青春議事録

志槻 黎

第1部 神鷲の巣


 間違いなく今、この国は淀んでいる。その分空ばかりが澄み淀みないが、こんなに穏やかな空も有事には地獄と化す。これ以上に馬鹿げた話があるものかと、大極東きょくとう帝国の土を踏む岐山きやまイヅルは、頭上一杯に広がる青を見上げた。長髪を容認する海上航空隊の特権を活かした長めの髪が風になびく。生温いはずの春の風は、細身の少年にはいささか冷たく感じた。


 孤立した海に浮かぶ、大極東帝国という小さな島国が、無謀にも世界を相手に戦い始めてから三年半が経とうとしている。文明開化の頃に敷いた「富国強兵」によって、近隣諸国から奪うように資源と領土を得た。それに気を良くして西洋列強の抑制も無視して勢力を拡大し続けているそうだが、それがどんな意味を示すのか、知識も経験も足りない若造には、いまいち良くわからない話だった。


 新聞やラジオなどの報道機関からは、連日の快進撃ばかりが報じられている。しかし一向に改善される気配のない切り詰められた生活から、この情報には幾らかの誤りがあるとイヅルは思っている。空襲で焼けた街、積み上げられた焼死体、召集されたきり帰らない男たち。配給の食料も生活必需品も質は低下。贅沢は敵だ、石油の一滴は血の一滴、欲シガリマセン勝ツマデハ。これほどまで余裕のない、切羽詰まった感は、とても勝者とは思えなかった。


 ワイシャツに土色の航空衣袴姿のイヅルは、数分前に神鷲どもが飛び立った滑走路の土を蹴り上げる。風に舞った砂埃は自身を襲い、噎せた。


 この神州と謳われる国が、自分にとって地獄でしかないと再確認したのは比較的最近の二年前だ。瓦礫と死体が道端に転がっているようなご時世だから、誰にとっても地獄なのかもしれないけれど。


 二年前に故郷の山を下りてからというもの、意味不明な罵詈雑言から嘲笑まで、とにかくやたらと冷遇される日々を送ってきた。別に取り立てて悪いことをしたわけでも、非国民的な言動を取ったわけでもない。人一倍白い肌に深青の瞳、そして色素の薄い茶色い髪。イヅルが大半のそれと異なる色を持って生まれたという、ただそれだけのことだった。イヅルは、血の半分が白人だった。


 会ったことはないけれど、父親がカメリア人らしい。カメリアといえば、昔から極東の仮想敵国と決まっている。それに実際、戦争で痛めつけられているわけだし、この仕打ちは仕方がないことなのかもしれない。それでもなぜ、こんなにも忌まれ拒絶される必要があるのか。戦争の経緯にも現状にも特に興味を持たなかったイヅルには、良くわからなかった。



「俺は……一体何なのだろう」



 もう何度呟いたかもわからない言葉を、だだっ広い滑走路に吐き捨てる。特に行き場のないそれは、ただ虚しく空気を振動させるだけに終わってしまった。


『お前のような毛唐が、極東人を名乗るな』。


 時折自分の正体を探るようになったのは、どうでもよすぎて顔も名前も覚えていない元上司から贈られたこの言葉のせいだ。イヅル自身は生まれも育ちも極東な訳だから、当然極東人だと思っていた。けれどどうやら、そうではないらしい。「極東人でないなら何だ」と問いたかったけれど、その頃は今よりもっと幼かったし、度胸もなく聞けず、今の今まで出来ずじまいだ。


 極東人ではない。かといってカメリア人でもない。人間だとは思うけれど、鬼だの畜生だとも言われている。はっきり「これだ」と断定できるものは、今のところない。結局自分ひとりで考えなければならなかったのだけれど、いくら考えても答えが出なければ次第にどうでも良くなるものだ。そのまま放置し続け分からないままを過ごし、以来自身は「人の形をした何か」だということにして落ち着いている。それでもたまに思い出しては考え打ち消し、また思い出しては考えを繰り返すので、我ながらなかなかに面倒くさいと思っている。


