第2話 片付かない
いかにも女子中学生らしい妹の部屋。いや、今はチサとの共同部屋か。
化粧品と思わしき小瓶やら日焼け止めのクリームやらが床に転がっていた。こいつは小学生の頃から少しマセていたから、日焼け止めクリームや軽い化粧道具があるぐらいは全くもって予想外でもなんでもないんだが。
「あーあー、散乱してるじゃねえか。強盗でも入ったのかよ」
「失礼すぎない? ちょっと出しっぱにしてただけじゃん。ちゃんと毎日チサちゃんと片付けてるし、私はお風呂を出て化粧水使っただけ。日光を浴びる機会が多いから、お肌の手入れは怠らないようにしなくちゃね! あ、もちろんチサちゃんにもこういうことちゃんと教えてるよー」
「それはわかった。妹の肌ケアにまで口を出す気はない。チサだって年頃だ。……ただ、な。兄ちゃんには、チサが散らかしっぱなしにするタイプとは思えないんだが?」
結局これを片付けるのはチサだろう。後輩に面倒ごとを押しつけてるだけじゃねえか。一緒に片付けてる――なんて言ってたけれど、それもどこまで本当だか怪しい。
ジッと目を見ると、にへらと笑って返される。
「預かってる後輩に何させてんだよ」
呆れて溜め息を吐いた。このがっかり感を妹の脳にダイレクト送信してやりたい気分だ。
「で、チサちゃんに聞かれたらマズい話って、なぁに?」
「……マズいってほどじゃないんだけどな。念のためだ」
とぼけるという風でもなく、心乃美はまた表情に疑問符を貼り付けた。俺は二の句を継いでいく。
「今日、奏に言われたんだよ。『結衣が下手になっていくのが見ていられない』って。心乃美は同じ中学じゃなくても、レポロでずっと結衣と一緒にサッカーしてるだろ? ――――教えてほしい。結衣は昔に比べて、下手になっているのか?」
俺は極めて真剣に問いを投げかけた。
これに関しては、身に覚えのある嫌な予感がするんだ。不安な感情を読み取ったのか、心乃美は視線を下げてこっちを見ずに口を開いた。
「小学生の頃がピークだった選手なんて、珍しくないよ」
サッカーの上手さなんて相対的なものでしかない。対戦相手を含めた周囲に比べてどれだけ優れているかが指標であり、天才と称される選手は誰と比べても明らかに秀でているから天才と呼ばれるだけのこと。
中学生になると多くの選手が身体的な成長期を迎える。
その中で取り残され、技術を身体能力で潰されてしまう。持ち前の技術は変わらなくても総合力で突出しなくなる。相対的に下手に見えるようになっていく。――そういうケースはごまんとある。
それだけじゃない。例えばプロのサッカー選手であっても小柄なドリブラーに比べて長身のドリブラーというのは極端に少ない。ドリブルは個人技術が結実したものだけど、身長が高くなりすぎると足が長く歩幅も大きくなり、細かい動きやステップが難しくなる。
…………ただ、瀬崎結衣をU15ガールズの中で見る場合は、どれも当てはまらない。
この間までU12カテゴリーで戦っていたチサ――寺本千智がいきなりU15に入って、いくら『女子選手の中で』という限定があっても身体的な面がハンデとなって輝けないというのなら、話はわかる。
しかし結衣の身長はそれなりに収まり、年齢に過不足はないだろう。体力もそこそこ。身体能力で周囲に大きく後れを取ることはないはずだ。
「お兄ちゃんが何を言いたいかは――。うん。言わなくたって、わかるよ。私だって
妹は重たいトーンで静かに言葉を紡いだ。
心配…………させてたんだな。
『オーバートレーニング症候群』
平たく言えば、練習のやり過ぎで疲労が溜まって抜けなくなる、過労状態。
心身を虫食むような慢性疲労によって競技パフォーマンスが大きく落ち込む。
動かなくなるのは体だけじゃない。頭も働かなくなるし、精神はネガティブになる。真面目で練習熱心な人間ほど陥りやすく、当人はパフォーマンスの低下を自分の責任だと思い込んで更に自分を追い詰めて、強引に力を発揮させようとする。
いつか緊張の糸がプツリと切れて――――。
しかし心乃美は、結衣のピークが小学生時代にあったことは認めながらも、確信が持てず確率は低いとさえ言った。二人は幼少から一緒にいて、幼馴染みと呼べるだろう。
近くで見ていてもそう思うなら、やはり違うのか。そもそも奏だってオーバートレーニングの名前は出していない。
「結衣の小学生の頃……。映像とか、残ってないか?」
「ほとんどずっと同じ試合に出てたんだから、私が持ってるわけないでしょ。でも、
「そっか……。そうだな。――親父に連絡してみるよ。ありがとな」
言って妹とチサが二人で使う部屋から、踵を返した。
自分が回復期にある今、親父に余計な心配はさせたくなかった。U15ガールズを任されて、できることなら俺とソフィが解決に向かわせてから報告を――と思っていたけれど。
背に腹は代えられない――か。
「お兄ちゃん!」
背中の後ろから、妹が呼びかけてくる。「ん?」と振り向くと、珍しくちょっと困ったような顔を一瞬だけ見せて、すぐにいつもの強気な顔と語気に切り替えてきた。
「そうやって考えすぎるの、悪いクセだよ! 手塩にかけて育ててる息子から頼りにされて、嫌に思う人じゃないでしょ! うちのお父さん!」
「まあ、そうだけど……」
歯切れの悪い俺へ、更に言葉を続けた。
「お母さんだって、そういうところに惚れたんだよ!」
母さん――か。
「――――ははっ。……そうだよな。じゃなきゃ母さんみたいな出来た人が、あんなサッカーオタクを好きになるわけない」
「ちゃんと頼らないと、天国でお母さんが泣いちゃうんだからね!!」
心乃美は精一杯励ましてくれているんだろう。
こいつは母さんのことを思い出すと、いつも泣きそうな顔になるんだ。今だって、強い態度でいないと――。
ゆっくりと扉を閉めて少し廊下を歩き、階段を降りていく。
オーバートレーニング症候群でチームを離れることになった俺が、ひょんなことから女子チームのコーチなんてものを頼まれた。
そこで同じ症状の疑惑がある選手がいるのに、親父に心配をかけないように――なんて変な気を遣って、もし見過ごしてしまったら。
「そりゃ、悲しむわ……」
チサの待つ食卓へ辿り着く前に、親父のスマートフォンへメッセージを送った。結衣のプレーがどれほど変わったのか、この目で確認する必要がある。
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