襟にある襟章には、銀色の桜が咲いている。少し長めの黒髪に狐目の男は、知的で妖しくあると同時に禍々しくもあった。昔に聞いた、鬼と妖狐と混ぜくったような雰囲気の人だと、イヅルは思った。


 彼はそのまま、イヅルの足元にうつ伏せに倒れた残骸を足でひっくり返して仰向けにした。死骸の目が、夕刻の薄暗闇の中で虚ろに光る。ぎょろりと見開かれたその目がこちらを見たような気がして、全身が震え上がった。



『ゲルマニアと混血児か……』



 称壱は舌打ちをし、何も解らないまま立ち竦むイヅルを冷ややかな目で品定めするかのように見下した。これはこれで恐ろしかったが、嘘くさい暖かな笑顔を向けられるよりも幾らかもましだった。


 なぜだか、その視線は拒めなかった。彼は冷たい目のままこちらに手を差し出したが、決して差しのべているわけではないその手からは、催促の意が読み取られる。その読みは当たっていたようで、「それを渡せ」と有無を言わせぬ威圧的な声が降りかかってきたのだった。



『な、何……?』


『その設計図だ。一通り話は聞かせて貰った。本当にお前のような毛唐の子が例の少年なのかを確認したい』



 全く、どいつもこいつも設計図、設計図と煩い。自分の価値がそれしかないのかと思うと悔しくて、イヅルは血で濡れた図面を握り締めたまま、勢いよく首を横に振った。本当はこんな紙切れなんてどうでもいい。ただ自分をどうにかしようとする大人たちが挙ってそれを狙ってくるので無性に渡したくないのだ。この際、破り捨てたって構わない。その結果に殺されても、だ。


 髪から滴り落ちる血液は、頭を横に揺らす度に滴となって落ちて行った。彼の表情は知らない。きっと下賎に拒否されたと不快に歪んでいるのだろうが、睫毛から滴る赤い筋のせいで生憎と良く見えない。



『仕方ない、実力行使と行くしかないな』



 筋の隙間からうっすら見えたその端正な顔には、愉快そうな声に似合わない、冷ややかさと禍々しさが混在した笑みが張り付いていた。その手の中にあるのは小型拳銃で、照準はイヅルの眉間に合わせてある。


 イヅルは再び、死の匂いを感じ取った。


 狩人の標的が、大型の野犬だけとは限らない。兎や狸などの小動物も銃で狩るのだと、本人たちから聞いたことがある。結局弱者は、大きな力の前に狩られる運命にあるのだ。一歩ずつこちらへ近づいてくる称壱の、不気味に光る目を見た。


 今以上に距離を詰められたくなくて後退さろうとしたが、じわじわとイヅルを侵食し始めた恐怖によって足腰が立たなくなり、地面に座り込んだ。地に根を張っているかのようにそこから動くことができず、彼から目を離せない。離した隙に仕留められそうで、怖かった。


 ごつ、と額に強く押しつけられた拳銃の冷たさに、頭の中が真っ白になった。気づけば不必要なほどに称壱との距離は縮まっており、目と目の距離が残り二十センチ程度になった頃、彼は進行をぴたりと止めた。黒目がちな狐目が、にやりと笑う。



『お前、帝国軍人になれ』



 男の余りに突拍子もない言葉に、思わず「はぁ」と間抜けな声が零れてしまった。それが称壱には面白かったらしいが、すぐ目の前で笑いを堪えられるのは何だか無性に恥ずかしい。この時の彼にはあの鬼のような禍々しさはなく、とても不思議な気分だった。



『海軍省総出で処置を検討されているお前を殺すほど、俺も馬鹿じゃない』



 状況を理解しきれず目を白黒させているイヅルは、何も言うことができなかった。ただ呆然とし、ぽかんと口を開けて彼の言葉を脳内で反芻させた。「海軍省総出で処置を検討されている」。いくら世間知らずとはいえ、海軍省がどれほど大きな機関であるかくらいは知っている。そんな国家最高峰の機関が関与しているとは、一体なにがどうなっているのだ。