 マイノリティを排除しようとする動きはいつの時代も変わりなくあるということは分かっている。けれどその動きが余りに大きすぎて、耐え切れるかイヅルは心配だった。少しでも受け入れてもらえるようにと、一億一心、滅私奉公の精神を持ってみようと試みたこともあった。しかし出生は山奥。人との関わりがあまりなかったせいか、致命的なほどに協調性に欠けていた。


 それにきちんとした皇国教育を受けた訳でもないので、天皇陛下を心から敬愛し、国のために命を捧げると考えること自体が困難だった。問題はまだある。いくらこちらが歩み寄り、八紘一宇の精神を掲げてみたところで、米英は鬼畜だと教えられた同年代の子らが、こちらを受け入れてくれることなど到底あり得ないことだった。いつも完全に疎外され、こそこそとねちっこい噂話の的になるのも、諜報員と疑われるのもいつものことだ。


 こうして共存するために同化しようという計画は、無惨にもあっさり打ち破られた。以来、他人に近づくことをやめた。実際、そっちのほうが喜ばれるし。寂しくなどない。寂しいと思う気持ちは、随分と前に消失してしまった。俺はまだまだ十五の餓鬼、独りきりでは生きていけるかどうかも危ういだろう。イヅルは常にそう思っていた。


 しかし「人の形をした何か」にも好機は訪れてくれるらしく、今や唯一と言ってもいい特技によって、こうして職を得ている。その特技というのは機械設計で、もとは単なる暇潰しからはじめたものだ。それにのめり込む内に磨かれ、趣味の域を超えた高品質の図面を描き出せる才を持っている……らしいが、当事者の彼にその自覚はない。なにが優でなにが劣かを知らないからだ。とりあえず今の所、寝食には困っていないので深く考える必要はないと思っている。


 もう一度見上げた青の中には、白い筋が五本ほど伸びていた。筋の持ち主は、轟々とエンジン音を響かせながら沖縄へと飛び立った、五機の戦闘機だ。



「……あれは、ちゃんとここに帰ってくるんだろうか」



 数日毎に盛大且つ華々しい見送りを受けながら飛び立つそれを見るたびに思ったが、余程のことがない限り帰ってくるはずがないということは良く知っている。まあ、最近は機体の不具合が多いせいか良く戻ってくるのだ

けれど。


 今歩いている滑走路は、鹿屋にある航空部隊の基地内にあるものだ。所属する隊員たちの仕事は、操縦する戦闘機ごと敵艦に体当たりすることだ。この「特攻隊」、「必死隊」と呼ばれる航空特殊攻撃隊員たちは、国を護るために身を挺して敵に突っ込まなければならない。この行為を思う度、自殺と大して変わりないのではないかとイヅルは思う。それも自らが望んでのことではなく、命令されて行う自殺だ。この頃は敵も対策を確立させたようで、標的を目前に墜とされてしまうと聞く。突っ込んだところで確実に敵を沈められる訳ではない。それを思うと、そこはかとなく虚しくなるのだった。もとは自分も特攻要員だったらしいが、飛行機には一度触れたことがある程度だ。その後は操縦に関わることなく、設計士として身を置いている。


 特殊攻撃の任務を仰せつかるのは、至極名誉なことだと聞いたことがある。出撃すれば軍神だか神鷲だかと崇められ、本人はもちろん家族にも洩れなく名誉が与えられるという、なんだかよくわからないシステムがあるらしい。


 しかしその名誉は大切なものと――命と交換した場合に貰えるので、家族たちはとても複雑な気持ちになるそうだ。かといって生きて帰りでもすれば、理由はどうあれ覚悟不十分の腰抜けと罵られ、再教育という名の拷問を受けられる特典があるとかないとか。なんか面倒くさいな。



