第9話 憧れの誰か

 ごちそうさま、と手を合わせて立ち上がり、チサと一緒に食器を洗う。二人でやれば拭き上げまで一気に終わる。家事が万能で不平不満を抱かない中学一年生ってのは、探してもそうそういないだろうな。……もちろんここで言う不平不満は、家事をしない心乃美に対してだ。


 それどころか――



「いつも完食で、嬉しいですね」



 満面の笑顔でこんな台詞を口にできるんだから、見上げたもんだ。



「作りがいがあるってもんだな」



 こうして交わす何気ない会話も、一日がゆっくり終わっていくのを体感できて好きだ。ペットボトルを投げつけてくる妹とは人間界と精神と時の部屋ぐらい時間の流れ方が違うんじゃなかろうか。



「私、啓太さんってなんでもできるんだと思ってました」


「ん? そうか?」


「なんていうか。瀬崎さんの男性版? っていう感じです」


「あー……。俺、あんなにツンケンしてるかな」



 紺碧の狐アズール・フォックスなんて呼ばれて恐れられるような性格はしていないように思う。狐って性格きつそうだ。



「いえっ、啓太さんは全然そんなことっ。あっ、いや、瀬崎さんだって全然そんなことはなくて――っ」


「ははっ。ちゃんと結衣に伝えとくよ」


「ちょっ、啓太さん!」



 やばい。ぷんぷん怒った感じがとてつもなく可愛い。妹より妹してる。よしよしって頭を撫でてやりたい。



「ま、結衣が今の俺のことをどう思ってるか知らないけれど、昔は憧れてくれてたみたいだからな」


「憧れて……?」


「見ていても時々思うんだよ。あ、今のは俺の好きなプレーだ――って。俺だったらその場面はこうするっていうのを、あいつ、見事に同じようにやってみせるんだ」


「あっ、じゃあ瀬崎さんの憧れの選手って――」


「今はプレミアリーグの、プロの選手が好きなんだろ? まあ俺なんかよりプロを手本にしたほうが絶対に上手くなるよ」


「は、はぁ……」


「これでもプロの選手には結構詳しいから、今度誰のことか訊いてみるよ。好みの選手がわかれば教える上でも役に立つだろうし、チサだってその選手のプレーを見れば、結衣への理解が深まるかもしれないだろ?」



 普通に、何気ない会話として言葉を口にしていただけだったのだが、チサは妙に複雑そうな顔をしながら答えに困っていた。



「どうした?」


「いえ、その――――――。多分、瀬崎さんは教えてくれないんじゃないかなぁ……と」


「なんで?」


「えー……と。それは…………ですね。――きっと、啓太さんに自分で気付いてほしいんじゃないかなぁ……」


「プレーだけ見て当てろって? そりゃ難題だな」


「ま…………まあ、そういうことかもしれないですね」


「ふむ――。攻撃的なポジションで、どちらかと言えば中央寄りだよな。あとは……サイドを駆け上がったりはしないから、足が速い選手ってわけじゃなさそうか。…………んん? そういう選手ってどこのチームにも一人か二人いるからなぁ」



 得点能力の高いディフェンダーとか、ディフェンスの上手いフォワードとか、そういう希少種なら特定できたかもしれないけれど。


 中央に優秀な選手を配置しない戦術というのは知らない。最近は純粋な攻撃的中盤(司令塔、トップ下)と呼べる選手がかなり減ってきてはいるから、ある程度は絞れるかもしれないが……。



「試合に出ているとは、限らないんじゃないですかね」


「おいおい。そこまで広がると余計にわからんぞ」


「はぁ……」



 んー。なんだか心乃美が『お兄ちゃんはもう……』って呆れるときと同じ表情をされてしまった。さすが妹より妹だ。



「ま、そのうちわかるか」



 あまりそこだけを考えていても仕方がない。


 ただ、チサと結衣の二人には伝えていないが、俺は倉並姉妹だけではなく彼女たちに対しても些かの疑問を抱えている。


 なぜあれだけの技術を持ちながら、一対一で封じられてしまったのか。


 今日のチサとの会話の中で、チサについては原因が把握できてきた。


 彼女は恐怖と戦いながら周囲の状況を把握して、余裕のある状況でボールを受けたがる選手だ。体格のいい相手選手がガッツリくっついてきたから、思い通りにプレーできなかったのだろう。



 ――じゃあ結衣はどうなる?


 瀬崎結衣の体格は年齢なりで、相手選手は確かに体格に優れていたがそれほど大きく劣ったとまでは言えない。そもそも普段から男子選手と戦っているわけで、多少のフィジカル差や余裕の無い状況なら慣れているはずだ。


 簡単に封じられた原因が、わからない。

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