 頭の中の整理が付かず隙だらけになったイヅルの手から、称壱は手早く図面を奪い取った。赤く滲み、くしゃくしゃになったそれを几帳面に広げて眺めた後、「成る程」と一言呟いて綺麗に畳んでイヅルに手渡した。



 『これで、理由を見失ったこの戦争に理由をつけられるな。岐山イヅルの奪い合いだ』



 イヅルは各国海軍にとってかなり魅力的な技術者だった。勿論、本人にそんな自覚はないし、裏で自分を獲り合おうとする影の存在も知らない。決して他人事ではないけれど実感がなく、一体何事か全く分らないので何も言えなかった。


 知らず知らずのうちに、戦争の中心が俺になる。つまりは自分のせいで戦争が続いていることになり、最悪、全責任を負わされかねない。このまま一人きりで戦争の中心になるか、帝国軍人になって上辺だけの庇護を受けるか。彼に与えられた未来は、今のところこの二者択一のみなのだった。


 本音を言えば、両方いやだ。先程の街中で感じた極東人への強烈な恐怖は、今もはっきりと脳に刻み込まれている。極東軍に所属するということは、その集団に混じらなければならないということだ。終日あんな感覚を味わうなど絶対に御免だ。だがそれ以上に、世界中の人民を巻き込み、多大な犠牲者を生みだしているらしい戦争の原因にされてしまうのはもっと嫌だ。膨大な量の怒りや憎しみ、悲しみや無念の意を背負うなど、俺には到底できない。



『……分かった、従う』



 これは妥協だ。自分自身にそう言い聞かせるように小さく呟くと、彼は満足そうに笑った。


 ようやく足腰に力が入り立ち上がると、称壱の手から何かがこちらに放り投げられた。うまく反応できずに受け取れず、足元でカラン、と軽い金属音が鳴る。その足元を見ると、短剣が転がっていた。四十センチほどの長さで、桜の装飾が施された美しい短剣だ。恐る恐るそれを拾い上げたが、イヅルはなぜそれを投げて寄越されたのかが解らなかった。



『お前の覚悟が見たい。そいつをちょっと、捌いてみろ』



 称壱のその一言に、だいぶ落ち着いて緩んでいた筋肉が、一気に収縮した。


 捌く? この短剣で? 何を?


 次々に質疑が脳裏をよぎるが、その答えは全て分かっている。この鬼は、目の前で絶命しているゲルマニアの男を短剣でかっ捌くことを命じているのだ。一体、何の覚悟を見るためにこれが必要なのだろう。拒絶のせいか必要性ばかりを考えてしまい、体は全く動かなかった。声も出ないので、従いたくない旨を失意の眼差しで訴える。すると彼の表情は一変し、不敵な薄笑いから苦痛に歪んで行くのを見た。


 称壱の脳裏には今、かつて親友だった男の、出会った頃の姿と最期の姿が映し出されている。師範学校時代に野球を通じて知り合ったその男は、酷く幼い外見をしているくせして内面は非常に男らしく、真面目で頑固で面倒見が良く、下級生から絶大な支持を得ていた。昔から戦争や軍隊を毛嫌いしていたくせに、卒業を待たずに海軍へ志願したと聞いたときには本気で驚いたものだ。


 参謀という戦争の行方を左右する役職に就いた彼は、何を恐れることもなく真っ向から反戦を主張し続けていたっけ。それゆえに今年の四月に暗殺された男の名は、三笠みかさ兼吉かねよしという。


 兼吉を殺したのは、誰あろうこの俺だ。彼は死の直前は微笑んでいたけれど、その数秒前までは目の前にいるこの子と同じ、失意に淀んだ目をしていた。


 なぜ俺は、兼吉を殺したのだろう。なぜ、「また一緒にキャッチボールをしよう」という小さな約束さえ護れなかったのだろう。心の奥底に閉じ込めていた記憶が一気に放出される感覚に、溢れだす感情を制御できずに発狂してしまいそうだ。しかしそれはいけないとぎりぎりのところで踏み留まり、元通りの薄笑いを浮かべた。



『大丈夫。まだ硬直は始まってないだろうから、多分簡単だろう』



 イヅルは彼の一言に、奈落の底に突き落とされた気分になった。彼の感情のぶれが気になるが、あまり刺激すると更なる苦行を強いられそうなので止めておこうと思う。結局は彼の言うままに遺体を捌かなければならないらしいが、体は頑として拒絶し続け、動くことができなかった。