「イヅル」



 呼ばれた方には、あえて振り向かなかった。振り向かなくてもわかる、ここで彼の名を呼ぶのはほんの一握りだ。その内の一人の、そこにいるはずの青年は自分よりも遥かに奇抜な、銀の髪に赤い目をしている。彼の名は、見た目の通りに銀という。イヅルが彼を呼ぶ度に「安直過ぎる」という意見を頂くが、もう幾度となく聞き流している。だって仕方のないことだ、それが彼に与えられた名前なのだから。


 彼の第一印象の殆どが「獰猛」だ。鋭い目つきのせいか血のように赤い瞳のせいか、或いは体のでかさか。どうも怖いという印象を植えられるそうだが、無邪気で能天気で、実際は全くの真逆である。長い付き合いになるが、彼が人に喰ってかかる所など一度だって見たことがない。


 二年という短い年月の中で、あっという間に赤子から青年へと成長を遂げた奇特な彼は、ぐいぐい体をおしつけてじゃれつこうと試みている。脇の下にずぼ、と突っ込んできた銀色の頭を、イヅルは呆れながら見下ろした。



「なーにしてんの? 暇なら俺を構え」


「絶対に嫌だ。……空を見ていた。ほら、見えるか? 飛行機雲が伸びてるんだ」

「ああ……そういえばこの飛行場、あんまり帰ってこないよねえ。出ていくのは良く見るけど」



 見た目の鋭さとは裏腹に、随分と緩い声でゆったり喋る銀は、ここの実態をいまいち理解しきれていないらしい。地面に座り込んで寛ぎ始めた彼を目で追う途中、目の端に基地に務める隊員の姿が見えた。


 きっと彼らの口からは、次の瞬間にでもこちらの悪口が吐き出されるのだろう。幾ら慣れっことはいえ、やはり個人への誹謗中傷はできる限り聞きたくない。銀の声だけを聞くことに努めようと試みたが、否応なしに嫌味な噂話は鼓膜を振動させるのだった。



「あの混血、また犬とばかり喋ってんのか。精神障害でもあるんじゃないのか?」


「ああ、全くだ……まさかこの基地にあいつがいるとは」



 混血だとか異常者だとかは、ほぼ毎日聞いている。職務上、人員入れ替えが激しいので毎回人が違うのかも知れないが、彼らの語彙の少なさに少し呆れている。浅学の自分のほうがもう少し言葉を知っているぞと思いつつ、微かに感じる胸の痛みを紛らわすために、イヅルは小さく溜め息を吐いた。精神障害者だと?大きなお世話だ、いつもどおり放っておいてくれ。


 銀が犬だということくらい、イヅルにだって解っている。彼の急速すぎる成長には流石に疑問を抱いたし、この鹿屋基地に来るまで厄介になっていた、東坂(あずまさか)家の人間にも再三確認した。


 イヅルはヒトと犬、正確にはヒトと動物全般の見分けが付かなかった。だが特に問題視してはいない。別に見分けられなくたって、苦労も苦痛もない。会話の内容から大体の区別はつくし、第一、本来の犬や猫の姿など、とうに忘れてしまった。


 寄り合って陰口を叩く彼らを凝視し、意図的に青い目を彼らに向けると、びくりと体を震わせて逃げて行った。そんな情けない後ろ姿を見ては心の中で嘲笑うのが、イヅルの密かな楽しみになっていた。性格が悪いと思われても、一向に構わない。


 気にせず銀との会話を続けていると、大袈裟に不機嫌そうな足音が迫ってきた。この場合、ほぼ確実に八つ当たられることが決まっている。またかと内心に大きな溜め息を付いたその直後、「おい、混血児」と指名されてしまった。こうなっては、嫌でも相手をしてやらねばならない。



「はい。何でしょうか、村上大尉」


「貴様、何を暢気に腰抜けと戯れているんだ。お前の仕事は設計だろう、その役割を黙って果たしておけば良いのだ。お前のような外れの不浄が、この神聖な場に置いてもらえること事体、本来ならありえんことなのだ。陛下も大将も、お前の腕を見込んで下さっている。恩を仇で返すようなことはするんじゃない。……大将に取り合ってくれた東坂中佐に感謝するんだな」



 あまり真剣に聞く気はないのでぼんやり聞いていたが、この愚痴っぽい調子だといつもより長くかかりそうだと思った。きっと次回出撃する隊に組み込んで貰えなかったことが原因だ。悔しさもあり、それと同時に安堵感もあることがもどかしくて仕方なというのが彼の心情だろう。お前の気持ちなんぞ知るかと思いながら足元を見る。こんな面倒な状況を作った腰抜け、もとい銀は、心地よさげに微睡んでいた。犬は気楽でいいな、この野郎めが。


 言われなくても、東坂中佐には――称壱しょういちさんには感謝している。敵国との混血である自分と遊ぶ子など誰一人いない孤独な環境の中、ただ時間だけを見送っていた幼少期。そこで出会った設計図に魅了されて習得した技術を見出して拾い、軍属設計士という道をくれたのが東坂称壱だった。


 識字と基礎計算以外からっきしの、修身や一般常識は皆無に等しい混血児を拾った彼は、自分が言うのも何だがかなりの変わり者だと思う。まあ、彼も彼で何かしらの問題があったらしいが。それでも、彼と過ごした日々だけは幸福だったと言い切れる。称壱は、イヅルの恩人だった。



 適当に空返事を続けていくうちに、村上は気が済んだのか、軽い足取りで兵舎へと消えていった。実際、あのように八つ当たってくるのは村上含め隊長クラスのほんの一握りで、他は陰口か噂話ばかりだ。一応は戦争を進めていく上での重要人物であり、少佐相当の階級を与えられているイヅルに喰ってかかるなど、国の大義に反するに値するらしい。


 それに加え、細身とはいえ長身で、男子の平均身長よりも十センチも上回るイヅルは、それだけで恐れられているらしかった。恐ろしくても噂話はしたいようで、無意識にか意識的にかは知らないが、こちらにまではっきりと聞こえる内容には根も葉もない。正直言って滑稽だった。見慣れぬ容姿だからと何をこんな餓鬼に怯えることがあるか。イヅルは心からそう思っていた。



「特殊任務、ご苦労様です」



 背後から聞こえる、笑いをこらえて嫌味たっぷりな言い方の声の主は、振り返らなくても誰だか分かる。この声は間違いなく深田ふかだ恭二きょうじのものだと確信し、後ろを振り返った。何がおかしかったのかは理解したくもないが、恭二はイヅルが振り返ったのと同時に、窒息するのではないかと思うくらいに腹を抱えて大爆笑し始めたのだった。うるさい恭二とは対照的な、長身で物静かな青年が、彼を冷ややかな目で見下している。



「石田少尉……どうにかしてくださいよ、これ。保護者でしょう?」



 蹲って噎せる恭二を彼に倣って見下ろしつつ、イヅルは長身の男、石田いしだ和樹かずきに救援を請うた。これを早急に対処せねばと思うのだけれど、イヅルの力量では恭二をどうすることもできない。事実、いつも自由奔放な恭二に振り回されるばかりで、事態を収められたことは一度だってなかった。



 恭二は病気ではないかと疑われるほど明るく賑やかだ。思い立ったら即行動、「楽しそう」と理由だけで特に考えなしに動くため、同期にがっつり怒られているのを良く目にする。そんないい加減でちゃらけているくせして、仕事はきっちりこなして後輩指導も完璧だった。そのときだけは凛としていて格好良く、正直悔しい思いをしている。