『……これを、どうする気で……』


『ただ処理するだけさ。このままでは嵩張るだろう』



 あまりに簡単に言う彼の言葉を受け、人はこれほどまでに鬼畜になれるのかと寒気がした。嵩張るからバラすだなんて……考えたこともない。俺も近い将来、俺も彼のような鬼畜になるのだろうか。そうだと思うと何もかもがどうでもよくなり、あれこれ考えるのは止めてしまおうと思った。


 人を捌くなんて勿論嫌だが、これから先を生きていくに必要な作業であることに変わりはない。どのみち普通に生きていくことなどできないのだ、人道から外れていようが何だってやってやる。イヅルはまず、心を殺してしまおうと決めた。


 投げ渡された短剣を、勢いよく腹に突き刺した。硬く筋肉質な肉を裂くと体内に納まっていた内臓が飛び出したが、それを気持ち悪いとは感じなかった。


――何だ、心を殺せばこんなにも楽になれるのか。さすがに骨を断つのは困難だったが、それ以外は何てことない作業だった。気付けば自分でも信じられないくらい綺麗に捌き終えていた。周囲は血液や粘液で汚れてしまったけれど、確かにバラしてしまえば、より狭いスペースに収まってしまう。喜怒哀楽の一切を消した虚ろな瞳は、小さくまとまった肉塊をぼんやり見つめ、ただ一人納得した。



『よし、合格だ』



 動脈を傷つけた際に浴びた鮮やかな赤に濡れたまま、至極柔らかで優しい声色を出した称壱を見上げた。そこには先程の薄気味悪い笑みとは打って変わって、穏やかな笑みを湛えた男がいる。座り込んだままのイヅルの頭を撫で、その腕をとって夕闇を歩き始めた。




            ※




 その後イヅルは、巷では『鬼教官』として有名な称壱に引き取られ、東京へ移った。妻のリヲナと妹の百合恵ゆりえ、時折訪れるリヲナの弟の大記たいきで構成された「家族」という組織の中に、イヅルも混じることになった。


 山で暮らしてきたイヅルにとって都会暮らし、更には華族の流れを組む上流階級の暮らしは落ち着かないものだったが、不思議と居心地の悪さはなかった。この安心感を得られたのは、同年代の百合恵や大記と出会い、拒絶されることなく迎え入れてくれたことが何より大きかっただろう。特に設計士を夢見る大記とは自分でも驚くほどすぐに意気投合し、今ではしょっちゅう設計について話し合っている。


 しかしこの生活の中で、どうしても馴れないことが一つだけある。それは東坂夫妻の、砂を吐くほど甘ったるい会話や触れ合いなどのやり取りだ。



『嫌よ……私、称壱さんと離れたくないわ!』


『駄目だよリヲナ。俺は行かなければならないんだ』


『嫌。称壱さんと一緒がいいの、離れたくないのよ』


『困った奴だな……俺は帝国軍人だ。国民を、いや、君を護るために行くんだ。解かってくれ、リヲナ』


『称壱さん……』



 出勤時には、毎度絶えることなくこの会話が取りなされている。これを師範学校時代から今まで七年間続けてきたらしく、ここまで来ると呆れを通り越して感心してしまう。その後には決まって熱い抱擁があるのだけれど、イヅルは称壱と共に出勤せねばならない身なので、この待ち時間は正直苦痛だった。


 東坂称壱という男は、鬼教官という肩書からはおよそ想像もつかないほどの愛妻家だった。初めて見たときはあまりの衝撃に、額に銃口を当てられたときと同じように頭の中が真っ白になったものだ。その頃と比べれば幾らか慣れてきたとはいえ、できればあまり触れたくない。


 このやり取りも面白いと思えば面白いのだろうが、毎日続くといい加減しつこい。百合恵は全く気にならないようだったが、大記は早々に耐えられなくなり、リタイアしたらしい。彼がこの東坂邸に住みつかず、時折訪れるだけにしているのはそのせいだ。段々と苛々してくるが、それを通り越してしまえばなんて事はない。慣れてしまえばこっちのものだと、唯一耐性のある百合恵は言っていた。