 そんな掴みどころのない彼を制御できるのは、誰より彼を知っている幼馴染みの和樹しかいない。けれど和樹には、恭二を止めてやろうという気はないらしい。息も絶え絶えな恭二を見下ろすばかりで、動く気配は一切ない。成す術なく、やはり彼に倣って笑い続ける恭二を無言で見守っているうちに、何とか落ち着いた彼は顔を上げ、突き刺さる二人分の視線にわざとらしく照れて見せた。



「おいおい、そんな見詰めるなよ……照れ……痛っ」



 早速ふざけた恭二の頭を和樹がどつき、恭二はまた蹲ってしまった。がつん、なんてすごい音が聞こえてきたのだし、相当な衝撃だったのだろう。平均的なアジア人の顔立ちのせいだろうか、それともその人柄のせいなのだろうか。実年齢の十九歳よりも幼く見える童顔の彼は、噎せと痛みのせいで潤んだ目をぬぐい、にやりと笑った。



「お前って、本当に特殊任務ばっかりだよな。今ので五十二回目だろ?」



 彼の言う特殊任務の範疇がどれほどのものかは知らないが、誹謗中傷も含むなら、確かにその通りだと思う。しかしこの時間までに五十二回も喰らった覚えはない。いくら適当にあしらっているとはいえ、そこのところはだいたい覚えている。数えるほどのことでもないので、回数までは覚えていないけれど。



「違う、岐山は今ので二十一回目だ。数えるなら確りしろ、残りの三十一回は、俺たちだ」



 腕を組み、目を伏せて下を向いたまま、和樹は淡々と言った。冷静で真面目なように見えて、この人も何だか茶目っ気があると最近気づいた。いちいち数えるなんて、相当な暇人なのかと思われるかもしれないが、そうではない。彼は何の楽しみもない殺伐とした生活の中、こんな些細なことでも楽しみの一つにすることに決めたのだ。


 いくら後輩いびりが常の世界とはいえ、彼らが他の後輩よりも抜きん出て八つ当たりの餌食になるのには理由がある。それは彼らが、社会的に格下だからだ。出身地は和寧わねい王国の津城であり、この神州たる極東の支配下にある。教育によって極東人化し、対等に扱おうという皇民化政策もあったようだが、そもそも極東人化しようという点が既に上から目線だ。


『一視同仁』の気構えは立派だが、それはとうに崩落しているように感じる。民族としての誇りを失って得た平等などいらない。彼らは以前、そう言っていた。彼らの話はいつ聞いても立派なもので、その度にイヅルは自分が嫌になる。誇りがどうだとか一度も考えたことがなく、ますます自分が何者か分からなくなり、溜め息をつきたい気持ちでいっぱいだった。



「……そろそろ行くかな」



 少し離れたところで、こちらの会話が終了するのを待っている少年を数人見かけた。上に疎まれても、下から大きな信頼と絶大な支持を得ている彼らのことだ、きっとあの少年はどちらかに用があるのだろうとイヅルは察した。忌々しく、恐ろしい俺がいては近づけないだろう。イヅルは銀を従えて、自室へと戻ることにした。


 感情を麻痺させることで平静を装うとした結果、随分と感情の起伏は平坦になったけれど、人間らしさを欠いたまま育ってしまった。けれど彼らといると、どうも惨めな気持ちになっていく。本当に良い人たちで、分け隔てなく接してくれるところは有難い。けれどそれさえも偽りなのではないかという猜疑が浮いてくるほど卑屈になった心では、容易に好意を受け入れられなかった。


 気を利かせて立ち去った、というのは自分への言い訳で、本当は彼らの前で、もどかしさのあまりに発狂する醜態を晒したくないだけだ。本当に嫌な奴だと自身を罵ってみたけれど、不思議なことに何も感じなかった。



            ※




 兵舎へ戻る途中に、見慣れたセーラー服が木陰から手招きするのが見えた。その子はとても馴染みがあるので、大人しく従うことにする。気付かずふらふらと別方向へ進もうとする銀の首根っこを掴み、彼女が隠れていた木へ近づくと、軍指定の旅館『春雨』の看板娘、今塚いまづか敬見たかみは申し訳なさそうに手を合わせた。



「ごめんなさい。岐山さん、またあの子を預かって欲しいの!」



 こうも頼まれては預からないわけにも行かないと、イヅルは彼女に頷いた。「あの子」というのは、銀の姉貴分であり『春雨』のもう一つの看板である雌の雑種犬だ。一般家庭で犬を飼うことが困難な昨今、良くこちらで彼女を預かっている。自宅にいたとしても食糧不足で十分に養っていけないし、さらには供出の危険性もある。実際に『犬もりっぱにお国の役に立ちます。進んで納めましょう』というビラもわざわざ手渡しで貰ったらしく、いよいよ危機を感じているらしかった。



「構いませんよ。どれくらい預かれば良いです?」


「三日ね。丁度今日の夕方から明後日の朝まで、軍の偉い人が家に泊まるの。その人たちに見つかったら、きっと連れてかれちゃう。……本当に、岐山さんがいてくれて良かった、ありがとう」



 敬見は肩上で切りそろえた髪を揺らし、満面の笑みで礼を言った。その仕草は何だかよく分からないが暖かくて柔らかく、彼女が隊員たちに熱烈に人気があるのは頷けた。

 

 ここなら兵隊さんたちが沢山いて安全だものね、と屈託なく言う彼女の言葉には、異議を心中で吐いた。確かに安全といえば安全だが、人気のない山奥の方が安全であることに違いはない。敵の標的はあくまでも軍隊および軍需であり、正直に言えばこの基地も標的の一つだ。


 最近では他の基地にある滑走路も、爆弾の放棄場になっているらしいので、決して間違いではないだろう。けれどイヅルは、敬見にはそれを伝えなかった。もし伝えれば、優しい娘だ、この基地にいる大切な人を思って心労するに違いなかった。




            ※




「ごめんな、飴。実家が一番居心地いいだろうに」



 今塚家の飴という名の雌の雑種犬は、イヅルの言葉に首を横に振った。二十歳前後の女に見える彼女が少々気だるそうなのは、連日の空襲による寝不足と栄養失調のせいだろう。それでも確かに彼女は愛されており、手入れされたその名の通り飴色の毛並みは、艶やかで美しい。



「そうそう。イヅルってば、また八つ当たりされたんだって? 銀に聞いたよ」



 気だるそうな雰囲気も一変し、飴は楽しそうに話しかけてきた。すでに日常の一部になった八つ当たりの場面をじわじわと思い出し、少しだけ嫌な気持ちになった。早速飴との会話のネタにされたことが若干腹立たしく思え、イヅルは銀に対してささやかな仕返しをしてやろうと思い立った。



「ああ、そうだね。そんなことより、彼は銀のことを腰抜けだと言っていたよ」



 腰抜けという言葉に飴は吹き出して笑い、銀は項垂れた。軍犬の名家に生まれたくせに、訓練中でも敵前逃亡してしまう彼が腰抜けなのは周知の事実で、それを彼が気にしていることも、勿論イヅルは知っている。落ち込む銀を勝ち誇った笑みで見下すと、彼は悔しそうにのた打ち回り、騒ぎ出してしまった。


 煩い、とその辺にあった設計図の束で銀を叩くと、彼は一気に静かになり床に突っ伏して寝そべった。いくら外見が大人になったとはいえ、内面はまだまだ子供かと微笑ましく思うが、それこそが彼が腰抜けたる所以だ。一応は軍犬として生れた訳だし、第一線で活躍するには主に忠実で賢く、尚且つ果敢でなければならない。


 しかし銀と来たら、その全てが基準値に達していない。この前なんか、訓練中にイヅルの作業場に逃げ込み、机の下で蹲って動かなかったことがあった。そんな彼が屠殺されずに済んでいる唯一の救いは、愛嬌があり隊員たちに可愛がられ、ある程度の癒しを提供していることだろう。