 どこにいっても歓迎はされなかったが、その代わりあからさまな拒絶もなかったのは、称壱が無理に説き伏せた、あるいは全権限を駆使して脅したからだろう。自分が周囲から常に浮いていることは自覚しているが、イヅルにとってそれは大きな問題ではなかった。ようは生きるか死ぬかの二つに一つ、そもそも碌に人として扱われない彼にとって、それ以外を深く考える必要はあまりない。


 勤務場所でも東坂邸内でも、顔を合わせれば称壱は惚気話を聞かせてくれた。時折虚ろな目をして、自分ではない他の『誰か』に対して話をしているように思えて仕方なく、一度「誰と話しているのか」と本人に聞いたことがある。しかしその直後に過呼吸を起こし倒れてしまったので、それ以来聞いていない。イヅルは早々に称壱に精神的な異常があることを察知していたが、それは誰にも言っていない。この短い間で学んだ。精神的な異常は、隠し通さねばならないのだ。


 いち個人の確信が絶対になった、「東坂称壱が自決を遂行した」との報告を受けたのは、或る秋の日だった。凛として気丈な彼が自殺などあり得ないと周囲は口々にいうが、それは違うとイヅルは思う。自分だけでなく、彼と深く接点のあった誰もがそう思っているだろう。彼は兼吉を暗殺したその日に発狂し、以来数ヶ月間、精神病棟に幽閉されていたという絶対に知られてはならない経歴がある。散々に忌避された異常が、誰にも言えず放置されたそれが、緩やかに彼の全身を食い潰した結果だった。


 訳もわからぬまま今、リヲナの慟哭が響く鯨幕に囲まれた部屋にいる。線香の匂いは心地好かったが、うまく飲み込めない状況に頭痛がした。


 いつ何時でも、人というのは噂話が好きらしい。葬儀の間、「三笠の呪い」だとか「謀反者に道連れにされた」だとか、そんな内容の小さな囁き声が聞こえてくる。そんな様子は不快だったが、結局自分も同類項に括られるらしい。「三笠」とは何かが気になり、無事に葬儀を終えた後に百合恵に尋ねてみた。彼女は終始気丈に振る舞い、悲しみに暮れて廃人同然のリヲナの代わりに、立派に喪主を務めていた。



『疲れてるところ申し訳ないんだけど、一つ聞いても良いかな。三笠って、何?』


『あ、そっか。イヅルは知らなかったよね。三笠兼吉さんっていう、凄い参謀さんがいたの。序盤の海戦でうちが勝ってたのって、その人のお蔭なんだって。兄さんの親友で、義姉さんの幼馴染みだった。そうそう、イヅルと雰囲気がちょっと似てるかな。とても優しくて立派な方だったんだけど、反戦派だったものだから……暗殺されちゃったの。反逆者として、兄さんに』



 百合恵は俯いて気まずそうに言ったが、不謹慎にもイヅルの気分は晴々としていた。今までずっと晴れなかった靄が晴れた。彼が見ていたのは岐山イヅルという人間ではない、三笠兼吉だったのだ。


 称壱はきっと、親友をその手で殺めてからおかしくなったのだろう。そしてその人に似ているという俺は、罪滅ぼしとして拾われた。あの完璧に見える鬼も、こんなに人間くさい男だったか。不意に笑みが零れそうになって、急いで百合恵から視線を逸らす。兄を喪った彼女の前で笑うなんてことは、絶対にしたくない。


 天高くまで伸びた黒煙を見上げ、自分の人生を大きく変えた東坂称壱に最後の別れを告げた。共に生活して一年と半年、瞬く間に時間は流れて行った。こんなに時の流れが速いと思ったのは、生まれて初めてだった。彼にとっては岐山イヅルなどあってないようなものだったかもしれないが、イヅルにとっての彼は唯一無二だった。


 自分自身を見てくれていなかったことへの哀しみも不満もない。こんなの、はじめから分かっていた。だってそうだ、カメリアとの混血に生れた俺を拾うなど、そんな特殊な事情がないかぎりあり得ないことだ。




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