「お前は軍犬にはなれない、愛玩用が精々だよ。俺と同じ、誰にも認められない」



 皮肉を交えた冗談は大得意だ。声色は嫌味たっぷりに、嘲弄を思わせる笑みを浮かべて。時には生意気と制裁を加えられることもあったが、だからといって止めるつもりなど毛頭ない。なぜならこれが、今の自分にできる最大限の反抗であり、自己主張だからだ。いつからか人の嫌がる、あるいは不快に歪む顔を見ることに楽しみを見出した自分は、間違いなくサディストだと思う。いや、その後に必ず多大な痛みを頂くと知っていながらやるのだからマゾヒストか。なんだか良く分からないな。


「誰にも認められない」。自分で言っておきながら寂しくなったが、それはサディスティックな気持ちで埋めてしまおう。不毛だと分かっていながらも、止められないものは止められないのだ。


 終始楽しそうだった飴の表情が、一瞬にして凍りつくところをイヅルは見た。自身から吐き出された、この言葉を聞いたからだ。



「認めて欲しければ、今ここで俺を喰い殺せ。何なら、良い殺し方を教えようか」



 飴の表情だけでなく、空気自体が急速に冷凍されるのをイヅルは感じた。やってしまった。自分のこの空気の読めなさには、いい加減嫌になる。


 勘だけは良い二匹の犬達は、直感でこれは冗談ではないと判断した。無表情で声も目も冷たくなっていたイヅルは本当に心のない『何か』であり、その虚無がとても恐ろしかった。一方のイヅルもこのことに大変驚き、戸惑っている。


 脳で考えていることと行動が一致していないのはよくあることだが、まさか自分の口からそんな言葉が出るとは思っていなかった。何より口調が本気だったのが驚きだ。心の底に死んでしまいたいという願望があるのだろうかと自問したが、一向に返答はない。



「さあ、もう寝ろよ。そろそろ消灯時間だ」



 自分にも訳が解らなかったが、この空気は一刻も早く打破しなければならない。強制的に遮断するため、イヅルは彼らに寝るよう促した。



「ねえ、イヅル。イヅルは、人を殺したこと、あるの?」



 寝かし付けるために明かりを消すと、飴から恐る恐る問いが投げかけられた。恐らく先ほど、冗談のつもりだったが冷たすぎる声のまま「殺し方を教えようか」と言ったから、もしかしたらと思ったのだろう。



「いいや、ないよ」



 極力優しい声色で頭を撫でながら言ってやると、安心した息の音が返ってきた。双方ともすぐに寝付いてくれたようで、それきりの会話はない。瞬殺で眠りに落ちた銀と二人――いや、二匹並んで横たわる姿は、何だか和む。恐らく一番穏やかな気持ちになれるこの空間が、イヅルは堪らなく好きだった。


 ごめん、飴。俺は君に嘘を付いた。

 すぐ傍らにある暖かさに毛布をかけながら、イヅルは小さく呟き謝罪した。



「確かに、この手で人を殺めたことはない」



 それは事実だが、自分自身は彼女らの求める綺麗な人間では決してない。この荒み、澱みきった国土にそんな清純な人間がいるとは思えなかったけれど、自分自身は誰よりも真っ黒に汚れている自信があった。生まれながらに民族がはっきりしない半端もののハンデを背負ったこの身一つで、戦乱の最中を歩んでいくには手段など選んでいられないのだ。



「殺したことはないけど、捌いた事はある」



 暗闇に向かって小さく囁いたと同時に、意識が飛びそうになるくらいの強烈な寒気が背筋を撫でた。硬い人肉を切り裂き、骨を砕く感触が手に蘇る。鼻腔には血と粘液の臭いがこびりついて離れず、吐き気がした。


 鮮明に脳裏を過ぎる痛烈に紅い映像に、激しく眩暈がする。それに逆らう術を持ち合わせていなかったイヅルの意識は、ずるずると闇の中に引き摺られていった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る